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太師青に降す(五)

「包帯、ほどけてるぞ」  青古墟の町の手前で馬車を降りたとき、新生面(シンションミエン) が不意に言った。  目の前で袖がめくれたのだ。無乃(ウーナイ)はさりげなく袖を直して背中に隠した。  猿ぐつわの代わりに食わせた傷が以外と深く、下着の裾を破いて包帯にしていたが、どうやら目立つようだな、と微笑む。 「後でまき直すよ」 「その指もどうしたんだ?」  歩き始めた無乃の後ろに新生面が回り込んで、何の気なしにさっと手首を取り上げた。  避ける暇もなく、親指の傷を見られた無乃は反射的に、熱いものに触れたときのように新生面の手を振り払っていた。 「触るな――」  と、その反応の早さと嫌がる素振りの激しさに新生面はぎょっとする。 「その傷……」  数歩後ろへ蹌踉めきつつ、新生面の目には、腫れ上がった惨たらしい傷が焼きついて離れない。  普通ではない。真紫に変色して膿のたまった傷口。直接触れたわけでもないのに手首をとられた一瞬、無乃の微笑が歪んだのを新生面は気づいた。想像を絶する痛みが、どうやら走ったらしいのだと。  無乃は直後にはすでに穏やかな笑みを浮かべているが、しかし顔色は暗く翳っているのだった。 「薬に頼り切りではいけない。人間には自然治癒能力というものが備わっていて、軽い怪我ならすぐに治る。この腫れも自然治癒の反動であって、何もおかしなことじゃ――」  ないんだよ、と言いくるめようとする無乃に、「はあ……」と、新生面は戸惑う。そのすぐ傍を、 「度を超してる」  足早に通り過ぎていく羅冴流(ルオフーリウ)のざわりとするような声だった。  流し目に睨まれて無乃は口をつぐむ。  人集りを縫っていく羅冴流の姿は忽ち見失ってしまった。 「ふざけた真似を……」  と、去り際に羅冴流が呟いたのを、無乃は体が冷え切る思いだった。殺風景に吹き荒れる砂礫交じりの、凍てつく風である。それが一本の細い木をビュウビュウと吹き流し、無乃は今にも倒れそうなほど、辛うじてそこに根を張って耐えているその木そのものだった。  馭者と客の関係は終わった。羅冴流と無乃に戻ったのだ。それが、どれほど重く、心をねじきろうとするのだろうか。  言葉を交わすにも役がなければ、羅冴流の笑みさえ見られない。  無乃は瞼をふせ、こらえるように息を吐く。 「……君の親戚のところへ、向かおうか」  にこっと力なく微笑んだ。 「なに?」 「できることがあるかは分からないけれど、なんとかしてみるよ」 「あ、ああ、親戚の話か」  新生面は一瞬、羅冴流と無乃の間に走った緊張にすっかり困惑していた。 「……喧嘩、してるのか?」  聞かずにはいられない空気感のようらしい。無乃は、 「喧嘩ではないよ。君は気にしなくていい」  と素っ気ない。それ以上探りを入れられるのを避けようとした。しかし新生面はむしろなんとかしなければと思ったようだ。 「空気が不味くてたまらないんだが」 「はは、そうだね。私も妙な気分だ」  ざりっと砂を噛んだような苛立ちである。  目元のほくろをゆったりと撫でながら無乃は微笑んでいる。  応じる声は固く、自分の物とは思えない怖さだった。胸の内が不穏なもので埋まっていく。新生面の煩わしい声が、無乃のささくれだった心を逆なでするのだ。 「理解しきれなくても、傍にいて言葉を交わせばなんとなく相手のことが分かるだろ。その時間が長ければ長いほど、他人ではいられなくなる。それを積み重ねられる相手って簡単にできるわけじゃない。それほど大切な相手なんじゃないのか?」 「どうだろうね……どれほど一緒にいても、分からないことだらけだ」 「わからないのに、どうしてあんなに親密にできるんだ?」 「親密ってなんのことかな」 「手をとりあってただろ。親密じゃないか」 「馭者と客だからだよ。それ以外に触れる理由はない。君は他人とも簡単に手を繋げるのかい? 詮索しないでくれるかな。私は自分の事を探られるのが、好きじゃない」 「自分を知ってほしくないのか?」 「何を知ってほしいというんだい? そんなもの、とっくに捨てたよ」  無乃はやはりにこにこしていた。  変わらず誰が見ても美しいほどの微笑を口元にとどめて、うっとりするほどの目元である。それなのに新生面はさっき出会ったばかりのこの彼が、艶やかな微笑の裏に激しい怒りを懸命に押し殺しているのを今になって感じ取り、思わず後退った。 「……悪かったって、もう言わないから」  無乃はひき掻くように強く指先をにぎり込んでいた。激しい昂ぶりに両手が震えている。 「君には分からないだろう。出会ってさえいなければ、どれほど幸せだったかなんて」  本当は指輪だって捨ててしまいたい。全ての縁を絶ちきって他人に戻れたらどれほどいいか。  親指の傷はそんな無乃の心を引き留めるように腫れるばかりで、指輪を外すこともできない。羅冴流がたった一つの繋がりを、まるで求めているように見えて心はかき乱されるというのに、無乃は見るのも触るのも耐えられず、このまま腐り落ちてしまえば良いと叫び狂っているのだ。  吹き荒れる風が泣いている。色衰えはじめた夏草が背中を震わせ臥していた。秋の辺(ほとり)、そこは冬枯れの入り口である。  眩しい夏の輝きは、もう二度と手に掴めない。 「家はどこかな。案内してくれないと困るよ」  金百両――  ただ、金百両が欲しい。  それがあれば羅冴流を突き放せる。  必ず、必ず手に入れなければ…… 「ちゃんとついてこいよ……」  雨は午を過ぎてから降りだしていた。  青金石を砕いたような鮮やかな色の雨で、枝先も無乃も忽ち碧色に包まれていた。水たまりを掬うと美しく澄んだ青水晶のようだった。  通りに並ぶ露店には掘り出した青金石が山ほど積まれ、工芸品や装飾品とし彫られた簪や耳飾りが次々に人の手に渡っていく。飛び交う手が我先にと空に突き出て頭上はうごめく人の腕ばかりになっていた。その賑やかな市で、新生面が密かに耳打ちをした。 「あんなの、品評会じゃまともな評価はつかない」  小さな石をはめ込んだだけの飾りでは、自悲秋のお眼鏡にはかなわないのだという。 「青金石は月魄といって、月の神の魂魄のことだが、青古墟には一つだけ欠けずに残った月魄がどこかにあるらしい。自悲秋が欲しがっているのはそれで、完璧な月魄意外に金百両を出すつもりはないんだと」  欠けずに残った、月魄の青金石――  それを手に入れれば、金百両が得られる? 「……どこにある?」 「知ってたらみんな我先に向かってる」 「だが、君は私の手伝いをしてくれる約束だよ」 「全く知らないとは言ってない。めぼしい所はなんとなく分かる。だが病が先だ」  膿んだ傷の脈打つ痛みに押されるように、無乃の足取りは心なしか早くなっていた。

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