34 / 34
12
12
ゆったりと訪れた目覚めに瞼を持ち上げると、世界中が水浸しだった。――泣いてる。俺が。
(うお、マジか)
今日で使い納めの枕、見事にべっちゃり濡れてるんだが。
けれど心の中は、優しい光の絶え間なく降るような、不思議に清々しくめでたい心地だ。
ベッドに横たわったまま、俺はしばし考える。
なんで急に、こんなに晴れがましい気持ちになってるんだ。……いや、まあ確かに、今日はめでたい引っ越しの日ではあるんだが。それが泣くほど嬉しかったんだろうか。そうなのか?
(ああ、違う)
夢を見た。
たくさんの人が、俺の名を――川嶋穂高の名前を呼んでいて、みんなの言葉のひとつひとつが、死んだ風船に新たなガスを吹き込むような力を持っていたのだ。
すっかり萎んだまま、壁際でそういうオブジェみたいになってた風船は、見る間にぱんぱんに膨らんだ。
風船はそうして、俺が未練がましく吊った糸なんか簡単に振り切って、まっすぐにぐんぐんと天高く昇っていったのだ。めっちゃ飛ぶなあ。俺は素直に感心して、じんわり首の後ろが痛くなるまで見上げていた。
やがて影の一つも見えなくなると、同じ空の遠くからは、金色の光を纏った羽がたくさん、……たくさん、降って来る。
なんというか、そんな心地の目覚めだ。うむ。
良い夢だった。
俺はそう結論付けて、いよいよ体を起き上げる。季節は夏だ。薄いタオルケットを体から引き剥がすことにも、なんの躊躇いも覚えなかった。
暮らし慣れた、書店オーナーから借りている一室。なんとなしの感慨深さとともに、それを見回す。俺の、小さな宝箱だった部屋。
涙の染みた枕にも、あたたかくぬくまったベッドにも、窓際の机にも、ひどく目映い朝が来ていた。
「リオン、おまえの部屋はどこがいい?」
家具を載せた荷馬車が玄関口に着くと、夏の陽を浴びる屋敷はにわかに騒がしくなる。
数人がかりで手際よく大型の家具を下ろす荷運びの男たちや、細々としたトランクを運ぶメイドたち。別の馬車からは、まだ半分くらい木材のままの家具を部屋の中で完成させるための職人なんかも降りて来て、この引っ越しの一切を取り仕切る新しい家令に声を掛けたりもしていた。
そんな中、屋敷の主人として彼らを出迎えたシルヴァンは、一通りの挨拶を終えたいま、この後は邪魔になるだけのジャケットを脱いで片腕に掛けた格好だ。
のんびりと二階への階段を昇りながら、彼は俺に尋ねてくる。
いっしょに上階を目指す俺は、迷わずに答えた。
「三階の南!」
「この屋敷自体が南向きだと言っただろう。東寄りと西寄り、どちらだ? なんなら、真ん中の部屋でもいいんだが」
「真ん中はシルヴァンの部屋って決めなかったか? さすがの俺でも、屋敷の主人に部屋を寄越せとは言いやしないんだが。うーん。もっかい窓からの景色見て、その後に決める」
「……だそうだ。先に一階の家具を運び入れるよう指示しておけ」
俺たちのすぐ後を付いて来ていた家令――この屋敷へ来る前の身分は、シルヴァン第三王子の侍従である――へと、シルヴァンは苦笑混じりに命じる。
家令が請け負って立ち去ると、俺たちは二人で三階へと上がった。
高台に建つこの屋敷は、どの窓であっても眺めがとても良い。
幾筋も細い煙を上げる職人街、俺の勤め先である書店、三月前にシルヴァンが朗読会をした修道院……と、街のようすは綺麗に一望出来た。
東と西、どっちの部屋でも眺めがいいとなると、なおさら迷わないか?
俺は飽きず廊下を行き来して、ためつすがめつ、両方の部屋の窓を堪能する。間取りは反転しているだけでいっしょだし、もちろん広さも同一、壁紙や絨毯なんかは入れ替えるから……。マジで、決め手がない。
「リオン」
考えあぐねるあまり、もういっそあみだくじでいいか、と投げやりになった俺は、紙とペンを求めて真ん中の部屋に入った。
ぽつんと一つ据えられているデスクの前に立っていたシルヴァンが、俺を振り返る。
この屋敷を買い取ってから入居する今日までの間、もろもろの書類を用意するためだけに入れられた、シンプルな作業デスクだ。そこには、いまも幾枚かの書類が広げてあった。
そして俺は、このデスクの隅に書き損じて捨てるばかりの紙が束ねてあることも、引き出しにはペンとインクがまとめてしまわれていることも、ちゃんと知っている。
「シルヴァン、紙とペンを貸し……」
「おまえの名前は、リオン・ローレオのままでいいな?」
「ん? うん」
リオン・ル・リッシュという名前は、この世界にはもう存在しない。
俺がオーギュストづてに渡したあの廃嫡お手軽完了セットは無事に役目を果たしたと、ずいぶん前にエリクから聞いていた。……エリクは春までの一年半、俺が唯一連絡を取っていた相手である。と言っても、生存報告がてらごく短文をやり取りするだけだったんだが。
つまりいまの俺がリッシュ家を名乗れば、普通に詐欺になるのだ。
「そうか……」
俺の肯定を聞いたシルヴァンは、なんとも言えない顔をする。口角が上がるのをひっしに耐えているかのような、むずがゆいみたいな表情だ。なんだなんだ。
「俺の名前、なんか問題あった? でも俺、一年以上これで生きてて、もうすっかり馴染んでるし、変える気さらさらないんだよな。っていうか、引っ越しだけでわざわざ改名するのも変じゃないか?」
三月前に再会した日、シルヴァンは俺がベッドでくったり伸びている間に、オーナーと一つの交渉をした。
いわく、「朗読会にて読む本の選定を、リオンにお願いしたい」という依頼だ。
『朗読会の? ええと殿下、差し出がましいようですが、それは今回の会に限らず……ということでしょうか?』
『ええ。これから私が行う朗読会の、すべての会について、リオンに頼みたいと考えています』
とっぷりと暮れた部屋で一人、目を覚ました俺は、慌てて衣服を整え階下へ向かった。
蝋燭の灯るダイニングに着くと、シルヴァンは堂々と夕食の席に着いており、ひとまず二人分の食事が並ぶテーブルを前にして、オーナーとそんな会話を交わしていたのだった。
『……確かにリオンは、広く本の知識に長けていますが……王都の書店の方が、品揃えは完璧ではないのですか?』
『王都の書店では、利権が絡みすぎている、という事情があります。実際、あからさまにとある宗教絡みの物語を渡されることさえ、もはや珍しいことではなくなっているのです。私の方でも、出来るかぎり公平な内容を選んでくれるよう、お願いは出しているのですが』
『ああ、なるほど……』
オーナーは思慮深く頷くと、俺がダイニングルームへ踏み入るのに気付き、「リオンはどうしたい?」と確認してくれた。
もちろん俺は、一も二もなく「やる」と答えたのだ。
そうしてこの三月間で四回ほど、ざっくりだいたい一月に一度よりもちょい早めのペースで、俺は「朗読会にお薦めの本」をシルヴァンへと手渡しているわけだった。
ちょうどこの街は、さらに地方の町へ向かう際の拠点にしやすい、だとか。
近衛騎士を率いるシルヴァンが現在、その悪事を暴くために追っている大臣の別邸がすぐ隣町にある、だとか。
王族として手掛ける公務のうち、いま最も注力している新技術の開発に詳しい職人がこの街に暮らしているのだ、だとか。
いろいろのあれそれが重なって、シルヴァンはオーナーからもたらされた「前領主の屋敷が売りに出されている」という情報に乗ることを決めたのだ。
ところでオーナーとセカンドハウスの使用人たちには、俺たちの関係はちゃんとバレている。なのでシルヴァンが屋敷を買ったと知れると、自動的に俺の引っ越しも確定された。
そんな日々を乗り越えての、今日だ。
わりと怒濤の三月間だったな、と思い返しながら、俺はシルヴァンが携えている書類をいっしょに覗き込む。
それは普通に、俺の住所変更届だった。なんの変哲もない書面には、俺の名前とともに、新旧の住所、それぞれの所有者の名前が併記されている。この中の見慣れないものと言えば、俺からすれば、シルヴァンの名前だ。
「ルジャン・ローレオ?」
王族としてそこそこの領地も有しているシルヴァンが、別の街に住み、そこで税を払うとなれば、本名は名乗れない。
だから登録したのは偽名というか、まあ一種の通り名だろう。王族に限らず、上級貴族でも、私邸なんかを持つ時には普通にそうする。
「ローレオ……」
唯一問題があるとすれば、それが俺とまったく同じ姓であることだ。
俺はそろりと、目を上げる。
こちらを見つめるシルヴァンの表情は、いまはその胸中を隠すことなく、晴れやかな笑顔だった。
「オリオールのアナグラムだ。そうだろう?」
「ぎゃああっ」
なんでバレるんだ!
なんでバレるんだ!!
「ぎゃああ?」
シルヴァン・オリオール=デュラフォア。シルヴァンの本名。そんなことはもちろん、王国の民みんなが知っている。
オリオールの部分はいわば王族だけが受ける洗礼名みたいなやつで、表記はされるが、呼び名として用いることはしない。王家だけが残している、この王国の古い名前の形式だった。
シルヴァンが授かった洗礼名・オリオールのスペルはaureole――一文字ずつ解いて並び変えて、leaureo。
……これならわからない、と、思ったのに。
実際、オーナーだって俺の姓に言及することはなかった。書店の常連客である、博識過ぎて仙人みたいな貴族だって、なんにも気付かなかった。
絶対、絶対に、俺にしかわからない。
――そう思ったのに、なんでよりによって、本人が言い当てるんだ!!
俺はそれがショックすぎて、もはや涙目になる。
「……っな、なん、なんで」
「学生の頃、船のチケットを取る時に偽名を使ったと話しただろう? それがこの名前だったんだ。あれ以降は使う機会もなく、俺もすっかり忘れてたんだが……三月前、この街の住民の名を調べた時に、運命的に再会した」
「か、か、かえる。なまえかえる」
「泣くな。……この名前を目にした時に、俺はおまえがずっと俺のことを想っていてくれたと――俺を嫌って離れたわけではないと、そう確信出来たんだ」
なんてことだ。
ほかの誰にも知られない代わりに、本人宛の、強烈なラブレターになってたのか。なんて恥ずかしい名前なんだ。
「リオン」
シルヴァンは喉の奥で笑うまま、俺を呼ぶ。そうしてぐっと身を屈めて、俺の唇に彼のそれを寄せた。
ちゅ、と小さく食まれて、心臓が痛くなる。ああ。
「好きだ。シルヴァン」
俺は自分の内側を打つ鼓動の音そのままを伝えたくて、シルヴァンへと告げた。好き、好きだ、と今日も、俺の心臓はシルヴァンを呼んでいる。
「名前……勝手に元ネタにして作って、ごめん」
「運命だと言っただろう」
シルヴァンは俺を優しく抱き寄せ、彼を見上げる俺の頬へ、その指を添えた。肌をそっと撫でてくる感触が、あまりにも柔らかい。
俺は心臓ごと溶け出すような幸福感に包まれて、目を閉じた。続くシルヴァンの言葉は、甘やかな声を纏って降ってくる。まるで、降り積もる羽毛みたいな声音だ。
(もしかしたら)
シルヴァンの中にあったチケットの亡霊も、いまはすっかり浄化してんのかな。確かめる術はないけれど、俺はそんなふうに思う。
リオン、と呼びながら、同じにふんわりとキスが落とされた。
「おまえをどれほど愛しく想っても、少しも足りそうにないな」
だから一生、俺におまえを愛させてくれ。
俺の耳に響くのは、途方もなくあたたかな声音。――シルヴァンの心が紡ぎ出す、彼だけの音だった。
(了)
ともだちにシェアしよう!

