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第一章 高等部 10話 寮での夜

寮の夜は、校舎より音が近い。 廊下を歩く足音も、洗面所の水音も、隣の部屋で誰かが笑う声も、壁一枚を通して聞こえてくる。 昼間の文化祭準備の騒がしさとは違って、夜の音は妙に湿っていた。 政輝は、涼の部屋のベッドに背中を預けていた。 寮長用の個室は、他の生徒の部屋より少しだけ広い。とはいえ、机とベッドと棚を置けば、それほど余裕があるわけではない。 涼の机には資料がきれいに積まれ、ペン立ての中身まで向きが揃っている。 その横に、政輝が適当に置いた英語の本が一冊だけ浮いていた。 洗面台の端には、歯ブラシが二本ある。 涼のものと、政輝のもの。 棚の下には、政輝が置きっぱなしにしている替えのシャツもある。 涼は最初、邪魔だと言ったが、政輝が持って帰る気配を見せなかったので、いつの間にかそこが定位置になった。 政輝はスマホの画面を見ていたが、内容はほとんど頭に入っていない。 遅ぇな。 そう思って、時計を見る。 涼が点呼と消灯前の確認で遅くなるのはいつものことだった。 寮長だから。 文化祭前だから。 教師に捕まるから。 理由はいくつでもある。 それでも、今日は少し遅い。 昼間の階段のことが、まだ残っていた。 女性教員。 備品倉庫。 肩に乗った手。 涼の顔色。 手すりを握る指の白さ。 政輝は小さく息を吐いた。 待っている自覚はある。 ただ、それもいつもの日常だった。 廊下の足音が一つ近づいてくる。 軽い足音。 途中で一度止まり、誰かに短く声をかける。柔らかい声だった。 寮生に向ける時の、いつもの光出涼の声。 少しして、鍵が回る音がした。 扉が開く。 「遅ぇ」 政輝が言うと、涼は部屋へ入りながら目だけを向けた。 「寮長だからな」 「へぇ、立派だな」 「その顔で言うな」 「どの顔だよ」 「褒める気がない顔」 涼はそう言って、扉を閉めた。 部屋の空気が少し変わる。 外の廊下の音が遠くなって、涼の動く音だけが近くなる。 鍵束を机に置く音。 資料の端を揃える音。 制服の袖が擦れる音。 政輝は涼を見た。 顔はいつも通りだった。 白い肌に静かな目元。 薄い唇。 相変わらず整ったその顔が、外で崩れた痕跡はほとんどない。 けれど、首元に指が触れるのが一瞬だけ遅かった。 涼はネクタイを外そうとしていた。 指先が結び目に触れる。 その瞬間、肩の奥に、昼間の感触が戻った。 重い手。 香水。 近い息。 倉庫の白い蛍光灯。 何もされていない。 事故だった。 先生は悪くない。 分かっている。 分かっているのに、身体の方が先に反応した。 喉が詰まるものでも、息が乱れるのでもなかった。 ただ、胸の奥が熱を持つ。 首筋や鎖骨のあたりから、じわりと嫌な熱が広がっていく。 涼はネクタイを握ったまま、動きを止めた。 気持ち悪い。 最初に浮かんだのは、それだった。 嫌気がさしていた。 頭の中は凪いでいるのに、熱くなる自分の身体を持て余す。 涼は舌打ちをした。 俺は自身の体でさえ、自分でコントロールできない。 熱い。 自分の身体なのに、自分のものではなくなっていく感覚。 体の奥が疼く感覚。 感覚だけが、この場を制していく、嫌な予感。

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