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第34話 二人の時間

朝は温泉街特有の音で始まる。 湯を張る水の流れる音。 桶の触れ合う乾いた響き。 まだ柔らかい朝の空気の中で、それらがゆっくりと混ざり合っていた。 窓の外には、朝靄のように薄く立つ湯気。 早く起きた客たちの話し声が、遠くからくぐもって聞こえる。 「もう起きますか?」 キッチンの方からオーウェンの声がした。 リリズは布団の中で目だけ開ける。 まだ完全に覚めきらない意識のまま、天井をぼんやり見つめる。 「……早いな」 声は少しかすれていた。 「店の準備がありますから」 そう言いながら、香ばしい香りが静かな朝の部屋に満ちていた。 リリズは布団を押しのけ、ゆっくりと体を起こす。 窓の外では、温泉の湯気と日差しとともに人の営みの気配がする。 「今日はジムですか?」 スープを運びながらオーウェンが聞く。 「ああ」 リリズは短く答え、軽く首を回す。 寝起きの身体の固さを確かめるように、肩をゆっくり動かした。 「取材は?」 「午後にひとつ」 「忙しいですね」 「普通だろ」 淡々とした会話。 けれど、それがどこか心地よかった。 オーウェンのが身につけた子供用みたいなピンクのエプロンには見覚えがある。あれは俺の部屋で朝食を作った時にもしていた。ケイデに借りたのかと思っていたが、私物だったのかと思うと、たまたまではなく初めから俺を慰めたくていろいろとしてくれたのだと今になって気づく。 リリズは立ち上がり、軽く身体を伸ばす。 床に足をつけると、板張りの冷たい感触が伝わってきた。 腕を伸ばし、肩を回し、腰を落とす。 いつもの癖のようなストレッチをしながら、キッチンの方へ視線を向ける。 オーウェンが用意した朝食はどれも美味しそうだ。見た目はだが。 「パンと卵とスープくらいです」 皿をテーブルに置きながら、オーウェンが言った。 リリズは黙って椅子を引き、腰を下ろす。 まだ湯気の立つスープを持ち上げ、ゆっくりと一口、口に含んだ。 少しだけ眉が動く。 「前よりマシだな」 オーウェンが振り向く。 「前はそんなに酷かったですか?」 手に持った布巾で指を拭きながら、少しだけ身を乗り出す。 「味がしなかった」 「……忘れてください」 リリズは肩をすくめた。 「忘れてはやらない……嬉しかったからな」 スープをもう一口飲みながら、何でもないことのように言う。 オーウェンは少しだけ笑った。 けれどその口元には、どこか照れたような色が混じっていた。 それからリリズはトレーニングへ向かい、オーウェンは銭湯の仕事に出る。 そんな日々が、静かに続いた。 昼間、リリズはいつものようにジムで体を動かす。 身体を追い込み、汗を流す。 シャワーを浴び、スポンサーとの取材を終え、夕方には温泉街へ戻ってくる。 陽が傾いたころの温泉街は昼とは違う顔を見せていた。 銭湯の前には湯気が立ち、客の笑い声が漏れている。 暖簾がゆっくり揺れ、湿った空気が路地に流れていた。 裏口から入ると、帳場にいたオーウェンが顔を上げる。 「おかえりなさい」 今日は受付で帳簿をめくっていたオーウェンの手が止まる。 「今帰った」 リリズは軽く肩の力を抜きながら答える。 「今日はどうでした?」 「記者が余計なことばかり聞く」 帳場の前に立ちながら、リリズは腕を組む。 「例えば?」 オーウェンは少し身を乗り出した。 「恋人のこととか」 オーウェンは少し困ったように笑う。 視線を帳簿に落としながら、指先でページの端をなぞる。 「なんて答えたんですか?」 「秘密だと言った」 「それはずるいですね」 リリズは肩をすくめる。 「嘘はついてない」 そんなやり取りをしていると、呼ぶ声がする。 「番台ー!」 オーウェンはすぐに姿勢を正した。 「すみません、行きます」 軽く頭を下げると、すぐに仕事へ戻っていった。 リリズは少しだけその背中を見てから、湯気の匂いのする廊下を引き返して帰路についた。 夜には銭湯も静かになる。 客の声が消え、湯を抜く音だけが遠くで響く。 リリズは椅子に座り、剣を膝に乗せて手入れをしていた。 油を布に含ませ刃をゆっくり拭く。 金属の光が灯りの下で静かに揺れた。 視線は時折、カウンターテーブルを挟んだ横のキッチンへ向く。 そこではオーウェンが夕食を作っていた。 包丁を握る指は細くしなやかで、けれど動きはどこかぎこちない。 あんな細指で、本当に剣が使えるのか。 メアリーとの稽古の話がふと頭をよぎる。 鍋の蓋を開ければ、湯気がふわりと立ち上る。 オーウェンは鍋をかき混ぜながら言った。 「そんなに見られると緊張します」 「見ていない」 リリズは刃の角度を確かめるフリをしながら答える。 「見てます」 「気のせいだ」 オーウェンは笑う。 「今日の料理、少し自信あります」 「ほう」 「味見しますか?」 リリズは首を振る。 「完成したものだけでいい」 「そう言うと思いました」 オーウェンはかしこまったフリをする。 わざとらしく背筋を伸ばし、皿を並べていく。 食卓に料理が並ぶ。 派手ではないけれど、温かい匂いがした。 湯気がゆっくりと立ち上り、部屋の空気に溶けていく。向かい合って食べるというのはこんな感じかと思う。テーブルが狭すぎて、どれがどちらの皿かわからなくなりそうだとリリズは思った。 食器が触れ合う小さな音が、静かな部屋に落ちた。 「どうです?」 「前よりマシだ」 「またそれですか」 褒めたつもりもないが、オーウェンは少し嬉しそうだった。 夜も更け、部屋の灯りが落ちる。 窓の外では、温泉街の明かりが少しずつ消えていく。 ベッドに入ると、空気が変わる。昼間とは違う静けさだった。 オーウェンの腕が、ゆっくりとリリズの腰に触れる。 まだ完成していない薄い筋肉。若い身体の熱を感じながらリリズはその動きを黙って見ていた。 「……そんな顔で見ないでください」 オーウェンが小さく言う。 「どんな顔だ」 「ギラついた顔」 リリズはわずかに笑った。 「間違っているか?」 「僕は獲物じゃありません」 「そうか?」 オーウェンは少し近づく。 吐息が触れる距離まで。 普段の無邪気なオーウェンとは違う、鋭く這うような視線に男を感じる。 「僕も、狙ってます」 リリズの胸の奥がわずかに熱くなる。 退屈なはずの日常。 静かな夜。 けれどその中で、二人の距離は少しずつ変わっていく。 興奮と弛緩。その両方に満たされた日々に、リリズは密かに満足していた。

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