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第32話 引越し
「ここが貴族の家だって?」
メアリーは露骨に眉をしかめ、壁に掛けられた絵の前にずかずかと歩み寄った。額縁に顔が触れそうなほど近づき、首を傾げてじっと見つめる。
「湯治用の宿泊施設もたくさんありますから、メアリーさんもよかったら滞在していってください」
「とうじぃ?」
聞き慣れない言葉に、メアリーは顔をしかめた。
「遠慮しとく」
あっさり一蹴する。
それからくるりと振り返り、リリズに小声で言った。
「おい、リリズ。ハルメレイなんて聞いたことがないし、騙されてるんじゃないか?」
「メアリー、口を慎め。俺は子どものころから知っている、オーウェンとも遊んでいた」
「ふーん…」
メアリーは腕を組み、もう一度部屋を見回した。
「なら、もう少しまともなところを借りたらどうだ? 金がない訳じゃないだろう?」
「ここがいいんだ。お前は心配しすぎだ」
リリズは内心で苦笑する。
メアリーがこうやって遠慮なく言うのは昔からだが、過保護な親のような態度はくすぐったい。
それでも──
これからのオーウェンとの生活を思うと、胸の奥がわずかに高鳴ってもいた。
さっき運び入れたばかりの家具は、テーブルと椅子、それから簡素な棚がひとつ。
トラックから下ろした荷物は多くはなく、三人で手分けして運べばすぐに部屋の中は整ってしまった。
窓を開ければ、遠くから温泉街特有の硫黄の匂いがほのかに流れ込んでくる。
掃除も一通り終わるころには、床板に差し込む午後の光が少し傾いていた。
リリズは古い木の床に腰を下ろし、ペットボトルの水を開けて一口飲む。
そのまま膝の上に肘をついた。
持つ手がわずかに震えているし、腰も妙に重い。
こんなことは人生で初めてだった。
ジムでどれだけ鍛えても、家具を運び、床を拭き、棚を組み立てる作業はまるで違う筋肉を使うらしい。
――トレーニングよりきついかもしれないな。
そう思いながら顔を上げると、視線の先でメアリーが椅子の背にもたれ腕を組んで立っている。その隣でオーウェンが話しかけているのが見えた。
「メアリーさん、わざわざすいません。仕事用のトラックまで借りてしまって……」
「あんたのためじゃない。リリズのためだ」
「わかってます。でも僕じゃこんなにスムーズにはできなかった」
「だろうな」
ぶっきらぼうな言葉だったが、オーウェンは気にする様子もない。
メアリーは腕を組んだまま、何かを考えるように部屋の中を見回した。
「ーーというか、リリズ、家具だって服だって新しく買うよりお前の実家から持ってくればよかったんじゃないか? おっさんに頼めばよかったのに」
メアリーはケイデのことを “おっさん” と呼ぶ。
デヴロー家にいた頃からの癖だ。
リリズは水のボトルを軽く振りながら、少しだけ視線を落とした。
「ケイデか……それは考えたが、迷惑はかけられない」
「使用人なのに?」
「まあな」
ケイデは俺にとってよき理解者だ。
貴族社会に馴染めず両親に反発するたび、間に入り緩衝の役割を担ってくれた。
だが彼はあくまでデヴロー家の使用人だ。
父から俺の居場所を問い詰められれば、嘘はつけない。
俺はただ、ケイデを煩わせたくないと思った。
メアリーは納得しきれない顔をしたが、それ以上は追及せず、棚の位置を少しずらしながら部屋の配置を整え始めた。
「この棚、窓の横の方がいいな」
「そうですか?」
「光が入るだろ。湿気も溜まりにくい」
そう言って軽く棚を押し、床の上を滑らせる。
オーウェンもすぐに反対側に回り、位置を調整した。
それで部屋はほとんど完成だった。
オーウェンが手の甲で額の汗を拭い、少し笑う。
「汗をかきましたね。銭湯に行きませんか?」
「は?」
ごく自然な提案だったが、メアリーは露骨に顔をしかめる。
「いや、行くだろ普通。ここは銭湯だぞ」
リリズが笑いながら立ち上がる。
「俺はいい、二人で行け」
「ダメだ、ほら行くぞ」
「おいっ」
半ば強引に腕を引くようにしすれば、メアリーはしぶしぶついてきた。
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