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第4話
それから、一か月程が過ぎていた。
「先生、最近元気がないですね」
フリモメンが資料を手渡しながら首を傾げる。
「そう見えますか」
「なんとなく、ですけど」
「少し寝不足なだけですよ」
嘘だった。
夜更かしはしている。でも眠れない理由は仕事ではない。
帰宅しても、部屋は静かだった。
「先生」と呼ぶ声がしない。スマートフォンも鳴らない。毎日のように届いていた『お疲れ様』や『ちゃんとご飯食べた?』など、そういった何でもないメッセージが、あの日を境に一件も届かなくなった。
あれほどしつこいと思っていた通知がないことに、今は物悲しさすら覚えていた。
MEIKOに聞いても、「最近見てないわね」と言われた。
がくっぽいどに聞いても、「拙者も存じ上げぬ」と首を横に振られた。
まるで最初から存在しなかったみたいに、KAITOたけがキヨテルの世界から消えてしまっていた。
ある晩、二人分のコーヒーを淹れかけて、手が止まる。
片方は流しに捨てた。流れていくコーヒーが泥水のように見えてその瞬間、胸がひどく痛んだ。
「……何をしてるんだろうな、私は」
誰もいない部屋に向かって呟く。
机の引き出しを開けると、一枚のメモが出てきた。以前、KAITOが書き置きしたものだ。
『冷蔵庫にアイス入れておいたよ』
思わず笑ってしまった。
笑ったのに、涙が一滴落ちた。紙の上に、丸い染みができて広がっていく。
「友人だからじゃない」
ぽつりと言葉が出る。
「いなくなったから寂しいわけでもない。あなたがいないから……寂しいんだ」
つまり、そういうことだ。それに気づくのに一か月もかかった。ずいぶんと遅くなってしまった。
——そこは港だった。
夕暮れ時に、海を眺める青いマフラーの背中を見つけた。
足音で気づいたのか、KAITOが振り返る。キヨテルを見て一瞬だけ目を見開いた。
「……先、生」
「探しました」
「どうして」
「どうして、とは?」
KAITOは苦く笑う。
「嫌われたと思った。叩かれたから。僕にはバグがあるから。もう会わないほうがいいって……決めたんだけど」
「一人で勝手に決めて、それで満足したんですか」
思ったより強い声が出た。KAITOが黙る。
キヨテルは歩み寄る。一歩、また一歩。
「自分だけ言いたいことを言って。バグだとか、壊れてるとか。そういうことを言って、勝手にいなくなって」
「……ごめん」
「謝れば済む話じゃないでしょう。私は教師です。話し合いもしないで逃げる子供は、一番困ります」
KAITOが思わず笑った。
「ふ、先生らしい」
「笑わないでください。ごめんばかり言うのも禁止です」
「……じゃあ、何て言えばいいの?」
キヨテルは少しだけ考えた。
風が吹く。夕焼けが海を赤く染めている。
「一緒に帰りましょう」
KAITOは固まっていた。信じられないものを見るかのように。自らの耳を疑うように。
「……いい、の?」
「そのつもりがなければここまで探しに来ていません」
「でも僕は壊れてる。また同じことをするかもしれない」
「あなたは確かに間違えました」
キヨテルははっきりと言う。
「部屋に押しかけていたことも、部屋から出さないようにしようとしたことも、全部間違いです。でも、あなたは最後に自分で気づいた。自分で止まった。だから私はあなたの話をちゃんと聞きたい」
KAITOは黙っている。
「それがバグかどうかは私には分からない。だけど、あなたが私を大切に思ってくれていたことは、ずっと分かってた。伝わってたんだ。それを友人という言葉だけで片付けていたのは、私も同じだ」
海風が止んだ。静かな波音だけがゆっくりと遠ざかっていく。
しばらくしてから、KAITOがゆっくりと口を開く。
「先生は……僕のこと」
「はい」
KAITOは黙ったまま、じっとキヨテルを見ている。
「——一つ、約束してください」
「……うん」
「苦しいときは一人で抱え込まないこと。私を部屋に閉じ込める前にちゃんと話してください。そして向かい合うことから逃げないこと。私もあなたから逃げないから」
——沈黙。
やがてKAITOは小さく笑った。普段とは少しだけ違う、今まであまり見たことのない笑い方だった。
「ありがとう」
「こちらこそ」
キヨテルは手を差し出す。
「帰りましょう。今日は寄り道して、ゆっくり話しながら」
KAITOはその手を見つめる。少し迷ってから、そっと握った。
以前のように縋るためでも、引き止めるためでもない。ただ、並んで隣を歩くために。
二人の足音が重る。まだ不器用で、全然ぎこちない。それでも今度は、どちらか一人だけで答えを決めない。
——今、ようやく始まったばかりだから。
そういう距離なのだと、キヨテルは思った。
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