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【3】秘密の契約

 夏休みも終わりに近づいていた。僕は変わらず、部活とバイトに明け暮れる日々を送っている。  準主役を務める舞台は苦労も多いけれど、おおむね順調だ。練習は着々と進み、芝居も完成形に近づいていた。  変わったことといえば、あれ以来待ち合わせするなぎ先輩を見かけることがなくなった。  もう女の人たちとは会っていないのか、単に待ち合わせ場所を変えただけなのか、それはわからない。僕には知るすべもない。  もちろん、探る権利もないとわかっている。  だけど……気になる心を、どうしても抑えられなかった。 「渚に変わったこと?」  その日の部活はまた大道具の制作日で、3年の松田(まつだ)涼介(りょうすけ)さん、通称りょう先輩が来ていた。春に引退した先輩の中で、一番手伝いに参加してくれているのが彼だ。大道具チームのリーダーを務め、当日は音響も担当してくれる。  そのりょう先輩とるー先輩に、僕は思い切って「最近なぎ先輩に変わったことがないか」と尋ねた。 「なんでそんなこと気になるんだ?」と、るー先輩。 「大したことじゃないんですけど、前回会った時なんか元気なかったような気がして。夏バテとかしてないかなぁって」  口止めされたことを話すわけにはいかない。持っている演技力を総動員して、軽い口調で答える。 「夏バテは大丈夫だと思うが。俺も会ってないし、あいつはプライベートの話をあまりしないからよくわからないな」  りょう先輩が言い、るー先輩も「だな」とうなずいた。 「オレも、前にあいつが打ち合わせに来た時会ったきり。たまにラインで話してはいるけど」 「……そうですか」 「でも、特に何も聞かないってことは、順調に受験生やってるんだと思うけど?」  るー先輩にそう言われ、それ以上食い下がることはできなかった。  それから数日後のバイト中。  仕事をしながらも、僕はつい駅前の広場に目をやってしまっていた。 「穂村っち、何してんの? 品出し進んでないじゃん」 「あっ、ごめんなさい」  緒方さんに叱られ、慌てて止まっていた手を動かす。 「なんか最近、ボーっとしてること多くない? 大丈夫?」 「はい、大丈夫です」 (ダメだな、僕)  多分もう、先輩はここには来ない。なんとなくそんな気がしているのに、無意識のうちに彼の姿を探している。  その日は18時に勤務を終え、店を出た時にも、いつも先輩が立っていた場所を確認してしまった。  でも、もちろんその姿はない。  未練を断ち切るように瞬きをしてから、家の方向へと歩き始める。  見覚えのある人とすれ違ったのは、その直後だった。 (今の人……!) 「あのっ、すみません!」  とっさに振り返り、その人を呼び止めていた。 「え? 私?」  呼ばれた人はいぶかしむように眉を寄せている。  自分でもよく覚えていたなと思うけれど、その顔を見れば間違いないと確信した。 (初めて見た時、なぎ先輩と会ってた人だ)  前に会った「綾羽さん」とは別の人。  でも、背中や肩にタッチしたりして、この人が一番先輩と親しげだった。 「なんですか?」  女の人が首をかしげると長い髪が揺れる。  前に見た時はたしかポニーテールだったけど、今日は下ろしていた。 「と、突然すみません。えっと……」  僕はボトムパンツをぎゅっと握って焦り始める。 (勢いで呼び止めちゃったけど、なんて聞こう……) 「あの……この前、なぎせんぱ……円城寺先輩と……」 「──ああ! もしかしてキミが渚の後輩?」  不審そうだった女の人の顔がぱっと明るくなった。合点がいった、という様子だ。 「あ、はっ、はい! そうですっ」 「そっかそっか。綾羽さんからも聞いてたからピンと来たよ。いやキミ、マジでめっちゃ可愛いね!?」  ハイテンションに、バンバンと背中をたたかれた。思わず「うっ」と声を漏らしてしまう。 「っと、ごめんごめん。予想以上の可愛さだったから興奮しちゃった。それで、私になんの用? 渚を探してるの?」 「いえ、探してるわけじゃないんですけど……最近は見なくなったので……」 「待ち合わせ場所変えたからね」  サラリと返ってきた返事が胸に刺さる。  これも、なんとなく予感はあったけれど…… (やっぱり会うのをやめたんじゃなくて、場所を変えただけだったんだ) 「……それって僕のせいですか?」 「うん。後輩に見られてたから、これ以上変な誤解されたくないしって、渚が」 「誤解……」 「ママ活だと思ったんでしょ? 詳しくは言えないけど、ほんとそんなんじゃないから安心していいよ。渚は女遊びなんかしないって」  そう言ってからからと笑っていた女性は、ふと思い出したように腕の時計を見た。 「ヤバ。ごめんね、それじゃ私、行かなきゃならないとこあるから」 「……はい。突然呼び止めてすみませんでした」  頭を下げて、立ち去る女性を見送る。  ところが、しばらく歩いたところで彼女は再び足を止めた。  スマホに着信があったようで、バッグの外ポケットから出して画面を確認する。直後、「えっ、今!?」と大きな声をあげた。 (……メッセージかな。どうしたんだろう?) 「あ、そか、地下いたから……。うわ、マジか~。えー、どうしよ……今からじゃ他の人間に合わないかも……」  その場で彼女はおろおろとうろたえ始めた。そして、ガバッと勢いよくこちらを振り返る。 「後輩くん!」 「!? は、はいっ」  ズンズンと速足で戻ってきた彼女は、真剣な表情で僕に詰め寄った。 「キミ、渚の後輩ってことは演劇部なんだよね? ってことは演技できるんだよね?」 「えっ? まぁ、一応……」 「一応でいい。お願い、助けて!」  パンッと、顔の前で両手を合わせて拝むポーズをされる。  僕が面食らっていると、手を下ろした彼女はさらにぐいっと体を寄せてきて、 「渚には怒られると思うけど私が責任持つから! 大丈夫、もとは渚のせいだし!」 「はい? いや、あの、話がよく……」 「詳しくは歩きながら説明する。とにかくドタキャンはまずいし時間ないの! 今から3時間、時間ちょうだい。ムリ?」 「……ムリ、ではないですけど……」 「助かるっ! ありがとう! んじゃ行こう!」  むんずと手首をつかまれる。 「あっ、私、瀨多(せた)実織(みおり)。よろしくねっ」  ついでのように名乗って歩き出す実織さんに引かれ、僕はわけもわからぬまま彼女のあとをついていった……。  ●〇●〇  連れていかれたのは、駅から徒歩5分くらいのところにある『西東京ビューティー&アート専門学校』というところだった。  実織さんはそこの生徒らしく、僕に来客受付をするよう言って、自分はIDカードで駅改札のようなセキュリティを抜ける。 「……ここでメイクするんですか?」 「うん、そう」  歩いている5分の間に聞いたのは、『なぎ先輩の代わりにバイトしてほしい』ということ。  内容はちょっとしたステージへの出演で、まずはそのためのメイクと着替えをする、ということだけ。  正直、状況に頭が追いつかなくて、内心軽くパニックを起こしかけている。 「僕、何をしたらいいのかも全然わからないんですけど……」 「大丈夫、今日のは台詞とかないやつだから。パントマイムっていうの? 設定になり切って適当に動いてもらえればそれでOK!」 「ええっ!? や、適当っていっても……」 (パントマイムなんて、基礎練習でたまにしかやったことしかないよ……!) 「とにかく先に着替えね! はい、入って入って!」  2階にある家庭科室のような雰囲気の部屋に案内されると、中には4人の女の人がいた。  そのうちの一人が、僕の顔を見た途端「あっ」と声をあげる。 「いつかの後輩くんじゃん!」 「あ……ど、どうも……」  それは以前会った綾羽さんだった。よく見ればもう一人も見覚えがある。なぎ先輩と待ち合わせしていた中で、一番控えめなファッションのおっとりした感じの人だ。  他の二人は初めて見る人だったけれど、どちらも大人っぽい、綺麗な人だった。 「穂村麻青くん。渚の後輩で、演劇部でいつも女役やってるって。どう、ピンチヒッターだけど超逸材じゃない?」  実織さんが、歩いている間に話したことを他の人たちに伝える。  4人の女の人たちの目は、キラキラと輝いていた。 「ほんと! 渚くんは美人だけど麻青くんは可愛いね。彼だったらロリのほうが合うんじゃない?」 「タッパ的にもそだね。ロリでいこ!」 「ロ、ロリ……?」 「やだ、怯えないで。衣装の話だよ。これこれ!」  一人が壁際に置かれたハンガーラックに歩み寄る。  そこにはドレスのような服がいくつか掛かっていて、彼女は丈の短い一着を手に取って僕に見せた。 (うわ、すご……)  それはフランス人形が着ているような、ボリュームのあるドレスだった。淡いピンクで、白いレースとリボンがふんだんにあしらわれている。 「素敵でしょ? 渚くんにはもっと大人っぽいデザインの用意してたんだけど、キミならこっちのほうが絶対似合うよね!」 「は、はぁ……」  どうやら『ロリ』というのは可愛い系、というくらいの意味のようだけど……。 「僕がこれを着る、ってことですよね……?」 「そう! 大丈夫大丈夫、お姉さんたちに任せなさい! 可愛くしてあげるから!」 「……!」  ランランと目を光らせた5人に囲まれ、NOとは言えない気迫を肌に感じる。  ──そして10分後。僕は白いタイツを履き、ドレスを身に着け、頭には金髪くるくる巻き毛のウィッグとヘッドドレスを装着して、すっかりお人形さんのようになっていた。 「かっ、可愛い~~~っ!」 「あ、ありがとうございます……」  5人が顔を赤くして大絶賛してくれるので、一応お礼を返す。 「じゃあ次はメイクね。時間もないしささっとやっちゃおう」  メイクは綾羽さんが中心になって施してくれた。これも10分くらいで完了し、僕はさらに華やかなお人形さんへと変身した。 「どう、麻青くん?」 「……す、すごいです」 (自画自賛する気はないけど、これは……うん、すごい)  どうやら皆さんこの学校でメイクやファッションを学んでいる生徒さんのようだけれど、さすがプロを目指しているだけある。  時間はそんなにかけていないのに目は2倍くらいぱっちりして見えるし、頬は少女のように自然な桜色。それでいて唇には妖艶な艶がある。  それこそフランス人形のようなクラシックさもあって、僕の顔だとは思えないほどだった。舞台公演の時、自分でするメイクとはまったく違う。 「ありがと。じゃ、会場に行こうか。このビルのすぐ近くだから」 (あ。そ、そうだった)  変身した自分に放心している場合じゃなかった。問題はこのあとだ。  案内役は再び実織さん一人になり、他の人たちは学校に残る。  スタッフジャンパーのような上着で申し訳程度に体を隠して外に連れ出されたけれど、移動した先は聞いていた通り、学校から2分もかからない距離だった。  学校は4階建てくらいのビルで、裏手が小さな雑木林になっている。その林に沿ってひっそりと、周囲とは趣の異なる洋館みたいな建物があった。  赤茶のレンガ壁にダークグリーンの瓦屋根。三角屋根の窓。重厚感のあるマホガニーのドア。そして、『ジャズ喫茶エテ』という小さな立て看板が出ている。  実織さんは建物の裏手に回り、勝手口のようなところを開けて中に入った。 「香夏子さん、瀬多ですー! 遅くなってすみません!」  入ったところは僕が働くコンビニのバックヤードのような雰囲気で、薄暗い空間に棚やロッカーが設置され、床にも段ボール箱がいくつか積まれている。  続き間のキッチンも見えていたけれど、それとは反対側、どこか遠くのほうから「こっち来て~」と声が聞こえてきた。 「麻青くん、こっち」  実織さんが先に立ち、僕を手招きする。  薄暗くて気づいていなかったけれど、地下に下りる階段があるようだった。 (地下室のある洋館? なんかミステリー小説みたい……) 「ここ、明治時代に建てられた洋館を改装してるんだよ。地下は、昔は使用人部屋と貯蔵庫だったみたい。んで、今は倉庫兼控え室。狭いけど」  階段を下りながら実織さんが説明してくれる。  地下は狭い通路にドアがふたつあり、実織さんは片方をノックして返事を待つことなく開いた。 「失礼しまーす」  中はコンクリートの壁に囲まれた部屋で、予想以上に明るく、予想以上にたくさんの人がいた。  外観や上階の雰囲気から、なんとなく薄暗いひっそりした部屋を想像していた僕は軽く面食らう。 「あらまぁ、可愛らしいこと!」  部屋は中央に会議室のような四角いテーブルがあり、入り口からほど近いところに座っていた女性が、弾んだ声をあげて立ち上がった。 (この人、前にカフェでなぎ先輩にお金を渡してた人だ……!) 「渚の後輩の麻青くんです。こういうの初めてだと思うんで、渚みたいには難しいかもしれないですけど……」 「いいわよぅ、体調不良なら仕方ないわ。むしろすぐに代理の子を見つけてくれてありがとう。しかもこんなに可愛い子!」 「いやもう、偶然なんですけど超ラッキーで。それで香夏子さん、台本見せてあげてくれますか?」 「ああ、そうよね。ごめんなさい。はい、これ」  女性がテーブルに置いてあった台本を手渡してくれる。 (この人が、綾羽さんの言ってた『香夏子さん』だったんだ)  話の内容から、おぼろげにだけどなんとなくつかめてきた。 (きっと香夏子さんがこの店の人で、なぎ先輩はバイトをしてて……詳しい関係はわからないけど、実織さんたちも手伝ってるかなんかで……なぎ先輩が香夏子さんからお金を受け取ってたのは、バイト代ってこと?) 「といっても麻青くんに台詞はないし、演奏と歌に合わせてなんとなくやってくれたらいいわよ。こんなに素敵なんだから、そこにいてくれるだけで映えるわ」  香夏子さんが言い、他に座っていた40代くらいの男性と、30代くらいの女性二人が「うんうん」とうなずいた。ちなみに香夏子さん以外の3人は、結婚式に参加するようなスーツとドレス姿だ。  僕はとりあえず台本を開いた。といっても薄くて、舞台の台本のような台詞は書いていない。 (台本っていうよりは、進行表みたいだな……)  中表紙に『ピアノ、ヴァイオリン、歌唱』と文字があり、それぞれの下に名前が書いてある。どうやらこれが香夏子さん以外の、正装している3人のようだ。  読み進めると、オーナーの前口上から始まる進行内容がそこそこ細かく書かれている。  最後まで目を通して、僕はようやく自分がこれからすることの全貌を把握した。  このジャズ喫茶エテにはライブ用のステージがあり、定期的に様々なイベントを開催している。  今回の演目はオペラのソロコンサートのようなもので、メインはプロ歌手によるアリアの歌唱だ。  でもそれだけじゃなく、より視覚的に楽しいステージになるよう、歌唱に合わせて演者が一人、曲の世界をパフォーマンスで表現する。  曲は、無垢な乙女の恋の芽生えから失恋までを4曲で構成したもの。僕はそれに合わせて、曲の主人公の感情を言葉ではなく動きで表現する。 そういうユニークな演目がこの喫茶の目玉で、人気があるらしい。 (って、これ、けっこう難しいんじゃ……)  『なんとなくでいい、いるだけで映える』と言われても、責任は大きそうだ。  今になって背中を冷たい汗が伝い始める。 「ぼ、僕、うまくできるか……」 「だーいじょうぶだって! 渚も毎回直感でやってるから、麻青くんは麻青くんの思うようにやれば!」  実織さんがバンッと僕の背中をたたいた。この人のボディタッチは癖というか、性格のようだ。 「直感で……」 (すごいな、なぎ先輩。部活でもナンバーワン憑依型って言われてたけど)  高身長だけど、彼は男役から女性役まで様々な役をこなしていた。役柄ごとに、同一人物が演じているとは思えないくらいまったく雰囲気が変わるのだ。  1年の頃から、その演技力には後輩全員が感嘆の息をもらしていた。  その先輩のピンチヒッター。僕に充分な代役が務まるかはわからないけれど…… 「……わかりました。先輩の助けになるなら、がんばります」  開演は19時30分。それまでの間僕は台本を読み込んだり、アリアの歌詞を教えてもらったりと、できるだけのことをして本番に臨んだ。  店内は、外観と同じレンガ壁のクラシカルな内装だった。艶のある木製家具はアンティークで揃えられているようで、歴史あるイギリスのパブのような雰囲気だ。あくまで喫茶なので、お酒は扱っていないらしいけれど。  奥に小ステージがあり、ピアノはステージの横に置かれている。  座席はほとんどが人で埋まっていた。その賑わいを、僕はステージに出るカーテンの奥で聞き、ごくっとつばを飲み込む。 「緊張してる?」  香夏子さんが気遣うように聞いてくれる。 「はい。……でも、やれるだけやってみます」 「楽しんでくれればいいのよ。渚くんもそうだから」 「楽しんで……」 (なぎ先輩は、楽しいからやってるんだ……?) 「後はまあ、個人経営の店でやってる、半分私の趣味みたいな催しだから。お客様からも大した料金頂いてないしね。お祭りの余興くらいのつもりで!」 「そ、それはさすがに……」 (まるきり出任せじゃないだろうけど、僕の気を軽くしようとして言ってくれてるんだよね、きっと)  少し話しただけだけど、いい人だなと感じた。とにかく今は、最大限がんばってみよう。  開演時間になると店内が薄暗くなり、ステージにだけ明るい照明が当たった。まずは予想通り、この店のオーナーだった香夏子さんが口上に出ていく。  ピアノ、ヴァイオリン、歌唱の3人が配置につき……その後、一度暗転した隙に、僕はステージ上手側に用意されたソファに座った。  薄闇の中、ピアノの前奏が始まる。ヴァイオリンの音が重なったのと同じタイミングで、奏者と僕にスポットライトが当たる。始まった。 (僕はこの曲の主人公。恋に夢中になる純真な乙女。彼女の感情を、動きと表情でみんなに伝える……!)  ●〇●〇  気づくと、店内に響き渡る拍手に包まれていた。  夢から醒めたような気分で、笑顔のお客さんたちをぼうっと眺める。 「すっごくよかったわよ、麻青くん!」 「ほんと! さっすが渚の後輩! おとなしそうな顔してやるじゃん、もうっ!」  地下の控え室に戻ると、香夏子さんと実織さんが抱き締めんばかりの勢いで褒めてくれた。相変わらず実織さんがバシバシ背中をたたいてくるので、心と体が一気に現実へ引き戻される。 「曲が始まってからは夢中で……うまくいってたらよかったです」 「大成功よぅ! 麻青くんにもまたお願いしたいくらいだわ」  香夏子さんがそう言った時、コンコンと速いノックの音がした。小さくドアが開き、滑り込むように人が入ってくる。 「……麻青」 「なぎ先輩!」  マスクをして、苦しそうに眉間を寄せたなぎ先輩だった。 「渚!? どうしたのよ、あんた熱あるんじゃないの?」  実織さんも驚いている。 「薬飲んで寝てたら熱は下がった」  答えながら、なぎ先輩は咳込んだ。 「風邪ですか? 大丈夫ですか、先輩?」 「……あんまり大丈夫じゃないから、申し訳ないけど出演はキャンセルさせてもらったんだけど。起きたら、麻青に代役頼んだってライン来てたから」  その後のやり取りで、なぎ先輩は昼過ぎには実織さんに連絡していたこと、でも実織さんが地下にいたため、受信が遅れてしまったことがわかった。  また、香夏子さんからの依頼は実織さんが『西東京ビューティー&アート専門学校』の知人と結成しているクリエイター集団にされているもので、なぎ先輩は実織さんたちが派遣した演者。あくまで実織さん経由の仕事らしい。だから香夏子さんではなく、実織さんに連絡していたというわけだ。 「ごめん、麻青。巻き込んで」  力のない声で謝ってくるなぎ先輩は、明らかにまだ具合が悪そうだった。 「いえ、僕がお引き受けしたことなので。というか先輩、それを言うためにわざわざ……?」 「なんの関係もない後輩に迷惑かけたとあっちゃ、放っておけないでしょ」 (なんの関係もない……)  その言葉にまた壁を感じてしまうのは、きっと僕の気のせいじゃない。 「まぁでも……巻き込んじゃったお詫びに、説明はするよ」  その後、香夏子さんや他の出演者に挨拶して、僕は実織さん、なぎ先輩と共に専門学校へ戻った。  僕がメイクを落として着替えている間に、なぎ先輩は傍らの椅子に座り、これまで気になっていたことを教えてくれる。 「実織は中学の時の、2コ上の先輩。年上だけど当時から仲よくて、今も続いてるんだ」 「今はこの学校の2年生。メイクアップアーティスト目指してるの」  僕が着ていた衣装の状態をチェックしながら、実織さんも会話に入ってきた。 「綾羽さんとか、麻青がこれまで見てきた待ち合わせの相手は、全員実織の同級生や先輩後輩。今日会った人もいると思うけど」 「はい。でも、どうして毎回違う人と待ち合わせを?」 「この学校セキュリティ厳しくて、生徒と一緒じゃないと中に入れないんだよ。オレが実織経由でやってるバイトは今日のエテ以外にもいくつかあるし、自分で直接やってるのもあるけど、全部実織たちにメイクをしてもらってる。だから、毎回誰かと待ち合わせてからここに来てた」 「え……先輩、そんなにたくさんバイトしてるんですか?」 (しかも、全部メイクが必要なバイト?) 「リピートはあるけど、どれも単発の案件だからね。この学校の生徒が行うショーのモデルとか、店舗や地域のイベント出演とか」 「イベントってどういうことするんですか?」 「いろいろ。演じたり、歌ったり、マジックしたり」 「マジック!? 先輩、そんなこともできるんですね……」 「全部、気晴らしだよ」 「気晴らし?」 「そう。受験勉強の合間の息抜き」  たしかに、待ち合わせを目撃した頻度を思い返すと、週に1、2回というところだった。 「連日予備校通って、基本的にはちゃんと受験生してるよ。でもたまには気晴らししないとストレス溜まるから」 「そっか……そうですよね」  夏まで部活をする3年生もそれなりにいる中、なぎ先輩は春で引退して受験勉強にシフトした。それにはちゃんと理由や目的があるんだろうけど、望んでしていることにだって休息は必要だ。 「──な? ヤバいことなんて、何もなかっただろ?」  具合が悪そうながらも、なぎ先輩は悪戯っぽく目を細める。 「はい。疑ってすみませんでした」  最後に洗顔して普段の自分に戻った僕は、先輩の前に立って頭を下げた。 「別にいいけど。余計な詮索とか気遣いされたくないから、部のみんなには黙っててね」 「はいっ、絶対に言いません」 「なんにしろ、今日は麻青くんが出てくれてほんとに助かったよ~」  実織さんが近づいてきて、提げていたサコッシュから封筒を取り出す。 「はい、これ香夏子さんから頂いたバイト代。渚が来て、最後バタバタしちゃったから預かっといた」 「あ、ありがとうございます」  中身を改めるよう言われて見てみると、想像していたより多いお札が入っていた。 「こんなにいいんですか?」 「いいのいいの。好評だったんだろ、遠慮なく受け取りな。ていうか、それでも普通にプロ呼ぶのよりは安い額だから」  なぎ先輩に言われ、恐縮しながらも封筒をバッグにしまう。 「渚もまた出てよね。あんたのステージも好評なんだから」 「わかってるよ」 「麻青くんも、今度はお客さんとして渚のステージ観に来たら? 渚、すっごいキレイだから」 「実織、余計なこと言うな」  咳込みながらなぎ先輩が嫌そうな顔をする。でも、僕は…… 「はい、見てみたいです」 (僕が知らない先輩の顔。もっと……見たい)  実織さんと話している先輩は、部活で見ていた姿より砕けている。こんなに不機嫌そうな顔をしている先輩というだけでもレアだ。 (ここでなら、今まで見たことのない先輩をもっと見られるかもしれない……) 「あっ、あのっ」  僕は勇気を奮い起こして、声を張り上げた。 「観るだけじゃなくて、僕にもまたバイトさせてくれませんか。なぎ先輩と一緒に」 「は!?」  なぎ先輩がガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。 「ダメだよ、麻青はもう関わらなくていいから」  真顔で言われ、本当に拒絶されているのだとわかる。  今までだったら引いていたかもしれないけど、今日の僕はそうしようと思えなかった。これまで経験したことない舞台の後で、気が昂っていたのかもしれない。  でも、それならそれでいい。この勢いを利用してでも、踏み込んでみたかった。 「僕、お金が必要だからコンビニでバイトしてるんです。だから割のいいバイトだったら本当にやりたいんです。お願いします、僕も仲間にしてください!」  もう一度、なぎ先輩と実織さんに向けて、深く頭を下げる。 「お金必要なんだ?」  尋ねたのは実織さんだ。真意を探ろうとするような目をしていた。 「はい。僕の家、きょうだいが多くて。両親は共働きだけど、それでも大変だろうと思うから、少しでも負担減らせるように長期休みの間だけでもバイトするようにしてたんです」  卒業までに自分でもできるだけ大学資金を貯めようと、1年の時からバイトしていることを話す。嘘じゃない。  じっと僕を見て聞いていた実織さんは、ぱっと笑顔になった。 「偉い! いい子だねぇ、麻青くん!」 「おい、実織──」  好ましくない雲行きを感じ、なぎ先輩がとがめるような声を出す。でも実織さんはそれを無視して、新たにサコッシュから何かを取り出すと僕に手渡した。 「不定期だけど、お願いしたいのあったら連絡する! これ私の連絡先だから、登録しといて」  渡されたのは名刺で、『アートチームFLUX(フレックス) MIORI SETA』という字と、裏面にQRコードがあった。 「実織!」 「いいじゃん、本人がやりたいって言ってるんだから。渚に止める権利ないでしょ」  すっぱり斬り捨てるような口調に、なぎ先輩は言葉を詰まらせる。 「それより早く帰ったら? 無理するとまた熱上がるよ」  ぽんと肩をたたかれ、なぎ先輩は深く息をついた。 「……わかったよ。正直体はキツいし」  苦々しくつぶやくような声を落とし、僕を見る。 「麻青、また今度話そう」 「……はい」  そう返事はしたけれど、僕は変わらず願っていた。  せっかくつかんだチャンスを、逃したくないと。

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