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第29話 流れ始めた時間

古びた校舎の中に静かな朝の気配がしみ込んでいく。隙間風がオルガンのパイプに反響し微かな音を響かせる中、ピアノを覆うための重たい布を背にしてリリズとオーウェンは身を寄せ合い眠っていた。 まぶたの裏に明け方の気配が滲んだとき、リリズは僅かに眉を寄せる。目を開けた先には、腰のあたりに暗闇でもわかる柔らかい金糸の髪が見えて、昨日のことが現実だったのだと実感する。 (そうか…俺はオーウェンとあのまま…) 古い木の匂いが鼻先をかすめる。 リリズは身を起こしてはだけたシャツのボタンをとめながら、脚にしがみつくように顔を埋めたままのオーウェンを小突いた。 オーウェンの髪がさらりと流れ、朝の少し冷えた空気の中で柔らかな温もりを感じる。 「…起きろ、オーウェン」 「…んっ…リリズ……?」 目を擦りながら俺を見ているオーウェン。しかし離れる様子はない。 「起きたか?」 「……まだ夜です…もう少し、このままでいい?」 オーウェンの問いは、朝の気配がするとはいえ暗闇のなかでは自然だった。 しかし、リリズは首を振る。 「だめだ、森へ行くぞ」 「森へ?」 その一言に、オーウェンの動揺が感じ取れた。 「……嫌か?」 「僕は──」 ──わかってる その瞳の奥には、あの頃と同じ影があった。 幼い日の森。 俺に心を許したオーウェンを、残酷な形で欺いた。 そのことが俺たちを長く引き離し、互いの記憶すら曖昧にした。 オーウェンはゆっくりと身を起こして少し距離を取った。冷たい空気を纏うようなその瞳が俺を捉える。 「不安なのはわかってる…でも大丈夫だ。お前の記憶の中に何があっても、どんな感情を呼び起こしても、俺が受けとめる。お前が俺の両親に復讐したいなら俺も一緒に…」 「待ってくださいリリズ、それは違います!」 朝の光が少しずつ講堂の空気を薄めていく。 長い沈黙の末、オーウェンはふと、口を開く。 「前に僕が言ったことは忘れてください。……確かになくならない傷もあります、だけど僕はもうあなたの両親を許しています」 リリズは目を見開いた。オーウェンは続ける。 「害するだけの人なら今までもたくさんいました。でもあなたを僕のそばに来させてくれた両親は唯一です。なので今は深く感謝しています」 「オーウェン…」 名を呼ぶ声は震えていた。 胸の奥から湧き上がる感情に、言葉が追いつかない。 「過去はなくなりませんが、ようやく過ぎ去ったと思えます。あなたを愛おしく思う気持ちがあるから。だから僕は今とても幸せです」 オーウェンの言葉に、気がついたら涙が頬を伝っていた。 許して欲しいなんて俺は考えたことはないのに。 「リリズ…大丈夫……?」 「……ッ…ああ……行こうオーウェン」 リリズはオーウェンの手を引いて歩き出した。 森はまだ暗い。 奥へ進むほど闇は濃く不気味にも見えるが、リリズは不思議と綺麗な森を歩くみたいに心地よく暖かい気持ちになっていた。 (きっとオーウェンが居るから) 俺は手を握り一緒に歩くオーウェンを見た。何があるか分からなことが楽しい、この感情はきっと俺たち二人の感情だ。 ふと、通るような鳴き声がこだまする。 「鳥の声が聞こえる」 俺の言葉にオーウェンも耳をそばだててる仕草をする。 「…何も聞こえない」 「そうか…」 「どんな鳴き声?」 「うまく例えられないけど、澄んだ綺麗な鳴き声だ」 「それならきっと、求婚の鳴き声ですね」 「求婚…」 なんて名前の鳥だろうと考えるオーウェンの横で俺はまた記憶の断片を拾い集めた。 俺達はここでよく待ち合わせて、たくさん話した。 「あそこでよくお前を待っていた」 「どこ?」 「今は駅ができて戦士の銅像が建てられているあたりだ」 「昔は大きな木があった」 「─そう、そこだ」 「木のところから学校までリリズと競争してた。そしてこの森は秘密の隠れ家でした」 失った時間を取り戻すように、だんだんと記憶を擦り合わせていく。 貴族だった俺たちは学校には行かなかった。 それぞれの家に家庭教師がいるのが普通だった。 『学校に行ってみたい』 当時、何気なく言った俺の言葉を聞いて、オーウェンは「それなら学校まで競争しよう」と言ってくれたのだった。 そういえば俺が夜に眠れないと話した次の日にオーウェンは水筒にお茶を淹れて持ってきてくれた。確かあれは… 「あのお茶、お前が俺に飲ませてくれた」 「ああ、ラベンダーとカモミール、すごく懐かしい…母が庭で育てていたんです」 いともすんなりと答えたオーウェンに、俺は頷きながら笑う。 「そう、そんな感じのだ」 「今あなたが思い出した香りみたいなのを感じることができました。鳥の声も、もう少ししたら聞こえるかも」 オーウェンはそう言って空に視線を投げるようにした。 「まさか、それはないだろ」 「ずっと忘れていたのに、不思議です…」 俺もオーウェンと同じ気持ちだった。 何年も前のことのはずなのに、オーウェンの仕草が、蘇る思い出が、さっきのことのように繋がった時間に感じられる。 たぶん俺にとってはオーウェンを傷つけたあの日の記憶はタブーとなって、心の奥底にある箱に隠したのかもしれない。 でも、オーウェンがその時の子どもだと知って、また二人で一緒に居ることを選んだ。 そのことが俺にまた箱を開けさせたのだろう。見てはいけない罪の記憶。でもそれ以外に大切でかけがえのない時間がたくさんあった。 オーウェンが “やっと過ぎ去った“ と言ったように、俺の中でも長く止まっていた時が流れ始めた気がした。 それから、俺達は日の出まで話した。 とつとつと取り留めのない会話だけど、たとえ傷に触れてしまうことは避けられなくても、まだ痛みがあっても、欲しいと思ったなら子どもだった俺達なら躊躇なく手を伸ばしたはずだ。 「オーウェン…お前は俺の彼氏だ」 「リリズいま何て?」 「もう二度と離れたくない」 オーウェンが驚いた表情をする。だけどその目はすぐに細められ、嬉しさを隠さない様子に俺も微笑んだ。 細い金の髪を触って撫であげれば、また俺に身を寄せてくれる。 「リリズ…あなたが好きです…」 「ああ」 見ればわかると言いたいが、これは “甘えたい“ 合図なのだろう。 リリズは眩しすぎる光に目を細めながらオーウェンの気がすむまで朝日に透ける髪に触れていた。

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