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第二節 少女

 生き物を飼うと決めたら、最後まで責任を持って育てなければならない。疑う余地のない、普遍的な道徳だ。しかし、それが犬や猫ならいいが、野生の獣ならどうだろうか。あるいは、見た目に可愛くもない、むさくるしいばかりの成年男性だとしたら。   「おいコラ、いつまでそうしてる気だ。とっとと出てこい」    暖房は基本的に灯油ストーブで賄っている。排熱を利用した床暖房を敷いているので、炬燵は電源をつけなくてもじんわり暖かい。  荻野は寒さに弱いらしい。何かと言えば、ストーブの前に転がっている。炬燵布団を出してからは、炬燵に潜り込んだまま動けなくなっていることもしばしばだった。そして、そんな荻野を引っ張り出すのは、いつも杉崎の役目だった。   「出てこいっての。約束に遅れる!」 「んなの、てめぇだけで行きゃあいいだろ。面倒くせぇ」 「おまっ、お呼ばれしてる身でそれを言うか」 「こっちは昨日も忘年会で疲れてんだよ」 「文句ばっか言ってんじゃねーぞ。それとこれとは別だろーが。お前だって、蓮見社長には世話ンなってんだろ」    杉崎は強制的にストーブを切り、荻野を炬燵から引きずり出して、無理やり車に押し込んだ。  蓮見貴弘(はすみたかひろ)は、杉崎にとっての恩人である。何の伝手もなくこの地に流れ着いた杉崎を、彼の営む花農家に雇ってくれた。今住んでいる山小屋も、元は蓮見の所有である。彼が手を差し伸べてくれていなければ、杉崎はとっくの昔に野垂れ死んでいただろう。  仕事はすぐに見つける、と豪語していただけあり、荻野は既に職を見つけて働いている。しかし、それもまた、蓮見の伝手があってのことである。彼ら二人は二人とも、蓮見社長に足を向けて寝られない。   「あっ、やっぱり。お父さん、おばあちゃん! 遥平くん来たよ!」 「どうも~。おばんです」    玄関を開けて出迎えてくれたのは、蓮見の一人娘である莉子(りこ)だった。それから、彼女が大層かわいがっているサモエドのブランカが、杉崎に思い切り飛び掛かってくる。「危ない危ない」とその衝撃によろめきながら、土産のビールを荻野に持たせていてよかった、と杉崎は思った。  蓮見家で食事をご馳走になるのは、珍しいことではない。小さな家族経営の農家にとって、従業員も家族の一員なのだろう。杉崎もまた、一従業員というよりも、家族同然に迎えられていた。今回は年末ということもあり、朝までコースになりそうだ。   「たくさん食べてよ。このシチュー、私が作ったんだ」 「へぇ、莉子ちゃんが一人で? すごいじゃない」 「えっへん。まだまだお代わりもあるんだから」    特に、今年中学生になった莉子は、杉崎によく懐いている。いつも杉崎の隣に座り、あれを食べろこれを食べろと勧めてくる。最近はお酌までしてくれるようになった。一方的に施されるばかりでは申し訳ない気がして、杉崎がお礼にジュースを注ぐと、彼女は嬉しそうに頬を染め、さらに次々と酒を注ぎ、料理を勧めた。   「今夜は鹿のフルコースなんだね」 「うん。冬になると毎年届く。知り合いの猟師さんが送ってくれるんだ。ね、お父さん」 「ああ。今年はいつになく豊猟だったらしい。遠慮しないで、たくさん食べていってくれ」 「少ないけど、鴨鍋もあるよ。おつゆ代わりに食べて」    この地を訪れるまで、ジビエ料理など食べたことはなかった。野生動物を目にする機会がそもそもない。初めて鹿肉のローストを振舞われた日には、半目になりながら恐る恐る齧り付いたものだが、それも昔の話である。この地に住み着き、この家の味を知ることで、杉崎の味覚もずいぶん変わった。   「偲さんも、私の鹿肉シチュー食べてよ。自信作」    この地に来てまだ日の浅い荻野には、鹿肉は少しハードルが高いようで、莉子からお椀を受け取っても、においを嗅ぐだけで手をつけない。   「やっぱり気になる? 臭み抜きはしたんだけど」 「お前な~、せっかくの莉子ちゃんの手作りだぞ。食べなきゃバチが当たるぜ」 「遥平くん、もう酔ってる」 「酔ってません~」    杉崎は荻野に詰め寄りつつ、こっそりと耳打ちした。   「試しに一口食ってみろって。イヤなら残り食ってやるから」    すると、荻野は面倒くさそうに溜め息をつきつつ、肉を口に運んだ。   「食べた!」 「どうだよ、お味は」 「……悪くない」 「だってさ! よかったね、莉子ちゃん」 「お代わりもあるぞ! よそってこようか」 「いや、もういい」 「遠慮してる?」 「してない」    結局、荻野は半分ほど食べて残し、残りは杉崎が平らげたのだった。「次こそは偲さんの口に合うものを作るぞ!」と意気込む莉子を、杉崎が宥める。   「そんなにがんばらなくてもいいって。そもそもこいつ、食にこだわりとかないから。食えりゃ何でもいいってタイプだぜ。なぁ?」 「けど私は、偲さんにも同じものを食べておいしいって思ってほしい。これからはこういう機会も増えるだろうし……今はまだ、私の腕が未熟なんだ、ううう」 「莉子ちゃん大丈夫? 眠いんじゃない?」 「眠くない!」 「……同じものを食うと言ったが、」    杉崎と莉子のやり取りを、酒を飲みながら観察していた荻野が、口を開く。   「そこの犬っころはどうなんだ。同じものを食ってんのか」    犬っころじゃなくてブランカだぞ、という杉崎の訂正を、荻野は聞きもしない。莉子は、杉崎にもたれていた体を起こして、ブランカを抱き寄せた。   「今日は同じものを食べてる。鹿肉のジャーキーだ」    お手をさせて、ジャーキーを与える。ブランカは嬉しそうに莉子の顔を舐める。「こら、ヨダレがつく」と笑いながら、莉子も嬉しそうにブランカを撫でる。   「ブランカは、お母さんが遺してくれた……大切な家族だから。できる限り一緒にいたいし、同じものを分け合いたいんだ」 「……」 「偲さんも食べる?ジャーキー。噛めば噛むほど味がしてうまいぞ」 「いやおれは」    断る間もない。問答無用で、莉子は荻野の口にジャーキーを突っ込んだ。鹿の干し肉だ。   「かてぇ」 「ジャーキーは固いものだ」 「味がしねぇ」 「よーく噛むんだ。奥の方からだんだん旨味が広がってくるから」    固いジャーキーを前歯で噛み切り、奥歯ですり潰していた莉子だが、ふとパッケージを確認して、気まずそうに笑った。   「ゴメン。これ、犬用のジャーキーだった」 「道理で味がしねぇわけだ」 「で、でも、鹿本来の味がして、これはこれでうまいぞ?」 「……」    荻野は、半分ほど齧ったジャーキーを噛み千切り、残りを杉崎の口に押し込んだ。   「結局こうなんのかよ」 「好きだろ、鹿肉」 「まーね。ツマミにゃ最適」    おばあちゃんは先に休んだ。酒をちまちま減らしながら、話のネタも次第に尽きる。莉子はうとうとしながら、荻野の肩に背中をもたれて、彼の顎に手を伸ばした。   「ヒゲがざらざらしてる」 「親父さんの方が、立派なヒゲを生やしてるだろ」 「お父さんのはふさふさ。遥平くんはつるつるだよね」 「朝剃ったきりだから、ちょっと伸びてきてるよ? ざらざらしてみる?」    杉崎に促され、頬に触れようとした莉子だったが、何を思い直したかすっと手を引っ込めると、話題を変えた。   「二人は、子供の頃の知り合いなんだよね? 故郷のお話、聞かせてよ」 「あー、それは……」    杉崎は言い淀み、荻野に目配せをするが、彼は素知らぬ顔をする。  杉崎と荻野とは、幼少期を共に過ごした仲である。今回移住を決めたのは、その伝手を頼りにしたからである。というのは、もちろん荻野の作り話である。蓮見との初対面時に語ったこの出まかせが、いまや真実として受け取られている。杉崎からしてみれば、いい迷惑だ。この辺りのいきさつは、ぼかして紹介するつもりだったのに。   「海の見える家で育った」    おもむろに、荻野が口を開いた。ぎょっとしたのは杉崎だけだ。「海が?」と莉子は無邪気に尋ねる。   「狭いアパートだったが、ちょっとした高台にあってな。窓から小さく海が見えた。母親は、張り出し窓からよく海を見ていた。耳を澄ませば波の音がして、おれはその音を子守歌にして眠ってた」 「なんか、ロマンチックだね」 「そう思うか」 「うん。海の見える家なんて、とっても素敵。遥平くんは、一度もそんな話してくれたことないけど」 「いや、莉子ちゃん、俺はね」 「何度か引っ越したからな。こいつと知り合ったのは、何度目かの引越しの後だ。その後もすぐ引っ越したんで、話せることは特にねぇ」 「なんだぁ、残念。二人の子供時代のこと、もっと知りたかったのに」 「知ってもがっかりするだけかもしれんぞ。おれは陰気なガキだったし、こいつもつまらねぇガキだった」 「オイそりゃ聞き捨てならねーな。元気いっぱいなサッカー少年でしたけど!」 「ほお、そりゃ初耳だ。ボールが友達ってやつか?」 「ボール以外も友達いたから! 一時は神童とまで呼ばれてたんだぜ」 「ははっ、神童も二十歳過ぎればただの人か」 「いちいちムカつく野郎だな。お前こそ、なんかスポーツとかやってなかったの。いかにもモヤシ小僧みてぇな面しちゃってさ」 「おれはお前らみてぇな脳筋とは違うんでね」 「んだとコラ」    まぁまぁその辺でと宥める蓮見の声に、ヒートアップしかけた口論がやむ。荻野の膝を枕にして、莉子が眠っていた。半目を剥いて、お世辞にも上品な寝顔とは言えない。荻野は呆れて、「将来は酒乱になるな」と笑った。   「すまないね。娘のおしゃべりに付き合わせて」 「いやぁ、むしろ俺らの方が楽しませてもらっちゃって。なぁ?」    杉崎が肘で小突くと、荻野もお愛想で「ああ」と答える。   「このアホ面にも見飽きてるんでね。たまの気分転換にはちょうどいい」 「オイ誰がアホ面だって?」 「へぇ、アホ面の自覚はあるらしい」 「はん、そのアホ面がいなきゃ、今頃雪の下だってのによ」 「それに関しちゃ、これでも感謝してるんだぜ」 「どーだかな」    蓮見が、眠る娘を抱き上げて、寝室へと運ぶ。眠っていたブランカも起き上がり、尻尾を振って蓮見の後ろにくっついていく。莉子とブランカはいつも一緒にいて、夜も寄り添って眠る。   「羨ましいのか」 「……何が?」 「あいつらが」    父の腕に抱かれる莉子と、彼女に付き従うブランカとを目で追っていた杉崎に、荻野が言った。   「あいつらとか言うんじゃねぇよ」 「羨ましいんじゃないのか」 「……別に。ちょっと懐かしく思っただけ」 「恋しいなら故郷へ帰れ」 「いいんだよ、俺のことは。お前こそ、帰れる故郷があるなら帰れよ。海の見える家とやらにさ」    杉崎が揶揄い交じりに言えば、荻野は黙って杯を傾ける。思いがけず動揺したのを悟られたくなくて、杉崎は声のトーンを上げた。   「えっ、マジ?」 「悪いかよ」 「いや~、てっきり全部作り話かと」 「おれを何だと思ってやがんだ……お前こそ、ボールが友達ってのは作り話か?」 「普通にホントの話だよ。つか、ボール以外にも友達いっぱいいましたし~。誰かさんと違って」 「おれだって、友達くらい……」    荻野は、僅かに唇を突き出して、杯に口をつける。僅かながら眉根を寄せ、半ばほど目を伏せる。無口で無表情な男とばかり思っていたが、時折こうして、分かりやすく感情を表に出すことがある。先程の、己の内に走った動揺は、黙って杯を傾ける彼の横顔に一抹の寂しさを感じたせいだったのだと、杉崎は今更になって思った。   「まぁでも、羨ましいってのはちょっとあるのかも」 「ふん。認めるのか」 「いや、妬ましいとかそういうんじゃなくてね? 莉子ちゃんが健やかに育ってくれてるのを見ると、こっちまで健やかな気分になってくるっていうかさ。わかんねぇ?」 「知らねぇな。そこに因果関係はないだろう」 「そーだけどさぁ。この世も捨てたモンじゃねぇっつーか、神サマってホントにいるのかも?みたいな」 「お前宗教家だったのか」 「ちげーってば。もうお前、そーやって揚げ足取りばっかしてさぁ。わかんない? ヤオヨロズとか、アマテラスとかさぁ」 「……だったら、」    ぎゅう、と頬を抓られた。その痛みに、酔いも引く。   「ここにも神は宿るのか?」    冷静に振舞っているようでいて、荻野も酔っているらしい。こちらをじっと覗き込む瞳は、杉崎を見つめていながら、実のところ何も見ていない。頬を抓る指が熱くて、冷めたはずの酔いが再び回り始める。  うたた寝をしながら、杉崎は夢を見た。子供の頃の、幸せだった頃の夢だ。父と母と三人で、何の変哲もない住宅街の一角に住んでいた。母の作るカレーライスが好きで、父とするサッカーが好きで、週末のお出かけをいつも楽しみにしていた。そんなありきたりな幸せを享受する、どこにでもいる少年だった。  交通事故に巻き込まれた。家族で出かけた帰り道だった。トンネル内での玉突き事故で、大型トラックが炎上した。生き残ったのは、杉崎だけだった。残された家族は、兄弟同然に育ってきた、秋田犬の茶々だけになった。  顔を舐められ、目が覚める。新雪のような白い毛並みが目に入る。視線を横へずらしてみれば、いつの間にか見慣れた顔。いけ好かない男の寝顔が目に入った。

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