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【1】秘密の月夜
「もくもくだね~」
「うん、もくもく。綿アメみたいでおいしそう」
校舎外の水飲み場、その横の古ぼけたベンチで、僕たちは空を見ていた。
「僕、前は夏の空が少し苦手だったんだ」
「え、そうなの?」
意外そうにこちらを向いた唯木 あらたに、僕はうなずく。
「中学の頃までは」
真っ青な空に、真っ白い入道雲。ぱきっとした、目の醒めるようなコントラスト。
「なんか、夏を楽しめ! 楽しまなきゃダメだぞ! って言われてるみたいで」
「あー、そういうことか。わかるかも」
あらたはまぶしげに黒縁メガネの奥の目を細める。
あらたは僕の親友だ。
この東京某市にある都立犀堂 高校に入学してから出会い、僕が同じ部に誘ったことで仲よくなった。
2年の夏を迎えた今では、あらたはその部活──演劇部の部長を務めている。
そして僕、穂村 麻青 は演者の一人。恐れ多くも看板役者として、次の舞台である高校演劇の地区大会では準主役をやらせてもらうことになっていた。
「おれも中学まではガチガチのひきこもりオタだったからなぁ。このまぶしい世界になじめてなくてすいませんっ、て卑屈になる時あった」
「ひきこもりはおおげさ。家で本読むのが好きだっただけでしょ」
でも、言いたいことは似ている。つまりそういう感じだ。
中学までの僕は自分に自信がなくて、弾ける夏のまばゆさにも気おくれしていた。
「だけど、今は好きだよ」
前髪の隙間からもくもくの雲をすかし見ながら、ソーダアイスを一口かじる。
「青い空、白い雲、休憩時間のアイス……ふふ、夏って感じ」
8月、夏休み。部活の合間のささやかな休息時間を、親友と過ごしている。
青春って感じだ。なんでもない光景でも、特別なものに思えてくる。
この暑さも、肌を焼く日差しも、溶けかけのアイスもジャージを湿らせる汗も。
「あっ、おまえらアイス食ってんの!? なんだよ、ずりぃ!」
ふいに声がして、足音が近づいてきた。
同じ2年の演劇部員、美濃部 祥太 と本間 淳巳 だ。
祥太は手にコンビニの袋を提げている。それを見てあらたが笑った。
「自分らだってお菓子いっぱい買い込んでるじゃん! もう休憩終わるよ」
「わかってる。これは部活終わりに食べるんだ」と、淳巳。
「ほとんど俺のだけどな。すぐ腹減るんだよ~。ほら俺、今回叫ぶシーン多いだろ?」
「ああ、たしかに。駆け回るシーンも多いよね」
祥太は明るく元気な部の盛り上げ役で、役柄もそういうものが多い。
対して淳巳はノンフレーム眼鏡のインテリ系で、落ち着いた性格だ。
4人それぞれタイプが違うけど、なんだかんだうまくいっている。
「それより麻青、こんな暑い場所にずっといて大丈夫なのか? 主演女優が熱中症なんてシャレにならないから気をつけろよ」
淳巳がけっこう本気で心配そうに言うので、僕は苦笑した。
「平気だよ。ずっとって言うほど長くいないし、そこまでひ弱じゃないから」
淳巳もそれはわかってるはずだけど、世話焼き性でつい口を出したくなるみたいだ。
(僕の外見なら仕方ないかな、とは思うけど)
身長164㎝。細身で色白で、大きな目に小さな口、サラサラの黒髪。昔からしょっちゅう女の子に間違われていた。『日本人形みたいに可愛らしい』というのが親戚のおばさんの口癖だ。
声も高くて、全体的に中性的。だから舞台では、もっぱら女優代わり──つまり女役を務めている。犀堂高校は男子校だから、女性役も男子が演じるのだ。
とはいえ、不満はまったくない。むしろそのために入った部だから、現状には満足していた。
「あ、時間だ。戻ろうか。次はシーン2進めてくよ!」
あらたが勢いよく立ち上がる。
僕も食べ終えたアイスの棒をくずカゴに捨て、みんなに続いた。
●〇●〇
「それじゃシーン2、通しで行きます。スタート!」
普段の練習場所は視聴覚室だ。
あらたがパンッと手を打つ音が室内に響き、稽古が始まる。
彼は部長だけじゃなく脚本や演出も務めていて、我が部の総指揮者だ。
『トウマさんがここにいるって聞いて会いに来ました』
『タケルくんか。久しぶりだね』
『トウマさん、あなたと話がしたい』
『タケル、ご無理を言っちゃ申し訳ないわよ』
『わかってる。でも少しだけ。ミユキは外で待っていてくれ』
『看護師さん。10分だけ、いいですか?』
『それくらいならかまいませんが……』
通し稽古は順調に続き……
「──OK!」
再びパンッと音がして、演者たちは一斉に緊張を解いた。
「うわぁ! なんかオレ、ぞくぞくしちゃいました!」
「俺も。香納先輩とるー先輩の気迫がすげー!」
真っ先に声をあげたのは1年部員の三井 剣斗 、続いたのが立川 律 。
すごいと称賛された側の二人は、2年の香納 詩希 と3年の浅見 流音 さん、通称るー先輩だ。
この2人の立場はちょっと込み入っていて、本来主役のタケルをやるはずだったるー先輩が骨折で役を降りるしかなくなり、代役に幽霊部員だった香納が抜擢された。
香納は無口で愛想がなくてキツい印象だけど、元からそういうキャラで悪気はないようだ。演じるタケルもいい感じで、今では大成功の人選だとみんなが思っている。
そしてるー先輩は、代わりに端役のトウマという役で出演する。あらたが台本を、トウマはケガの治療中で車椅子に乗っているという設定に書き換えた。
「うん、香納もるー先輩もよかったです! るー先輩、体は大丈夫ですか?」
「全然平気だよ、座ってるだけだから」
言いながら、るー先輩は車椅子から立ち上がる。トウマは歩けない設定だけど、るー先輩の実際のケガは左腕の骨折なので、まだギプス姿とはいえ歩行に問題はない。
「香納。さっきのすごむところの演技、オレ好きだよ。やっぱ香納のタケルもいいな」
「……ども」
「うんうん、二人がにらみ合うところの緊張感、めっちゃよかった!」
「ふふっ。あらた先輩、嬉しそうですね~」
僕の隣に律がやって来て、小声で言った。僕も自然と笑みを返す。
「だね。香納もいい感じだし、大好きなるー先輩が帰ってきたんだから、そりゃ嬉しいと思うよ」
るー先輩は前部長で、演劇素人だったあらたを脚本兼演出家として育て、次期部長に指名した人だ。
パーマをかけた髪を染めてたりするので一見チャラいキャラに見られがちなんだけど、接すればすぐにそんなことないとわかる。
爽やかで優しくて面倒見がよくて、僕も入部当時からかなりお世話になった、頼れる先輩だ。まぁたしかに、見た目通りのちょっとチャラいことを言ったりする時もあるけど。
「続けてシーン3行こうか。香納、麻青、連続だけど大丈夫?」
「あ、うん」
あらたに呼ばれて、僕は答えつつ中央へ進み出た。
主役のタケル(香納)と準主役のミユキ(僕)。出番が多いのは当然だ。
(ありがたいことなんだから、このくらいで大変なんて言ってられない)
「じゃあやろう。合わせられるのあと1時間くらいだから」
はい! と部員たちが声をそろえる。
夏休みの活動時間は16時までだ。けれど今日はこの後、大道具制作で抜けることになっているメンバーがいる。
メインで作業してくれている裏方要員は別にいるんだけど、僕たちも手伝う。火曜と木曜の午後が、その時間に当てられていた。
「あ。そういえば、今日はなぎ先輩も来てくれて、打ち合わせするんですよ」
何気なくあらたが3年の先輩たちへ告げた一言に、僕はドキリとした。
「おお、そうなのか。予備校終わりで来るって?」
尋ねたのは元柔道家で大柄な、岩倉 慎吾 さん、通称くら先輩。
「はい、そう聞いてます」
「なら入れ違いで会えるかな」
そう言ったのはひょろりと背の高い長瀬 秀 さん、通称ながやん先輩。
まだ引退せず今公演に参加するのは、るー先輩を含めてこの3人だけ。
他の3年生は春に引退して、そのうちの何人かは今回、裏方の手伝いに参加してくれている。
その一人が、今あらたが言った『なぎ』こと、円城寺 渚 先輩だ。
(そっか……なぎ先輩、来るんだ)
前に会ったのはいつだったろう、と考える。
多分2、3週間前だ。
なぎ先輩は受験最優先で、手伝いといっても大道具制作にはほとんど参加できない。その代わり、本番当日の照明をやってくれると聞いていた。それなら慣れているので、数回打ち合わせれば対応できる。
(……会える、かな)
自分の心音が少し速くなっている。でも今は、練習に集中しないと。
小さく呼吸して、僕は『ミユキ』に意識を切り替えた。
●〇●〇
16時。練習が終わると、僕は制服に着替えるため部室に移動した。
ジャージで来てそのまま帰る子もいるけど、僕は着替えるようにしている。
「なぁなぁ、カラオケ行かね?」
「いいですね、行きます!」
傍で着替えていた祥太の誘いに、1年の茂城 大地 が速攻でのった。そのまま僕のほうを見て、
「麻青先輩も行きません?」
「あ、ごめん。僕はこの後バイトがあって」
「えっ。麻青先輩、バイトしてるんですか?」
反対側から剣斗が話に入ってくる。
「うん。夏休みだけだけどね」
「そういえば麻青、去年の夏休みもバイトしてたな」
「ふえー、すご。今回大きい役なのに、大変じゃないんですか?」
「週に数回、できる範囲でだから。別に無理はしてないよ」
話しながら手早く着替えを終え、荷物を手に取った。
「それじゃ、帰るね。また明日」
手を振り、部室を出る。
そそくさと、少し逃げるみたいな感じになったのは自覚があった。
部活終了前から、僕は他のことを気にして気がそぞろだ。
「……会えなかったなぁ」
生き急ぐような蝉の大合唱を浴びつつ、正門までの道を歩きながらつぶやく。
(もう来てるのかな。タイミングが合えば視聴覚室で会えるかもって思ってたけど)
バイトがなければ、誰かと雑談しながらさりげなく待つこともできた。
(次の火曜ならバイトもないのに……)
「あれ、麻青?」
「……!」
蝉の立てるざらついた音を縫って、クリアな声が届いた。
僕は前のめりになる気持ちと裏腹に足を止める。
「なぎ先輩……!」
前方、3メートルくらい先にその人が立っていた。
その姿を見た瞬間、騒がしい音のすべてが遠のいたように感じる。
絶対に気のせいだとわかっているのに、涼やかな風が吹き抜けたような錯覚を覚えた。
(……会えた)
満ちていく喜びと同時に思う。
この人は、やっぱりいつ見ても──綺麗だ。
「久しぶりだな。今帰り?」
「は、はい」
「そっか。オレは打ち合わせ……なんだけど、少し遅刻」
片眉を上げてちょっとおどけたように笑う。
「聞いてます。大丈夫ですよ、予備校が終わり次第で時間はかっちり決まってないって、あらたも言ってましたから」
「うん。早めに終わったら練習覗きたいと思ってたんだけどな。無理だった」
言いながら、右手で長い前髪をかき上げた。すっと伸びた形のいい眉があらわになる。
そのひとつひとつの所作や体のパーツに、僕は見入った。
僕は多分、この人に恋をしている。
確信はまだないけど、そうなんだろうと思う。
「……先輩、だいぶ髪が伸びましたね」
先輩は180㎝と背が高い。僕が見上げながら言うと、彼は「ああ」と指先に髪を絡めた。
「切るの面倒で、いつの間にか」
染めていない黒髪は、僕より細くて柔らかそうだ。少しだけクセがある。
襟足は肩に届くくらい伸びたそれを、今日はハーフアップにしていた。
「変?」
「いえ、そんなことは」
初めて見たけれど、似合っている。先輩もけっこう色白で細面だけれど、背が高くて肩幅もあるので女々しい感じはしない。
「……先輩に、合ってると思います」
(優しいのに、冷たくて綺麗な先輩に)
「そう? ありがと」
先輩は穏やかに微笑んだ。
でも、僕から目線を外して顔を上げると、わずかに眉を寄せる。
「まぶし」
「ああ……」
西日がまぶしかったようで、先輩は額に手をかざした。
「オレさ、夏の空ってちょっと苦手なんだよね」
「そうなんですか?」
なんだか覚えのあるセリフだと思いながら聞き返す。
「なんか、夏を謳歌していない人間を追い出そうとするような威圧感がない? 淀んだ人間はこの世界に不要だって言ってるような」
「それは……はい、わかります」
すごく、わかる。
(先輩も、昔の僕と同じこと考えてたんだ)
「だよね」
(でも、僕は夏空も好きになれたけど……先輩は苦手なままなのか)
「まぁ、悪いのは空じゃなくてこっち側なんだろうけど」
柔和な笑みに、また一瞬の冷たさを垣間見た気がした。
(やっぱりこの人は、月みたいだ)
意識が急速に内側へ引き寄せられていく。記憶の中にある思い出の光景へ。
事あるごとに何度も思い出している。
──あれは去年の冬。とある日の部活終わりのこと。
「わ。今日、満月かぁ……」
冬の日没は早い。放課後の部活を終えた頃には太陽はすっかり沈み、空は藍色に変わっていた。
僕は帰宅途中、持ち帰るジャージを忘れたことに気づいて一人で引き返した。足早に部室棟への道を進んでいた時、空に浮かぶ満月に気づく。
くっきりとした薄いクリーム色の月だった。空の高い位置に煌々と輝いている。
月光の降る下には半分ほどしか埋まっていない教員用の駐車場があって……
その硬質なアスファルトの上に、彼がいた。
「──、──……」
真冬だというのにコートも着ず、ブレザーのボタンを開けた制服姿で。
月を臨むかのように顔を上げて……歌っている。
(あの人……なぎ先輩?)
多少距離があったけれど、すぐにそう気づいた。
当時、僕は彼が少し苦手だったから、余計敏感に察したのかもしれない。
「──、──……」
彼は一人、何かの曲を口ずさんでいる。
話し声よりワントーン高い澄んだ声が、途切れ途切れにこちらまで届いた。
歌詞は英語のようで、知らない僕の曲だ。
(知らないけど……綺麗な曲だな……)
ゆったりと、それでいてどこか切ないメロディライン。
旋律を紡ぎ出す先輩の姿も、綺麗だった。
月の光に青白く照らされて、白い肌がまるで発光しているよう。
月を見ているのかと思ったけど、その目は閉じられていた。
穏やかな表情だ。
それなのに……なぜだかとても、寂しそうに見える。
寂しそうで、美しくて、惹きつけられる。
まさに今、彼の真上で輝く月みたいだと思った。
冷たく冴え冴えとした、美しくてはかない月。
「……?」
ふいに曲が切れ、目を開けた先輩がこちらを向いた。
(気づかれた……!)
ものすごい罪悪感に駆られて、僕は硬直する。
「あ……えと、あの……」
うろたえていると、先輩はふっと口元を緩めて笑った。そして唇の前に、人差し指をすっと立てる。
『ナイショだよ』
眼差しだけでそう告げ、彼は去っていった。
見てはいけないものを見た、という背徳感と高揚。
その日から、苦手だった人は気になる人に変わった。
「──麻青。どうかした?」
ふいに視界が先輩の顔でいっぱいになり、記憶の縁から現実に引き戻された。
「あ、すみません……なんでもないです」
「そっか、ならいいけど。疲れてるなら無理するなよ?」
「はい、大丈夫です」
「ほんとかな。麻青は頑張り屋さんだから心配だよ」
人差し指の関節でコツンと額をつつかれる。ひやりとした指の感触に僕は首をすくめた。
(こういうこと、平気でするのに……)
それでも、この人を近くに感じられないのはどうしてだろう。
1年の頃なぎ先輩が苦手だったのは、どこか壁があるように感じていたからだ。
るー先輩や他の3年の先輩たちと同じく、優しいし気さくに話してくれる。
でも、なんとなく本心から笑っていないような気がするというか、一線を引かれているように感じていた。
いつも落ち着いていて、怒ったり慌てたりするところは一度も見たことがない。
白熱する話し合いなんかには積極的に入らず、一歩引いたところで静かに微笑んでいる、そういう感じ。
だから本心がつかめない。つかませてくれない。
(でもあの夜──初めて少しだけ、本当の先輩を見れたような気がしたんだ)
あの澄んだ歌声。
優しくて軽やかで美しくて、同じくらい寂しげで冷たくて。
普段の先輩が秘めている、何かに触れられた気がした。
(だから、気になる。もっと触れてみたい……)
そう願い、彼を目で追うようになって──ささいな興味だったものは、日を追うごとに大きくなり、僕の中に居座った。
惹かれている、ということなんだと思う。
でも、どうすれば近づけるのかまったくわからないまま時だけが流れ、気づけばもう先輩にとっては高校最後の夏だ。
部活は引退して、今回も照明の手伝いだけ。彼が卒業するまでに、あと何回会えるだろう。そして、何回か会えたところで何が変わるだろう。
卒業してしまったら、間違いなくもう会うこともない。
(卒業までだってわかってる。わかってるのに……)
それでもやっぱり、こうして会えばどうしようもなく心がさざめいた。
「じゃ、そろそろ行くね。あんまりあらたを待たせても悪いから」
残酷なほど滑らかにそう言って、先輩は歩き出した。
僕の心と先輩の世界は、相変わらずまったく別のところにある。
「はい……また」
去っていく背中を、じっと見送ることしかできない。
蝉時雨が、僕を押しつぶそうとするかのように空気を震わせていた。
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