6 / 6

第6話 幸せの滑り台

雑貨と珈琲「日なたの小箱」のカウンターに、高森俊介が立っている。 その光景に、三浦直人はまだ慣れなかった。 朝の開店前。 渋谷の路地には、通勤の人の足音と、遠くの車の音が混ざっている。 表通りから一本入ったこの店は、朝いちばんの光が窓辺の棚に落ちる。 小さなガラス瓶、木のスプーン、手編みのコースター、古い切手を入れた額。 それらの間に、俊介が選んだ小さな陶器の鳥が増えていた。 俊介は、カウンターの内側でエプロンの紐を結んでいる。 直人が用意していた、もう一枚のエプロン。 何度も想像した景色だった。 けれど、実物は想像よりずっと強い。 俊介は黒いシャツに、店の淡いベージュのエプロンを合わせていた。 低い声も、肩の線も昔の名残を残しているのに、指先の動きや笑い方は柔らかく、店の空気に自然に溶け込んでいる。 客に見せる笑顔は穏やかで、カップを扱う手つきは落ち着いている。 はっきり言って、似合いすぎていた。 直人は、開店準備の手を止めかけた。 「直人」 俊介が、こちらを見ずに言う。 「手、止まってる」 「止まってない」 「豆、量る途中で固まってる」 「確認してただけ」 「俺を?」 「豆を」 「豆、俺の顔についてんのか」 俊介が顔を上げた。 その笑顔は、客に見せるものとは少し違う。 口元は穏やかなのに、目の奥に意地悪さがある。 直人だけが知っている、猫被りの下の俊介だった。 直人は、慌てて計量スプーンを持ち直した。 「朝から面倒くさい」 「見てたのはお前だろ」 「見てない」 「見てた」 「店に立つ俊介が珍しいから」 「もう三か月経ったぞ」 俊介がそう言って、棚に並べたマグの位置を軽く直した。 三か月。 あの雨の夜から、三か月が経っていた。 朝川町から東京へ戻った後、二人は本当に動き出した。 手続き、住む場所、店の役割、仕入れ、シフト、金のこと。 夢だけでは店は回らない。 直人は分かっていたつもりだったが、俊介が加わることで、分かることも増えた。 俊介は、思ったよりずっと細かかった。 豆の在庫も見る。 雑貨の仕入れ先も調べる。 店の導線もすぐ覚える。 留学先でカフェを手伝っていた話は本当だったらしく、皿の下げ方も、客との距離の取り方も、自然だった。 ただし、直人が想像していた「昔の俊介がそのまま店に立つ」姿とは、だいぶ違った。 俊介は、客の前では驚くほど柔らかかった。 「お待たせしました」 「熱いので、お気をつけください」 「この小皿、手作りなんです。よかったら手に取って見てください」 低い声でそう言われると、客はだいたい少し見惚れる。 馴染みの女性客は、初日に言った。 「店長さん、すごい人連れてきたわね」 直人は、コーヒーを淹れながら曖昧に笑うしかなかった。 店長さん。 すごい人。 そのすごい人が、閉店後には直人を後ろから抱きしめて、耳元で低く笑う。 外と中の差が激しすぎる。 本当に、心臓に悪い。 「おはようございます」 入口のベルが鳴り、村瀬が入ってきた。 大学生のアルバイトは、俊介を見るなり、今日も一瞬だけ動きを止めた。 もう三か月経つのに、まだ慣れていないらしい。 「おはよう、村瀬」 俊介が柔らかく笑う。 「今日、雨降りそうだから、窓辺の雑貨少し内側に寄せてくれる?」 「はい。分かりました」 村瀬は素直に答えた。 直人は横目で見た。 あの村瀬が、素直。 俊介が店に来てから、村瀬はずっとこの調子だった。 仕事は今まで通りできる。 ただ、俊介に頼まれると、なぜか背筋が伸びる。 村瀬は窓辺の棚へ行きながら、小声で直人に言った。 「店長」 「何」 「俊介さん、今日もすごいですね」 「何が」 「存在が」 「適当」 「だって、言葉にしにくいんです。優しいのに、なんか強いし、綺麗なのに男前だし」 直人は、豆を量る手を一瞬止めた。 分かる。 分かりすぎる。 「……本人に言うなよ」 「言いませんよ。店長が不機嫌になるので」 「ならない」 「なります」 「ならない」 カウンターの向こうで、俊介が笑った。 「直人、声出てる」 直人は固まった。 村瀬が口元を押さえて笑う。 「店長、顔赤いです」 「仕事して」 「はい」 村瀬は楽しそうに棚へ向かった。 俊介は、カップを拭きながら直人を見ていた。 客用の顔ではない。 完全に、直人をからかう顔だった。 「不機嫌になるんだ?」 「ならない」 「俺のこと褒められると?」 「ならない」 「じゃあ、褒められていいんだ」 「……仕事して」 「照れた」 「してない」 俊介が喉の奥で笑う。 直人は、その笑い声だけで負けそうになった。 **** 開店後、店はゆっくりと忙しくなった。 昼前には、近くの会社員がテイクアウトのコーヒーを買いに来る。 昼過ぎには、二人組の女性が雑貨棚を眺める。 夕方には、常連の男性がいつもの席で読書をする。 俊介は、驚くほど店に馴染んでいた。 カウンターでコーヒーを出し、棚の商品を説明し、客の好みを覚える。 初めて来た客には少し距離を取って柔らかく、馴染みの客には冗談を一つ混ぜる。 その塩梅がうまい。 直人は、それを見るたびに胸が温かくなる。 まるやの前で、俊介が言った。 だったら俺も一緒にやる。 子供の頃の何でもない言葉が、大人になって現実になっている。 俊介が隣にいる。 直人が作った店のカウンターに、俊介が立っている。 それだけで、胸がいっぱいになる日がある。 一方で、油断すると別の意味で胸がいっぱいになる。 「直人」 客足が少し落ちた夕方、俊介がカウンターの下で直人の手首を軽くつかんだ。 直人は、危うくカップを落としかけた。 「何」 「砂糖、こっち切れてる」 「あ、うん」 「驚きすぎ」 「急に触るから」 「手首くらいで?」 声が低い。 客には聞こえない音量だった。 直人は、俊介を睨む。 「店」 「知ってる」 「仕事中」 「だから手首だけ」 「そういう問題じゃない」 俊介は、客用の柔らかい笑みを浮かべたまま、直人の手首を一瞬だけ親指で撫でた。 直人の背中がぞくりとする。 最低だ。 この男、外では完全に美しい共同経営者の顔をしているくせに、直人にだけこういうことをする。 「俊介」 「何」 「あとで覚えてろ」 言った瞬間、俊介の目が細くなった。 しまった。 それは、直人が言っていい言葉ではなかった。 俊介は低く言う。 「それ、俺の台詞だろ」 直人は何も言えなくなった。 俊介は、砂糖の容器を持って、何事もなかったように客席へ向かった。 直人はカウンターの内側で、しばらく固まった。 村瀬が後ろを通りながら、ぼそっと言った。 「店長、顔」 「仕事して」 「はい」 **** 夕方の忙しさが過ぎ、夜の閉店時間になった。 最後の客を見送り、村瀬も帰る。 森さんは今日は休みだった。 店内には、直人と俊介だけが残る。 入口の鍵をかける音が、直人の背中にやけに響いた。 閉店後の「日なたの小箱」は、昼間より少し広く感じる。 椅子を上げ、床を掃き、レジを締める。 窓辺の棚に手を伸ばすと、昼に俊介がずらした陶器の鳥が少しだけ光を受けていた。 直人がそれを元の位置へ戻そうとした時、背後から腕が回った。 「……俊介」 「ん」 俊介は、直人の肩に顎を乗せる。 さっきまで店で柔らかく笑っていた人と同じとは思えない。 声が低い。腕が強い。 直人の腰を引き寄せる力に、遠慮がない。 「まだ片付け途中」 「知ってる」 「知っててやるな」 「片付けたくない」 「子供か」 「直人が足りない」 その言い方がずるかった。 直人は、持っていた陶器の鳥をそっと棚に戻した。 「朝から一緒にいただろ」 「店では足りない」 「仕事してたからな」 「だから足りない」 俊介が、直人の首筋に唇を寄せた。 触れるか触れないかの距離。 直人の肩が跳ねる。 「待て」 「待ってる」 「どこが」 「まだ触ってない」 「ほぼ触ってる」 「ほぼならいいだろ」 「よくない」 俊介が笑う。 低くて、楽しそうで、ひどく男っぽい声。 直人は、この声に弱い。 外では、俊介は美しい共同経営者だ。 上品で、落ち着いていて、客から見惚れられる存在だ。 けれど二人きりになると、声の温度が変わる。 直人だけを見て、直人だけを追い詰める。 直人は、それが好きでたまらない。 腹が立つほど、好きだった。 「俊介」 「何」 「レジ締め」 「した」 「床」 「掃いた」 「椅子」 「上げた」 「……早い」 「直人を捕まえるために急いだ」 「言い方」 「事実」 直人は、顔が熱くなるのを感じた。 俊介は、直人の腰を抱いたまま言う。 「奥、行くぞ」 「命令?」 「お願いの方がいい?」 「いや」 「じゃあ命令でいいだろ」 「よくない」 「嫌か」 直人は言葉に詰まった。 俊介の腕の中で、逃げるふりをするのは簡単だ。 けれど本当に嫌なら、俊介は止まる。 それを直人は知っている。 知っているから、余計に弱い。 「……嫌じゃない」 俊介の腕に、少し力がこもる。 「いい子」 直人は、目を閉じた。 負けた。 **** 閉店後、店の奥の部屋は二人の生活の場所になる。 大きな部屋ではない。 小さなキッチン、低いテーブル、二人分の食器、洗濯物を干す場所、並んだ寝具。 生活感はかなりある。 最初は、店の奥で暮らすなんて落ち着かないかと思った。 けれど今は、店と生活がつながっていることが、むしろ心地いい。 朝は二人で仕込みをする。 昼は店に立つ。 夜は、二人で戸締まりをして、奥へ戻る。 直人が子供の頃から夢見ていた「俊介と店をやる生活」は、想像より現実的で、想像よりずっと甘かった。 甘いだけではない。 俊介は細かいし、朝は意外と機嫌が悪い日もある。 直人が仕入れの計算を後回しにすると容赦なく怒る。 村瀬の前では柔らかいのに、直人の前では「後でやるは今やれ」と低い声で詰めてくる。 それなのに、夜になると直人を抱きしめて、耳元で「今日もよくやった」と言う。 それがいちばん困る。 叱られるのも、褒められるのも、俊介だと全部効いてしまう。 その夜も、俊介は奥の部屋で直人を抱きしめた。 直接的なことをしなくても、距離が近いだけで熱が移る。 俊介の手が背中を撫でる。 直人は最初こそ文句を言うが、最後には俊介の肩に額を預けてしまう。 「直人」 「何」 「今日、村瀬に褒められてたな」 「俊介がな」 「直人、嫌そうだった」 「嫌じゃない」 「じゃあ嬉しかった?」 「それも違う」 「じゃあ何」 直人は黙った。 俊介が楽しそうに笑う。 「妬いた?」 「違う」 「即答」 「違うから」 「俺が客に見られるのも嫌?」 「仕事だろ」 「答えになってねぇ」 直人は俊介の胸を押した。 「俊介こそ、客の前であの顔やめろ」 「あの顔?」 「柔らかく笑うやつ」 「接客だろ」 「分かってる」 「でも嫌?」 「……少し」 俊介は、一瞬黙った。 それから、直人を強く抱き寄せた。 「馬鹿」 「なんで」 「そういうこと言うから、閉店後まで待つのがきつくなる」 直人の顔が熱くなる。 「俊介」 「俺、店ではちゃんとする」 「うん」 「でも、直人に見せる俺は別」 俊介にそう言い切られると、直人の顔は熱くなった。 けれど、目を逸らしたいとは思わなかった。 心臓はうるさい。 逃げたくなるくらい恥ずかしい。 それでも、俊介の低い声が胸の奥に落ちるたび、直人は少しずつ安心してしまう。 外では誰にでも美しい俊介。 でも、直人だけが、猫被りの下の俊介を知っている。 それは、とんでもなく贅沢なことだった。 **** 季節が少し進んだ頃、俊介の妊娠が分かった。 その日は、店を早めに閉めた。 理由は、雨でも、仕入れでも、体調不良でもない。 俊介が朝から妙に静かで、直人が何度聞いても「大丈夫」としか言わなかったからだ。 直人は昼過ぎには限界を迎えた。 「俊介、今日は閉める」 「なんで」 「大丈夫って顔じゃない」 「大丈夫だ」 「俺にはそう見えない」 俊介は、少しだけ困った顔をした。 その顔を見て、直人は胸がざわついた。 俊介は、強い。 何でもない顔をするのがうまい。 客の前では、なおさら崩れない。 けれど直人には、分かる時がある。 本当に少しだけ、目元が柔らかすぎる時。 言葉が短くなる時。 腕を組んだまま、腹のあたりを無意識に庇う時。 直人はその小さな違和感を拾った。 **** 閉店後、奥の部屋で俊介はしばらく黙っていた。 そして、テーブルの上に小さな箱を置いた。 直人は、それを見て息を止めた。 「……俊介」 「まだ病院でちゃんと確認する。だから、確定みたいに騒ぐなよ」 俊介はそう言ったが、声が少しだけ震えていた。 直人は箱を見た。 それから、俊介を見た。 胸の奥が、急に熱くなる。 嬉しさと同時に、別の夜の記憶まで戻ってきた。 子供を持つことを、二人でちゃんと話した夜。 俊介はいつものように強く笑おうとして、でも最後の最後で目を逸らした。 「……子供が欲しいなら、俺がそっちになるしかねぇだろ」 そう言ったくせに、直人が近づくと、俊介は耳まで赤くしていた。 あの俊介が。 いつも直人を追い詰める側の俊介が。 その夜だけは、照れ隠しも強がりも下手になって、直人に自分を任せようとしていた。 直人は、今さらその時の顔を思い出して、喉の奥が熱くなった。 「何だよ」 俊介が低く言う。 「いや……あの時の俊介、すごく恥ずかしそうだったなって」 「言うな」 「言いたい」 「調子乗んな」 俊介は顔をしかめたが、腹に置いた手だけはやわらかかった。 「ったく、恥ずかしいもんだな。任せる側ってのは」 直人は少し笑った。 「俺だって恥ずかしかった」 「なんでお前が」 「俊介を大事にしたかったから」 俊介は一瞬黙った。 それから、照れ隠しみたいに直人の額を指で弾いた。 「そういうのを、さらっと言うな」 「俊介が言わせた」 「俺のせいかよ」 「うん」 「生意気」 俊介はそう言って、視線を逸らした。 直人は、少しだけ調子に乗った。 「でも、あの時の俊介、ちょっと可愛かった」 「直人」 「はい」 声が低い。 直人は背筋を伸ばした。 俊介は、真っ赤になった耳を隠すように顔を背けたまま言う。 「その感想、あとで後悔させる」 「妊娠してるかもしれない人が言う台詞じゃない」 「口は元気だ」 「そこだけ元気なのも困る」 「お前、最近言い返すようになったな」 「俊介のせいだよ」 俊介は、少し呆れたように笑った。 それから、箱の横に置いた自分の手を見下ろす。 「でも」 「うん」 「悪くなかった」 直人は顔を上げた。 俊介は腹に手を置いたまま、少しだけ目を逸らしている。 「たまには、な」 直人の胸が、じんわり熱くなった。 「俺は……できれば、普段は俊介がいい」 「知ってる」 「知ってるのかよ」 「顔に出る」 二人で笑った。 その笑いの中に、あの夜の恥ずかしさも、今ここにある小さな未来も、同じくらい大事に混ざっていた。 直人は、俊介の前に膝をついた。 「触っていい?」 俊介は一瞬、きょとんとした。 それから、少し照れたように目を逸らした。 「腹?」 「うん」 「まだ何も分かんねぇだろ」 「でも」 「……いい」 直人は、そっと俊介の腹に手を当てた。 まだ何かが分かるはずもない。 それでも、手の下にある体温が、いつもと違う意味を持った気がした。 俊介が、直人の手に自分の手を重ねる。 その顔は、直人が初めて見るものだった。 強がっている。 照れている。 少し怖がっている。 でも、その奥に、どうしようもなく優しいものがある。 直人の胸が温かくなった。 「俊介」 「何」 「嬉しい」 俊介は、眉を寄せた。 「早い」 「早いけど、嬉しい」 「だから、まだ」 「うん。でも嬉しい」 俊介は、黙った。 しばらくして、低く言う。 「俺も」 直人は、泣きそうになった。 俊介はすぐに直人の顔を見た。 「泣くな」 「泣いてない」 「泣きそう」 「これはいいだろ」 「いいけど、泣くなら抱きしめる」 「じゃあ泣く」 「調子乗んな」 その返しがいつもの俊介で、直人は笑ってしまった。 俊介も笑った。 笑いながら、腹に触れた直人の手をもう一度握った。 **** その後、病院で確認して、本当に妊娠していると分かった。 そこからの俊介は、やっぱり俊介だった。 客の前では、今まで通り柔らかく笑う。 無理はしない。 村瀬と森さんにも少しずつ事情を話し、シフトを調整する。 常連にも必要な範囲で伝える。 誰も大げさに騒がず、けれど店の空気は少しだけ優しくなった。 村瀬は、泣いた。 「泣くなよ」 俊介が困ったように言うと、村瀬はハンカチで目元を押さえながら答えた。 「無理です。店長たち、幸せそうすぎて」 直人は、何と言えばいいか分からなくなった。 俊介は、村瀬に柔らかく笑った。 「ありがとな」 その顔を見て、直人はまた少し妬きそうになった。 妊娠してからも、俊介の中の強さは変わらなかった。 ただ、身体を大事にするようになった。 無理に重いものを持たない。 長く立ちすぎない。 閉店後の片付けも、直人が多めにやる。 そのたびに俊介は不満そうな顔をする。 「俺、動ける」 「分かってる。でも今日は座ってて」 「命令?」 「お願い」 「ずるいな」 「俊介がよく使う手だろ」 俊介は悔しそうに眉を寄せた。 「覚えてろよ」 「何を」 「元気になったら、まとめて返す」 「怖いな」 「怖がってる顔じゃねぇぞ」 直人は、笑いながら俊介に温かい飲み物を渡した。 **** 夜は、少しだけ変わった。 閉店後、奥の部屋に戻ると、直人はまず俊介の様子を見るようになった。 顔色、歩き方、手の置き場、息の深さ。 俊介はそのたびに「見すぎ」と言ったが、直人はやめられなかった。 その夜も、直人は布団を整えながら俊介を見ていた。 「直人」 「何」 「また見てる」 「見てる」 「開き直るな」 「だって、気になる」 俊介は少し呆れたように笑った。 「俺、そんなに弱って見えるか」 「弱ってるとは思ってない。でも、大事にしたい」 その言葉に、俊介が少しだけ黙った。 それから、低く言う。 「じゃあ、大事にしろ」 直人は、顔を上げた。 俊介が、こちらを見ていた。 客の前の柔らかい顔ではない。 けれど、雨の夜みたいな荒い熱とも違う。 もっと静かで、でもまっすぐ直人を欲しがる目だった。 直人の胸が鳴る。 「俊介」 「何」 「無理は」 「してねぇよ」 俊介はゆっくり近づいて、直人の手を取った。 「発情期じゃなくても、お前が欲しい」 直人は息を止めた。 「……そういうの、急に言うな」 「急じゃねぇ。ずっと思ってる」 「俊介」 「腹の子がいるからって、お前に触りたくなくなるわけじゃねぇだろ」 俊介の手が、直人の指を絡め取る。 「俺は、お前が好きだから触りたい。お前がいるから落ち着く。お前を抱いてると、ここがちゃんとあったかい」 俊介は、自分の腹に直人の手を導いた。 直人の指先が、そっと触れる。 まだ大きくふくらんではいない。 けれど、そこには確かに未来がある。 直人は、喉が熱くなった。 「でも、俺、怖い」 「何が」 「俊介のお腹に負担かけるのが」 俊介は、少し笑った。 「病院でも、無理しなきゃ普通に過ごしていいって言われただろ」 「でも」 「だから、ゆっくりでいい」 「うん」 俊介が、直人の手を引いた。 「直人」 「何」 「来い」 命令みたいな声だった。 でも、直人はそのまま頷かなかった。 俊介の手を握り返して、そっと布団の方へ促す。 「今日は、俊介が寝ていて」 俊介の眉が上がった。 「俺が?」 「うん。動かなくていい。俺が頑張る」 言ってから、直人は自分の顔が熱くなるのを感じた。 俊介が、低く笑う。 「直人にできるか?」 その一言で、直人の胸が跳ねた。 寝ていてと言ったのは自分なのに、結局、煽られている。 俊介は横になっているだけなのに、目だけで直人を捕まえてくる。 「……できる」 「震えてるぞ」 「俊介がそういう言い方するからだろ」 「じゃあ、やめるか」 「やめない」 俊介は少しだけ目を細めた。 「なら、俺を大事にしろ」 「する」 直人は、俊介の腹に負担がかからないように、何度も手の置き場を確かめた。 俊介はそのたびに「気にしすぎ」と笑ったが、直人が本気で怖がっていると分かると、黙って手を重ねてくれた。 「ここならいい」 「うん」 「きつかったら言う。だから、変に怖がるな」 「分かった」 直人が慎重に動こうとすると、俊介がふと眉を寄せた。 「お前こそ、あまり無理しなくていいぞ」 その声が思ったより優しくて、直人は胸が詰まった。 普段なら、俊介の腕に捕まえられて、煽られて、逃げるふりをして、最後には全部任せてしまう。 でも今は違う。 俊介のお腹には、二人の未来がいる。 直人は、俊介の手を握った。 「ううん。こんな時ぐらい、俺が俊介と赤ちゃんのために頑張る」 俊介が、息を止めた。 それから、少しだけ照れたように目を逸らす。 「……そういうの、急に言うな」 「俊介が言わせた」 「また俺のせいかよ」 「うん」 俊介は呆れたように笑った。 でも、その手は直人の指を離さなかった。 「直人」 「何」 「俺を見てろ」 直人は息を吸った。 俊介は横になっているのに、やっぱり俊介だった。 強くて、意地悪で、直人を逃がさない。 でも、その腹の奥には、二人の小さな未来がいる。 直人は怖さごと、俊介の手を握った。 「見てる」 「よし」 俊介が笑う。 その笑顔に背中を押されるように、直人はゆっくり身を沈め、俊介の熱を受け入れた。 激しさではなく、確かめ合うような夜だった。 俊介の呼吸を聞き、腹に負担がかからないように気をつけながら、直人は自分から動いた。 怖さはある。 でも、それ以上に、俊介に求められていることが嬉しかった。 発情期だからではない。 妊娠したから終わるものでもない。 俊介は、直人を好きだから欲しがっている。 直人も、俊介とお腹の子を大事にしたいから、今だけは自分が支えたかった。 俊介の手が、直人の腰ではなく、背中に回る。 急かすためではなく、受け止めるための手だった。 「直人」 「うん」 「無理すんな」 「してない」 「嘘つけ。顔、必死」 「見るな」 「見る」 「俊介」 「頑張ってる顔、可愛い」 「今それ言う?」 「今だから言う」 直人は、泣きそうになりながら笑った。 この子は、こんな愛の中で育っていくのだと思った。 強い腕。 低い声。 照れ隠し。 笑い声。 互いを気遣う手。 好きだと何度も言わなくても、触れ方で伝わるもの。 直人は、俊介の肩に額を寄せた。 「……俊介、俺もう」 「いいぜ、俺もだ」 「……一緒に」 俊介は、深く目を閉じた。 それから、直人の髪に唇を寄せる。 「幸せ……だな」 「……うん」 短い返事だった。 でも、それだけで十分だった。 **** また別の夜、二人は並んで座っていた。 俊介はクッションに背を預け、直人はその隣で帳簿を開いている。 数字は見ているが、頭には入ってこない。 俊介が腹に手を置いている姿が、視界の端に入るたび、胸がじんわり温かくなる。 「直人」 「何」 「帳簿、同じ行ずっと見てる」 「見てる」 「読めてねぇだろ」 「読めてる」 「じゃあ今、何月分?」 直人は黙った。 俊介が笑う。 「ほらな」 「俊介が悪い」 「俺?」 「気になる」 俊介は少しだけ目を丸くした。 それから、ふっと柔らかい顔になる。 「触るか?」 直人は、ペンを置いた。 「いいの」 「いい」 直人は、俊介の隣に寄った。 腹にそっと手を当てる。 まだ大きな変化はない。けれど、そこに未来があると思うだけで、手つきが慎重になる。 俊介が、そんな直人を見て笑った。 「割れ物じゃねぇぞ」 「分かってる」 「分かってない手つき」 「怖いんだよ」 「何が」 「幸せすぎて」 言ってから、直人は少し恥ずかしくなった。 俊介は黙った。 それから、直人の手に自分の手を重ねた。 「なら、俺が受け止める」 直人は、顔を上げた。 その言葉は、いつも唐突に戻ってくる。 ひばり公園の滑り台。 下で両手を広げていた俊介。 落ちてこい。 俺が受け止める。 直人は、少し笑った。 「それ、何回使うんだよ」 「効くうちは何回でも」 「ずるい」 「効いてる?」 「効いてる」 俊介は満足そうに笑った。 **** 後日、二人は閉店後に少しだけ外へ出た。 店から歩いて数分のところに、小さな公園がある。 名前も特にないような、住宅街の端の公園だ。 ブランコと、低い滑り台と、ベンチが一つ。 朝川町のひばり公園とは違う。 けれど、滑り台を見た瞬間、直人の足は自然に止まった。 俊介も気づいたらしい。 「滑り台」 「うん」 夜の公園は静かだった。 街灯の下で、滑り台の影が地面に伸びている。 子供用の小さなものだ。 大人が滑るには、やはり少し狭い。 直人は、滑り台を見て笑った。 「俺、俊介の方にずっと落ちたかったのかも」 俊介は隣で、少しだけ黙った。 それから言う。 「今さら?」 「今さらだな」 「結構前から落ちてたぞ、お前」 「言い方」 「事実だろ」 直人は反論しようとして、やめた。 事実だった。 子供の頃から、直人はずっと俊介の方へ落ちていた。 迷子になった道で。 犬の前で。 川で。 滑り台で。 朝川神社の裏で。 山路の暖簾の前で。 雨のホテルの部屋で。 そして今も。 俊介は、美しい雄女になった。 店の共同経営者になった。 直人の恋人になった。 お腹に未来を抱えた人になった。 それでも、直人を受け止めるところは何も変わっていない。 直人は、俊介の手を取った。 俊介の手は温かかった。 「俊介」 「何」 「ちゃんと、幸せだな」 俊介は少し笑った。 「ちゃんとって何だよ」 「分かんない。でも、ちゃんと幸せ」 「適当だな」 「俊介に言われたくない」 俊介は、直人の手を握り返した。 その力は強い。 昔から知っている力だった。 「直人」 「うん」 「これからも落ちてこい」 直人は、胸が熱くなる。 「何回でも?」 「何回でも」 「受け止める?」 「当たり前だろ」 俊介は、少しだけ得意そうに笑った。 子供の頃と同じ顔だった。 でも、今の俊介の顔でもあった。 直人は、その両方を見て、ゆっくり息を吐いた。 「じゃあ、落ちる」 「よし」 「でも、俊介もたまには落ちてこいよ」 俊介が眉を上げる。 「俺が?」 「うん」 直人は、俊介の腹に視線を落とした。 「一人で受け止める側ばっかりやってたら、疲れるだろ」 俊介は、少し驚いた顔をした。 それから、照れくさそうに目を逸らす。 「……生意気」 「だろ」 「あとで覚えてろ」 「それ、最近よく言うな」 「お前が余計なこと言うからだろ」 直人は笑った。 俊介も、諦めたように笑った。 二人は手を繋いだまま、公園を出た。 **** 帰り道、渋谷の路地には、夜の店の光がいくつも落ちていた。 表通りはまだにぎやかで、人の声も車の音もある。 けれど、一本入れば「日なたの小箱」の看板が見える。 木製の小さな看板。 その奥に、二人の店がある。 カウンターには、二つのマグ。 壁には、明日の仕込みメモ。 棚には、俊介が選んだ陶器の鳥。 奥の部屋には、二人分の生活と、これから増えていく小さな未来がある。 直人は、店の前で立ち止まった。 俊介が隣で聞く。 「何」 「いや」 「また見てる」 「店を」 「俺じゃなくて?」 「店」 「つまんねぇ」 俊介が少し不満そうに言うので、直人は笑った。 それから、繋いだ手に少し力を込める。 「俊介も見てる」 俊介は満足そうに目を細めた。 「ならいい」 直人は、鍵を取り出した。 店の扉を開ける。 中は暗い。 けれど、窓から入る街灯の光で、二つ並んだマグが少しだけ見えた。 あの頃、直人が一人で磨いていたマグ。 今は、ちゃんと二人で使っている。 直人は、俊介を振り返った。 「帰ろう」 俊介は、当たり前の顔で頷く。 「おう」 その返事が、あまりにも昔の俊介で、あまりにも今の俊介だった。 直人は笑った。 幸せの滑り台の下には、いつも俊介がいる。 でもこれからは、直人もその下に立てる気がした。 落ちてきた俊介を、たまには自分が受け止める。 そういう幸せも、きっとある。 扉が閉まる。 店の中に、二人分の足音が響いた。 ** 幸せの滑り台 〜綺麗になった幼馴染は、俺を抱くために帰ってきた〜  (完)

ともだちにシェアしよう!