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【10】秘密の想い ~渚side~

 あの日から変わったな、とは気づいていた。  麻青が自分を見る瞳に、それまでにはなかった色が加わったことを。  円城寺家での生活は、施設にいた頃と比べればはるかに恵まれている。  人格者の両親。血のつながりはなくとも息子として、不自由のない生活をさせてくれている。  近所を歩けば、両親のことを褒める住人に会うことも多い。その息子でいられることは、幸福なことだ。  けれど、ふとした時に息苦しくなる。  自分は彼らほど善人じゃない。妬み、嫉み、嫌悪、無気力……彼らが見せない負の感情を、いくつも胸の内に抱えている。  でもそれを口に出すのははばかられ、うわべの言葉で取り繕って笑ってきた。続けているうちに、善良ないい子を演じるのが普通になった。 (まるで人形だな)  醜い自分を石膏で分厚く塗り固め、作り上げた美しい顔で佇んでいる。  内側には汚い泥が溜まっているのかもしれないし、あるいは閉じ込めているうちに泥も渇き、空洞になっているのかもしれなかった。自分でももうよくわからない。  そんな作り物の自分に踏み込まれても困る。だから、他人と一定以上の距離を保つことも普通になった。  当たり障りのない交流はしても、自分から他人に深く関わることはない。そういう拒絶は伝わるもので、引いたラインを踏み越えてくる人間はそれほどいなかった。たまに空気を読まず無遠慮に近づいてくる人間もいたが、その場合は自分から距離を置いた。 (仲よくなろうとされても困る。オレが返す言葉なんて、大体はうわっつらなんだから)  ただ、実織だけは比較的自分の近いところにいた。  中1の時、いきなり3年女子から話しかけられて最初は何事かと思ったが、彼女からは自分と同じ匂いがした。  自宅を本当の居場所と思えず、そんなところで生き続けている自分も本物と思えない。  抱えている孤独がよく似ていた。だから彼女にだけは善良な人間を演じなくてよかったし、一緒にいるのも苦ではなかった。 (実織には、両親に愛されて育った記憶がある。そう思ったら、なんでも話す気にはやっぱりなれなかったけど……)  それでも彼女の存在は救いになったし、いい友人だと今でも思っている。  友人──本当の自分を理解してくれる存在は、実織がいれば充分だ。これからも自分はこうして、周囲とは一線を置いたうえで高校から大学に進み、就職して、それなりに平和な人生を歩んでいくのだろう。そう思っていた。  それが変わったのが、あの日。  息苦しさを覚えた時、ガス抜きのために行っていたのが演じることや歌うことだった。  メイクをして衣装に着替え、演じることがベストだが、ただ歌っているだけでもその瞬間は他のことを忘れられる。あの夜もそうだった。  前日の両親との会話でしこりが残っていた。気分を変えようと外に出たら、煌々と輝く満月が自分を迎えた。  明るすぎる月夜は好みじゃないけれど、自分を照らすスポットライトだと思えば悪くない。その時気に入っていた曲を、その曲の主人公になったつもりで歌っていた。それを、麻青に見られた。  麻青のことは、最初から変わった子だなとは思っていた。  人見知りするのかあがり症なのか、見学に来た時も入部してからも、やたらおどおど、ビクビクしていた。麻青には申し訳ないが、流音たちと『なぜ演劇部なんだろう。あの子に演技なんてできるのか』と心配したほどだ。  クラスメイトで脚本志望のあらたを麻青が誘ったらしく、二人で来るようになってからは多少マシになったけれど。  しかし役者をやりたいという意志は固いようだったので、先輩として自分たちもしっかり指導した。  すると麻青はめきめき成長していき、性格もあがり症が改善され、ずいぶん明るく、堂々とした佇まいになった。入部してきた頃とは別人のように変わっていった。  ひたむきで、素直で、ほっこりとした顔でよく笑っている。  優しく柔らかい……まるで、春の夜に輪郭を滲ませて空に浮かぶ、はちみつ色の満月みたいな子だと思っていた。遠い空で浮かんでいる限りなら、そんなにまぶしくもないし心地よい。  先輩として自分を慕ってくれているのも伝わっていたが、けして特別なものではなかったので気にする必要もなかった。 (……そのままでいてくれたら、ただの可愛い後輩と思っていられたのに)  あの日、月の下で会い、それから麻青の眼差しが変わり始めて。最初は無視していたが、だんだんと無視しきれないほどに、向けられる視線は熱を増していった。 (そういうのは困るんだけどな)  でも、麻青は相手の気持ちを推し量ることのできる繊細ないい子だ。超えてはいけないラインはきっとわかっている。  だから、このままそこで立ち止まってくれている間に卒業を迎えれば問題はない。  そう思っていたのに── 「やーっと見つけた。こんなとこにいたのか」  よく通る声が耳に飛び込んできて、渚はハッと我に返る。  寝転んでいたベンチから体を起こすと、スラックスのポケットに手を突っ込んだ流音が歩いてくるところだった。 「うわ、風つよ。11月に入って一気に寒くなったよなぁ」  独り言のようなその声も、風がさらっていく。  渚は本館の屋上にあるベンチに横たわり、ぼんやりと曇った空を眺めていた。今日は気温が低く、学園祭直前ということもあって、こんな場所で暇を持て余している生徒は数えるほどしかいない。 「サボり魔め。2組のやつも探してたぞ」 「そのうち戻るつもりだったよ」  乱れた髪を手櫛で直しながら、渚は目を合わさずに答えた。  わざわざ自分を探して会いに来たと言う。声を聞いた瞬間から目的は大体読めたが、一応は形式的に尋ねた。 「で、なんの用?」 「麻青が、あらたに話してたのを聞いてね」  流音は座らず、気だるげにこちらを見る渚を見下ろして告げた。 (やっぱりそれか。まぁ、だろうとは思ったけど) 「可愛い後輩になに最低なことしてんの、おまえ」  流音の表情から笑みが消える。 「そういうおまえこそ。麻青なら多分、何もするなって言ってるんじゃないの」 「そこはいいの。オレはずるい先輩だから」 「余計なお世話にそこまで胸張るな」 「余計なお世話でもさすがにほっとけないよね。うちの後輩はみんないい子だからな~。おまえの背中蹴り飛ばせんの、オレしかいないだろ?」  実際に右脚を上げて足裏で踏みつける真似をする流音に、渚は軽く顔をしかめる。 「やめろ。暴力反対」 「はいはい。じゃ、真面目な話」  脚を下ろした流音は、その脚を軽やかに動かし渚の隣に腰を下ろした。 「麻青がおまえを好きなことなんて、オレだって気づいてたよ。あの子の気持ちをわかってたのに、中途半端なことしたのは渚だろ」  射貫くような視線が向けられるが、渚はハッと吐き捨てるような笑いを返した。 「じゃあなに、麻青にだけ冷たくすりゃよかったっていうの? 無理でしょ。他の子と変わらず、いい後輩の一人なんだから」  直接何か言われたわけじゃない。気づいていないふりをしている状態で、避けたり冷たくしたりはできない。  そう話すが、流音は間髪入れずに言い切る。 「行動の問題じゃない」 「……行動じゃないなら、なに」 「『普通に優しい先輩』を演じてるつもりだった? だとしたら、とんだ大根役者。演劇部きっての憑依型・オールマイティ俳優の名が泣くわ」 「……っ」 (そんなことない。できてたつもりだ、ちゃんと) 「応える気ないなら、気持ちも完ぺきに封じ込めなきゃだったろ」 「…………」   渚は無言で両足の間に垂らした拳を握り込む。  言葉にする以前に、心の中でも、何も反論が浮かばなかった。 (……ああ、そうだよ。本当はわかってる)  自分は出会った頃と何も変わらない、ただの優しい先輩を演じるべきだった。他の後輩に対するのともまったく変わらず、同じように。分け隔てなく可愛がる、そのうちの一人として接するべきだった。  常に意識はしていた。それでも時々、ほころんだ。  あの眼差しで見つめられて、自分に近づこうとひたむきに向かってくる姿を見て、徹頭徹尾無感情のままでいることは難しかった。  特別な想いを向けられて……その特別が自分の中にも降り積もっていくのを、抑えることはできなかった。 「……どうせ、オレは大根役者だよ」  殺せなかった。溶かされていく心も、芽生えていく興味も、違う意味を持ち始めていく『可愛い』も。 「はぁ……」  項垂れた渚の隣で、流音は芝居がかった大きなため息をこぼす。そしてそっと渚の肩に触れた。 「オレはおまえのこと、詳しくは知らない。おまえが踏み込まれることを望んでないなら、それでいいと思ってたし。でも、そのくせ生きづらそうにしてるから、もどかしくはあったよ」 (そうだな。わかってた)  流音は渚が仮面のような笑顔を貼り付けて生きていることも、それを本当は窮屈に思っていることも見抜いていた。そのうえで、渚が引いたラインの上で立ち止まり、静観してくれていた。 「けど、麻青を見てて……もしかしたらあの子なら、オレたちが入っていけないところにも行けるんじゃないかと思ってた」 「…………」 「1回くらいは素直になっといたほうがいいと思うよ、オレは。ていうか、素直になっとかないと取り返しのつかないタイミングってのがあるんだよねー。それを逃したら、後でどれだけ後悔してももう手遅れっていう」 「……なんか、重い言葉だね。脅し?」  皮肉めいた笑みを作って問うと、流音も「さぁね」とうそぶくようにおどけた仕草で肩をすくめた。 「友人からの貴重なアドバイスだ。ありがたく受け取っとけ」  前屈みになっていた渚の背中を最後にバシッと叩き、流音は立ち上がる。 「演劇部学園祭公演は3年全員で観に行くからな。逃げんなよ」  そう言い残し、来た時と同じくポケットに手を突っ込み、去っていった。  ●〇●〇 「おかえりなさい、渚」  帰宅すると、母親が夕食の支度をしているところだった。父親の姿はまだなく、今日は遅くなるらしいと母親が告げる。 「もうすぐできるから、着替えたらいらっしゃい」 「わかった」  麻青の家を出た後、その足で自宅に戻った。言葉を荒げて家を飛び出したこと、連日外泊したこと、何より心配をかけたことも、深く詫びている。  両親も、急な話に取り乱したという渚の心情を慮ってくれ、強い𠮟責はなかった。むしろ、動揺させてしまう伝え方になったことを謝られたほどだ。  どこまでいっても、やはり彼らはありがたいほどに非の打ちどころのない両親で。 (全部、オレのほうが悪い。わかってる。オレは幼稚で、未熟で……)  何かを選び取ることを、いつも恐れている。 「……少しは落ち着いた?」  母親が気遣う声で、控えめに尋ねてきた。  生みの母親との面会をどうするかについては、まだ答えを出していない。両親には、気持ちが落ち着いてからゆっくり考えればいいと言われていた。 「……うん。ちゃんと考えるから」 (いつかは選ばなくちゃ、だよな……)  何もかもを曖昧なままにしておくのはそろそろ難しい。そういう局面にいることは、もうわかっている。  自分が答えを出さないと、進めない人たちがいるのだ。  一瞬脳裏に浮かんだつぶらな瞳を搔き消すように、渚は身をひるがえしてリビングを出た。

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