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第1話 日なたの小箱
渋谷の大通りから一本入った路地に、雑貨と珈琲「日なたの小箱」はあった。
表通りの人の流れは昼も夜も絶えないのに、その路地だけは少し音がやわらかい。
ビルの隙間に細く空が見えて、雨の日にはアスファルトの匂いが先に店まで届く。
看板は木製で、白い文字は派手ではない。
知らない人なら、通り過ぎてから少し戻ってくるくらいの、小さな店だった。
三浦直人(みうら・なおと)は、カウンターの内側で豆を挽いていた。
ミルの音が、低く、ゆっくり響く。
雨粒が窓を叩く音と混ざって、店の中を少し眠たくする。
開店して一年。
最初は、客が一人も来ない時間に、棚の埃ばかり拭いていた日もあった。
けれど今は、昼過ぎになると近くの会社員がコーヒーを買いに来るし、夕方には近所の常連が雑貨棚をのぞいていく。
大成功、とまではいかない。
でも、ちゃんと続いている。
直人は挽き終えた豆をドリッパーに移し、湯を落とした。
ふわりと豆がふくらんで、香りが立つ。
その瞬間だけは、何回やっても少し嬉しい。
「店長、顔、ゆるんでます」
横から声が飛んできた。
アルバイトの村瀬が、トレーを拭きながらにやにやしている。
大学生で、週に三日入ってくれている。
仕事は早いし、愛想もいいし、余計なところだけ妙に鋭い。
直人は、何でもない顔を作った。
「コーヒーがうまく淹れられそうだから」
「嘘ですね」
「早い」
「今日は朝からずっとです。豆量ってる時も、カップ並べてる時も、レジの釣り銭確認してる時も、ずっと嬉しそうでした」
「よく見てるな」
「店長が分かりやすすぎるんです」
村瀬は、棚の奥をちらっと見た。
そこには、淡いベージュのマグカップが二つ並んでいる。
片方は直人が普段使っているもの。
もう片方は、まだ誰も使っていない。
エプロンも二枚ある。
休憩用のクッションも二つ。
小さな私物入れも、片方だけ空のまま置いてある。
直人は視線に気づいて、咳払いした。
「備品だよ」
「備品って、同じマグを二つ買うんですか」
「割れた時用」
「エプロンも?」
「汚れた時用」
「休憩クッションも?」
「腰が痛い時用」
「腰、二つあるんですか?」
「村瀬」
「はい」
村瀬は素直に返事をしたくせに、笑いを隠せていなかった。
直人はドリップを続けた。
湯を細く落とす。
香りに集中する。
余計なことを考えない。
考えないようにしているのに、意識は勝手に棚の奥へ行く。
二つ目のマグ。
二つ目のエプロン。
まだ誰も使っていない、もう一人分の場所。
直人は二十代半ばになった。
成人して、会社員も経験して、自分で店を開いて、税金や仕入れや家賃に毎月うめきながらも、どうにか暮らしている。
子供の頃に思っていた大人とはだいぶ違う。
もっと何でも分かって、もっと迷わず、もっと格好よく生きられるものだと思っていた。
実際は、毎朝、牛乳の在庫と天気予報と客足に左右されている。
それでも、この店だけは自分で選んだ。
雑貨と珈琲の小さな店。
「日なたの小箱」。
名前を決める時、直人は迷った。
おしゃれすぎる名前は似合わない。
英語も、フランス語も、悪くはないけれど、自分の店には少し遠い気がした。
小さな箱みたいな店で、天気のいい日は窓辺に日が差す。
雨の日でも、誰かがほっとできる場所にしたかった。
そして、いつか、もう一人がここに立った時にも、変に背伸びしなくていい名前がよかった。
高森俊介(たかもり・しゅんすけ)
その名前を頭の中で呼んだだけで、直人は危うく湯を注ぎすぎそうになった。
「店長、今、また笑いました」
「笑ってない」
「いや、もう無理です。恋してる人の顔です」
「してない」
「じゃあ、明日会いに行く幼馴染って何者ですか」
直人は、できあがったコーヒーをカップに注いだ。
常連の女性客に出すブレンドだ。
村瀬に余計な返事をすると長くなる。
そう思っていたのに、口が勝手に動いた。
「……昔からの知り合い」
「幼馴染ですね」
「そう」
「好きな人ですね」
「違う」
「違う顔じゃないです」
「村瀬、ケーキの在庫見て」
「逃げた」
「業務指示」
「はいはい」
村瀬は笑いながら奥へ向かった。
直人はカウンターに両手をついて、少しだけ息を吐いた。
好きな人。
その言葉は、今さらすぎて、逆に胸に刺さらなかった。
俊介を好きだと気づいたのは、もうずいぶん昔だ。
気づいてからも長かった。
言えないまま進学で離れて、東京に出て、俊介はヨーロッパへ留学した。
それでも連絡は続いていた。
短い近況、写真、たまに通話。
何年も、何年も。
そして明日、俊介が帰ってくる。
ヨーロッパでの留学を終えて、実家のある朝川町へ戻る。
直人もそれに合わせて帰ることにした。
朝川町は、直人にとっても子供の頃を過ごした大事な場所だ。
俊介は、直人がまだIT企業で働いていると思っている。
会社を辞めたことも、この店を始めたことも、まだ言っていない。
何度も言おうとした。
メッセージの入力欄に「実は」と打っては消した。
写真を送ろうとして、いや、直接見せたいと思い直した。
驚かせたい。
できれば、笑ってほしい。
そして、言いたい。
一緒にこの店をやらないか、と。
子供の頃、俊介は言った。
「だったら俺も一緒にやる。いつでも食えるだろ」
駄菓子屋の前で、ソーダアイスをかじりながら、何でもないことみたいに。
その何でもない一言を、直人はずっと握ってきた。
もちろん、子供の頃の約束だ。
俊介は忘れているかもしれない。
大人になれば、やりたいことも、暮らす場所も、好きなものも変わる。
直人だって変わった。
会社員になり、辞め、店を始めた。
俊介もきっと、直人の知らない場所で、直人の知らない大人になっている。
それでも。
直人は棚の奥にある二つ目のエプロンを見た。
俊介がここに立つところを、何度も想像した。
浅黒くて、よく笑って、乱暴で、手が大きくて、何でもできる俊介。
子供の頃の俊介をそのまま大人にしたような姿で、店のドアを開ける。
カウンターの中に立って、コーヒーの淹れ方に文句を言う。
雑貨の並べ方を勝手に変える。
村瀬にすぐ懐かれる。
常連客にもすぐ覚えられる。
「お前、こんな店ほんとに作ったのかよ」
そう言って、あの頃みたいに笑う。
直人は、その顔を想像するだけで、胸の奥が勝手に温かくなった。
「店長、ケーキ残り三つです」
村瀬が奥から戻ってきた。
「了解。雨だし、今日はそれで足りるかな」
「明日、お休みですよね」
「うん。店は村瀬と森さんにお願いしてる」
「任されました。で、店長は朝川町でしたっけ」
「そう。朝川駅まで行く」
「遠いんですか」
「電車でそこそこ。山の方」
「いいですね。小旅行じゃないですか」
「そんな浮かれたものじゃない」
「浮かれてますよ」
「……久しぶりだから」
直人がそう言うと、村瀬は少しだけ表情をやわらげた。
「何年ぶりですか」
「会うのは、ちゃんとは五年ぶりくらいかな。通話はしてたけど」
「五年。長いですね」
「長いな」
言ってから、直人は自分でも少し驚いた。
長い。
本当に長かった。
写真では見ている。
声も聞いている。
けれど、同じ場所に立って、同じ空気を吸って、目の前で笑う俊介を見るのは、五年ぶりだ。
五年もあれば、人は変わる。
分かっている。
分かっているのに、直人の中の俊介は、今もひばり公園の滑り台の下で笑っている。
子供の頃、直人は高い滑り台の上から降りられなくなったことがある。
ひばり公園の滑り台は、今思えばたいした高さではなかった。
でも、当時の直人には山みたいに高かった。
上まで登ったはいいものの、足がすくんで動けなくなった。
下から俊介が見上げていた。
「直人、早く滑れよ」
「無理」
「何が無理なんだよ」
「高い」
「高くねぇよ」
「高い」
「じゃあ、落ちてこい」
俊介はそう言って、両手を広げた。
「俺が受け止める」
直人は泣きそうになりながら、俊介を見た。
浅黒い顔。
傷だらけの膝。
得意そうな笑顔。絶対に自分を落とさないと言い切る目。
直人は、滑ったというより、ほとんど落ちた。
俊介は本当に受け止めた。
二人で勢いよく転がって、砂場の端に突っ込んだ。俊介は背中を打ったくせに、声を上げて笑った。
「ほらな。受け止めただろ」
直人は泣きながら笑った。
あの時の感覚を、今も覚えている。
怖かった。
でも、俊介の方へ落ちるのは、少しだけ気持ちよかった。
「店長?」
村瀬に呼ばれて、直人は我に返った。
「すごい顔してました」
「どんな」
「思い出に沈んでる顔」
「言い方」
「幼馴染さんとの思い出ですか」
直人は返事に迷った。
滑り台の話を、人にするのは少し恥ずかしい。
子供の頃の、何でもない話だ。
けれど、直人にとっては何でもなくなかった。
「昔、滑り台で助けてもらった」
「かわいい」
「かわいい話じゃない」
「店長が?」
「俺が」
「かわいいじゃないですか」
「村瀬」
「はい。働きます」
村瀬は肩をすくめて、空いたテーブルを拭きに行った。
直人は、窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
路地を歩く人たちの傘が、黒や紺や透明の丸になって流れていく。
ガラスに店内の光が映って、その奥に自分の顔がぼんやり重なった。
大人になった顔だと思う。
でも、俊介を待っている時の自分は、あの滑り台の上にいた頃とあまり変わっていない気がした。
怖い。
楽しみ。
落ちたらどうなるか分からない。
でも、俊介が下にいるなら、落ちてもいい。
直人は、カウンター下の引き出しを開けた。
中には明日の切符が入っている。
朝川駅までの乗車券。
何度も確認したせいで、端が少しだけ曲がっていた。
「店長、それ、今日何回目ですか」
いつの間にか戻ってきた村瀬が、呆れた顔で言った。
「三回目くらい」
「七回目です」
「数えなくていい」
「だって、面白いので」
「面白くない」
「幼馴染さん、そんなにすごい人なんですか」
直人は切符を引き出しに戻し、少し考えた。
俊介を一言で説明するのは難しい。
幼馴染。
ガキ大将。
初恋。
夢の原点。
ずっと待っていた人。
でも、そんな言葉を村瀬に言えるわけがない。
だから直人は、いちばん簡単な言葉を選んだ。
「昔から、何でもできるやつだった」
「へえ」
「俺ができないこと、だいたい先にやってた。川に入るのも、木に登るのも、知らない道を進むのも」
「店長は後ろから?」
「うん。だいたい引っ張られてた」
「今も引っ張ってほしいんですか」
直人は、一瞬言葉に詰まった。
村瀬の問いは軽かった。
からかい半分で、深い意味はなかったと思う。
それでも、直人はすぐに答えられなかった。
引っ張ってほしい。
そうかもしれない。
でも今は、それだけではない。
直人はもう、子供ではない。
店を持っている。
自分で選んだ場所がある。
俊介にただ連れていってもらうのではなく、自分の作った場所へ、俊介を呼びたい。
「今度は、俺の店に来てほしい」
直人がそう言うと、村瀬は目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「いいですね」
「何が」
「今の、すごく店長っぽいです」
「そう?」
「はい。すごく好きなんだなって感じです」
直人は、また否定しようとした。
けれど、できなかった。
雨の音が、少し強くなった。
客席では、常連の女性が雑誌を読みながらコーヒーを飲んでいる。
奥の二人席では、会社員がノートパソコンを開いている。
窓辺の棚には、小さなガラス瓶、手編みのコースター、木のスプーン、古い切手を入れた額が並んでいる。
ここは、直人が作った場所だ。
そして、この場所には、もう一人分の空きがある。
直人はそれを、一年間ずっと埋めずに待っていた。
重いだろうか。
そう思わないわけではない。
俊介が笑ってくれなかったらどうする。
共同経営なんて無理だと言われたらどうする。
そもそも俊介に、もう大事な人がいたら。
考え出すと、胸の中に冷たいものが落ちる。
でも、直人はすぐに首を振った。
明日会う。
まずは会う。
今の俊介を見る。
ちゃんと話す。
それからだ。
****
閉店時間が近づき、客が一人、また一人と帰っていった。
村瀬もレジ締めを手伝い、最後に明日の確認をしてから帰った。
「店長、明日、ちゃんと言ってくださいね」
「何を」
「好きです、じゃなくてもいいですけど」
「村瀬」
「共同経営の話です」
「ああ」
「でも、好きですも言えるなら言ってきてください」
「帰れ」
「はい。いってらっしゃい」
村瀬は笑って、傘を開いて雨の中へ出ていった。
店内に一人になると、急に音が減った。
直人は椅子を上げ、床を掃き、カウンターを拭いた。
明日の仕込みを書いたメモを残し、レジ横の小さな花瓶の水を替える。
雨の日は、花が少し長持ちする気がする。
最後に、棚の奥のマグを二つ取った。
片方は自分の分。
もう片方は、俊介の分。
まだ一度も使っていないマグの内側を、直人は布でそっと拭いた。
汚れているわけではない。
明日使うわけでもない。
それなのに、磨かずにはいられなかった。
「……びっくりするだろうな」
声に出すと、急に現実味が増した。
俊介はどんな顔をするだろう。
「お前、会社辞めたのかよ」と呆れるかもしれない。
「無茶すんな」と眉を寄せるかもしれない。
それから、たぶん笑う。
笑ってくれたらいい。
あの滑り台の下で、自信満々に両手を広げていた時みたいに。
直人は二つのマグを並べた。
窓の外では、雨がまだ降っている。
けれど店の中は、ほのかに明るい。
木の棚も、白い壁も、カウンターの上の小さなランプも、明日のために静かに息をしているようだった。
直人は店の灯りを落とす前に、もう一度だけ振り返った。
雑貨と珈琲「日なたの小箱」。
自分が作った小さな場所。
俊介を待つためだけに作ったわけではない。
けれど、俊介が来ることを、ずっと夢見ていた場所。
「明日、会える」
そう呟いた瞬間、胸がどうしようもなく熱くなった。
直人は慌てて口元を押さえた。
一人なのに、照れる。
いい年をした大人が、幼馴染に会うだけでこんなに浮かれている。
情けない。
けれど、止められない。
明日、朝川町へ行く。
朝川駅に降りる。
本町通りを歩く。
もしかしたら、駄菓子屋のまるやも見るかもしれない。
ひばり公園の滑り台も、まだ残っているかもしれない。
そして、俊介に会う。
直人は引き出しから切符を取り出し、財布にしまった。
今度は確認ではなく、出発の準備として。
雨の音を背中に聞きながら、直人は店の灯りを消した。
暗くなった店内で、二つ並んだマグだけが、窓から入る街灯の光を少しだけ受けていた。
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