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神様との喧嘩⑤
湯庵が消えてしまった湯花神社には、滝が囂々と落ちていく音が響き渡っている。少しずつ冷えていく湯石を感じながら、凪は湯玄を見つめた。
たった一日会っていないだけなのに、久しぶりに会ったような気がする。思わず湯玄に飛びつきたくなる衝動を必死に堪えた。
「凪。其方は何をしに来たのだ?」
「何しにって……」
「も、もしかして私に会いに来たとか……」
照れくさそうに頭を掻きむしる湯玄が、可愛らしく見えた。これじゃあ子供じゃないか? そう思えば、なんだか可笑しくなってきてしまう。声を出して笑う凪を見た湯玄が、更に顔を真っ赤にさせながら声を荒げた。
「そ、其方、私がいなくて寂しいから迎えにきたんだろ? 全く寂しん坊で困ったもんだ」
「あぁ、そうだよ。湯玄様の言う通りだ。あんたが椿屋にいないのが寂しくて迎えにきた。湯玄様、ごめんなさい。機嫌を直して、俺と一緒に椿屋に戻ろう?」
「嫌だ。なぜなら其方は今だって湯庵と親しそうにしていたではないか? 湯石まで熱くさせて……其方は純情そうに見えて、男を狂わす才能があるんだな? 全くけしからん」
自分のことを棚に上げて、よくもまぁ……凪はじわじわと込み上げてくる怒りを、拳を強く握り締めて我慢する。今目の前にいるのは、ただの駄々を捏ねる子供にしか見えないが、湯の神様だ。不躾な態度は失礼にあたると、凪は自分に言い聞かせた。
でも無理だ。目の前で不貞腐れたような顔をしている湯玄を見ていると、堪忍袋の緒が切れそうになってしまう。
「大体、四年前に花嫁になった俺を追い返したのは湯玄様だろう? それに、あんただって遊女に囲まれてニヤニヤしてたじゃないか? 俺はそれが今でも許せないんだからな」
「だから、それには事情があるのだ」
「事情ってなんだよ? 自分はいいくせに、俺は駄目なんて自分勝手過ぎるだろう? 大体、俺はあんたの花嫁になるなんて一言も言ってねぇからな!」
つい感情的になってしまった凪の目に涙が滲んできたから、慌てて着物の袖で拭う。結局凪の性格から言って、冷静に話し合うことなんてできそうにない。これでは、売り言葉に買い言葉だ。
──俺と湯玄様は、水と油のように決して交わることのできない、そんな関係なんだろうか? ……そんなの、悲し過ぎる。
泣きそうな顔をしながら俯いてしまった凪に、湯玄は我に返ったように向き直った。
「……そうか、凪。私も其方に悲しい思いをさせてしまったのだな。しかし、やむを得ない事情があったのだ……」
「……わかってる。あんたは仮にも湯の神様だ。人間には理解できない事情があるのかもしれない。そんなのわかってる。わかってるけど……俺は面白くないんだ。だって、俺は四年間、あんたが迎えにくるのを待っていたんだから……」
「凪。私のことを、そんなに待っていてくれてたのか……そうか……」
申し訳なさそうに、綺麗な眉を下げる湯玄の顔を見た凪の心が痛む。頭に生えている耳が倒れて、ふさふさした尾が力なく垂れ下がった。
――違う、俺は湯玄様のこんな顔が見たかったわけじゃない。
凪は唇を噛み締めて俯く。自分はここにわざわざ喧嘩をしにきたわけではない。
――素直になりたい。素直に……。
凪は心を決めて湯玄を見上げる。でもその言葉を口に出すことは、想像以上に勇気が必要だった。でも凪は伝えたかった。自分の素直な気持ちを……。
「湯玄様! 俺、あんたが椿屋にいないと寂しくて仕方がないんだ。だから、頼む! 帰ってきてくれ!」
「凪、其方……」
「一緒に帰ろう? 椿屋に……」
次の瞬間、大きな物が勢いよくぶつかってくる感覚に、呼吸が一瞬止まった。その衝撃で仰向けに倒れそうになってしまったのを、足を踏ん張って何とか耐える。あまりにも強い衝撃だったものだから、全身の骨が砕けてしまったのではないかと不安になるくらいだ。
自分の腕の中にいるのは、満面の笑みを浮かべる湯玄だった。まるで子供のように、凪の胸に頬ずりをしている。
「其方がそんなにも私と一緒にいたいのなら、仕方がない一緒に帰ってやらんでもない」
「はぁ……。湯玄様って、本当に天邪鬼で可愛くないのな?」
先程までは荒ぶる獅子のように見えた湯玄が、今はゴロゴロと喉を鳴らしながら甘える猫のように見える。可哀そうな程垂れ下がっていた尾が、大きく揺れていた。
「可愛い私の花嫁よ。共に帰ろう」
「え? 本当に?」
「あぁ。其方がそんなにも可愛らしくねだるのであれば、このまま一人で帰すわけにはいかないだろう?」
「別に可愛らしくなんか……大体あんたが……ん、んんッ!」
一言くらい文句を言ってやりたくて、凪は口を開いたが……それは言葉にはならなかった。
湯玄に強く抱き締められた凪は、そのまま唇を奪われてしまう。久しぶりに感じた湯玄の唇の柔らかさに凪の心が大きく跳ね上がった。半ば強引に押し当てられた湯玄の唇は、柔らかくて温かい。熱いものが込み上げてきて胸がいっぱいになってしまう。
凪は、湯玄の唇から逃れようと首を振って抵抗したが、そんなことは許されるはずはなく、凪は湯玄の口付けを受け止め続けた。
「相変わらず口付けが下手くそだな」
「うるさいな」
「まぁ、そこが初々しくて可愛らしいのだが」
そんな凪を愛おしそうな顔で湯玄が覗き込んでくる。その表情はとても穏やかで、まるで空に浮かんでいる満月のようだ。
「可愛い、私の花嫁よ」
もう一度唇が触れ合った瞬間、湯石が眩い光を放ちながら一気に熱を帯びていく。源泉からは湯が勢いよく吹き出し、けたたましい音をたてながら滝が流れ落ちた。
「湯玄様……」
凪は無我夢中で湯玄にしがみついて、その唇を頬張ったのだった。
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