26 / 34

椿屋の珍客たち③

 疫病神が出て行った物置に、冷たいけれど爽やかな風が吹き込む。先程までの黴臭さはなくなり、温かな冬の日差しが差し込んでいる。そこは、先程と同じ物置とは思えなかった。 「凄い……何かの(まじな)いみたいだ……」  ぽつりと呟いた凪が湯玄に視線を移すと、さきほどまであった三角の耳と立派な尾は消えてしまっていた。 「……あ、そうだ……父さん……⁉」  慌てて凪は父親の元へと向かう。もしかしたら……そう考えるだけで、胸がドキドキしてきた。 「父さん! 体調はどう⁉」  父親の部屋の襖を勢いよく開けると、布団の上に座っている父親がいた。突然部屋にやって来た凪にびっくりしたのか、目を見開いた後にっこり微笑んだ。  最近父親はいつも青白い顔をしている。顔を歪めて苦痛に耐える姿は痛々しくて、凪はどうにかしてやりたい……そう何度も思ってきた。しかし、今凪に向けられている笑顔はもう長いこと見ていない父親の笑顔だ。  凪は思わず息が止まりそうになる。 「凪、それが急に体調が良くなったんだ。だから少し起きてみようと思って」 「父さん……」  凪に優しく声をかけてくる父親は顔色もよく、声には張りがある。すっと背筋を伸ばし座っている父親の姿を見た凪の瞳に、たくさんの涙が浮かんだ。 「父さん! 父さん! よかったぁ……」 「おっと! あははは、凪。突然危ないじゃないか」  久し振りに聞く父親の笑い声に、凪の心が熱く震えた。  突然飛びついてきた凪に父親もびっくりしたようだが、すぐに凪を抱き締め返してくれる。温かくて優しい腕……幼い頃、父親が抱き締めてくれたことを思い出した。 「長いこと苦労をかけたな、凪。すまなかった」 「そんなことない。父さんが元気になってよかった」 「明日から、また少しずつ働けそうな気がするよ。今、最高に気分がいいんだ。……ありがとう、凪」  騒動を聞きつけた母親と祖母がその光景を見て、「まぁ、なんてことなの⁉」と歓喜の涙を流した。そんな二人の姿を見た凪は、再び目頭が熱くなるのを感じたのだった。  湯玄は黙々と湯船を掃除している。そんな湯玄を、凪は少し離れた場所から眺めた。  突然凪を追いかけて椿屋に押しかけてきたが、湯玄は何もせずに悠々自適な生活を送るものだと思っていた。しかし、いざ蓋を開けてみると湯玄は実によく働いてくれるのだ。   湯玄は凪の後を大人しくついて回っては、凪の真似をして黙々と仕事をこなしている。器用だし物覚えもいい。凪はそんな湯玄の姿に意表を突かれてしまった。  何より、湯玄はどんな医者にも治すことができなかった父親を助けてくれたのだ。体調がいいからと布団から出て、日向ぼっこをしている父親の姿を見ることができて、凪は嬉しかった。  たわしで湯船を磨き続ける湯玄を見つめながら、感謝の気持ちが溢れ出すのを感じる。しかし、天邪鬼の凪は素直に「ありがとう」と口にすることができないでいた。  何度かお礼を言おうと口を開いたが、なんだか照れくさくなってしまって、そっと口をつぐむ。  ――父さんを助けてくれてありがとう。  勇気を振り絞って湯玄にそっと近付くものの、やっぱり言葉にすることができない。特に、湯玄を目の前にすると素直になれない凪がいた。  お礼を言うのってこんなに難しいことだったっけ……凪が大きく息を吐いた時、黙々と作業を続けていた湯玄が突然顔を上げた。驚いた凪が目を見開いていると、湯玄が「くくっ」と喉の奥で笑う。 「そんなに見つめてくれるな。さすがの私も恥ずかしくなる」 「なッ……べ、別に、見つめてなんか……」  恥ずかしくなった凪の顔から火が出そうになる。そんな凪が余程可笑しかったのか、湯玄が声を出して笑いだした。 「凪よ、惚れ直したか?」 「は?」 「私のことを惚れ直したか、と聞いておる」 「惚れ直すも何も、俺はあんたに惚れてなんか……」 「ふふっ。そうか」  湯玄が一気に距離を詰めてきたから、思わず一歩後ずさる。それでも、抵抗する間もなく、湯玄の逞しい腕の中にいとも簡単に捕らえられてしまった。 「其方の初恋の相手は私だったんだろう?」 「あ、あんなの言葉のあやで、本心じゃない!」 「そうか……」  湯玄が変わらず楽しそうに笑うものだから、凪はどんどん不愉快になってしまう。 「父親のことは、礼には及ばんが、どうしてもと言うのであれば口付けで構わんぞ?」 「な……ッ!?」  顎を掴まれ強引に上を向かされる。恥ずかしさのあまり涙が滲んできて、目の前の湯玄がゆらゆらと揺れた。そんな凪をからかうかのように、湯玄が意地悪く笑う。そんな姿さえも美しくて、凪は唇を噛み締めた。 「口付けくらいで泣かれては、当分其方に手は出せないな」 「別に、泣いてなんか……」 「其方は本当に可愛らしいな」  満足そうに笑う湯玄の色香に、凪はくらくらしてしまった。 「ほら、さっさと仕事を片付けるぞ。ちんたらしていたら、いつまでたっても終わらないからな」  「……うん。わかった」 「よし、いい子だ」  凪が俯いたとき、額に温かなものがそっと触れ、静かに離れていく。凪がはっとして顔を上げると、少しだけ寂しそうな顔をした湯玄がいた。 「早く俺の花嫁になってくれ。私も待っているのが辛いのだ」 「湯玄様……わ!」  突然湯玄に強く抱き締められて驚いた凪は、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。湯玄の腕は、同性とは思えない程逞しくて、温かい。凪の心が爆発してしまいそうな程、動悸が高まった。  湯石が赤い光を放ちながら一気に熱くなる。それはまるで、凪の体のようだ。痛いくらいに心臓が高鳴り、呼吸も浅くなる。目頭が熱くなって、自然と涙が滲む。  それと同時に、露天風呂に取り付けられた湯口から、温泉が飛沫を上げながら一気に噴き出す。あっという間に辺りは湯気と硫黄の香りで満たされた。 「ヤバい、のぼせそう……」  凪は湯玄の逞しい腕にしがみつきながら、その光景を呆然と見つめたのだった。

ともだちにシェアしよう!