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【4】秘密の素顔

 ジャズ喫茶エテでステージに出演した数日後、夏休み最後の部活中。  終了が迫る15時45分くらいに、視聴覚室になぎ先輩が姿を現した。 「わぁ、なぎ先輩だ!」 「なぎ先輩、どうしたんですか?」  今日は大道具制作の日じゃない。打ち合わせの予定もなかったのだろう、あらたが驚いている。 「予備校早めに終わったから。がんばってる後輩たちに差し入れ」  にっこり顔で両手に持つコンビニ袋を差し出す。ジュースやお菓子がパンパンに入っていた。 「やりぃっ、ありがとうございます!」  祥太が大喜びで受け取り、残る15分の練習をなぎ先輩も見学する。  終了時刻になると、部員たちはお預けをくらっていた差し入れに飛びついた。 「カラ〇ーチョもーらいっ!」 「あ、剣斗ずるい! それ俺が狙ってたのに!」 「こらこら、ケンカするな1年生。シェアしたらいいだろ」   盛り上がる部員たちを、なぎ先輩は同じ3年生たちと少し離れたところで楽しげに見守っている。 「ありがとうな、渚。気遣ってくれて」 「いえいえ。オレもみんなの顔見たかったから」 「受験勉強はどうだ? はかどってるか?」 「まぁ、それなりにね。それより、みんなも食べて食べて」 「ああ、ありがたく」  3年生も加わり賑やかなお菓子パーティーが始まった。  あらたが「この部屋にいられるのは17時までだからね~」と声を上げている横で、僕もお菓子をつまんでいると── 「麻青、ちょっといい?」  さりげなく傍に来たなぎ先輩に、小さく呼びかけられる。  『また今度話そう』と言われていたから、もしかしたらという予感はあった。  そのまま先輩は「ちょっとトイレ」と言って外に出ていったので、少し遅れて僕も部屋を出る。  廊下を進むと、右手にある階段の踊り場から「こっち」と声がかかった。  1階上まで上がって、次の踊り場でなぎ先輩は足を止め、僕を振り返る。 「この間の件だけど、本気?」 「本気です」  即座に答えると、なぎ先輩はいかにも困ったという顔を作った。 「でもキミ、今は部活が大変なんじゃないの。今年は都大会狙ってるって聞いたよ。練習に集中したほうがいいんじゃない?」 「部活もちゃんとやります。でもお金を貯めたいのも本当ですから。部活があるし、学校のある期間に継続バイトを入れるのって難しかったんです。それなりにシフト入れないと雇ってもらえないし。だから単発で入れるバイトはすごくありがたいんで、ぜひやりたいです」 「…………」  先輩は無言で僕を見ている。真意を探られているのか、説得の言葉を探しているのか──その両方かもしれない。 「嘘じゃないですよ?」 「……嘘だとは思ってないけど」  目にかかる前髪を右手でくしゃっと掻き上げて、先輩は天井を仰いだ。 「……はぁ。意外とずるい子だったんだね、キミ」 「え、ずるい?」 「ずるいでしょ。そう言ったらオレが拒めないのわかって言ってるんじゃないの」 「そんなつもりじゃ……」 (僕はただ、もっと先輩とのつながりが欲しくて……)  そこまで考えてすぐ、ああたしかにずるいな、と思った。  一番の理由は先輩に近づくことなのに、この気持ちは言わずにもうひとつの理由だけをもっともらしく口にしているんだから。  近づきたいという真意は、口にしなくても伝わっているんだろうなと思いながら。 (だけど……ずるかったとしても、それでも……) 「まったく。キミはそういうことしない、いい子だと思ってたのに」  さっきは先輩の髪を乱した手が、今度はぽふっと僕の頭にのった。トクンと跳ねた心臓を、僕はお腹に力を入れて抑えようとする。 「……そういうことって、どういうことですか」 「ラインを超えること。オレに影響を与えること、与えさせること」  超えてほしくないラインがある。その意思を先輩が明確な言葉にしたのは初めてだった。   僕は昂揚する。  これまでは笑顔の奥に隠していた本音を、彼は今、形として僕に見せてくれた。  それは間違いなく仮面の奥にある感情。だから、拒まれているのにうれしい。  そして喜んでいる自分を自覚して、改めて気づいた。 (僕、思っている以上にこの人のことが好きなんだ) 「先輩が誰かに影響を与えるのも、嫌なんですか?」  しばらく考えてからそう問うと、先輩は間を置かずに答えた。 「ああ、望まない。与えられるのと同じくらい、与えるのも。プラスにもマイナスにも……何にもなりたくない」  先輩がいつも超然として見える理由がわかった気がした。  何も与えず、何も与えられずに生きていきたい。そう願っている彼は、やっぱり彼自身が作った膜の向こうにいるのだ。一緒に笑ってるようでいて、彼の世界と僕たちの世界は、本当の意味では溶け合っていない。 (だから……僕のすることにも、強く反対できないってことか) 「迷惑、ですか……?」  くすぐるようにくしゃくしゃと僕の髪を掻き混ぜてから、先輩は諦めの表情でため息をついた。 「好ましくはないけど、言った通りだよ。キミが本当に働きたくて、それを実織が受けるなら、キミと実織の契約。オレに妨害する権利はない」 『でも、これ以上オレには踏み込んでこないで』  言葉にはせずとも、その忠告が含まれている。それをお互いに承知のうえで、決着がついた。 「ありがとうございます」 「とはいえ、本当に無理はしないように。麻青にとって今一番大事なのは演劇部なんだから。本番まで1カ月切ってるんだからね。実織にもそこは伝えておくよ」 「はい、わかってます」  こうして僕は、先輩の世界に一歩を踏み出した。  それがどれくらいのタブーか今はまだはかり知れなくても、引き返すことはしたくないと願いながら。  ●〇●〇  9月になり、2学期が始まった。  下旬には舞台本番、高校演劇大会の地区大会が控えている。  練習はラストスパートに入り、毎日最終下校時刻間近までの活動が続いていた。 「15分休憩入れまーす!」  あらたの号令で各自が自分の荷物を置いた場所に散らばり、お茶やスポドリで水分補給する。視聴覚室はエアコンが効いてるけど、それでも練習に熱が入ると暑い。 「この調子なら予定通り、今週末から通し稽古に入れそうだな」 「はい、そのつもりです」  るー先輩に声をかけられたあらたがうなずいている。傍らには僕と、他に香納、くら先輩、ながやん先輩がいた。 「来週にはりょう先輩、なぎ先輩と最終確認をして、何回か練習の日程も決めたいと思ってるんですけど。お二人ともお変わりないですか?」  急になぎ先輩の名前が出て、僕はついピクッと手を止める。  学年ごとに教室のある階が違うので、夏休み最後の部活で話した以来、僕もなぎ先輩に会うどころか、見かける機会もなかった。 「おう、二人とも元気にしてるぞ」 「といっても、クラスが違うからそんなに詳しくは知らないが」  くら先輩が言い、ながやん先輩が付け加える。  二人は1組で、るー先輩は3組。りょう先輩となぎ先輩が同じ2組で、この場に同クラスの人はいない。でも選択科目や廊下なんかで、言葉を交わす機会はあるだろう。 「渚は毎日すぐ下校するから、ラインで連絡したほうが確実だよ」 「じゃあそうします。ってか毎日って、それ全部予備校ですか?」 「いや毎日はねーだろ」  るー先輩のアドバイスにあらたが聞き返し、すかさず香納にツッコまれている。 「そういうもの? おれ、よくわかんなくて」 「のんきだな。俺らも来年だぞ」 「ええっ。詩希、もう受験のこと考え始めてるの? すごいね!」  あらたと香納が脱線し始めたところで、るー先輩が「予備校は週2から、多くて4回くらいだろうな」と話を元に戻した。 「あ、そうなんですね」 (なぎ先輩、予備校のない日はバイトしてるのかな……)  実織さんと何度かラインで話したけれど、挨拶程度。まだ実際にバイトの紹介はなく、なぎ先輩の話も特に出ていない。 (受験勉強もこれからどんどん佳境に入ってくだろうけど、なぎ先輩のステージを見学したり、一緒に働ける機会ってどれくらいあるんだろう)  そして部活終了後。  飲み物が切れたので、一人で自販機に寄ってから部室に向かっていると、 「お、麻青。ちょうどいいところに」  後ろから追いついてきたるー先輩が、僕の隣に並んだ。 (ちょうどいいところに?)  どういうことかと首をかしげる僕に、るー先輩は少しだけ声を落とした。 「麻青、もしかして渚のあのこと知った?」 「……あのこと?」 「バイトのこと」 「えっ!?」  思わず大声を出してしまい、慌てて口を押さえる。  その反応で察したようで、るー先輩は「やっぱりか」とつぶやいた。 「るー先輩、知ってたんですか?」 (みんなには言うなって口止めされてたから、てっきり誰も知らないと思ってた) 「オレが部長の時からやってて、時々外せない用事があるとか言うからさ。はっきり聞いたわけじゃないけど、なんとなくは。他の3年は誰も知らないだろうけど」 「……どういうことしてるかっていうのは?」 「それも本人からちゃんと聞いたことはないけど。あいつの性格から考えて、たぶんこういうことしてるんだろうなー、くらいは」 「……そうだったんですね」  その推測がどんなものか、どこまで正しいのかはわからない。  でも、るー先輩が知っていたとしてもなぎ先輩には口止めされているわけだから、深く触れずに自分のことだけ伝えた。 「実は、僕も同じバイトをすることにしたんです」 「麻青も?」  今度はるー先輩が驚いて目を見張る。 「それ、あいつがOKしたのか?」 「一応。同じところから仕事を頂くっていうだけで、なぎ先輩と一緒になるかとかは、全然わかんないですけど」 「へぇ、マジか」  まだ半信半疑の事実を租借するように、るー先輩は顎に指先をトントンと当てている。めったに動じない彼にしては、かなり驚いていた。 「……そんなにびっくりですか?」 「うん。正直意外だった。渚は、そっちの世界にはオレたちを入れたくないんだと思ってたから」 (さすがるー先輩。なぎ先輩のこともよく見てる……) 「その通りだと思います。でも、僕もバイトしたい事情があって、強くお願いしたので」 「……そっか、なるほどね」  短くそう言っただけで、僕の事情を聞き出そうとはしない。彼のこういうところが僕は好きだ。 「僕、迷惑なことしてるでしょうか?」  るー先輩なら客観的な意見をくれるだろうと思って、ためらいつつも尋ねてみた。  数秒思案してから、彼は薄く微笑む。 「絶対に受け入れられないことなら、あいつはそう言うと思うよ。だから、そこまで言われてないならいいんじゃないか」 「……はい。ありがとうございます」 (るー先輩がこう言ってくれるなら、少しは受け入れてもらえてるって思ってもいいのかな……)  ●〇●〇  偶然にもるー先輩と話した日に実織さんからラインが来て、翌週末のバイトが決まった。  前回お世話になった喫茶エテの香夏子さんが指名で依頼してくれたらしい。急だからもう少し先の日程でもいいと言われたけれど、予定もないので最短日でOKした。 『渚も一緒だから楽しみにしてて!』  実織さんからのメッセージに、胸が高鳴る。  すぐに台本のデータも来て、内容を見た僕はますます心が昂るのを感じた。  当日は実織さん、なぎ先輩と駅で待ち合わせ、学校へ。  もう流れはわかっているけれど、なぎ先輩が一緒ということで、前回と同じくらいそわそわしてしまう。 「今回は渚に合わせて、ゴシックに行くからね~」  着替えを済ませ、僕は綾羽さん、なぎ先輩は実織さんにメイクしてもらっている。  綾羽さんの言葉がどういう意味かよくわからなかったけれど、僕はとりあえず「はい」とうなずいた。  なぎ先輩も同室にいるのだけれど、90度の角度でそれぞれ別の壁側を向いているので、彼のメイクの様子は見えない。 「……そういえば、ちょっと気になってたんですけど」  アイメイクをしてもらいながら、僕は緊張を紛らわせようと話しかけた。 「ん、なに?」 「近くとはいえ、お店で準備したほうが効率いいと思うんですけど、どうして学校でやるんですか?」  前回、2分足らずとはいえ衣装で外を歩くのは少し恥ずかしかった。下手をしたらステージを観る予定のお客さんと会って、ネタバレしてしまうかもしれない。 「できるならやるけどね。お店、スペースないでしょ? 出演者が多い日もあるし」 「あ……言われてみれば……」  1階のバックヤードと地下の控え室。たしかにどちらも広くはなくて、お世辞にもゆったりしているとは言いがたかった。  壁を囲む棚には天井近くまで荷物が積まれていて、普段使いしてなさそうなものも多かったけれど。季節ごとの店内装飾品とか、きっといろいろあるのだろう。 「渚のメイクは時間かかるから、控え室で席陣取って長々やってんのも申し訳ないしね~」  会話を聞いていたようで、離れたところから実織さんが声だけで話に入ってくる。 「時間がかかる……んですか?」 「見たらわかるよ。自分の終わったらこっちおいで」  僕のメイクはそれから15分くらいで完成した。  ゴシックと言われた通り、黒くて濃いアイライン、アイシャドーはラメ入りのシルバー。ルージュは鮮烈な赤。でも今日は少年の人形という役なので、衣装はフリルやリボンたっぷりの白ブラウスに、黒のベストと膝丈のパンツを着ている。  ウェーブのかかった黒髪のウィッグも着けて、ゴスロリ人形の男の子版といったところだ。  その格好で、言われた通りなぎ先輩の背後に寄った僕は、鏡の中を見て思わず息をのんだ。 「え……わ……!」 「ね、時間かかるの納得でしょ?」 「お化け見たような顔しないの。……デザインメイクっていうんだよ」  実織さんに続いて教えてくれたのは鏡越しのなぎ先輩だけれど、別人のような気がしてしまった。  なぎ先輩のメイクは、僕とはまったく違っていたのだ。  両目の端から額と頬に向かって、レースのような、蝶の羽のようなデザインが描かれている。シャドーはブルーシルバー系で、他にも随所にラメチップがあしらわれていた。  まるで舞踏会で着ける仮面のように、顔半分を隠すメイク。  華やかで、妖艶で……恐れにも似た感覚で、肌が粟立つ。  この妖しい美しさに、僕のメイクもイメージを合わせたのだとようやく理解した。 「……先輩は、いつもこういうメイクを?」 「毎回じゃないけどね。ここでメイクしてから、会場まで電車移動なんてこともあるから。これで乗ったら職質食らうでしょ」 「た、たしかに……」 「けど、そういう時も派手系メイクとウィッグでしっかり化けるでしょ。渚のメイクはね、『変身』がテーマなんだよ、麻青くん」 「変身……」 「そそ。毎回『円城寺渚』を完全に消して、別の顔、別の人間になるの。ね、渚?」 「……実織、しゃべりすぎ」  低くたしなめられ、実織さんは「あ、ごめーん」と舌を出して、そこからは手を動かすことに集中した。僕より遅れること15分弱で、なぎ先輩のメイクも完成する。  先輩の服装は大人っぽいデザインの黒の上下。そこに背中まである黒いストレートのウィッグを着けている。  兄弟として作られた少年の人形。それが今回の僕たちの設定だ。  劇団の人の朗読劇に合わせて、動きだけの演技をする。クライマックスには、僕たち自身で口にするセリフもある。観客の、この美しい人形たちはどんな声で話すんだろうという興味が高まったところで、それぞれ2言だけ。今回も面白い構成だ。 「あらぁ~! 最高、イメージ通り!」  お店地下の控え室に入ると、香夏子さんが両手を胸の前で握り合わせて感動してくれた。 「この間の二人を見てて、ピピッとインスピレーションが湧いて書いたのよね。間違いなかったわぁ。観る前から成功だわ、これ」 「……書いた?」 「あぁ、麻青くん聞いてなかった? 今回の脚本、私が書いたのよ」 「えっ、そうだったんですか!?」  台本には劇団名と脚本家名が入っていた。香夏子さんの名前なら気づいたはずだけど、と見直してみると『暮ノ宮(くれのみや)カナ』となっている。  この間聞いた名前は『落合(おちあい)香夏子』さんだったと思うから── 「……ペンネーム?」 「ペンネームというか芸名というか。私、この劇団の初代代表なのよ。結婚を機に引き継いだんだけど」  ほぼ同時に遺産としてこの店を譲り受けた香夏子さんは、お店の経営をしつつ、脚本の寄稿やアドバイザーのような形で演劇業界にも関わり続けているらしい。 「だからジャズ喫茶なのに、音楽だけじゃないステージも多いんですね」 「そういうこと。出演者は大体みんな私の知り合いだしね」 (半分趣味って言ってたのもそういうことか。プロの元劇団代表さん……すごいな、あらたに紹介してあげたいなぁ。なぎ先輩のことは秘密だから難しいけど……)  ちょっと残念に思いながら劇団の人たちと挨拶を済ませた。 「渚くん、久しぶり! 今回も綺麗だねぇ」 「ホント、実織ちゃんの腕もどんどん上がってるよね。いつ見ても見惚れちゃうわぁ」 「ありがとうございます。今日もよろしくお願いします」  なぎ先輩は劇団の人とも顔見知りで、気さくに話している。  ご近所のこの店と『西東京ビューティー&アート専門学校』も、昔から浅からぬ付き合いがある。その縁での依頼なので、何度か共演しているということだった。 「さぁ、そろそろ準備お願いね!」  開演10分前、香夏子さんの号令で順次控え室を出て舞台袖に移動する。  時間になると店内は、薄闇の中にほのかな青い照明が揺らめく幻想的な空間になった。  海の底にいるような気もしてくるけれど、これは夜を照らす月の光を表しているのだろう。  2体の兄弟人形は持ち主に手離され、人形店の狭い一室にいる。高価すぎて買い手がなく、店頭にも出されず保管されているのだ。  彼らは孤独だった。だがある日、その美しさに魅了された月の精の魔力を得て、満月の夜にだけ自らの意思で動けるようになる。  そこには自由と幸福があると思い街に出た兄弟だったが、眠らぬ世界では夜にこそ人々の醜い感情がうごめいていた。  怒り、憎しみ、悲しみ、虚飾──そこから生まれる犯罪。  兄弟は自分たちの世界のほうがよほど美しいと嘆き、再び二人きりの世界に閉じこもることを選ぶ。  これが、今回の朗読劇の内容だ。  30分くらいの短いストーリーで、動きは台本で指示されているし、朗読のセリフに合わせればいいから間違える心配もない。自分で言うセリフも2つだけなのですぐ覚えたけれど……… (ぶっつけ本番、大丈夫かな)  わずかにそんな不安が心をかすめた時、傍らに立つ先輩が僕の肩に手を置いた。 「よろしくね、可愛い我が弟」 「はい。よろしくお願いします、『兄さん』」 「オレたちなら問題ないよ。一夜(ひとよ)の幻想、楽しもう」  先輩の唇が綺麗な弧を描く。メイクのせいか壮絶なまでに妖艶なその笑みを見て、不安は消えていった。  こんなにも妖しく美しい『兄』、焦がれずにはいられない。  海の底に二人で沈むような、幸福な孤独。  欲しい、と本能のように願ってしまう。  先輩の笑みひとつで、僕はもう『弟』だった。 『ずっとここにいよう。そうすれば、私たちが(けが)れることはない』 『はい、兄さん。僕には兄さんがいればいい。美しいあなたさえ傍にいてくれれば』 『月の精よ。幸福を与えてくれるのであれば、どうか永遠に私たちが離れぬ未来を』 『二人きりの世界──それが僕たちの幸福です』  BGMがフェイドアウトしていき、照明が一度落ちる。  次には普通の照明が灯り、拍手の中、僕は先輩や劇団の人たちと一礼して舞台袖に下がった。 「はぁっ……」 「お疲れさま」  先輩の手が労うようにぽふっと頭をなでる。 「お疲れさまです。僕、大丈夫でしたか?」 「それ確認する必要ある?」  ちらっと客席の方向に目をやって、先輩はおかしそうに肩をすくめた。  お客さんの「よかった」「綺麗だった」「見入っちゃった」などと褒めてくれる声が、ここまで届いている。 「麻青のバイトを歓迎してないのはたしかだけど……また一緒のステージに立てたのはよかった。楽しかったよ」 「……ほんとですか!?」 「ああ。春で引退したのは寂しかったし、オレたちが育てた後輩が、こんなにいい役者になったんだからね。オレも鼻が高いよ」 「あ、ありがとうございます!」  こんなふうに言ってもらえるとは思っていなかったので、じわっと目の奥が熱くなる。  けれど感動に浸る間もなく、実織さんが速足で近づいてきてなぎ先輩の手を取った。 「渚、こっちこっち、早く!」 「もう? 水くらい飲ませてよ」 「水も用意してあるから。あんま時間ないんだよ」 「はいはい。じゃあね、麻青。オレもう1ステあるから」 「えっ?」 (先輩、まだ何かするの?)  驚くも、すでに二人はバックヤードに消えている。  香夏子さんも見かけないのでお店の人に聞くと、このあとにもうひとつ、なぎ先輩が歌うステージがあるらしい。 「僕、ここで見学しててもいいですか?」 「もちろん」  快諾してもらえたのでそのままステージ袖で待っていると、20分くらいして衣装を着替えたなぎ先輩が戻ってきた。  メイクもアレンジされていた。先ほどまでよりシンプルで、淫靡さが軽減されている。 「あれ、麻青。まだいたの」 「先輩が歌うって聞いたので……見学してていいですか?」  嫌がられるならやめようと思っていたけれど、先輩は一瞬苦笑してから、「ご自由に」と言ってステージに出ていった。  再び店内の照明が落とされ、舞台にスポットライトが当たる。  先ほどの『兄人形』だと気づいた人もいるのか、登場だけで歓声が上がるなか、ピアノの伴奏が始まった。  そして、スタンドマイクに手をかけた先輩が歌い始める。  英語の歌詞のジャズソングだった。 (すごい……上手……)  どこか気だるげなメロディライン。ときどき声がかすれ気味になるのは多分わざとなんだろうけど、扇情的だ。  英語なので歌詞はなんとかくしかわからないけれど、恋愛の曲のようだった。 (あの夜もこんな感じの曲だったな)  以前見た、月の下で歌う先輩を思い出す。  場所も服装も違うし、今はメイクで素顔はほとんどわからない。  それでもやっぱり、同じように綺麗だと思った。 「──……、──……」  伸びやかな声が店内を満たす。  歌っている時の彼は、何かから解放されているように見える。 「気持ちよさそう……」 「だね~」  漏らした声に返答があって、いつの間にか隣に実織さんがいることに気づいた。  自分がメイクしたなぎ先輩を、誇らしげな顔で見ている。  僕も先輩に視線を戻した。『I need』から始まる歌詞を、目を閉じて情感的に歌い上げている。 「今の先輩は……うまく言えないけど、自由なんだなって感じがします」  自由と幸福を求める兄弟を演じた直後だからかもしれないけれど。  そんなふうに思えて実織さんに言うと、彼女は「合ってると思うよ」とうなずいた。 「むしろ、そのためにやってるっていうか。あの子にはこの時間が必要なんだよね」 「え……?」 「円城寺渚を解放できる時間っていうか……『円城寺渚』でいなくてもいい時間、かな。それが必要なの。でないと窒息しちゃうから」  先輩を見たままそう話す実織さんの横顔に笑みはない。  いつ消えるとも知れない蜃気楼を見つめるような瞳に、心臓を冷たい手でなでられたような不安を覚えた。 「窒息って……?」  僕まで神妙な声になったからか、実織さんはハッとしたように目元を和らげる。 「って、ははっ、ごめん。ちょっと話しすぎちゃった。また渚に怒られそうだから今の内緒ね!」 「……は、はい」  本当は気になって仕方がなかったけれど、しつこく聞けば実織さんを困らせてしまうだろう。簡単に詮索していいことではない気配もあって、僕は素直に引き下がった。 (でも……なぎ先輩がこのバイトをしてる理由は、単なる受験勉強の息抜きっていうだけじゃないのかもしれない……)  ●〇●〇  実織さんの言葉はわだかまりを残したものの、先輩の歌に再び引き込まれ、2曲目が終わる頃には感動で胸が熱くなっていた。  ステージ終了後、実織さん、なぎ先輩と連れ立って学校に戻る。  メイクを落としながら、僕は冷めやらない感動をなぎ先輩に伝えた。 「すごく、すごくよかったです! プロみたいでした。英語なのに……ほんとすごいです」 「ありがと。でも麻青、語彙力ない子になってる。『すごい』、もう10回くらい聞いた」 「す、すみません。でも本当にすごかったから……」 「話してばっかいないでちゃんとメイク落としな。残すと肌に悪いよ」 「あっ、はい」  リムーバーを交換して、しばらくメイク落としに専念する。  なぎ先輩は実織さんにラメチップを外してもらっていた。それが終わると実織さんは、「ちょっと電話かけたいとこあるから」と言って部屋を出ていく。  メイクを落とし終わり、洗顔も済ませると心は幾分落ち着きを取り戻していた。  でも冷め切ってはいなくて、着替えをしながら再び、控えめに切り出す。 「先輩、ジャズが好きなんですか?」 「どうだろ。ジャズに限らず音楽全般好きだけどね。しっくりきて歌いたくなる曲は、たしかにジャズが多いかもな」 (しっくり? 自分と合うってことかな……?) 「歌詞、英語だから全部はわからなかったけど、今日のはどっちも恋愛ソングでしたよね……?」 「ていうか、世の中の曲って大体は恋愛ソングじゃない?」  先輩の声に皮肉の色が混じる。  おそるおそる尋ねた僕の心中を、彼も敏感に察したのだと気づいた。 「メロディが好みかどうか程度のことだよ。歌詞の内容はそこまで気にしてない」 「……そうですか」 (先輩が恋愛トークにのってくれるなんて思ってたわけじゃないけど……)  それでも、こうしてしっかり予防線を張られてしまうと、やっぱり気分は落ち込む。  気まずい思いでブラウスのリボンに手をかけた。胸元にも背面にも編み上げリボンがあって、脱ぐのもけっこう大変なデザインだ。 「あっ……」  ほどいたリボンが袖口のボタンに引っかかった。沈む心に追い打ちをかけるようなもたつき具合で、自己嫌悪に陥りそうになっていると── 「じっとして」  すっと影が落ちて、上のほうから声が降ってくる。  顔を上げると、先輩がすぐ傍に立っていた。 「こら。引っ張っちゃダメ」  とっさに動かしかけた手首をつかんで止められ、ボタンに引っかかったリボンを外してくれる。 「っ……」  距離が近い。しかも…… (先輩、着替えてる途中だったんじゃ……シャツが……)  胸元が半分くらい開いていて、白い素肌があらわになっている。 (お礼、言わなくちゃ……)  そう思っているのに、呼吸すらできない。 (なんで、こんな……)  こんなの、僕がドキドキしないわけないのに。どうして、今。  無言で見上げると、表情のない顔が視線を受け止めた。  1秒にも満たない、けれど僕にはとても長く感じられる沈黙のあと、先輩は嘆息するようにふっと笑う。 「悲しいかな、トロい子はほっとけない性分なんだよなぁ」 「ト、トロいって……」 「いいから、動かない」  先輩はそのまま、胸元のリボンを外してくれた。結び目をほどき、首が通るくらいまで広がるようにひとつひとつ編み込みをゆるめてくれる。  ドクンドクン、自分の心音がうるさい。下唇を噛んで、僕は体が震えそうになるのを堪えた。  やがてリボンをゆるめ終わった先輩は、一歩下がって少し距離を取る。 「あんまりかわいそうな子の顔しないで」 「え?」  顔を上げたのと同時に、頭に何かが被さった。  テーブルに置いてあったさっきまで僕が着けていたウィッグを、先輩が頭の上にのせている。 「うん。こうしてるとほんと、お人形みたいに可愛い」 「先輩……」 「そういう麻青でいてよ。可愛いねって、オレが可愛がってあげられるようないい後輩で」 「…………」  それなら、こんなドキドキさせるようなことしないでほしい。  喉までそう出かかったけれど、のみ込む。  それとも僕は、突き放したいのに突き放しきれないくらい、もの欲しそうな顔をしているんだろうか。 (でも、隠せない。だって僕は……)  これまで見たことのなかった表情、新たな一面を知るほどに、どんどん惹かれてしまっているから。 「先輩……僕は……」  なんとかこの気持ちを言葉にしようとした時、部屋の扉をノックする音が響いた。 『お二人さん、着替え終わった? もう入っていい~?』  実織さんだ。 「ごめん、もうちょっと待って」  なぎ先輩が返事をし、僕にも「急ごう」と言って離れていく。  せかせかと着替えて実織さんを迎え入れると、「今から飲み会が入っちゃった」と言うので、彼女とは学校を出たところで解散した。  僕の帰路も一度駅を通るので、先輩と二人で駅までの道を歩いていく。 「あ、惜しい」  突然先輩がつぶやいたのでなんのことかと見やれば、彼の目は上空に向けられていた。 「……月?」  最初は満月かと思ったけれど、よく見ればごくわずか、正円に満たない。 「十四日月、ですね」 (ああ、だから『惜しい』か)  満月の夜だけ生を得る人形たち。今日が満月なら、演じた舞台とまさに同じだったのに、ということだ。 「でも、満月じゃなくても綺麗です」 「そだねー」  あまり感情のこもっていない軽い相槌だったのでその表情をうかがうと、 「オレはどっちかっていうと、あんまり明るくない夜のほうが好きだから」 「それって、夏の空が苦手なのと同じ理由ですか?」 「そんなところかな。満月だと夜なのに明るすぎ」 (そうなんだ。満月の下で歌う先輩も、リラックスして見えたけど……)  あの『ナイショ』の夜のことを話題にしたことはない。  言ったらどんな反応をするだろう。また、いい子でいなくちゃダメでしょという目で苦く笑うんだろうか。 「……先輩は、冬の空に浮かぶ三日月みたいです」  言えない代わりに、そう伝えた。 「へぇ」  先輩は笑い含みにそれだけをつぶやく。  三日月なので光は弱く、満月のように煌々と僕らを照らしはしない。だけど見上げればそこにあり、かすかな光を降らせている。  冴え冴えと冷たい、|静謐《せいひつ》で硬質な美しさ。ひそやかで控えめで、はかないのにどこか優しい。 「それ、誉め言葉?」  しばらく間を置いてから抑揚のない声で問われ、僕も静かに答えた。 「もちろん誉め言葉です」  だって僕は、こんなにも目が離せない。

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