9 / 15
【9】秘密の庭
「あぁ、なんとか着れたわねぇ。よかったわ」
お風呂を出てリビングに入ってきたなぎ先輩を見て、お母さんがふくふくと笑う。
「下はさすがに短いけどねぇ。我慢してね」
「いえ、充分です。ありがとうございます」
なぎ先輩は、まだ呆けているような顔で軽く頭を下げた。
移動中もずっと、心をどこかに置いてきたような無表情で黙り込んでいたなぎ先輩。今にも消えてしまいそうな頼りなさで、僕は袖をつかんでおきたくなるのをなんとか我慢していた。
(でも、顔色はかなりよくなったな。よかった)
それだけでも、ずいぶん安心する。
着替えは福袋に入っていた未使用のMサイズパジャマで、上はオーバーサイズタイプだったので普通に着られた。でも下のスウェットは短くて、7分丈になっている。
「下、俺のパジャマのほうがマシだったんじゃないか?」
ソファに座ってテレビを見ていたお父さんが口をはさんだ。途端、お母さんに、
「あなたのじゃウエストガバガバに決まってるでしょ。自分のお腹見てから言ってちょうだい、もう」
「……はい、失礼しました」
容赦なくツッコまれ、すごすごと引き下がった。お父さんは173㎝で僕より高いけど、メタボ気味だ。
「麻青はほんとにお風呂いいの?」
「うん。髪も乾いたし平気だよ」
お母さんの問いかけに、僕は髪を示して見せた。
先輩が入浴中に僕も着替え、髪はドライヤーで乾かした。先輩ほどは濡れていなかったので、体ももう温まっている。
「それよりご飯にしよう。遅くなってごめんね」
ちょうど夕食の時間帯に、僕は家へ『今夜、学校の先輩を泊めてあげたい』と連絡した。両親はやってきた先輩がずぶ濡れで顔面蒼白なのを見ると驚いていたけれど、何も聞かずにお風呂を勧めてくれた。
夕食も希空と桃香には先に食べさせたけれど、両親は取らずに僕たちを待ってくれていたらしい。食事を終えた妹弟はお父さんと一緒に座って、好奇心の隠せない目でなぎ先輩を見ている。
「兄ちゃん、演劇大会の時に会った人だよね? やっぱかっけー!」
「希空、かっけーなんて言い方しちゃよくないよ……」
「なんで? 桃ねぇもあの時、姉ちゃんとすごいかっこいい人だったって言ってたじゃん」
「の、希空っ!」
ボンッと顔を赤くする桃香を見て、お母さんがのんきに「あらそう、演劇大会でねぇ」と笑っている。
そんな光景に、なぎ先輩の表情も少しだけ和らいだ気がした。その変化に、僕はひそかにほっとする。
(うちの家、賑やかだからちょっと心配もあったけど……大丈夫かな)
自分で言うのもなんだけど、我が家はみんな仲よくて、明るい家族だ。
サラリーマンのお父さん、パートタイムで働いてるお母さん。二人ともごく普通の人だけど、人がよくてにこやかで優しい。そして、素直で可愛い妹と弟。
温かい家族で大好きだけど、だからこそ今の先輩には、逆に鬱陶しく思えるかもしれないという懸念があった。でも今の先輩を見る限り、負担にはなっていなそうで安心する。
「なぎ先輩、ここ座ってください」
ダイニングテーブルの自分の隣、普段は希空が座っている席に先輩を促した。
「そうね、食べましょ食べましょ。お父さん!」
「ほいほい」
お母さんとお父さんもテーブルへとやってくる。
先輩は僕に背中を押されつつもためらいながら、
「いいんですか、オレまで……」
「いいのよう、うちいつも多めに作るから! 大したものじゃないけどね」
「遠慮なく食べてください、先輩。中からも体あっためないと」
「……うん、ありがとう」
そうして、4人で食事を始めた。興味深そうに周りを歩き回っていた希空と、ソファからチラ見していた桃香は、途中でお母さんに「宿題してきなさい」と言われて残念そうに部屋を出ていく。
先輩はやっぱり元気がないけれど、食事を進めるうちにだんだん表情から陰りが抜けていった。
「……あ、これもおいしいです」
「そう? うちの肉じゃが甘めでしょう、大丈夫?」
「全然。好きです、こういう味付け」
「あらそう、よかったわぁ!」
「それで、渚くんは演劇部の先輩なんだよな?」
「……はい。春で引退はしたんですけど」
「でも、9月の地区大会では照明とか手伝ってくれたんだよ」
「そうかそうか。いやぁ、うちの麻青が2年間、大変お世話になりました」
お父さんがペコペコしながら言うと、お母さんもしみじみと頬に手を添えて、
「麻青が演劇部に入ると聞いた時には、この子にそんなことできるのかって心配したんだけどね。楽しんでるようだったし、どんどん明るく積極的になっていって……いい仲間に恵まれたおかげだなって、本当に感謝してたのよ」
「ちょっと……やめてよ、お父さんお母さん。恥ずかしい」
急に感慨深そうな顔で話し出す二人を、僕は慌てて止めた。
「いやでも本当に感謝してるからな。麻青が変われたのは演劇部のおかげだろう」
「そうだけど……そんな話、今しなくていいから!」
顔が熱くなるのを感じながらきつめに言うと、両親は「はいはいわかったよ」と首をすくめる。
(もう、恥ずかしげもなくこういう話するんだから。今は僕のことなんてどうでもいいのに……先輩、困ってないかな)
横目で見ると、先輩と目が合った。ごく薄い笑みを浮かべ、何も言わずに食事を続けている。
その胸中までは読めないけれど、にこやかな両親のおかげで、食事は終始穏やかな空気のなか進んでいった。
●〇●〇
夕食を終えると、僕の部屋に来客用の布団を運び込んだ。布団を敷いている時、僕はふと、実織さんに連絡できていなかったことに気づく。
(そうだ。なぎ先輩と会えたこと、伝えておかないと。今も心配してるはず)
「先輩、ゆっくりしててくださいね」
先輩のいる前で連絡するか迷ったけれど、今は何も考えずに休んでほしかった。だから布団の入っていた袋を戻しに行くついでに、さりげなくスマホを持って部屋を出る。
リビングで実織さんに電話をかけると、2コールで応答があった。
『はいっ、もしもし』
「実織さん、ごめんなさい。連絡が遅くなりました」
なぎ先輩を見つけて、ずぶ濡れだったことと家に帰りたくない様子だったので、僕の家に泊まってもらうことにしたと説明する。
『そっか、とりあえずよかった……! ありがとう、麻青くん!』
「いえ、そんな。来てもらったものの、僕もどうしたらいいか、まだあれこれ考えてるんですけど……」
とにかく濡れている先輩をどうにかしたいのと、あの場で別れたらそれきりになってしまいそうな不安で、一緒に帰ることしか考えていなかった。
僕には推し量りようもない深い苦悩を抱えている先輩に、僕が何をできるのか。相談のつもりで、実織さんにもこう言ったのだけれど……
『別に、あれこれ考えなくてもいいと思うよ』
しばらく思案するような間を置いた後で、落ち着きを取り戻した静かな声が返ってきた。
「……考えなくてもいい?」
『うん。麻青くんは、渚と一緒にいてくれればそれでいいよ。渚が麻青くんと帰ったってことは、多分そういうことだと思う』
(そういうこと……? って、どういうこと……?)
『私が行っても、渚はきっと、一緒には戻ってくれなかった気がする。まいってる自分を見せるのとか、頑なに拒んできた子だもん』
(それは……僕だから、なぎ先輩はついてきてくれたっていう意味……?)
「そんなことは……」
『あるんだって。最初からあの子、ずっとそうなんだから』
きっぱり言い切ったあとで、実織さんは少しだけ気恥ずかしげに続けた。
『あのね。実は渚と同じで、私も養子なんだ。実の両親が事故で死んで、親戚んちの養子になったの』
「え……そ、うなんですか……?」
『うん。で、似たような境遇の渚に親近感持って、私から声かけて話すようになって。お互い、周りと自分とは違うって思ってたし、似た者同士、素で話せて楽でさ。仲よくはなったんだけど、それでも渚は、泣き言とか悩みは全然口にしないんだよね。あの子は基本、諦めたような、冷めた顔で笑ってんの。いっつも』
穏やかで柔らかい、それでいてどこか冷たく寂しげな。僕がこれまで見てきたなぎ先輩の笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
『外面で接しなくていい私にも、本当の本当はやっぱり見せないんだよ。私は親に捨てられたわけじゃないから、完全に渚と同じになることはできない。渚もそう思ってるんだと思う。だからあの子は、誰にもすべてをさらけ出さない』
(そうだったんだ。すごく親しく見えてたけど……)
同胞といっていい実織さんですら、その心に触れられるところにまでは、手が届かない。
『そんな渚見ててね、実はちょっと好きになりかけた時期もあったんだけど、あぁ私にこの子を支えるのは無理だなって思ったら、その気持ちも消えちゃった。私じゃ手に負えんのよ、あの子は』
軽い口調で言って、あははっと実織さんは笑った。
『私ができるのは、今みたいにバイト紹介して、あの子が息抜きできる時間を与えてあげるくらい。でもずっと、いつかあの子が本当に心を開ける相手ができたらいいなって思ってた』
「先輩が……本当に、心を開ける相手……」
『うん。私は、麻青くんなら渚を変えられるかもしれないって気がするんだ』
「ぼ、僕がですか……!?」
今の話を聞いたら、とてもそんなふうには思えなかった。
そうだったらいいなとは思う。でも僕は生まれ育った環境も、抱えてるものも、まったく違う。
「けど僕には、実織さんよりももっと『同じになること』ができないかと……」
そんな僕に、実織さん以上に彼へ近づくことなんて、できるんだろうか。
『それはそうだね。でも、渚が私に最後の壁を取り払えないのはそこがあるからだろうけど、必要なのは『同じになること』じゃなかったのかもしれない』
「……? どういうことですか?」
抽象的な言い方に戸惑い、僕は眉間を寄せる。
『私と渚は、今の距離感がベストっていうだけ。それと、渚の心を溶かせる存在はまた別ってこと』
「別……」
(そうなのかな……正直、よくわからない)
ピンと来ていないことは実織さんにも伝わっただろう。彼女は、「気にしないで」と言うように再び笑った。
『まぁ予感っていうか、だったらいいなっていう希望のほうがデカいんだけどね。でも今、渚が麻青くんのところにいるのは事実なんだし。少し前からは信じらんないじゃん。養子だってこと、あの子高校では隠してるはずだよ。それが本当のこと話して、素直にお持ち帰りされて、麻青くんの家族とご飯食べてるんでしょ』
「お、お持ち帰りって。実織さん、言い方……」
思わず焦ってしまう。
でもたしかに、実織さんの言う通りだ。以前の僕たちの関係を思えば、信じられない。
(もっと傍に行けるって、思っていいのかな……)
『麻青くんは麻青くんのまんまでいいから、渚と一緒にいてあげて。あの子のこと、よろしく』
明るい声に切実な響きが覗く。
(一緒にいたいのは、僕だって……)
僕は「はい」と答えて通話を終えた。
●〇●〇
部屋に戻ると、なぎ先輩は布団の上に座り、窓のほうを見ていた。
「何してるんですか? 外に何か?」
「……いや。雨、やんだなと思って」
「ああ……」
言われて窓に歩み寄る。レースカーテンは引かれているけれど、カーテンは開いたままの状態だ。レースカーテンをめくって見てみると、なぎ先輩の言う通り雨はやんでいた。
雨雲も去り、空にはぼやけた月が浮かんでいる。今夜の月は半月よりやや膨らんだレモン型だ。
「──先輩。よかったら、庭に出てみませんか」
背後を振り返って提案すると、なぎ先輩は瞳にかすかな驚きを浮かべる。
「庭?」
「はい。小さいですけど、一応あるんです」
我が家は3階建ての戸建てで、玄関とは反対側にリビングから出られる庭がある。
「別にいいけど……なんで?」
「月が出てたから、なんとなく」
なんとなく──月の下にいるほうが、先輩に近づきやすいような気がして。
(今日は先輩の苦手な満月でもないし……)
「あ、えと、寒くなかったら、ですけど……」
遅れて、やっと体が温まったのによくないかなと思って続けると、先輩はふっと吐息をこぼすように笑った。
「いいよ、行こうか」
「……はいっ」
僕はさっそくお父さんのカーディガンを借りてくる。先輩に渡し、自分も上着を羽織って、二人でリビングの掃き出し窓から庭に出た。
ガーデンテーブルとチェア、それにお母さんが育てている花もあって、こじんまりとしているけれど整えられた庭だ。
でも先輩の視線はさらりと花を眺めた後で、上に移った。
まだ薄い雲は残っている。半透明の膜の向こうに見える、ぼんやりした月。
僕も彼の斜め後ろから、同じように空を見上げる。
雲のヴェールのせいで、位置は昨日とほぼ変わらなくても、月はより遠く、はかなく見えた。
「……麻青が演劇部に入ったのって、なんでなの」
先輩がゆっくりとこちらを向いた。突然の質問に、僕は戸惑う。
(食事の時、お父さんとお母さんがあんな話したから……?)
理由をきちんと話している相手は、あらた一人だ。ちょっと照れくさい話なので、他のみんなには『面白そうだと思った』とか『自分なら女役ができるかと思った』などと話していた。
でも隠したいわけではないから、正直に打ち明けることにする。
「僕は、自分を変えたくて……自分を好きになりたくて、演劇部に入りました」
「……変えたくて?」
「はい。僕、小さい頃から外見こんなでコンプレックスだったし、性格も引込み思案でおとなしくて……学校で友達に『女の子みたい』ってからかわれると、すぐ泣いちゃうような子供だったんです」
遠い記憶を思い起こす。子供の頃の僕は、守られてばかりの人間だった。
「そんな僕をいつもかばってくれてたのが姉さんでした。地区大会の時に会ったと思いますけど……」
「覚えてるよ。藍さんだよね」
「はい。姉さんはしっかり者で頼もしくて、なよなよしてる僕をいつも守って、引っ張ってくれてたんです。僕は桃香や希空からしたらお兄ちゃんなのに、お兄ちゃんとしては全然ダメで、全員が姉さんに頼ってました。でも姉さんは、大学進学で家を出ることになって……」
姉さんがこの家からいなくなる。その現実が迫って、僕はようやくこのままではいけない、と思った。まだ小学生の妹と弟を、兄である僕が守っていかなきゃいけないと。
「こんな情けない自分のままじゃダメだ。引っ込み思案は卒業して、強くならないとって思ったんです。それで、高校入った時にいろいろ考えて……」
部活紹介で、犀堂は男子校なので、女役をできる部員を切望していると言っていた。
「演劇部で女役をやれば、今までコンプレックスだった外見が活かせて、長所に変えていけるかもしれない。自分を好きになれるかもしれない。それに、度胸もつくと思って。人前で話すのとか苦手だったし、かなり勇気は必要だったんですけど」
「……なるほど。そんな理由があったんだ」
「……はい」
僕にとっては人生最大の一念発起。話したものの、あらた以外に打ち明けるのは初めてだったから、反応が怖くてそわそわしてしまう。
「じゃあ麻青は──」
人ひとり分あいていた距離を、先輩が一歩踏み出して僕の正面に立った。手のひらが、そっと頭に触れる。
「頑張って、すごく強くなったんだね」
「なぎ先輩……」
額からこめかみのほうへ、ゆっくりと髪をなでる手。
1回、2回。先輩の手が動くたびに、心臓がトクンと音を立てる。
体の奥をきゅうっと握り込まれたみたいに胸苦しい。でも……うれしい。
「すごく強くとは、まだまだ言えないですけど……だいぶ変われたかなとは思ってます」
少なくとも、中学までの自分より、今の自分が僕は好きだ。
「でも両親が言ってた通り、本当に先輩たちのおかげなんです。最初は何するのも緊張で眩暈そうだったけど、先輩たちが丁寧に教えてくれて、励ましてくれたから、だんだん楽しくなっていって……」
「たしかに、最初は発声もエチュードもボロボロだったな。声震えてたし」
「そ、そんなはっきり言わなくても」
クスッと笑われ、ついむくれた声を出した。先輩は「ごめんごめん」と謝って、僕の頭に置いていた手を離す。
「けど、謙遜しなくていい。今の話を聞けば、どれだけ努力して変わったのかよくわかるよ。頑張り屋さんだとは思ってたけど……オレが思ってた以上に、キミは強い。変わるのって、そんなに簡単なことじゃないから」
『オレにはできない』。
言外に、そんな言葉が含まれているように聞こえた。
「……先輩も、変わりたいんですか?」
先輩は答えず、再び月を見上げた。湿った空気が二人の間の静寂をしっとりと濡らす。
僕は夜に白く映える先輩の横顔を、じっと見つめていた。
「……オレの養父母は二人とも教師で、すごくいい人なんだ」
月を見たまま、先輩が話し始める。ひそやかな空間に落とされる声に、僕は黙って耳を傾け続ける。
「本当に、いい人。聖人君子って言葉はこの二人のためにあるんじゃないってくらい、綺麗な人たちなんだ。正しくて、清らかで、慈愛に満ちてて」
そこで息をつき、困ったような微笑をたたえてこちらを向いた。
「ホームドラマなんかでさ、善人キャラが『いやそれは綺麗事だろ』ってツッコみたくなるような、いいセリフ言ったりするじゃない? そういうのをさ、偽善でもなんでもなく、本心から言えちゃう人なんだよ。ドラマの中の綺麗ないい人を地で行ってんの」
僕はマンション前で見かけたお二人の姿を思い出しながら聞いていた。
たしかに、教師と言われてすんなり納得できてしまう、誠実で実直そうなご夫婦だったとは思う。なぎ先輩のことも心から心配していて、息子として彼を愛しているのが伝わってきた。
でもそれについて話す先輩の瞳は、複雑な苦悩に揺れている。
「オレのことも大切にしてくれてる。教育には熱心だけど進路を強制するわけでもなく、真面目に精一杯頑張っていればいいってスタンスだし。けどさ……与えられるものが綺麗すぎて、オレにはちょっと、息苦しいんだ」
その苦しさが降りてきたかのように、先輩は目を閉じ、実際にゆっくりと長く息を吸った。
「あの人たちと一緒にいると、負の感情を持つことがとても醜いことに思える。どうして自分は施設に入れられたのかって、実の親への恨み言を言うのすら、間違っていて汚いことに思えた。だから言わなかった。あの人たちを困らせることはしたくなかったし」
(そっか。先輩はご両親を悲しませないために、いい息子であり続けてきたんだ。いろんな本音を抑え込んで……綺麗な言葉や笑顔で、それを隠して)
「だから先輩には演劇部やバイトが──『円城寺渚』を離れて、息抜きする時間が必要だったんですね」
これまで先輩や実織さんから聞いていた話が、ようやくすべてつながった。
演劇部で役柄という仮面をつけ、別人になること。
デザインメイクで素顔を隠して、別人になること。
全部、『円城寺渚』を完全に切り離すために、必要なことだったんだ。窮屈な環境で生き続けるために、そうやって心の均衡を保っていたんだ。
「そういうこと。演劇部に入ったのは、なんとなくだったんだけどね。どこかの部には所属しなきゃいけないし、運動部はダルいから文化部で適当に選んだ」
犀堂高校は、部活所属が義務付けられている。積極的は活動までは強要されないものの、最低ひとつ、どこかの部に籍を置かないといけない。
「作り物みたいな自分にはお似合いかなと思って入ったんだけどさ。始めてみたら意外と楽しくて。別の人格になってる間は、他のこと考えなくていいから」
(じゃあ別人を演じる時間が息抜きになることを、演劇部に入って初めて気づいたんだ。だから引退後は、部活の代わりにバイトが必要で──)
「これからもそうしてやっていくつもりだった。……今回のことで、どうなるかわからないけど」
地面に視線を落としてつぶやいた。悔恨と諦めがうかがえる、力のない声。
「……先輩は、ご両親のことが大好きなんですね」
「え……?」
思ってもいない言葉を聞いたように、先輩が顔を上げてまじまじと僕を見る。
でも僕は、自分の感じたことに自信があった。だってそうじゃなかったら、先輩はさっきみたいにつらそうな顔をしない。
「ご両親が好きで、できることなら同じように考えられる人間になりたい。二人の言葉に心から頷ける、偽りのない『いい息子』になりたい。でも、なり切れない。そう思ってるから、苦しいんでしょう?」
「…………」
先輩は呆然と僕を見続けている。しばらく時間の止まったような沈黙が流れた。
やがて先輩の瞳がさざ波のように揺れて、時間が動き出す。
「……やっぱ麻青って、時々怖い」
「えっ。こ、怖い?」
予想外の反応にぎょっとしてしまう。うろたえる僕に、先輩は苦笑しながら、
「鋭くて怖いってことだよ」
「それって……」
「うん。多分、図星」
右手でくしゃっと自分の髪を乱して、また月に眼差しを向けた。
「血が繋がってれば、オレも同じような人間になれたのかなって考えたりしてた。でも事実、養子になっても元は赤の他人で、同じにはなれなくて。他にもたくさんいる孤児の中からオレを選んでくれたのに、申し訳ないなって」
「申し訳ないなんて……」
(そんなふうに考える必要、絶対にない)
当事者じゃないのに、断言する権利なんて僕にはないかもしれない。でも反射のように、強くそう思った。
(だって先輩も、お父さんとお母さんをちゃんと愛してる。感謝して、家族でいたいと思ってる。大事なのはその気持ちで、それだけで充分なはず)
けれど先輩はきっと、自分のせいできちんとした家族になれていないのだと自身を責めている。責めて、でもやっぱり苦しくて、行き場のない葛藤を忘れられる場所を他で探して……。
「麻青のご家族を見てて、心底うらやましいなって思ったよ。遠慮なく何でも話せて、同じようにあったかくて。オレはどうあがいても、あんなふうな家族にはなれない」
先輩が背中を向けた。僕より大きいはずのその背中がなぜかとても小さく見えて、僕はたまらず腕を伸ばす。引き止めるように、ぎゅっとすがりついた。
「……麻青?」
「ごめんなさい。先輩を苦しめて……」
そんなつもりはなかった。でも結果的に、先輩にとってはつらい光景を見せつけることになってしまった……?
「麻青が謝ることじゃないよ。オレが勝手にそう思っただけなんだから」
「でも……」
腰に回った僕の腕を、先輩がやんわりとほどく。体を反転させ、僕と向き合った。僕は先輩に腕をつかまれたまま、こわごわとその顔を見上げる。
「麻青の優しさはよくわかってる。探しに来てくれたことも、ここへ連れてきてくれたことも感謝してるよ。……正直、助けられた」
「なぎ先輩……」
「心配してくれてありがとう。でももう、オレのことは考えなくていいから。そう簡単にどうにかできる問題じゃないってのもわかったでしょ?」
にこっと微笑まれ、僕は鋭いガラスで貫かれたように感じた。
ああ、まただ。先輩はこういう時ほど、優しい顔を作る。笑顔の仮面ですべてを覆い隠して、遠くへ行こうとする。
でも、嫌だ。恐れて、諦めて、遠ざかる先輩を黙って見ているのは──
(もう、嫌だ)
「優しさなんかじゃないっ……!」
つかまれていた手を振りほどく。もう一度、その胸に飛び込むように抱きついた。
「僕は……僕は、先輩のことがっ……」
僕がこうすることは迷惑だろうか。
だけど、先輩は話してくれた。今までは秘めていた心の縁を覗かせてくれた。
(それが僕を納得させるためだけだったなんて……僕には思えないし、思いたくない)
「麻青」
頭の上から抑えた声が降ってくる。落ち着いているようでいて、かすかにその声は震えていた。
僕の中からあふれるものをとどめようとする呼びかけだ。それは言っちゃダメだよ、と。
でも、僕はもう抑え込まない。ずっと言葉にすることは我慢していたけれど、もうしない。お人形みたいないい子でいちゃ、いつまでも最後の壁は壊せない。
「先輩のことが、好きなんですっ……」
すがる腕に力を込めた。
しがみつけば一番深いところに触れられるなんて思ってはいない。それでも、そうせずにはいられない。
最初は、その硬質な美しさに惹かれた。人形のように綺麗な笑顔の奥にもっと違う何かがある気がして、どうしようもなく気になって引き付けられた。
今はもう、彼の脆さや陰り、そして優しさを塗り込めるためのものだったと知っている。なぎ先輩はすべてを抑え込んで、笑っている。
でも、それだって彼の優しさだ。大切な人を裏切らないための。大切な場所を壊さないための。
そう気づいたから──僕はもう、この人の悲しい笑顔を見たくない。
「……なんでキミは、オレみたいなのにそんなに一途なの」
先輩の右手が背中に回った。
引き剝がされるかと思ったけど、そうはならない。けれど抱きしめ返すでもなく、ただ僕をなだめるかのように、そっと背中に触れている。
(そんなの……理由なんて、わからない)
ただ、月夜の下で歌う先輩を見たあの日に、本当の彼の片鱗に触れた気がした。そのことに昂揚して、胸が震えた。
あの夜に、始まってしまったんだ。
「……先輩は、優しい人です。周りのために自分を犠牲にするくらい……。でも、諦めてほしくない。先輩も、ちゃんと本当の先輩で、幸せになってほしい……」
口を開いたのと同時に、ぽろぽろと涙がこぼれた。一度あふれてしまうと止まらなくて、あっという間に頬を濡らしていく。言葉の最後も、涙声になった。
「……麻青は本当にいい子だよ。オレなんかより、麻青のほうが何倍も優しい」
先輩の声は、波のない湖面のように凪いでいる。幼子に言い聞かすように、穏やかな声が紡がれる。
「だけどいい子すぎて、やっぱりオレにはまぶしいな。オレは、キミに想ってもらえるような人間じゃないから」
背中に触れていた手が肩へと移った。左手も伸ばして、彼は両手で、僕の体をゆっくりと押し戻す。
「ごめんね」
「っ……」
ズクンと、心臓が1回、大きく疼いた。涙で滲んだ視界で、先輩はやっぱり、凍える冬の月夜のように美しい笑みを浮かべている。
「明日、朝になったらすぐお暇するよ。ちゃんと家に帰るから、心配しなくていい」
まだ先輩は僕の体に触れていて、すぐ目の前にいる。
それでももう、彼は遠かった。僕の指先は、どうしても彼に届かない。
「……はい」
うつむいて涙を拭った。「戻ろうか」と先輩が言い、離れていく。
そうして言葉通り、日が昇るとすぐ、彼は朝食も取らずにこの家を出ていった。
●〇●〇
翌日、木曜日。
前夜に何があろうと、学校での日常はいつも通りだ。
週末は学園祭で、明日の放課後はその準備に追われることになる。
よって、演劇部公演の練習としては今日が最終日。本番同様、体育館でのリハーサルが行われていた。
「──はい、OK! みんなよかったよ、明日もこの調子で頑張ろう!」
あらたのカットがかかり、リハーサルも無事に終了した。役柄の『ミユキ』としてステージに立っていた僕も、ほっと肩の力を抜く。
(よかった、ちゃんとできた)
正直、昨日の今日で頭の中はまだぐちゃぐちゃのどろどろだ。でも普段通りの態度を心掛けて、頭を切り替えて演技に集中するようにした。なんとかできていたようで安心する。
けれど……
「麻青、何かあった?」
解散して、部室棟に戻る渡り廊下を歩いていた時。隣に並んだあらたに、気遣うような声で尋ねられた。
「……え、どうして?」
「だって今日、ずっと元気ないから。なんか無理してる感じ」
(……バレてたんだ)
「お節介かなって思ったんだけど、やっぱり心配で。何かあったなら、おれでよかったら話聞くよ?」
(ここで隠しても、もっと心配させるかな……。それに、あらたなら……)
どんな話でも、きっとあらたは真剣に聞いてくれる。バカになんかしない。
全部は話せなくても、この体内に渦巻くぐちゃぐちゃを吐き出してしまいたいという気持ちもあった。一人で抱えているのが、かなりキツイ。
「……階段のとこ、行っていい?」
今いる場所から少し歩けば非常階段があって、階段下のスペースにはめったに人が来ない。そこなら人目を気にせず話せる。
「もちろん」
即座にうなずいてくれたあらたと一緒に、渡り廊下から逸れて階段下へ向かった。
校舎の壁にもたれて、並んで座る。あらたは僕が話し出すのを静かに待ってくれていた。
「……実は、好きな人にフラれちゃったんだ」
「え……」
メガネの奥の目を丸くして、あらたは一瞬固まった。でもややためらうような素振りのあと、思い切った表情で、
「……なぎ先輩?」
「!」
次は僕が硬直する。
(え、嘘……気づかれてた……!?)
気遣ってくれてるのか遠慮がちな問いかけだったけど、顔つきを見れば確信に近いものを持っているとわかった。
「い、いつから気づいてたの……?」
「……正確には覚えてないけど、去年はもしかしたらって感じで、今年に入ってからはそうなのかもなぁって」
(そっか……お見通しだったんだ)
「ごめん、ちゃんと言ってなくて……」
「そんなの誰にでも話すことじゃないし! っていうかおれこそごめん、不躾に……」
「ううん、いいんだ」
(知られてるってわかったら、むしろ気が楽になったかも)
なぎ先輩のプライベートなことを勝手には話せない。けど、いろいろあって学校以外でも会うようになって、なかば勢いで好きだと伝えてしまったけど、ダメだったことを話した。
『キミに想ってもらえるような人間じゃない』。そう言って、背中を向けられたことも。
「……そうだったんだ」
あらたは短く言ってからしばらく黙り込む。僕よりもあらたのほうが落ち込んだ顔をしていて、なんだか申し訳なくなった。
「あらたがそんな顔しないでよ」
「うん、でも……おれ、もしかしたらなぎ先輩もって思ってたんだ。だから驚いたっていうか、残念っていうか……おれも悲しい……」
「ええ……なんで、そんなふうに思えたの?」
部活で一緒だった期間は、複数いる後輩の一人でしかなかった。特別仲がよかったわけでもないのに、どうしてあらたがそんなふうに感じたのかわからない。
「なんとなくだけど……たまに、なぎ先輩が麻青を見てる時の目が、他の後輩を見る目とは違うなって思う時があって……」
あらたもうまく説明できないようで、思案するように眉間を寄せ、宙を見ながらそう話す。
あらたは去年から脚本を書き、演出補助として部のみんなをよく見ていた。そんな彼が言うなら、勘違いではないかもしれないけど……
「別にそれは、好きとかそういうのじゃないと思うよ。ただ、僕の気持ちには気づかれてたと思うから……困らせてたのかも」
「困ってた……? うーん、そうなのかなぁ……」
腑に落ちないという様子で、あらたは首をひねる。
でも、今さらそこまで気にかける必要もない。昨日、きっぱりと拒絶された。それがすべてだ。
「なんにしろ、フラれちゃってるから。僕は先輩が好きで、力になりたいって思うこともあったんだけど……先輩には、負担だったんだと思う」
「負担って……そんなことは……」
「ううん、きっとそうなんだよ。先輩の心を軽くしたかったけど、逆に重いものをぽいぽい投げちゃってたんだと思う。だから──」
「重いものを投げるのは当然だろ、好きなんだから」
(えっ!?)
突然高い位置から声が降ってきて、僕とあらたは同時に上空を振り仰いだ。
非常階段3階の踊り場に、るー先輩が立っている。手すりに腕をのせ、こちらを見下ろしていた。
「る、るー先輩……なんで……!?」
「クラス展示用のカキワリがぶっ壊れたんで直してたんだけど、ペンキの匂いに酔っちゃって休憩してた。そしたら二人が来たから」
(最初からいた!? 気づいてなかった……!)
「じゃ、じゃあ今の話……」
(もしかして、全部聞かれた……?)
「うん、聞いてた。悪い先輩でゴメンね~」
るー先輩はペロッと舌を出し、悪びれた様子もなく笑う。僕とあらたが動揺で言葉を失っている間に、階段を下りてきた。
上履きのまま傍までやってくると、わしゃっと僕の髪を掻き混ぜて、
「麻青は何も悪いことしてないよ。恋愛なんて本音ぶつけ合ってなんぼなのに、受け取らない・投げ返さないほうが卑怯者」
「るー先輩……」
「まったく。こんなに可愛い麻青をフるなんて、あいつも罪作りなやつだなー」
「な、なぎ先輩には何も言わないでください。最初から押し付けてることはわかってたので……」
るー先輩はこう言ってくれるけれど、どっちが悪いわけでもないと思う。ただ、お互いの気持ちが重ならなかった。それはどうしようもないことだ。
「諦めるんだ?」
見下ろす視線に、僕はぐっと息を詰めた。
すぐにはうなずけない。まだ気持ちの整理はほとんどできていない。でも……
「……これ以上なぎ先輩を苦しめることは、したくないので」
(僕が好きでい続けることが、本当に先輩を苦しめてしまうなら……)
いつかは、諦めるという選択をしなくてはいけないのかもしれない。
「そっか。わかった」
るー先輩は静かに答えると、再び階段をのぼって3階まで戻っていった。
ともだちにシェアしよう!

