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第3話

 玄関の鍵が回る音が響いたとき、時刻は夜の十一時を過ぎていた。  靴を脱ぎかけたところで、部屋の奥から声がした。 「——先生」  静かな声だった。  リビングの明かりだけが点いている。ソファに、青いマフラーの男が静かに座っていた。マフラーだけじゃない、コートも着たままだった。いつから待っていたのか、それはキヨテルにも分からなかった。 「……どうして、中に」 「待ってた」 「どのくらい」 「分からない」  笑顔はいつもと変わらない。穏やかで、優しいKAITOのままだ。それなのに、キヨテルの胸には言いようのない不安が広がった。  仕事が長引いた。途中でがくっぽいどとの打ち合わせが入り、気づけばスマートフォンは充電切れ。充電器も持ち歩いていなかったから、連絡を返せないままここまで来てしまった。 「連絡がつかなかった」  KAITOがぽつりと言う。 「すみません。充電が切れてて」 「そう」  それだけ言って、立ち上がる。KAITOが一歩近づいた。 「今日は誰といたの」 「仕事です」 「フリモメンさん? がくぽ?」 「打ち合わせで」 「笑ってた?」 「仕事ですよ」  また、少しの間があった。 「僕には、今日は一度も笑ってくれなかった」  キヨテルは深く息を吐く。 「今日はもう帰ってください」 「帰れない」 「帰ってください」 「嫌だ」  KAITOが玄関の前へ移動した。手に部屋の鍵を握ったまま、動こうとしない。 「今日はもう先生だけを見ていたい。先生ももうどこにも行かないで」  怒りではない。責める色もない。  ただ、壊れそうなほどKAITOは真剣だった。 「どいてください」 「嫌だ」 「KAITO!」  呼びかけても動かない。 「先生、行かないで」  伸びてきた手に、腕を強く掴まれる。逃げようと思えば簡単に振りほどける。  それでも、その手にはどこか縋るような必死さがあるようにも思えた。 「離して、ください」  キヨテルがKAITOの手を振りほどこうとした瞬間だった。  ——パシンっ。  乾いた音が部屋に響く。  キヨテルの手が宙で行き場を失くす。  頬に手を添えたままのKAITOが、ゆっくりと顔を上げていた。 「……先生」  ひどく小さな声だった。  叩くつもりはなかった。ただ、止めたかった。それだけだったのに。  それは起きてしまった。本当に、ただ腕を振りほどこうとして、手が当たってしまっただけで——だからといってそれが言い訳にはなるわけでもなかった。  KAITOは自分の手を見ていた。それから目線を上げてキヨテルを見た。 「バグだ」  静かに言う。 「先生を閉じ込めようとして。行かせたくなくて。ただ一緒に居たかっただけなのに。こんなの……プログラムがおかしい。僕は壊れてしまったみたいだ」 「KAITOっ——」 「本当はずっと分かってたんだ」  KAITOはもう笑っていなかった。その目に浮かぶのは、泣き顔に近い何かだった。それでもKAITOは泣かなかった。ただ静かに、まるで自分自身を説明するように言葉を続ける。 「先生を大事にしたくて来てたのに、先生に叩かれるようなことをしてしまった。大事にしたかったのに、大事にできなかった。——僕はもうここに来るべきじゃない」 「違います。叩こうとして叩いたわけじゃ——」 「ごめんね、先生」  KAITOは部屋の鍵を開けた。 「もう先生とは会わない」 「待ってください」 「先生は優しいからそう言ってくれる。だけど優しさじゃバグは直らない」  キヨテルが次の言葉を告げるよりも前に、ドアはかに閉まった。  部屋にはキヨテルだけが残されていた。  右手に熱が残っていた。  あの一瞬の衝動が、あの呟きが、あの泣き顔にも近い表情が、ずっと目と耳から離れないままだった。

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