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箱庭⑤
しかし、ノアの嫌な予感は的中してしまう。ドンドンと無遠慮に箱庭の扉が叩かれて「失礼します」という男の声が聞こえてきた。
一体誰だ……。噴水の脇で蹲っていたノアは、あまりにも騒がしい雰囲気に顔を上げた。
今度は一体何が起きたというのだろうか? 不安で胸が圧し潰されそうになった。
「失礼いたします、ノア様。私 は大臣のハッシェルと申します、以後お見知りおきを」
「はぁ……」
ハッシェルと名乗った男はノアに向かい仰々しく頭を下げたものの、その顔に笑みはない。それだけで、「この人は自分の敵だ」とノアの本能が一斉に警笛を鳴らした。
ゆっくりと顔を上げたハッシェルを一目見ただけで、ノアの背中に虫唾が走る。その男は前髪を後ろに撫でつけ、長い髪をきっちりと一つに束ねていた。見るからに神経質で気難しそうだ。能面のような顔に、気味の悪い薄笑いを張り付けている。
骸骨のように痩せ細っており、指先で淵のない丸眼鏡をクイッと上げる姿は、不気味そのものだ。鼻をつくような香水にノアは思わず顔を顰めた。
それでも大臣というくらいだから、国王陛下に仕える家来の中でもかなり位が高いのだろう。
しかし、初めて顔を見るだけで、こんなにもいけ好かない奴がいるとはな……。ノアは小さく舌打ちをした。
「国王陛下がお気に召したという花生みですから、さぞや雅なお方だと想像しておりましたが、ただ見栄えのいい子どもではないですか? あー、実に嘆かわしい!」
「……はぁ? なんだよいきなりっ?」
「しかも何ですか? その口の利き方は……。これだから身分の低い者は嫌いなのです」
ハッシェルはまるで汚物を見るかのような視線をノアに向けた。突然来ておいて、お前の方がずいぶんと失礼じゃないか? という言葉が喉元まで出かかったが、ノアはそれを呑み込む。
きっとこの馬鹿に何を言っても伝わるはずがない……。ノアは諦めてしまっていた。ハッシェルのまるで蔑むような視線を受け取りつつも、憮然とした顔を隠さず、視線を返す。
ハッシェルは、ノアのそんな視線は気にならないようだった。
「陛下も陛下です。お妃を娶ることもせずに、こんなちんけな少年を箱庭に囲うなんて……。一体何を考えているのでしょう。先代の王がこれを見たら、さぞや嘆き悲しむはずです。あー、嘆かわしい」
「……騒がしい野郎だ」
「はい? 何か仰いましたか?」
「いえ、何も。それより、大臣ともあろうお方が、俺に何の用ですか?」
「俺……? まぁ、なんて汚い言葉……。私、眩暈がしそうです。はぁ……。おい、あれを持ってこい」
わざとらしく大きな溜息をついたあと、大袈裟に頭を抱えるジェスチャーをしたハッシェルが、後ろに引き連れていた部下に目で合図を送る。それに気が付いた部下は「は!」という声と共に部屋を後にした。
「ノア様、貴方は若くて美しい花生み、というだけで何の価値もありません。国王陛下がこんな風に貴方を寵愛しているのも、一時の心の迷いに違いない。本当に困ったお方です」
ハッシェルの部下が二人がかりで運んできたものが、ノアの目の前に置かれる。それは普段からノアが見慣れているものではあったが、大きさが全く違っていた。その物の重みで柔らかな絨毯が静かに沈んだ。
「なんだ、これ……」
「あぁ? これですか? これは瓶《かめ》です。ご存じないですか?」
「瓶くらい知っているよ。なんでこんなにも馬鹿でかい瓶をここに持ってくるんだ? って聞きたいんだよ」
「あぁ、それはですね……」
ノアの目の前に置かれた瓶は、ノアがすっぽり入れてしまう程大きなものだった。一体こんなものをどうしようと言うのだろうか……。厭らしい笑みを浮かべるハッシェルの姿を見ているうちに、ノアの額にジンワリと嫌な汗が滲んだ。
「一日かけて、この瓶がいっぱいになるくらいの花を生み出してください」
ノアは驚いた顔をしたまま、かたまる。
次の瞬間、なに言ってんだ! とハッシェルに向けて、批難めいた声をあげた。
「こんなにも大きな瓶いっぱいに、一日で花を生み出せるわけがないだろう!?」
「しかし、貴方は花を生み出すためにこの城へ来たのでしょう? そしてこんなにも見事な箱庭を与えられ、衣食住に困ることもない。私たちがどんなに欲しても手に入れることができないものを、貴方はこんなにも簡単に手に入れることができたのです」
「ふざけるな! 俺はここに無理矢理連れて来られたんだぞ!」
「黙らっしゃい!!」
ハッシェルの大声が空気を震わせた。ノアはビクッと体を強張らせる。大臣というのもハッタリではないと思わせるほどの貫禄が、ハッシェルにはあった。そのあまりの迫力に、ノアは続けて言葉を発することさえできない。
「花生みは大人しく花を生めばいいのです」
「そんな……。花生みが花を生み出すことに、どれほどの苦痛が伴うのかを知っているのか?」
「知っていますとも。でも、私たちには関係ないことです」
「…………」
「もしこの瓶が花で満たされていないときは、クレイン夫妻の命が危ういかもしれませんね。そのことはよく肝に銘じておいてくださいませ」
「なんだと……」
ハッシェルの言葉にノアは目を見開く。「そんなことはさせるもんか!」と言い返せない自分が歯痒くて目頭が熱くなった。
──結局俺は、歯向かうことなんてできない。大人しく花を生み続けるしかないんだ……。
ノアは言葉を発することさえできずに項垂れる。噴水から弾け飛ぶ水しぶきがキラキラと光っている。そんな光景を茫然と見つめた。
「夕方に、瓶を回収に参りますので……」
ハッシェルがノアの顔を覗き込み、ニヤリと顔を歪める。そのあまりの醜さにノアは吐き気さえ覚えた。
「では、せいぜい頑張ってくださいね。ノア様」
そう言い残すと、ハッシェルとその部下たちは箱庭を後にする。ハッシェルがいなくなった部屋は恐ろしい程の静寂に包まれて、ノアは思わずブルッと身震いをした。
「この瓶を埋めるほどの花を……夕方までになんて無理だ……」
溢れ出しそうな涙を、唇を噛み締めて堪えたが、頬を伝って流れ落ちた涙はベコニアへと姿を変える。そして音もなく床に落ちていった。
こんなに小さな花をあの大きな瓶にいれたところで、きっと何にもならない……。そんな絶望がノアの心に襲い掛かる。しかし、きっとハッシェルはそれをわかったうえで、この無理難題を押し付けてきたのだろう。
「俺に嫌がらせがしたいだけだろう……」
ノアは今にも消え入りそうな声で呟く。
この塔に身を囚われたまま、花を生み出す覚悟はあったが、まさかこんなことになるなんて、想像もしていなかった。
果たして、イヴァンはこのことを知っているのだろうか? もしかしたら、イヴァンがハッシェルにこの命令を言いつけたのかもしれない──。色々な考えが頭の中を駆け巡り、気が狂いそうになる。
「なにやってんだよ、あいつ……。また来るって言ったじゃん……。悲しい思いはさせないって、言ったくせに……。嘘つき……」
ノアは声を殺して泣き続ける。そんな彼の周りには、可憐なベゴニアの花の絨毯が出来上がっていた。
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