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第5話 猫被りの終わる夜

部屋の中に、雨の音が満ちていた。 窓の外では、細い雨粒がガラスを叩いている。 朝川町の夜は静かで、車の音も人の声もほとんど聞こえない。 そのせいで、雨だけが近かった。 天井の薄い明かりと、壁際の小さなランプ。 ビジネスホテルの部屋は狭く、ベッドと机と、奥のユニットバスだけでほとんど埋まっている。 直人は、濡れた袖を握ったまま立っていた。 目の前で、俊介がタオルで髪を拭いている。 濡れた黒い髪が、頬にかかっている。 山路で見た時の俊介は、整っていて、落ち着いていて、直人の知らない美しい大人だった。 けれど今は違う。 雨に濡れて、コートを脱いで、ストールも外して、白いシャツの襟元が少し乱れている。 きれいなのに、荒い。 柔らかいのに、強い。 直人は、見てはいけないと思うほど、目が離せなかった。 俊介がこちらを見る。 「直人」 名前を呼ばれるだけで、直人の胸が跳ねた。 「風呂、先に入れ。冷える」 「あ、いや、俊介が先でいい」 「お前の部屋だろ」 「だから、客から」 「そういうのいいから」 俊介はタオルを肩にかけ、少し眉を寄せた。 その顔は、まだ優しい。 けれど、さっきまでの柔らかい上品さとは少し違う。 子供の頃、川で直人が転びかけた時や、犬の前で固まった時に向けてきた、少し乱暴な世話焼きの顔だった。 直人の胸が苦しくなる。 嬉しい。 でも、まだ怖い。 俊介は変わった。 けれど、変わっていないところもある。 その両方が一度に来て、直人はどこに立てばいいのか分からなくなる。 「……タオル、もう一枚出す」 直人は逃げるように鞄を探った。 予備のタオルを取り出す。 ついでに、濡れた上着を脱いでハンガーにかけた。 シャツの袖口も濡れている。 冷たさが肌に貼りついて、体温を奪っていく。 だが、それよりも俊介が同じ部屋にいることの方が落ち着かなかった。 背後で、俊介がコートをハンガーにかける音がした。 直人は振り返らない。 振り返ったら、また見てしまう。 俊介は、今の俊介は、きれいだ。 その事実に、直人はまだ慣れない。 「直人」 俊介がもう一度呼ぶ。 直人は観念して振り返った。 「何」 「さっきの話、途中だった」 胸が詰まる。 ひばり公園の滑り台。 雨。 涙。 自分だけが昔の約束と夢を握っていたようで苦しい、と言ってしまった。 俊介の今を嫌っているわけではない、とも言った。 綺麗だと思った、とも。 思い出すだけで、顔が熱くなる。 「……忘れて」 「忘れるわけねぇだろ」 声が低かった。 直人は目を伏せた。 「重かっただろ」 「重い?」 「昔の約束とか、店の夢とか、そういうのをずっと覚えてて。俊介はもう違う場所で大人になってるのに、俺だけ勝手に」 「直人」 俊介の声が、少し強くなる。 直人は言葉を止めた。 俊介は、タオルを首にかけたまま、ゆっくり近づいてきた。 「俺が忘れてると思ったのか」 直人は、すぐには答えられなかった。 「……分からなかった」 「分からなかった?」 「だって、俊介、全然違ったから」 言ってから、直人は慌てて続けた。 「違うって、悪い意味じゃなくて。ほんとに違う。嫌とかじゃない。山路で会った時、すごく綺麗で、びっくりして、でも目が離せなくて、知らない人みたいなのに俊介で、それで」 「落ち着け」 「落ち着いてる」 「どこがだよ」 俊介の口元が少し動いた。 笑いそうになっている。 直人は、そこで少しだけ息ができた。 俊介は笑った後、すぐ真面目な顔に戻った。 「俺が雄女になったの、そんなに驚いたか」 直人の胸が、また跳ねた。 その言葉が部屋の中に落ちる。 雄女。 妊娠できる身体になる男性。 成人後に、自分の意思で選べる身体の変化。 俊介は山路で、軽くそう話していた。 留学中に自分で選んだ、と。 店主にも、町の人にも、昔からの知り合いにはある程度知られているらしかった。 直人はその時、驚きすぎて、うまく聞き返せなかった。 俊介はそれを、隠していなかった。 けれど直人には、まだ言葉が追いついていない。 「驚いた」 直人は正直に言った。 俊介は視線を逸らさない。 直人は、続けた。 「でも、嫌じゃない。ほんとに。今の俊介も、きれいだと思った。見ちゃうくらいには」 最後の言葉は、小さくなった。 俊介の眉がわずかに上がる。 「へえ」 「その顔やめて」 「どの顔」 「今、絶対からかう顔した」 「してねぇよ」 「してた」 「見てたんだろ」 直人は言い返せなくなった。 俊介は、少しだけ笑った。 その笑いは柔らかいのに、目の奥に昔の意地悪さがある。 直人は、その目を見て胸がざわついた。 「でも」 俊介が言った。 「嫌じゃないなら、なんでそんなに泣いた」 直人は唇を噛んだ。 そこを聞かれると、逃げられない。 「……俺だけが、昔に残ってた気がした」 俊介は黙って聞いている。 直人は、濡れた袖を握りしめた。 「俊介が雄女になったのが嫌なんじゃない。綺麗になったのも、変わったのも、嫌じゃない。むしろ、すごく……困るくらい、惹かれた」 言葉にすると、顔が熱い。 でも、ここでぼかすと、また同じところに戻る気がした。 「でも、俺はずっと、昔の俊介と店をやることを考えてた。まるやの前で言ってくれた、一緒にやるって言葉を、ずっと勝手に大事にしてた。ひばり公園の滑り台で受け止めてくれたことも、朝川神社で一番大事にするって言ってくれたことも」 直人は、息を吸った。 「それを、俺だけが覚えてたらどうしようって思った」 俊介の表情が、わずかに変わった。 直人は、鞄の方を見た。 「本当は今日、言うつもりだった」 「何を」 「店のこと」 俊介の目が、直人をまっすぐ捉えた。 直人は鞄を開けた。 手が少し震える。 中から、小さなショップカードを取り出す。白い紙に、茶色の文字。 雑貨と珈琲「日なたの小箱」。 直人はそれを両手で持ち、俊介へ差し出した。 「俺、会社辞めた」 俊介は、カードと直人の顔を交互に見た。 「店、始めた。東京で。小さい店だけど、開店して一年経って、やっと少し落ち着いてきた。雑貨と珈琲の店」 俊介は、カードを受け取った。 指先が触れる。 直人の手が、少し震えた。 俊介は、カードの文字をじっと見た。 「日なたの小箱」 低い声で店名を読む。 それだけで、直人の胸がいっぱいになる。 「俊介を驚かせたかった。だから、メッセージでは言わなかった。直接見せて、できれば、言いたくて」 「何を」 俊介の声が低い。 直人は逃げずに言った。 「一緒にやってほしい」 俊介が顔を上げた。 直人は、胸の奥を全部開けるような気持ちで続けた。 「子供の頃の約束を、そのまま押し付けたいわけじゃない。俊介には俊介のやりたいことがあるだろうし、帰国したばかりだし、いきなり言われても困ると思う。でも、俺はずっと、俊介が隣にいる店を考えてた。エプロンも、マグも、もう一つ用意してる」 最後の方は、ほとんど声が消えた。 自分で言っていて、恥ずかしすぎた。 マグまで用意している。 エプロンもある。 重い。 かなり重い。 直人は、俊介の反応を見るのが怖くて、視線を落とした。 沈黙が落ちる。 雨の音だけが続く。 少しして、俊介が息を吐いた。 「直人」 「うん」 「顔上げろ」 命令みたいだった。 直人は、反射的に顔を上げた。 俊介は、ショップカードを片手に持ったまま、直人を見ていた。 目が、違う。 さっきまでの柔らかさが消えている。 美しい顔のまま、昔のガキ大将みたいな、強い目をしている。 直人の胸が跳ねた。 俊介は低く言った。 「やる」 直人は、理解するまで少し時間がかかった。 「……え」 「やるって言った」 「いや、そんなすぐ」 「何年待たせたと思ってんだよ」 「待たせたって」 俊介はショップカードを見て、また直人を見た。 「お前、店やりたいって言ってただろ。俺も一緒にやるって言った。忘れてねぇよ」 直人の喉が詰まる。 「でも、子供の頃の」 「子供の頃の約束でも、俺が言ったことだろ」 俊介は、少し苛立ったように髪をかき上げた。 濡れた髪が、指に絡む。 その仕草は、山路で見た上品なものではなかった。 荒い。 昔の俊介だ。 直人は、目を逸らせなかった。 俊介はさらに近づいた。 「俺が雄女になった理由、まだ言ってなかったな」 直人は、息を止めた。 「留学先で、いろんな店を見た。カフェも、雑貨屋も、小さい店も、古い店も。そういう場所見るたび、お前のこと思い出した」 「俺?」 「お前、昔からそういうの好きだっただろ。小さい棚とか、変な瓶とか、手作りのコースターとか。まるやの棚まで宝物みたいに見てた」 直人は、驚いて俊介を見た。 俊介は、少し照れくさそうに眉を寄せた。 「俺、荒っぽいだけじゃ、お前の店の隣に立てねぇと思った」 直人の胸が、静かに崩れる。 俊介は言葉を選ぶように続けた。 「お前の好きなものの隣に立っても、浮かない自分になりたかった。お前が綺麗だと思うものの中に、俺も入れるようになりたかった」 「俊介」 「雄女になるって決めたのは、俺だ。誰かに言われたわけじゃない。お前に合わせただけでもない。俺が、そうなりたいと思った」 俊介は、直人をまっすぐ見る。 「でも、一番でかかったのは、お前の隣に立つ未来を捨てたくなかったからだ」 直人は、言葉が出なかった。 さっきまでの苦しさが、形を変えて胸に戻ってくる。 自分だけが昔の夢を握っていたわけではなかった。 俊介も、覚えていた。 俊介も、考えていた。 自分の知らない遠い場所で、俊介は俊介なりに、直人の夢の隣へ来ようとしていた。 「俺、知らなかった」 「言ってねぇからな」 「なんで言わなかったんだよ」 「驚かせたかった」 直人は、思わず笑いそうになった。 それは、自分と同じだった。 直人も、カフェのことを俊介に隠していた。驚かせたかったから。直接見せたかったから。俊介が笑う顔を見たかったから。 俊介も、同じだった。 「……馬鹿じゃん」 直人が言うと、俊介は眉を上げた。 「お前もな」 二人は、少しだけ笑った。 その笑いで、張り詰めていたものが緩む。 けれど、すぐに俊介の表情が変わった。 「ただ」 声が低くなる。 直人は、息を止める。 俊介は、タオルを首から外し、机の上に置いた。 「俺、ずっと猫被ってた」 「猫?」 「お前に会うまで、今の俺を見てほしくて、綺麗なとこだけ見せようとしてた」 俊介は、自嘲するように笑った。 「山路でも、公園でも、ずっと抑えてた。優しくしようとか、落ち着いて見せようとか、変わった俺でも大丈夫だって思わせようとか」 直人は、俊介を見た。 「でも、無理」 俊介の目が、ぎらりと光る。 その瞬間、部屋の空気が変わった。 「もう猫被りしてられっか」 低い声だった。 直人の背筋がぞくりとする。 俊介が、一歩近づく。 直人は下がろうとして、ベッドの端に足が当たった。 俊介が笑った。 昔のように、強引で、意地悪で、自信があって、少しも逃がす気のない笑い方。 「俺、中身は変わってねぇよ」 直人の喉が鳴る。 「直人を見たら、触りたい。泣かせたい。困らせたい。俺の方だけ見てろって思う」 「俊介」 「綺麗になったからって、欲が薄くなったわけじゃねぇ。むしろ増えた」 直人は、言い返せなかった。 けれど、胸の奥に引っかかっていた言葉が、そこでどうしても顔を出した。 「でも、俊介は……雄女に、なったんだろ」 俊介の目が、少し細くなる。 「それが?」 「だから、その……俺、少し分からなくなって」 「何を」 直人は視線を落とした。 言葉にするのが恥ずかしい。 でも、ここで飲み込んだら、また勝手に怖がってしまう。 「俊介がどうしたいのか、分からなくなった」 俊介は黙っている。 直人は、熱い顔のまま続けた。 「雄女になったら、そういう役目も変わるのかと思った。俊介が……抱かれる方になるのかと、少しだけ」 言った瞬間、直人は死にたくなった。 何を聞いているのか分からない。 再会したばかりの幼馴染に、ホテルの部屋で、濡れたまま、こんなことを聞いている。 けれど俊介は、怒らなかった。 低く笑った。 「何勝手に俺をネコにしてんだよ」 直人の肩が跳ねた。 その言葉は、妙に俊介らしかった。 雑で、強くて、恥ずかしさを一気に殴ってくる。 俊介は一歩近づき、直人の腕を掴んだ。 「雄女になったからって、そこは変わんねぇよ」 声が低い。 昔のガキ大将みたいな、逃がす気のない声だった。 「俺は、お前を抱くために帰ってきた」 直人は、息を詰めた。 言葉が直接すぎる。 なのに、嫌じゃない。 むしろ、胸の奥が熱くなる。 「……決めつけるなよ」 「違うのか」 俊介の指に、少しだけ力がこもる。 痛くはない。 でも、逃げられない。 直人は、唇を噛んだ。 「違わない」 俊介の目が、満足そうに細くなった。 「なら、俺に任せろ」 直人の胸が大きく跳ねる。 命令されると弱い。 俊介にそう言い切られると、身体のどこかが安心してしまう。 昔からそうだった。 手を引かれて、追い詰められて、怖くなったところで、最後には受け止められる。 直人は、その順番に弱い。 俊介は、直人の腕を掴んだまま、急には近づかなかった。 強い目なのに、その奥に慎重さがある。 「直人」 「何」 「泣かせたいけど、さっきみたいな泣き方は違う」 直人は、息を止めた。 「嫌なら言え。困ってるだけなら待つ。怖いならやめる」 俊介の手の力が、少し緩む。 その瞬間、直人は、胸の奥が熱くなった。 俊介はドSだ。 昔から強引で、勝手で、直人をからかって、追い詰めて、困らせるのが好きだった。 でも、傷つけるためではない。 直人が本当に嫌がるところまでは踏み込まない。 子供の頃もそうだった。 滑り台の下で両手を広げていた時も、犬の前に立っていた時も、川で手を引いていた時も。 俊介は、いつも直人を怖がらせるようなことを言いながら、最後は受け止めてくれた。 直人は、俊介の服を掴んだ。 濡れたシャツの生地が、指の下で冷たい。 「嫌じゃない」 俊介の目が細くなる。 「ほんとか」 「うん」 「流されてるだけなら止めるぞ」 「流されてない」 「直人」 名前を呼ぶ声が、甘くない。 確認する声だった。 直人は、俊介の目を見た。 「俺、俊介がいい」 言った瞬間、恥ずかしさで死ぬかと思った。 けれど、言えた。 俊介の表情が、一瞬だけ崩れる。 嬉しそうで、苦しそうで、少しだけ泣きそうな顔。 それからすぐに、昔の意地悪な笑みに変わる。 「言ったな」 直人の胸が跳ねる。 「言った」 「後で撤回しても遅ぇぞ」 「しない」 「ほんとに?」 「しないって」 「直人」 「何」 俊介は、直人の頬に触れた。 濡れて冷たい指先。 でも、その下から熱が広がる。 「キスしていいか」 直人は、一瞬だけ目を伏せた。 それから、自分から少し背伸びした。 「聞くなよ」 「聞くだろ」 「聞かれると、恥ずかしい」 「じゃあ恥ずかしがれ」 「性格悪い」 「知ってるだろ」 直人が言い返す前に、俊介の唇が重なった。 息が止まる。 最初は、思っていたより優しかった。 濡れた髪の匂い。 雨の匂い。 俊介の体温。 直人は、目を閉じる。 五年分の距離が、唇の近さで一気に消える。 子供の頃の約束も、山路で言えなかった言葉も、滑り台の前でこぼれた涙も、全部そこへ流れ込んでくる。 俊介が少し離れる。 「直人」 呼ばれて、直人は目を開けた。 俊介の目が、近い。 綺麗だ。 でも、それだけではない。 昔よりずっと雄っぽい目をしている。 「もう一回」 直人が言うと、俊介は低く笑った。 「煽るなよ」 「煽ってない」 「今の顔でそれ言うの、だいぶ煽ってる」 「顔は知らない」 「じゃあ教えてやる」 次のキスは、優しいだけではなかった。 直人は俊介のシャツを掴む。 俊介の手が背中に回る。 ベッドの端に座らされ、見下ろされる。 きれいな顔のまま、昔の俊介みたいに逃げ道を塞いでくる。 直人の中で、何かがほどける。 怖くない。 恥ずかしい。 苦しい。 嬉しい。 全部が一緒に来る。 「直人、顔」 「見ないで」 「無理」 「なんで」 「見たいから」 その言葉だけで、直人は喉の奥から変な声が出そうになった。 俊介が楽しそうに目を細める。 「そういう顔、昔から弱い」 「昔からって何」 「困ってるくせに、逃げない顔」 「逃げる」 「逃げてみろよ」 直人は、ほんの少しだけ身体を引いた。 すぐに手首を掴まれる。 強い。 でも痛くない。 俊介は、直人の反応を確かめるように、少しだけ力を緩めた。 直人は逃げなかった。 むしろ、自分から俊介の指に触れた。 俊介の目が、また変わる。 「……ほんと、お前」 声がかすれていた。 「何」 「可愛くなったな」 「は?」 直人は反射的に眉を寄せた。 俊介は笑う。 「いや、昔からか」 「やめろ」 「無理。ずっと言いたかった」 「俊介」 「直人」 名前を呼び返されるだけで、身体の奥が熱くなる。 俊介の手が、直人の濡れたシャツの上から背中を撫でる。 冷えた布の下に、体温が広がる。 直人は息を詰めた。 声を抑えようとして、うまくいかない。 「濡れてるな」 「雨だから」 「脱げ」 直球すぎて、直人は固まった。 俊介は、少し意地悪く笑う。 「風邪引くだろ」 「それ、言い方」 「何想像した?」 「何も」 「嘘」 「俊介」 「はいはい。先に風呂な」 俊介は急に手を離した。 直人は拍子抜けして、逆に落ち着かなくなる。 俊介はユニットバスの方を顎で示した。 「ほんとに冷えてる。温まってこい」 「……俊介は」 「後で入る」 「一緒にとか言わないんだ」 口にした瞬間、直人は自分で固まった。 何を言っている。 完全に余計な一言だった。 俊介の目が、ゆっくり細くなる。 直人は慌てて手を振った。 「違う、今のは」 「直人」 「忘れて」 「無理」 俊介が笑う。 低く、楽しそうに。 「お前からそういうこと言うの、反則だろ」 「言ってない」 「言った」 「間違えた」 「じゃあ間違えた責任取れ」 俊介が近づく。 直人はまたベッドの端で逃げ場をなくす。 けれど、俊介はすぐに触れなかった。 顔を近づけて、耳元で言う。 「先に温まれ。続きは、その後」 直人の耳が熱くなる。 「……性格悪い」 「好きだろ」 言い返せなかった。 俊介は、勝ったみたいに笑った。 直人はユニットバスへ逃げ込んだ。 **** ドアを閉めると、膝から力が抜けそうになった。 鏡に映った自分の顔は、ひどかった。 目は赤い。頬も赤い。髪は濡れて乱れている。 唇だけ、さっきのキスの熱を残しているように見える。 直人は、シャワーを出した。 湯気が狭い浴室に満ちる。 服を脱ぎながら、さっきの俊介の言葉が頭の中で何度も響く。 お前の店の隣に立てるようになりたかった。 中身は変わってねぇ。 俺は、お前を抱くために帰ってきた。 嫌なら言え。 俺がいい。 キスしていいか。 直人は、熱いシャワーを浴びながら、顔を両手で覆った。 無理だ。 無理すぎる。 昔の俊介が消えたわけではなかった。 今の俊介が、昔の俊介を抱えたまま帰ってきた。 しかも、直人の夢の隣に立つために、自分で変わることを選んでいた。 そんなの、ずるい。 そんなの、好きになるに決まっている。 いや、ずっと好きだった。 問題は、もっと好きになってしまったことだった。 **** シャワーを終えて外へ出ると、俊介はベッドに腰かけていた。 直人が貸した部屋着ではなく、シャツのままだ。 濡れた髪は少し乾いて、さっきより乱れている。 手には、直人のショップカードがある。 俊介はそれを、まるで大事なものみたいに見ていた。 直人は、胸がいっぱいになる。 「それ、そんなに見るものじゃない」 俊介が顔を上げる。 「見るだろ」 「ただのショップカード」 「ただのじゃねぇよ」 俊介はカードを胸ポケットにしまった。 「俺の次の職場だろ」 直人は、言葉に詰まった。 俊介は立ち上がる。 「決まりな」 「まだ何も条件とか」 「後で話す」 「そんな適当でいいのかよ」 「細かいことは明日でいい」 俊介は近づいてきた。 「今は、別の話」 直人の心臓が、また騒ぎ出す。 「別の話って」 「分かってる顔して聞くな」 「分かってない」 「嘘」 俊介の手が、直人の頬に触れる。 さっきより温かい。 直人は、逃げなかった。 俊介が目を細める。 「直人」 「うん」 「もう一回聞く。嫌じゃないな」 直人は、俊介の手に自分の手を重ねた。 「嫌じゃない」 「怖くないか」 「怖い」 俊介の表情が止まる。 直人は、すぐに続けた。 「でも、俊介ならいい」 その言葉を聞いた瞬間、俊介の目が揺れた。 それから、低く笑う。 「ほんと、そういうとこ」 「何」 「俺を駄目にする」 「俊介が?」 「お前が」 直人は、その意味を聞き返す前に抱き寄せられた。 今度のキスは、迷いがなかった。 直人は俊介の肩を掴む。 俊介の腕が背中を支える。 きれいな顔で、低い声で、昔のように強引に、でも直人が苦しくなる手前で必ず止まる。 「声、我慢すんな」 「無理」 「どっち」 「我慢するのが、無理」 俊介が喉の奥で笑った。 「いい子」 その一言に、直人の身体から力が抜ける。 「それ、ずるい」 「ずるい?」 「ずるい」 「じゃあ言う」 「性格」 「悪いだろ」 「最悪」 「でも好きだろ」 直人は、俊介の服を握りしめた。 「好きだよ」 言った瞬間、俊介が止まった。 ほんの一瞬。 それから、直人を抱く腕に力がこもる。 「もう一回」 「嫌だ」 「言え」 「嫌だ」 「直人」 名前を低く呼ばれる。 直人は、顔を伏せる。 「……好き」 俊介の息が、近くで震えた。 「俺も」 その声は、意地悪でも、からかいでもなかった。 ただ、まっすぐだった。 直人は、胸の奥がほどけるのを感じた。 それから先は、言葉が途切れ途切れになった。 俊介の声。 直人の呼吸。 雨の音。 ベッドの軋む小さな音。 直接的なことを考える余裕はなかった。 ただ、俊介の手が自分を確かめるたびに、直人は昔の約束が遠いものではなく、今この瞬間に続いていたのだと思った。 怖い。 でも、受け止められている。 落ちている。 でも、俊介がいる。 「直人」 「……俊介」 「泣くな」 「泣いてない」 「泣いてる」 「違う」 「じゃあ何」 「幸せで、変になってるだけ」 俊介が一瞬黙った。 それから、直人の額に唇を押し当てた。 「ならいい」 優しい声だった。 次の瞬間には、また意地悪な声に戻る。 「もっと変にしてやる」 「ばか」 「好きだろ」 「……好き」 「よし」 直人は、その夜、何度も俊介の名前を呼んだ。 昔の俊介を呼ぶみたいに。 今の俊介を抱きしめるみたいに。 二つが重なって、もう分けられなくなる。 俊介は、美しかった。 でも、それだけではなかった。 強くて、意地悪で、優しくて、直人の反応を逃さず拾って、怖くなる前に必ず戻ってきてくれる。 直人が欲しかった俊介は、いなくなったわけではなかった。 もっと遠くまで行って、もっと知らないものを持って、もっと綺麗になって、それでも直人のところへ帰ってきていた。 **** 雨は、夜の間ずっと降っていた。 いつの間にか、直人は俊介の腕の中で息を整えていた。 部屋の明かりは少し落とされ、窓の外の雨音だけが残っている。 シーツは乱れ、直人の髪もぐしゃぐしゃで、俊介のシャツも床に落ちていた。 直人は、俊介の胸に額を寄せた。 心臓の音が聞こえる。 低く、確かで、近い。 「……俊介」 「何」 「ほんとに、店、やるの」 「やる」 「そんな簡単に」 「簡単じゃねぇだろ。これから覚えることあるし、相談もいるし、手続きもあるし」 「分かってるじゃん」 「馬鹿にしてんのか」 「してない」 俊介は、直人の髪を軽くつまんだ。 「俺、留学先でカフェの手伝いもしてた。少しだけだけどな」 直人は顔を上げた。 「聞いてない」 「言ってねぇもん」 「またそれ」 「驚かせたかった」 「お互いそればっかりだな」 俊介は笑った。 直人も笑った。 笑ったら、胸が少し痛くなった。 幸せすぎると、少し怖い。 直人は、俊介の胸に額を戻した。 「俺、俊介が雄女になったって聞いて、うまく反応できなかった」 「うん」 「でも、嫌だったわけじゃない」 「分かってる」 「ほんとに?」 「今日、死ぬほど見られた」 直人は、俊介の胸を軽く叩いた。 「それは言うな」 「見る目がすごかった」 「言うなって」 「綺麗って言われたの、悪くなかった」 俊介の声が、少し照れていた。 直人は顔を上げる。 「俊介、照れてる?」 「照れてねぇ」 「照れてる」 「うるさい」 昔のような返しだった。 直人は、それが嬉しくて笑った。 俊介は、少しむっとした顔をして、それから直人の頬をつまんだ。 「笑うな」 「だって」 「だってじゃねぇ」 「俊介も、可愛いところあるんだなって」 その瞬間、俊介の目が変わった。 直人はしまったと思った。 俊介が低い声で言う。 「誰が可愛いって?」 「いや、今のは」 「直人」 「違う、褒めた」 「可愛いは褒めてねぇ」 「雄女って、そういうところもあるのかと」 「関係ねぇよ。俺は男だ」 「分かってる」 俊介は、直人の上に少し覆いかぶさるように身を起こした。 直人の胸が、また跳ねる。 俊介はにやりと笑った。 「男だから、好きな奴を抱きたいし、独り占めしたいし、からかわれたらやり返す」 直人は、熱くなる顔を隠した。 「さっき十分やり返しただろ」 「まだ足りない」 「俊介」 「それに、今ちょうど発情期なんだよ」 直人は固まった。 「……え」 俊介は、悪びれずに笑う。 「雄女になると、発情期がある。身体が熱くなるし、欲も強くなる」 「それ、先に言えよ」 「言ったら逃げた?」 「逃げ……」 直人は言葉に詰まった。 俊介が楽しそうに覗き込む。 「逃げない顔してる」 「見ないで」 「無理」 俊介の手が、直人の手を取る。 指が絡む。 強くて、温かい手。 「さっきも言ったけど」 俊介の声が、また低くなる。 「孕める身体になったからって、抱かれたい身体になったわけじゃねぇよ」 直人は、顔を上げた。 「……そういう言い方」 「分かりやすいだろ」 「分かりやすすぎる」 「お前にはこれくらいでいい」 俊介は、意地悪く笑う。 「俺は、お前を抱くと熱くなる。発情期だと、なおさらな」 直人は、もう何も言えなかった。 俊介の言葉が、身体の奥まで落ちる。 雄女になっても、俊介は俊介だった。 美しくなった。 妊娠できる身体にもなった。 でも、直人が好きだった男前な幼馴染は、どこにも消えていない。 むしろ、昔よりずっと強く、濃く、直人の前にいる。 「直人」 「何」 「もう一回」 「……ほんとに?」 「発情期だって言っただろ」 「理由にするな」 「事実だ」 「明日、話すこといっぱいあるのに」 「明日話す」 「体力」 「俺が受け止める」 その言葉に、直人は息を止めた。 ひばり公園の滑り台。 下で両手を広げていた俊介。 落ちてこい。 俺が受け止める。 今の俊介が、同じ意味で、違う熱を持って言う。 直人は、目を閉じた。 「……ずるい」 「ずるい?」 「ずるい」 「じゃあ落ちてこい」 直人は、自分から俊介の首に腕を回した。 「受け止めろよ」 俊介は、嬉しそうに笑った。 「何回でも」 雨の音が、また強くなる。 直人はもう、昔と今を分けようとしなかった。 俊介の腕の中に落ちる。 怖くても、熱くても、恥ずかしくても、そこには必ず俊介がいる。 そのことだけを、身体の奥まで信じたかった。 夜は、ゆっくり深くなっていった。 そして直人は、幸せの意味を少しだけ思い知った。 それは、静かで優しいだけのものではなかった。 時々乱暴で、意地悪で、恥ずかしくて、逃げたくなるほど熱い。 それでも最後には、必ず受け止められる。 直人は、俊介の名前を呼んだ。 俊介は、そのたびに応えた。 雨がやむまで、何度でも。

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