3 / 4
第3話
玄関の鍵が回る音が響いたとき、時刻は夜の十一時を過ぎていた。
靴を脱ぎかけたところで、部屋の奥から声がした。
「——先生」
静かな声だった。
リビングの明かりだけが点いている。ソファに、青いマフラーの男が静かに座っていた。マフラーだけじゃない、コートも着たままだった。いつから待っていたのか、それはキヨテルにも分からなかった。
「……どうして、中に」
「待ってた」
「どのくらい」
「分からない」
笑顔はいつもと変わらない。穏やかで、優しいKAITOのままだ。それなのに、キヨテルの胸には言いようのない不安が広がった。
仕事が長引いた。途中でがくっぽいどとの打ち合わせが入り、気づけばスマートフォンは充電切れ。充電器も持ち歩いていなかったから、連絡を返せないままここまで来てしまった。
「連絡がつかなかった」
KAITOがぽつりと言う。
「すみません。充電が切れてて」
「そう」
それだけ言って、立ち上がる。KAITOが一歩近づいた。
「今日は誰といたの」
「仕事です」
「フリモメンさん? がくぽ?」
「打ち合わせで」
「笑ってた?」
「仕事ですよ」
また、少しの間があった。
「僕には、今日は一度も笑ってくれなかった」
キヨテルは深く息を吐く。
「今日はもう帰ってください」
「帰れない」
「帰ってください」
「嫌だ」
KAITOが玄関の前へ移動した。手に部屋の鍵を握ったまま、動こうとしない。
「今日はもう先生だけを見ていたい。先生ももうどこにも行かないで」
怒りではない。責める色もない。
ただ、壊れそうなほどKAITOは真剣だった。
「どいてください」
「嫌だ」
「KAITO!」
呼びかけても動かない。
「先生、行かないで」
伸びてきた手に、腕を強く掴まれる。逃げようと思えば簡単に振りほどける。
それでも、その手にはどこか縋るような必死さがあるようにも思えた。
「離して、ください」
キヨテルがKAITOの手を振りほどこうとした瞬間だった。
——パシンっ。
乾いた音が部屋に響く。
キヨテルの手が宙で行き場を失くす。
頬に手を添えたままのKAITOが、ゆっくりと顔を上げていた。
「……先生」
ひどく小さな声だった。
叩くつもりはなかった。ただ、止めたかった。それだけだったのに。
それは起きてしまった。本当に、ただ腕を振りほどこうとして、手が当たってしまっただけで——だからといってそれが言い訳にはなるわけでもなかった。
KAITOは自分の手を見ていた。それから目線を上げてキヨテルを見た。
「バグだ」
静かに言う。
「先生を閉じ込めようとして。行かせたくなくて。ただ一緒に居たかっただけなのに。こんなの……プログラムがおかしい。僕は壊れてしまったみたいだ」
「KAITOっ——」
「本当はずっと分かってたんだ」
KAITOはもう笑っていなかった。その目に浮かぶのは、泣き顔に近い何かだった。それでもKAITOは泣かなかった。ただ静かに、まるで自分自身を説明するように言葉を続ける。
「先生を大事にしたくて来てたのに、先生に叩かれるようなことをしてしまった。大事にしたかったのに、大事にできなかった。——僕はもうここに来るべきじゃない」
「違います。叩こうとして叩いたわけじゃ——」
「ごめんね、先生」
KAITOは部屋の鍵を開けた。
「もう先生とは会わない」
「待ってください」
「先生は優しいからそう言ってくれる。だけど優しさじゃバグは直らない」
キヨテルが次の言葉を告げるよりも前に、ドアはかに閉まった。
部屋にはキヨテルだけが残されていた。
右手に熱が残っていた。
あの一瞬の衝動が、あの呟きが、あの泣き顔にも近い表情が、ずっと目と耳から離れないままだった。
ともだちにシェアしよう!

