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【12】秘密の種 ~渚side~
12月2週目の土曜日、夕刻。
渚は『ジャズ喫茶エテ』へと向かうため、駅の改札を抜けた。
(この駅で降りるのも今日が最後か)
卒業はもうしばらく先だが、実織から仕事を受けるのはこれで最後にしようと思っている。それよりも、春からの新生活に目を向けるべきだ。
おそらく問題ないだろうと思っていたが、先日無事に合格の通知を受け取った。
実家を出ることは、高校に入る前から決めていたことだ。両親との関係は変わらなくても、環境は大きく変わる。これまでのような息苦しさを感じることもなくなるかもしれない。
これまでの自分を一度リセットして、新しい自分を探していく。
(麻青と同じステージに立つのも……)
今から同じ舞台に立つ、無垢な後輩を思い浮かべた。
麻青を思い出す時、その姿はいつも大きな瞳を切なげに揺らし、こちらを見ている。
彼の気持ちに応えられず、そんな顔ばかりをさせてきたことを申し訳なく思う。
(……だけどそれも、今日で最後だ)
応えられない自分が最後にできる唯一のこと。
互いの世界を切り離す。
完全に隔てられれば、いつかは麻青も次に想う相手を見つけ、先に進んでくれるだろう。それを願うしかない。
「……あれ」
駅前の待ち合わせ場所に向かった渚は一度足を止めた。ほぼ約束の時間通りだが、誰もその場にいない。
(遅刻? いやまさかな……)
スマホを確認しようとポケットに手を入れたのとほぼ同時、振動が指先に伝わる。取り出して画面を確認すると、実織からの電話着信だ。
「もしもし?」
『渚? 大変なの、麻青くんが──!』
機械越しに耳へ刺さってきた切羽詰まった声に、それ以外の音が一瞬で彼方へ消え去った。
「なに? 麻青がどうしたの?」
『じ、実は今日、最後だからって、渚にサプライズ仕掛けてて……。そっ、その準備のために、こっそり早めにエテに顔出しててっ……』
実織の声は上擦り、震えていた。今まで、これほど取り乱している彼女の声を聞いたことはない。
(じゃあ、実織も麻青ももう店にいる?)
『麻青くっ、率先して動いて、くれててっ……』
「落ち着いて、実織。店で何があった?」
『バ、バックヤードの荷物がっ……棚から、落ちてっ……』
「───!」
何度も訪れたあの店のバックヤードを思い出すことは容易だった。
元からさほど広くない空間を、壁沿いを埋める備品などを収納した棚がさらに圧迫している。天井近くの最上段まで、普段使いしない装飾品などの荷物が段ボール箱に詰め込まれて積み上げられていて──
ドクンと心臓が鳴り、視界が赤黒い色で一瞬濁った。背筋を言葉にできない悪寒が駆けのぼる。
「それで麻青は? 今どうなってんの!?」
『ぜ、全然動かなくて……!』
「っ……!」
まだ店にいるとわかった瞬間、渚は駆け出した。
駅から店までは歩いて5、6分。走ればその半分もかからない。しかし駅前の道は通行人も多く、その間を縫う手間を今までの人生で最も煩わしく思った。
避けきれず何人かにはぶつかってしまい、その都度謝るが足は止めない。
ああ、そういえば実織との通話はどうしたのだったか。
どうでもいい。麻青のもとに向かうほうが先だ。
(動かないってなに。やめてよ。ダメだろ、麻青が、そんな)
いなくなるのは自分のほうで。麻青じゃない。絶対に、違う。
麻青には笑っていてもらわないと困る。誰よりも純粋で、頑張り屋で、一生懸命で。
まともに向き合おうとすらしないこんな卑怯な自分に、まっすぐな心を向け続けてくれた。情けない自分の事情にも寄り添い、手を差し伸べてくれた。
『先輩は、ご両親のことが大好きなんですね』
『諦めてほしくない。先輩も、ちゃんと本当の先輩で、幸せになってほしい』
『先輩のことが、好きなんですっ……』
あんなふうに言われたのは初めてだった。あんなにも真摯に、丸裸でぶつかってきてくれる存在を、麻青以外には知らない。
あんなにいい子、他にいない。麻青こそ、幸せにならなくてはいけない人間だ。
(オレなんか忘れて、これから幸せにって……)
──だけど。
それならなぜ、自分は今、こんな気持ちになっているんだろう。
全力で走っているのに、どんどん凍えていく体。油断すれば手足がまともに動かなくなりそうなほど、体内を冷たい吹雪が吹き荒れている。
怖い。心臓が押し潰されそうなほどに。気が狂ってしまいそうなほどに。
──麻青が、自分の前から消えてしまった世界を想像すると。
「っ……クソッ……!」
ジャズ喫茶エテに隣接した雑木林が見えてきた。夕暮れの街に濃い影を落とす林。その入口に、溶け込むようにレトロな洋館の喫茶店がある。
速度を落とさず、渚は裏手に回り勝手口からバックヤードに飛び込んだ。
「麻青っ!!」
「わっ!? ……へ? あれっ、なぎ先輩!?」
「え…………」
自分を迎えた声に、渚は呆然と立ち尽くす。
「ま、麻青……?」
麻青はそこにいた。
バックヤードの隅のほう、壁沿いの棚の前。
床が何かの液体で汚れている。その傍に、雑巾を手にして屈み込んでいた。
「え……な、なに、してんの……?」
「あ、えと、掃除です」
「は……?」
「なんか、仮置きしてたドリンク類の瓶が落ちちゃったらしくて。お店の人、皆さん忙しいみたいなんで、お手伝いを」
「お、手伝い……?」
(……待って。どういうこと、どういうこと?)
汗ばむ手に握っていたスマホを確認する。実織との通話は切れていた。
「ちょっ……、っ……」
頭を動かすより先に、ひゅっと喉が鳴った。徒歩5分の距離とはいえ、全力疾走した体への影響が、今になって感覚に直通する。
息は上がっているし、鼓動も壊れたメトロノームのように速い。汗だくで、額や背中に汗が伝っていた。
驚いてぽかんとしていた麻青も立ち上がり、心配そうに歩み寄ってくる。
「ていうか、なぎ先輩はどうしたんですか? 学校のほうに行ったんじゃ……?」
「……いや……ごめん。今まったく、状況つかめてなくて……」
何がどうなっているのか皆目見当がつかない。
(ああ、でも──)
麻青は、目の前にいる。それだけは確かだった。
「…………よかった」
倒れ込むように、その体に腕を回す。
全身から力が抜け、実際にほとんど倒れていた。のしかかってくる荷重に、麻青も足をふらつかせる。
「えっ、な、なぎ先輩!? だ、大丈夫ですか!?」
「……あんまり大丈夫じゃない」
(死ぬかと思った)
駅からこの店まで、真っ暗なトンネルの中を走っているような心地だった。月も星もない、暗黒の闇を。
ちょうどひと月ほど前、家を飛び出し数日帰宅しなかった。高校生が一人で夜を明かせるところを探すのは難しく、夜になっても心当たりに声をかけながら、街を彷徨い歩く日が何回かあった。
今日、帰る家がないという状況。
これまで本当の家族はいなくても、帰る場所を失うことはなかった。血縁者ではなくても、帰りを待ってくれている人はいた。
そんな自分にとって、あの時、どこにも行き場がないという現実に恐怖を覚えた。居場所がないということは、こんなにも心を黒く埋めつくすのかと。
(でも……さっきの数分間に比べたら、どうってことない)
麻青の身を案じて走り続けた道のり。そのほうが、何倍も恐ろしかった。
「…………勘弁して、マジで」
(こんな気持ちにさせられるとか、マジで無理)
「え……あ、の……す、すみません……」
渚に抱きつかれたままでうろたえつつも、麻青は謝る。その手が満身創痍の渚をいたわるように、こわごわと背中に触れた。
「先輩、えと……よくわからないんですけど……僕は、大丈夫ですから……」
「……うん。みたいだね」
(おかげで、こっちがボロボロだよ)
まだ、ドクドクと速い脈動が全身を駆け巡っている。それでも多少は冷静さが戻り、麻青の肩に手を置いてゆっくりと体を離した。
ちょうどその時、店内へと続く扉からウェイトレス姿の女性スタッフが一人、バックヤードへ入ってくる。
「麻青くん! 手が空いたから掃除代わるわ──って、あれ。渚くんも来てたの?」
「あ、はい。こんにちは」
顔見知りのスタッフだ。渚は麻青からさらに一歩距離を取り、どうにかぎこちない笑顔を作った。
「……そろそろステージの準備をしたいので、麻青を迎えに」
「うん、そだよねー。ごめんね、片付けなんか手伝わせちゃって」
「いえ、僕がやるって言ったことなので。でもすみません、まだ終わってないんですけど……」
「いいよ、割れた瓶片付けてくれただけで充分! 後はやるから、支度しに行って」
「わかりました、よろしくお願いします」
床掃除を彼女に任せ、渚と麻青は勝手口から外に出た。
雑木林が横に迫る狭い空間で二人だけになると、微妙な空気が漂う。
なぜ渚が必死の形相で駆け付けたのか把握できていない麻青は、いまだ困惑を色濃く浮かべていた。
「迎えに、来てくれたんですか……?」
明らかにそれだけとは納得していない顔で、おずおずと見上げてくる。
「……うん、いや、オレもまだ整理できてないから、とりあえず言っただけ。それより、実織がどこにいるかは知ってる?」
「会ってないんですか? なぎ先輩を迎えに、駅前に行ったと思ってたんですけど……」
「そう」
(実織が単独で仕組んだってことで間違いはなさそうだな)
渚は麻青を待たせて少し距離を取ると、実織に電話をかけた。すぐにつながり、『もしもしー』と腹立たしいほど明るい声が聞こえてくる。
「どういうこと、実織?」
感情を抑えて低く問うと、やはり実織はけろりとした口調で、
『あれ、麻青くんから聞かなかった? スタッフさんが腕ぶつけて、棚のボトルが何本も割れちゃってさ。後片付けが大変で、麻青くんが『僕手伝いますよ!』って。ほんといい子だよねぇ』
「それは聞いた。……『全然動かない』っていうのは?」
『店の人が、ステージの準備があるだろうからもういいよって声かけたんだけど、麻青くん、まだ時間の余裕はあるから平気ですって、その場から全然動こうとしなくてー』
いかにも『私何も嘘はついていませんけど何か?』という様子の白々しい声音に、渚はピクピクとこめかみが震えるのを懸命に堪え、
「あのさ。騙してないのはどこの部分なのか教えてくれる?」
『サプライズ準備のために、渚以外で早めに集まってたのはホントだよ。詳しく知りたかったら学校来て。ビルの前にいるから』
なんのことはない、すぐ近くの距離で自分からの連絡を待ち構えていたらしい。
「行こう、麻青」
「あ、はいっ」
まだ困惑している麻青を連れ、渚は大股に雑木林の反対側にある校舎ビルへと向かった。
●〇●〇
「じゃじゃーん。本日の特別ゲストでーす!」
『とりあえず話は中に入ってから』と言う実織に連れられいつもの支度部屋に入った渚は、再び唖然として立ち尽くす羽目になった。
「よ、渚♪」
「お疲れさまです、なぎ先輩」
「流音……あらた!?」
綾羽や唯子とともに待っていたのは、ここにいるはずのない演劇部の仲間。
次から次へと襲い掛かってくる驚愕に軽い眩暈さえ覚え、渚は額を押さえる。
「ちょっともう、頭が追いつかないんだけど……」
「しっかりしろ。ちゃんと説明するから」
スツールに座っていた流音が立ち上がり、ドア前で突っ立ったままの渚を奥へと促した。
座るよう勧められたが、そんな気分でもない。テーブルに軽く体重を預け、流音に「ならさっさと話せ」という目線を送る。
流音は「はいはい」と苦笑しながら、
「学園祭の日に、実織さんたちも演劇部の公演観に来てただろ? あの時、オレが実織さんに声かけたんだ」
「は? なんで?」
「なんでって……元演劇部部長かつ友人として、『渚がいつもお世話になってます』って?」
(嘘つけ)
疑問形の軽い語調からも、真意が別のところにあるのは明らか。言うまでもなく自分について話すためだろう、と渚は察する。
「……お節介」
ぼそっと吐き捨てると、実織が「こらこら」と間に入ってきた。
「お友達にそんなこと言っちゃダメでしょ。とにかく、そんなわけであの日に連絡先交換したんだけど~。それからしばらくして今日のステージが決まった時に、麻青くんから『展開を変えて特別仕様にしたい』って話が出たじゃない?」
実織に顔を向けられ、それまで黙っていた麻青がドキリとしたように「はい」とうなずく。
ステージ内容の変更については、当然渚も把握していることなので驚きはない。
今日でジャズ喫茶エテ最後の出演となる渚を、メリバよりハッピーエンドで送り出そう。そんな麻青や実織たち、それに香夏子さんの意向もあり、新しい台本を用意したと聞いていた。
以前演じた兄弟人形の話と設定は同じだが、ストーリーは大きく変わっている。もちろんその台本を覚え、麻青と打ち合わせもしていた。
「そこでさらにサプライズを思いついちゃって、私から流音くんに連絡したんだよ。特別ゲストで流音くんもステージに参加しない、って」
「で、オレがあらたも引き込んだ。今回の台本、書いたのはオーナーじゃなくてあらただよ」
「え……あの新しいストーリー?」
「はいっ! オーナーさんも、ぜひなぎ先輩と麻青のために書いてあげてほしいと言ってくださったので、気合入れて書きました!」
メガネのフレームをちゃきっと上げて背筋を伸ばすあらた。
渚は片手をテーブルに突き、ぐったりと疲れ切った肩を落とす。
(オレの知らぬ間に、よくもまあこれだけの人数を巻き込んで……)
こうなると主犯は流音か実織か微妙なところだが、いずれにせよ自分はまんまとしてやられたということだ。
「あの、なぎ先輩」
麻青が自分の前に進み出てくる。
麻青は、流音と実織の真の思惑までは察していないだろう。彼は、先ほどの渚が店まで全力疾走する羽目になった一件を把握していない。この面子が集まったのは、純粋にサプライズのためだと思っているに違いない。
「サプライズは、るー先輩とあらたのことだけじゃないんです」
「……他にもまだあるっていうの?」
「はい。今日のステージ、最後の5分間。なぎ先輩の台本にはない、特別シーンが追加されてます。僕たちからの、なぎ先輩へのプレゼントです」
「え……いや、台本にないって……」
「大丈夫大丈夫、渚はほぼ観てるだけでいいから。あとは適当にアドリブで」
「はぁっ!?」
あっけらかんと手を振る流音に、渚は思わず険しい目を向けた。
「舞台上でサプライズかます気? 出演者が内容知らないってありえないでしょ」
「いいのいいの、香夏子さんにもOKはもらってるから。あんたは思うようにリアクションしてたらいいよ!」
バンッと実織が背中をたたいてくる。
(……ほんと、ありえないやつら)
心底呆れるが、太刀打ちできそうにもない。もう渚は返す言葉もなかった。
「ねぇ、そろそろ着替えないと遅れるよ」
綾羽に声をかけられ、全員が思い出したように時計を見る。
「ほんとだ、急がないと!」
「衣装こっち! 着替えたらすぐメイクするよ!」
そこからはいつも以上に慌ただしい準備タイムが始まり、渚も促されるまま着替えを済ませ、メイク席に座った。
「メイクもストーリーに合わせて前とは変えるからね。明るい感じでシンプルめにいくよ」と実織。
「任せるよ」
(さて、どんな舞台が待っているのやら)
ここまで来たら自分も腹をくくるしかないと、鏡の中の自分に向き合った。
●〇●〇
ピアノの生演奏と共に物語が始まる。
青みを帯びた照明の落ちるステージ。クラシカルな衣装に身を包んだ、美しい黒髪の兄弟人形。
満月の夜。月の精の魔力を得て、二人は人間界での自由と幸福を探しに行く。ここまでの展開は前回と同じだ。
だが、その先は大きく異なる。
二人はそこで、両親や祖父母と仲よく暮らす自分たちと同年代の子供を多数見て、自分たちと彼らが根本的に違うことを初めて知る。
『兄さん。人間の子供にはみんな、家族がいるんですね』
『そうだな。だが、私たちにはいない』
『僕には兄さん、兄さんには僕しかいない……』
自分たちは親の、家族の愛を知らない。そんな自分たちに人間の子供と同じ幸せが手に入るはずもない、と嘆く二人。
その時──
『悲しむことはないよ、可愛い兄弟』
流音がステージに登場し、観客席の、主に女性から小さな歓声があがった。
真っ白い王子様のような衣装に、長い金髪のウィッグを着けた美青年。役どころは、兄弟に力を与えた月の精だ。
前回同様、序盤のシーンでは照明で生み出す陰影や、二人の芝居で月の精の存在も演出した。そして後半は香夏子の知人の劇団員が吹き込んでくれた台詞の録音を使うと聞いていたが、これは渚にだけされた噓の説明だったらしい。
実際には流音が演じるのだと、準備をしている時に渚も聞いた。
これだけでもかなり演技プランが変わるのでいい迷惑だが、もはや怒る気力もない。すでに即興芝居でもなんでもやってやると開き直っている。
『親がいなくても、おまえたち二人は家族だ。二人の幸せを探せばいい。この世界にも必ずあるはずだよ。おまえたちが、それに気づくことができれば』
月の精の言葉を受けて、兄弟は再び夜の人間界に出る。
そこで見つけたのは、一人息子を亡くし悲嘆にくれていた夫婦の姿。
窓も開け放したまま泣き濡れている夫婦を見て、兄弟はその窓辺にそっと降り立つ。
まだ悲しみの涙に頬を濡らしつつも、兄弟に気づいた夫婦は「美しい人形だね」とかすかに微笑んでくれる。
『息子の代わりにはなれなくても、私たちが彼らの悲しみを癒すことができるかもしれない』
『うん。僕たち、ここにいよう。二人が僕たちを見て少しでも笑ってくれたら、それが僕たちの幸せ──』
そうして二人は、自らの意思で新しい居場所を見つけた。
──ここまでが、渚の把握しているストーリーだ。
二人なりの幸福を見つけた喜びに、『弟』である麻青と微笑み合うラストシーン。演じながら、渚は内心で『さあどうくるか』と考えていた。
バンドの生演奏はまだ続いているが、一度照明が落ちる。そして演奏が終わった時、渚と麻青にスポットライトが当たった。
『兄さん、少し待っていて』
麻青……いや、『弟』が言い、『兄』をその場に残してステージを下手側へ移動する。ライトも彼を追い、渚は照明から外れ薄闇の中に残った。
『月の精!』
弟が呼ぶと、流音演じる月の精が下手から現れる。
『どうしたんだい?』
『月の精。あの夫婦は、僕たちをとても大切にしてくれている。僕たちも、もっと二人の力になりたいよ。ねぇ、人形の僕たちは、彼らの家族になることはできないの?』
『それはおまえたちが決めることだよ。家族になれるか、なれないか。すべてはおまえたちの心次第』
『僕たちの、心……?』
『そう。大切なのは、共にいたい、家族になりたいと願う心だ。人と人を繋ぐのは、関係でも距離でもない。互いの想いなんだよ』
『じゃあ、僕と兄さんの想いがあれば家族になれる?』
『そう願い続けなさい。そうしてもう一度、おまえたちの幸せについて考えてみなさい』
しなやかに腕を動かし、月の精が懐から何かを取り出した。
渚は目を凝らす。手のひらに収まるほどの、ガラスの小瓶だった。何か黒いものが入っているが、中身まではよくわからない。
『前にも話しただろう? 幸せは、向こうから訪れるものじゃない。自分たちが幸せになろうとすること。そして、周りにある幸せの種に気づくこと』
小瓶を差し出され、弟は両手で包み込むように受け取る。
『幸せの、種……』
『気づいて、種をまいて、水をやりなさい。どんな花が咲くか、私も楽しみにしているよ』
月の精が優美に微笑むと、また短い暗転が挟まれた。
月の精がステージから去り、スポットライトが再び自分と、傍へ戻ってきた弟を照らす。
『兄さん、これを』
弟が兄の手を取り、受け取った小瓶を握らせた。
(……種)
瓶の半分ほどの高さまで入った黒っぽい粒。間近で見て、何かの種子だと把握する。
『兄さん』
弟が自分を見た。
弟であると同時に、その微笑みは麻青のものだった。『なぎ先輩』と呼ぶ声が、耳の奥で聞こえた気がした。
『僕は信じます。僕たちを大切にしてくれるあの二人と、家族になれると。だって僕は、兄さんやあの人たちが大好きだから。この想いを伝えれば必ず届くと、信じます』
(麻青……)
渚はただ、目の前にある澄んだ黒い瞳を見つめていた。
ここが店のステージであることも、芝居の上演中であることも意識の外へ飛んでいく。
ただ、揺るぎのない光を湛えた瞳に釘付けになっていた。
(……これが、2年ほど前までは引込み思案で自分に自信もなくて、発声にも声を震わせてたあの子なのか)
堂々とした立ち姿、声。眼差しに宿る信念と希望。
これが演技であると同時に、麻青から渚へ向けた言葉なのはもうわかっていた。
プレゼント。麻青から渚への、メッセージ。
(本当に、麻青は強い。強くて、馬鹿みたいにまっすぐで、温かくて……)
『この種はきっと僕たちの心。家の庭にまいて、育てましょう。花が咲く頃には、きっとまた新しい幸せの中にいます。……あなたには、幸せの中で笑っていてほしい』
小瓶を持つ手を、麻青の手のひらがきゅっと握り込む。伝わる温もりが、波紋のように全身へと広がっていくのを感じた。
自分の中で凍えていた何かが、優しく溶かされていく。
『兄さん』
麻青がじっと自分を見ている。自分の言葉を待っている。
(ったく……この状況で長たらしいアドリブができるとか思うなよな)
片隅でそんな負け惜しみじみたことも考えつつ、渚は心からの笑みを返した。
「そうだね、私もそうありたいと願う。もう一度、二人の幸せを探しに行こう」
照明がゆっくりと絞られ落ちていく。一拍の間の後、店内は大きな拍手に包まれた。
ステージ裏に戻ってきた渚と麻青を、真っ先に流音とあらた、実織が出迎えた。
「よかった! めっちゃよかったよ、二人とも!」
「いやー、うまくいきましたね!」
興奮で頬を赤くしている実織とあらたに、麻青が「ありがとう」と返す。
渚は身をすり寄せるように近づいてきた流音に、ぽんと肩を叩かれた。
そのまま流音は渚の耳元に顔を寄せ、小声で告げる。
「あのさ。オレがはけてからの『弟』のセリフは、オレらの台本にもないの。麻青にお任せした部分」
「……だろうね」
あれは麻青の言葉だった。あらたに書けるものではない。
「で、どうだった? オレたちの特別ステージ」
体を引き、目線を合わせて流音が聞いてくる。
「それ、どっちのことを言ってんの?」
「どっちも」
「……よかったんじゃない」
「実織さんの名演技も?」
「だね。すっかり騙されたよ」
「当然。オレとあらたで演技指導つけたんだから。迫真だっただろー」
にやにやと笑う流音に、渚は舌打ちしたくなるのをかろうじて堪えた。
(はいはい、そうですね。素人の演技とチャチな騙しに、あっさり引っかかってパニクりましたよ)
「でもさ。あれ、瓶が落ちたのは偶然だよね?」
悔しまぎれに、気にかかっていたことを極力平静な口調で尋ねた。
店のスタッフが落としたらしいから、そこまで仕組まれていたわけではない。
「うん。実織さんとつながったものの、今日一日でオレたちに何ができるかなって話しながら、ステージの下見とオーナーさんへの挨拶に行ったんだ。その時バックヤードであのトラブルがあって、麻青が掃除始めて。それ見てる時、ひらめいたあらたが速攻で段取り考えた」
(じゃあ、あれこそ本当に即興劇だったってこと?)
「……元部長も現部長も怖すぎなんだけど」
途方もない疲労感に、渚は天井を仰ぐ。
「はは、たしかにオレの教育の賜物かもね〜。でも、おかげで気づいたことあるんだろ。感謝してよ」
もう一度渚の肩を叩き、流音は一歩離れた。その顔から笑みが消え、真剣な眼差しが渚を突き刺す。
「もう逃げんなよ」
「……逃げたくても無理っぽい」
低く答えると、流音は満足そうに口角を上げて去っていった。
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