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第33話 メアリーの提案
奥の廊下を抜けると、向こうから温かい空気が流れてくるのを感じる。
扉を開けた瞬間、温泉の匂いが一気に広がった。
広い浴場には、石造りの湯船がゆるやかに湯気を上げている。
天井は高く、梁の間に溜まった湯気が淡く白い霧のように漂っていて、小窓から差し込む夕方の光が、湯面を柔らかく照らしていた。
「……へえ」
メアリーが小さく呟いた。
湯を少しずつ身体にかけるオーウェンの動作を見て、メアリーも忠実にその手順を行う。ぞんざいに扱ってるように見えても観察を怠らないのはメアリーらしい。
湯に足を入れると、少し熱い。
だがすぐに身体が慣れ、筋肉の奥まで温かさが広がっていく。
リリズは肩まで湯に沈み、息を吐いた。
メアリーも最初こそ警戒していたが、しばらくすると湯船の縁に肘を置き、肩まで浸かっている。
「……悪くないな」
「でしょう?」
オーウェンは少し嬉しそうだった。
「こんな場所だから、もっとボロいかと思ってた」
「ひどいですね」
三人の間に、湯気の向こうでゆるい沈黙が落ちる。
緩んだ空気に不意にオーウェンが口を開いく。
「メアリーさんは僕をあまりよく思っていないですよね、僕とリリズじゃ釣り合わないから」
「そんなことは俺の知ったこっちゃない」
「そうですか?」
メアリーは湯面を指で軽く弾いた。いつの間にかその頭にはタオルが乗っている。
「俺がイラついてるのはそんなことじゃない。あんたはリリズをわざわざここに連れてきたんだ、何かあったらどうする? 本当にちゃんと考えているのか?」
「何かって……」
メアリーはわざとらしくため息をついた。
「店が休みの日に、俺のところへ来い」
一瞬、湯気の中の空気が止まった。
「どういう意味?」
「メアリー、何を考えてる」
オーウェンが戸惑ったように聞き返し、一連のやり取りを横で聞いていたリリズがすぐに口を挟むが、
メアリーは肩をすくめて見せる。
「あんたは剣が使えるんだろう? 俺が使える剣かどうか確かめてやる」
「確かめるって…?」
「俺が稽古してやると言ったんだ」
オーウェンは驚いた顔をしたが、すぐに目を輝かせた。
「いいの?」
「おい、待て、メアリー…!」
俺が口を挟む間もなくメアリーは続ける。
「俺が教えることができるのは基礎だけだ。だが、どんな技が使えたとしても基礎は大切だ。それと、いちばん大切なことが何かわかるか?」
「大切なこと……体力とか?」
「違う」
湯船の縁に腕を乗せたままメアリーは言う。
「いろいろな奴から学ぶ姿勢だ」
「いろいろな人から?」
「そうだ。稽古以外でも見ろ、聞け、実際に対戦しろ。自分の好きな人にだけじゃない。苦手な人にもだ。教える側にとっても気付きはそれぞれ違うからな」
「なるほど……教官にもいろいろあるってことですね」
「まあ、そんな感じだ」
俺は黙って二人の会話を聞いていた。
メアリーの意図はわかる。
俺は競技では強いかもしれないが、殺傷術は持ち合わせていない。
メアリーはオーウェンに“使える剣”を教えるつもりだ。
だがそれは俺の望むことじゃない。
「メアリー、オーウェンは傭兵でもなんでもない。俺の彼氏だ」
「俺は認めてない」
「お前の許可が必要か?」
湯気の向こうでメアリーがこちらを見る。
そして、ふっと鼻で笑った。
「よく言うな、いつだって言うことを聞かずに男を引き入れては振られて、俺に泣きついてくるのはどこのどいつだ?」
「……う……それは……。オーウェンは……違う……」
消え入りそうな声で、一応の抵抗を試みるリリズ。
「違う? 確かにな。こいつの父親がお前の命を狙っているんだろう? 言っちゃ悪いが、今まででいちばんの地雷野郎なんじゃないか?」
オーウェンの前でもすでに繕う気もないのか、メアリーは言いたい放題だ。
「別にいいだろ、よく人の男にそれだけ口が出せるな」
リリズはやり場のない怒りにメアリーにそっぽを向ける。こんなふうに言い合いになることなんてなかったのに。でもそれは俺の身を案じてのことだとわかっている。
そのやり取りのあと、オーウェンが静かに口を開いた。
「リリズ、僕はメアリーさんに教わりたい。剣を教わるのは父以外初めてですから」
「…それに、僕がリリズを守れるなら問題ないでしょう?」とメアリーにも屈託なく返す。
俺が選手に向いていると褒めたとき、オーウェンは謙遜していた。
だが今は違う。どこか嬉しそうに目を輝かせている。
その顔を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
これから二人の時間が始まると思った高揚感から、オーウェンの気持ちが稽古や他のことに向くのをよしとしない感情がリリズの中にはあった。
自分でも呆れるほど、些細な感情だった。
だが同時に、湯気の向こうで言葉を交わす二人を見ていると、奇妙な安心感もあった。
メアリーはぶっきらぼうだが、その実、誠実で面倒見もいい。
オーウェンもそれを理解して、まっすぐに向き合っている。
少なくとも、メアリーにとってもいままでとは違う何かを感じたのかもしれない。そうでなければ剣を教えたりしないだろう。この二人の間に妙な遠慮や緊張はなさそうだった。
俺は小さく息を吐く。
オーウェンが嬉しそうにしているのを見ると悪い気はしなかった。
自分の人生が剣に救われたように、オーウェンにとっても何かを見つけるきっかけになればいいと思った。
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