33 / 42
第31話 生家へ
温泉街の灯りが背後で揺れている。石畳を折れさらに奥へと進むにつれ人の気配は薄れ、代わりに湯の匂いが濃くなっていった。
辿り着いた建物は古い木造の洋風建築だった。高窓の縁取りや丸みを帯びた庇の装飾に見覚えがある。けれど入口は表とは別で、暖簾も出ていない。
「ここがお前の家だった場所か?」
俺が問うと、オーウェンは静かに頷いた。
「はい、そうです。正確にはその一部ですけど」
一部ということはまさかこの温泉街そのものが ”隠された血“ といわれたハルメレイ家だったのだろうか。
他の貴族たちの住まう市壁内ではなく外の、しかもこんな田舎に名家の貴族が居るとは気が付かないはずだ。
何度も来たことがあるはずの銭湯が、まったく違う世界への入り口だとは誰が思うだろう。
「でもなぜ銭湯なんだ」
「情報を交換するなら銭湯は最も安全です。武器は持ち込めないし、衣服もない」
靴底が磨かれた板張りを踏む。内部は思ったよりも広い。高い天井、太い梁、磨き込まれた柱。和洋折衷の造りは控えめだが、どこか威厳を感じられる。
「それにここは、賭場でもありました」
「賭場?」
「特定の人だけのです」
「もちろん、今はただの銭湯ですけど」とオーウェンは少し笑う。
堂々とした佇まいの建築が軒を連ねているが確かに、ここは心理的にうまく隠された場所だ。貴族や国の要人といえど武装したり武器を持って入るには目立つ。何より裸なら盗撮や盗聴の可能性も低い。
そういえば、洞窟風呂のような個室の風呂に入ったことがあったが、もしかしたらそういった用途に使っていたのだろうか。
賭博にかける金はきっと表には出せない金。そういったものをきれいにすることもハルメレイ家の役割だとするのなら、情報をやり取りする担保として秘密を共有させる、確かにこの場所は理にかなっていると思う。
「なんだか”家”というより、装置だな」
リリズの声は低くわずかに硬い。
オーウェンは一瞬だけ目を伏せ、それから柔らかく笑った。
「同じ湯に浸かって賭けごとで仲良くなる、とても合理的です」
その愛らしく毒のない表情をこれほど怖く感じたことはない。
オーウェンに威圧する意図はない。ただ相手の緊張を察して和らげようと笑うのは普段からのクセなのだろう。
そんな様子からもオーウェンにとってはそれが当たり前の日常だったことはよくわかった。
リリズは素朴な疑問を投げかける。
「お前がここに居るのはハルメレイ家を再興するためか」
借りてまで住むということは、何か強い動機があるように思えた。
だが、オーウェンはまさかと首を振る。
「それは考えていません。わかったでしょうリリズ、ハルメレイ家だって潔白じゃない。一時期は周りを責めたこともあったけれど、今はこの家がなくなったのは “なるべくしてなった“ と僕は思っています」
「なるべくして、か…」
俺には、俺の親に「許さない」と言ったオーウェンも、俺に「両親を許すと」言ったオーウェンもどちらも本当の姿に見えた。潔白でないとしてもオーウェンとその家族が踏み躙られ今も翻弄されている事実は変わらない。
だからこそ「なるべくしてなった」というのは、この国の王制やそこに連なる特殊な力を受け継ぐ貴族階級の仕組みそのものに対して言っているのだと思った。
廊下の先の居住区は銭湯の機能的な空間とは違っていた。質の良い絨毯、控えめな額絵、繊細な磁器のティーセット。華美ではないが確かに貴族の生活の名残がある。
「よかったら座ってください」
俺を椅子に座らせて、少し離れたキッチンに立つオーウェンを見る。
確か料理はあまり得意そうではなかったが、手慣れた様子で茶を淹れる姿からは使用人もなく一人で生活をしてきたということが見てとれた。
「僕はこの血やそれを求める欲を終わりにしたい。ただ、自分でもよくわからないけど、何を拠り所に生きて行けばいいか考えたときに、全部でなくてもいいからここを買い戻したいと思ったんです。あとはもう余計なことは考えなくてよくなりました」
「変ですよね」と自嘲気味に言うオーウェン。
“ここを買い戻す“ それが途方もない夢なことはリリズにもわかる。
だからこそオーウェンの心の支えになったことには納得ができた。
「別に、変じゃない」
唯一家族の気配を感じるこの場所に愛着があるのは普通のことだと思う。自分でもよくわからないと言うが、ここはオーウェンの心を強く支えているのだろう。
建物の中を見渡す。
木製の柱や天井は古さを感じるがそれがいい味となって感じられる。
初めてこの銭湯でオーウェンを見たとき、山奥の銭湯には場違いに思える美貌の青年だと感じた。だが古くても手入れの行き届いた空間に居心地のよさを感じて、オーウェンの細やかな気配りや穏やかな雰囲気とがこの場所と繋がった気がしていた。今思えばあれは実家への慈しみが俺にそう感じさせたのかもしれない。
実家への慈しみなんて俺には縁遠い感覚だが、その素朴さは確かに俺を癒し心地いいと思わせていた。
「どうぞ」
そう言ってオーウェンはティーカップをリリズの前に置く。紅茶からのぼる華やかな香りがテーブルに広がり、白く透け感のある磁器のティーカップは花が咲いたような曲線を描く。
「へえ、センスがいいな」
カップだけじゃない。家具は少ないが絨毯や飾られた絵に至るまでリリズにはそれなりに値の張るものだとわかる。それらはここが貴族の住まいだったことをより真実味を持って感じさせた。
「母の趣味です。僕には価値がよくわからないけど、気に入っってもらえたならよかった」
「母親との思い出が残っていてよかったな」
「ええ、本当に。あなたをここに呼べる日がくるなんて夢のようです」
きっとオーウェンは母親をアッシュフォルデ家から引き離したいと考えているはずだ。
母との思い出ごとここを残そうとしているのもそのせいかもしれない。
そんな場所に本当に自分が住んでもいいのだろうか。リリズは自問していた。
リリズにとって非日常の隠れ家だったここは、オーウェンにとっては失われた日常の気配のする場所だ。それを手繰り寄せようと必死にもがいてきたであろう姿に苦しさを感ずにはいられなかった。
ともだちにシェアしよう!

