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第一章 第一節 雪の降る夜

 雪が降っている。ワイパーをいくら動かしても、視界が白い。何もない、洞の空いたような黒い夜空が、吹き荒ぶ雪に白く染まる。  町へ買い物に出て、すっかり遅くなった。かろうじて溝の残る轍を踏んで、慎重に車を走らせる。男の名を、杉崎遥平(すぎさきようへい)という。故郷を捨て、この雪国へ流れ着いたのは、おおよそ一年前のこと。ようやく、ここでの生活にも馴染み始めていた。  雪道での運転は、とにかくゆっくり慎重にが鉄則だ。加速も減速も緩やかに。急ハンドルなどもってのほか。滑ることを前提に、車間距離を十二分に開けて走行する。通常の倍以上、時間がかかるのも想定内だ。焦りは禁物。余裕ある行動が不可欠である。  杉崎は急ブレーキを踏んだ。止まり切れなかった車体が、轍の窪みに沿って、十数メートル滑って止まった。  白い影が横切った──ように見えた。どこもかしこも、白と黒の濃淡で色づけしたような世界で、微かに動いた白い塊が、杉崎の視界を掠めた。鏡に映った虚像か、雪の見せた幻か、咄嗟には判断がつかなかった。  ハザードランプを焚き、車を路肩に寄せて、杉崎は車を降りる。ドアを閉めた衝撃で、屋根に積もった雪が落ちる。  軽率なことをした、と思った。雪の降る夜、向こう十キロは人家もない田舎道で、出会うのは野生動物くらいのものだ。鹿か狐か、最悪の場合、冬眠し損ねた熊という可能性もある。この雪道で追いかけっこをした場合、圧倒的に熊に分がある。  しかし、もっと厄介なのは、あの白い影が野生動物ではなかった場合だ。命のあるものならまだいい。幽霊──でもまだ構わない。行き倒れの死体なんて見つけた日には、長らく悪夢に苦しめられることになるだろう。  男が、倒れていた。積もった雪に埋もれていた。男の体にも、雪が積もり始めていた。   「……おい、あんた」    杉崎は、雪を払って男の頬に触れた。冷たいが、まだ血の通った温もりがある。首筋に触れてみれば、微かに脈を感じられた。   「しっかりしろよ。立てるか」    肩を貸して抱き上げると、死にかけの虫が動くように、男の体が動いた。冷たい風を切って飛び出した男の手が、杉崎の首を捉えた。凍えた指が絡み付き、力を込めて絞め上げる。   「っ、おいおい……行き倒れ装って追い剥ぎかよ」    杉崎は、男の手首を掴んだ。首に巻き付いていた手は簡単に外れた。   「生憎、盗れるモンは残ってねぇぜ。病院より警察をくれてやらぁ」    腕をねじ上げながら、杉崎は言う。男は何も答えない。ただぐったりとして、杉崎にもたれかかる。うっすらと目を開くと、「誰だてめぇ」と白い息と共に吐き出した。   「病院と警察、どっちがいい」 「……」 「答えろや!」 「……どっちもゴメンだ。火がほしい」 「火だぁ?」    それきり、男は黙る。もたれかかってくる体が冷たい。重みが増したように感じた。  本当に、ただの行き倒れかもしれない。いきなり首を絞めてきたのは、混濁する意識の中での咄嗟の防御反応か。そうだとしても、ずいぶん暴力的な挨拶ではあるが、仮に追い剥ぎだったとしても、この状況で杉崎から何を奪えるとも思えず、そんな力も残っていないように見受けられた。  杉崎は、男を後部座席へ放り込んだ。車に積んでいた毛布をぐるぐる巻いて、暖房の温度を限界まで上げる。ニットに汗を滲ませながら、ここへ来るまでの道のりと比べていささか深くアクセルを踏み、家路を走った。  男の意識がはっきりとしたのは、東の空が白み始める、明け方近くになってからのことだった。赤々と燃えるストーブに背中を当て、カーペットの上で丸まっていた男は、おもむろに起き上がる。目を擦り、乱れた前髪を掻き上げて、きょろきょろと辺りを見回した。   「なんだ……どこだ、ここは」    男は、ソファの上で毛布に包まる杉崎に近づいた。顔を覗き込もうとして、毛布を捲ろうとする。  いきなり、手が飛び出した。男の手首を掴んで、捻り上げる。杉崎が起き上がった。   「今度は寝込みを襲おうってか。やっぱり盗っ人かよ、てめぇ」    寝起きの苛立ちも相まって、杉崎は凄む。男は、ぱちくりと目を瞬かせた。   「いや……顔を見ておこうと思って」 「俺のか? 何のために」 「……お前が、何者なのかと……」    ねじ上げられていた腕を、男は振り払う。手首を摩り、気色ばんだ。   「何を勘違いしているか知らんが、おれはお前から何も盗らない。襲うつもりもない」 「ああ? だったらなんで……」    杉崎は詰め寄るが、男は顔を背けて会話を拒んだ。   「まぁ何でもいいや。必要なら病院くらい連れてってやるけど」 「いらん」 「あっそ。じゃあもう出てけよ。用はねぇんだろ」    ただでさえ、朝は時間がない。訳の分からない流れ者の相手をしている場合ではない。愛嬌の欠片もない、無愛想な男の相手など。   「……味噌汁くらい飲むか?」    返事はないが、杉崎は鍋から一杯味噌汁をよそい、お椀をテーブルに置いた。  洗面所で身支度を整え、リビングに戻る。その間、およそ十分弱。男は、ストーブの前から微動だにしていなかった。お椀の中身は、一口も減っていなかった。   「てめぇ、人がせっかく……まぁいいや。支度しな。出る時間だ」    杉崎は、文句を言いたいのを呑み込んで、残された味噌汁を鍋に戻し、ストーブを消した。  駅まで送ってやることにした。杉崎の家は、村外れの山麓にある。当然、鉄道は通っていない。電車に乗りたければ、川向こうの隣町まで行くしかない。路線バスは走っているが、一日三便しか運行しない。歩いて行くのも不可能ではないが、現実的な距離ではない。  どこの田舎も同じだ。都市の中心部に住んでいる場合を除いて、田舎で暮らすには自動車が必須である。これがなければ、生活が立ち行かない。この土地に流れ着き、ローンを組んで買った中古の軽自動車は、傷だらけの泥まみれになっている。  男を駅に置き、引き返して村へ戻り、丸一日くたくたになるまで働いた。惣菜を買って帰る頃には日も落ちて、道の脇へ除けられた雪の山ばかりが、淡い光を放って見えるのだった。   「……なんでまだいるんだよ」    玄関の前に、男がいた。今朝別れた時とそのまま同じ恰好で──紺の外套の第一ボタンまできっちり留め、大きめのフードを目深に被って、うずくまっていた。杉崎に気がつくと、おもむろに顔を上げる。   「……」 「……」    数秒ほど、お見合いになった。男が何も言わないので、杉崎は再び先の質問をした。そこで、ようやく男が口を開く。   「金がねぇ」 「……で?」 「……どこにも行けなかった」    杉崎からしてみれば、そんなことを言われても、である。この男は、何をしにこの北の果てまでやってきたのか。   「旅費くらい持ってねぇの。あんた旅人じゃねぇのかよ」 「おれがいつそんなことを言った」 「だったら、なんであんなとこで倒れてたわけ。俺はてっきり、最終バス逃して道に迷った旅行者かと思ってたんだけど」 「それは合ってる」 「合ってんのかよ」 「乗るバスを間違えたらしくてな。辺鄙なところで降ろされちまって、バス停のあるところまで戻ろうとしたんだが、あの雪だろ。方向が分からなくなった」 「はあ、なるほどねぇ。それで」 「もういいだろ。寒い」    男は、さも当然の要求かのように、ドアを開けることを催促する。杉崎は、ポケットから鍵を取り出し、しかしはたと手を止めた。   「いや、おかしくない? なんでそうなんの」 「つれねぇなぁ。昨日は入れてくれただろ」 「昨日とは事情が違うじゃん。金がないなら銀行で下ろしてこいよ。うちは無料の宿じゃねぇぞ」 「銀行に金があるなら、とっくにそうしてるに決まってる。少し考えりゃ分かるだろ」 「なんでそんな偉そうなわけ。今の状況分かってんの? 本当なら、そこの泥水にデコ擦り付けて、この哀れな旅人に一晩の宿をお恵みください旦那様、とやる立場なんだぞ、お前」    冗談半分に言いつつ、杉崎は鍵穴を回す。と同時に、男が膝を折ったので、杉崎は慌てて、男の首根っこを掴んだ。外套のフードがぴんと張る。   「バッッカお前、なにやってんの? なにやってんの?」 「は? てめぇがやれと言ったんだろうが」 「あ、ありゃただの軽口っつーか、言葉の綾だろうが。本気にするやつがあるかよ」 「……本気にしてねぇ」    煩わしそうに、男は杉崎の手を払った。   「……何なんだよお前」 「お前が何なんだ」 「まぁいいや。とりあえず入れば。土下座はいいから」    自業自得といえばそれまでだ。昨晩の気紛れが、今こうして自分の首を絞めている。  帰宅して、まずはストーブをつける。米を炊き、その間にシャワーを浴びる。買ってきた惣菜と、今朝作った味噌汁を温めて、食事にする。少し奮発してビールでも飲もうかと思い、客がいることを思い出して、黙って冷蔵庫を閉めた。   「あんたも食うか? 大したモンはねぇけど」    杉崎が言えば、ストーブの前から動かなかった男が、ちらりとこちらを振り向いた。   「金がねぇんじゃ、今日一日ろくに食ってねぇんだろ。寒さと飢えは死に直結するぜ」    今朝とは違い、男はテーブルの席についた。杉崎は、一人暮らしゆえに数の足りない食器を掻き集め、ごはんと味噌汁をよそってやる。   「焼き鳥は二本ずつな。あとはまぁ、漬物とかだけど。適当につまめよ」    炊き立ての白米はうまい。これさえあれば、他には何もいらない。おかずが割合塩辛いので、ごはんが進む。何となくバランスを取って、味噌汁は薄味に作る。汁物というより、野菜のごった煮といった様相を呈しているが、この素朴さが、どこか懐かしく感じられるのだった。   「……毒を入れた」    焼き鳥を串から引き抜きながら、男が言った。   「……は?」 「その味噌汁だ。時間はいくらでもあったろう」    朝の光景を思い出す。テーブルの上に残されたままのお椀。鍋に戻し、それを今、温め直して食べた。杉崎が浴室にいる間、この男はどこで何をしていた? 目撃者はどこにもいない。  瞬間的に状況を把握した。いや、言葉にするほど難しいことはしていない。あくまでも冷静に、野性的な本能によってのみ体が動く。杉崎は、男の頭髪を鷲掴みにした。   「てめぇも飲めよ」    男の前に置かれた、まだ手をつけられていない椀を、男の口に突き付ける。冷たくギラつく杉崎の目から、男は目を逸らさずに、薄ら笑いを浮かべる。その口を指でこじ開けて、汁を無理やり流し入れた。   「吐いてんじゃねぇぞ。汚ねぇな」    男が咽せる。熱い汁が飛び散る。飲み切れないものが逆流し、鼻の穴からまで溢れ、顎を汚し、セーターまで垂れ流しになった。  お互いに、汚れた汁まみれになった。食器に入っているうちは食事として捉えることができるのに、一旦そこから離れてしまうと、汚物としてしか認識できなくなる。人間の認知というのは、甚だ不思議なものである。今この瞬間、毒入りの味噌汁は、汚物以外の何物でもない。   「はぁ、ははっ、おっかねぇな」    ひとしきり咳き入って喉を空にしてから、男が笑った。   「どの口が……おっかねぇのはてめぇの方だろ」 「そうかもな」 「なに笑ってんだよ」 「いや、なに……冗談だ」 「は?」 「毒なんか入れてねぇよ。ちょっと考えりゃ分かるだろ。切符も買えねぇのに、なんで毒なんか持ってんだよ」 「は……」 「本気で殺す気がありゃ、わざわざ戻ってこねぇだろ。お前が死んだ頃合いを見計らって、こっそり忍び込んで死に顔を拝むくらいはするかもしれねぇがな。冷静になりゃ分かることだ。それをお前、こんなくだらねぇ話を本気にして……」 「てンめぇ……」    反射的に殴りかかりそうになった拳を抑えて、杉崎は男に雑巾を投げ付けた。   「その辺拭いとけ。びしょびしょで汚ったねぇから」 「……」 「あとその服脱げ。すぐ洗えば染みにはならねぇだろ」    杉崎は、半ば剥ぎ取るように男のセーターを脱がした。洗面台に水を出して、汚れた箇所を浸す。  冷水に手が凍える。頭も冷える。  質の悪い冗談だ。毒を盛ったなどと、嘘でも言っていいことと悪いことがある。ましてや、恩を仇で返すような真似を。少なくとも、あの男は杉崎に対し恩があるはずだ。一度ならず二度までも、冬の寒さから救ってやったというのに。  しかし、狂っているのは果たしてあの男だけだろうか。毒を盛られたと知らされて、杉崎は真っ先に相手を道連れにしようとした。殺されてもタダでは死なない。そんな考えに、瞬間的に支配された。考えるより先に体が動いた。こいつは殺していいやつだ。  真っ当に生きている人間は、こうした思考回路を持ち合わせていないのかもしれない。もうじき死ぬと知らされたら、まずは救急車を呼び、それから警察に通報するものだろう。あの瞬間の杉崎には、考えも及ばなかった。  杉崎に毒を飲まされながら、薄気味悪い笑みを浮かべていた、男の表情を思い出す。袖で口元を拭いながら、何かを見極めるようにじっとこちらを見つめていた、男の表情を思い出す。俺とあの男とは、何一つ違わないのかもしれない。   「おい」    洗面所に、男が顔を出した。杉崎は、びくっと体を強張らせる。   「……幽霊とでも思ったか」 「ちげーわ。なに」 「シャワー貸せ」 「ああ、やっぱベタつく?」 「当たり前だ。それから、そのボロは捨てていい」 「替えの服あんの」 「お前のを借りる」 「ふざけんなよ。余計な服は持ってねぇぞ」 「……それから、」    しばらくここに住まわせろ、と男は言った。   「断ったら? 今度こそ毒を盛るか?」 「ははぁ、それもいいかもな」    男は、名を荻野偲(おぎのしのぶ)といった。杉崎が偽名を疑うと、自動車の免許証を見せてきた。旅の道中で旅費が尽きたのは事実らしかった。それなら諦めて故郷へ帰れよ、と言うのは思い留まった。帰れる家がなく、頼れる縁者もない人間が、この世には大勢いるということを、杉崎はよく知っている。   「宗谷岬から樺太にでも渡ろうかと思ったんだが、想像以上に遠かった」 「へえ」 「そう警戒するな。少しの間、間借りさせてくれるだけでいい。仕事はすぐに見つける。ある程度金が溜まったら、すぐに出ていってやるさ」 「……いや、樺太は無理だろ」    こういうわけで、この信用ならない流れ者からの提案を、杉崎は受け入れることにしたのだった。

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