1 / 10

第1話

彼氏の腕の中で眠り、朝を迎える。 そんな当たり前の日々が、これからもずっと続くものだと思っていた。 疑う理由なんてなかった。 仕事で疲れて帰れば「おかえり」と迎えてくれる人がいて、休日には一緒に買い物へ行き、同じ食卓を囲む。 そんな幸せが、ある日突然、音もなく崩れ去った。 その日も仕事を終え、いつものように帰宅していた。 駅前の人混みを歩いていると、見慣れた後ろ姿が視界に入る。 ――あれ、彼氏だ。 少し離れた場所に立つその姿に気付き、思わず足を止めた。 声をかけようとして、一歩踏み出す。 その時だった。 一人の男が彼の元へ駆け寄る。 知り合いだろうか。 そう思った次の瞬間、二人は自然な動作で抱き合った。 そして――キスをした。 頭が真っ白になる。 何かの見間違いだと思った。 そうであってほしかった。 似ているだけの別人だと、自分に言い聞かせた。 震える指でスマートフォンを取り出し、彼に電話をかける。 数回のコール音の後、聞き慣れた声が耳に届いた。 『どした?』 いつもと変わらない声だった。 「いや、仕事終わったし……一緒に飲みに行こうかなって思ったんだけど」 少しでも違うと言ってほしかった。 今見たものは勘違いだと証明してほしかった。 しかし返ってきた言葉は―― 『あー、ごめん。残業でさ、遅くなりそう』 「……そっか。わかった」 『悪いな。また今度な』 「うん」 通話が切れる。 画面が暗くなったスマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。 残業。 彼はそう言った。 だけど目の前には、その残業をしているはずの彼がいる。 隣には知らない男。 楽しそうに笑いながら肩を並べ、二人は居酒屋の暖簾をくぐっていった。 追いかけることもできなかった。 呼び止めることも、問い詰めることも。 ただ、その背中が見えなくなるまで見送ることしかできなかった。 冷たい風が吹く。 それなのに、自分の体温だけが妙に熱かった。 信じていたものが音を立てて崩れていく。 そんな気がした。

ともだちにシェアしよう!