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第39話 ある女性
リリズは深くため息をついた。
少し風に当たろうと、グラスを手に持ったままテラスに出る。
自分はいったい何をしにここへ来たのか。そんなことを思いながら後ろに流してセットした前髪を無造作に崩した。
遠く視線の先にある市壁外の街並みは、星のごとく灯りが散りばめられていて、幼い頃から感じていた外の世界への憧憬を思い起こさせた。
街では貴族の世界を煌びやかなものと言う奴もいる。それでも感情の色が見えてしまうリリズには、人の営みがつくり出すこの街の色の方が煌びやかで美しく見えていた。
「…兄様」
ふいに、遠くから囁くような女性の声が聞こえてリリズは振り返る。
見下ろした先、オーウェンの側に金髪の女性がぴったりと寄り添っている。声の主であろう女性はその背広の裾を摘むようにして、何かを訴えているように見える。
少し間を置いて、オーウェンがその場で招待客と思しき人に頭を下げると、女性を連れて部屋の出口の方へと歩み出した。
胸騒ぎがする
でも…どうすればいい?
扉を開け女性が先に出るのを見て、咄嗟に後を追った。
オーウェン達は別の部屋に移動したようだった。早足に廊下に出て、二人が入ったかもしれない部屋を探す。
(ーーどこだ……?)
『兄様』
確かにあの女性はオーウェンをそう呼んでいた。たがオーウェンから兄弟がいる話は聞いたことがない。
廊下を奥へと進み、そしてわずかに扉が開いた部屋の前に立つ。
灯りはほとんどなく、暗がりの中で女性と向かい合っているオーウェンの金の髪が際立って見えた。
リリズはゆっくりと確かめるように、視界を暗闇に慣らしていく。
手をとる女。
そして角度を変えたとき、その女性がオーウェンの手の傷口から滴る血を舐めているのだとわかった。
その異様な光景を見た瞬間、自分でも背筋が泡立つのわたかった。
次の瞬間には俺は部屋の扉を乱暴に開けて中に入り、オーウェンの腕を掴んでいた。
「ーーーリリズ!!?」
「何をしていた?」
声が、震える。
驚いた顔のオーウェンと俺の視線がぶつかる。
息を詰まらせるリリズの前で、女がオーウェンの血のついた手に舌を這わせるようにゆっくりと唇を離す。光沢のある金髪が揺れ、扇情的な仕草とともに不気味な微笑が浮かぶ。
リリズは凍りついた。
「……っ!! オーウェン、なぜこんなことをさせてる!?」
オーウェンは答えず、ただ静かに女性の肩を押してから手を引いた。
「……もう、いいでしょ、シェルフィ……」
その声はどこか疲れていて、諦めにも似ていた。
女は名残惜しそうにオーウェンの腕を離した。
「説明しろ、これはいったい何なんだ?」
「仕事ですリリズ。まさかあなたに見られてしまうなんて」
「仕事? お前は銭湯で働いているだろ」
オーウェンの瞳はどこか冷たく、いつもの優しい雰囲気はない。
その視線にリリズの胸がざわつく。
どんなに見慣れた顔でも、この目は知らない気がした。
知りたくない事実を知ってしまう怖さと、恋人が突然得体のしれないものに見える恐怖と。
「僕は、アッシュフォルデの人間です。母さんだってそうです。父の命令には逆らえない」
「本気で言ってるのか?」
母親の再婚相手であるラザロ・ノアール・アッシュフォルデ。奴はオーウェン達一家を陥れた張本人だ。
彼を父と呼び、自分もアッシュフォルデの人間だというオーウェンの表情から真意を読み取ることはできない。
「それが事実なんです」
“感情の色“が見えない恋人。
それでも今まで不安だったことなんてない。
オーウェン自身が心を閉ざそうとするなら、その存在は計り知れないものになってしまうのだと、初めて思い知らされる気分だった。
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