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デッドエンド・エンドロール(前編)
ストーカーをしている。相手は常連客のサラリーマンだ。
「おはよう、水口くん」
「永野さん! 今日も早いですね!」
アルバイトをしているパン屋に毎朝欠かさず来てくれる、眼鏡をかけた優しそうな雰囲気の痩せた男性。それが俺のストーキング対象の永野だった。
年齢は二十七歳。生まれ育ったのはこの町で、都会の大学に通ったのに就職は地元でしたそうだ。都市圏に出るための交通の便は悪くないので、就職難の時期もあって妥協したのではと周囲では噂されている。
性格は控え目で自己主張が苦手。だが交友関係は意外にも広く、休日に都市圏に遊びに出ることも少なくない。
高校時代はバスケ部に所属していたが、体力面でついていけずに断念。以後は部活に所属していなかった。大学時代は映画研究部に所属していたものの、もっぱら観る専門だったらしい。
ここまで調べ尽くしている相手に、俺は毎朝のように平然と笑顔を向けている。正直、罪悪感が無いわけではなかったが、俺の勤労意欲の九割は彼との談笑なのだ。自分が気持ち悪い人間だという自覚はあっても、彼から距離を取るという選択肢は俺の中にはなかった。
「そういえばあの映画観ましたよ! 永野さんがこの前言ってた!」
「あっ、観てくれたんだ! 水口くんはマイナーな映画でもこうして観てくれるから、オススメのしがいがあるよ。いつもありがとうね」
「俺が好きだから観てるんですよ! それで、今回のヒロインの台詞ですげー好きなのがあって!」
好きで映画を観ているというのは嘘ではない。俺が彼に惹かれることになったのも映画がきっかけだ。
あの日、俺はすこぶる機嫌が悪かった。前評判で期待していた映画を公開初日に観に行けず、しかもSNSでネタバレを踏んでしまったのだ。
しかも、その映画はSNS上でかなり酷評されていた。自分自身、映画館に足を運んで翌日に鑑賞したが、酷評されるのも納得の出来だった。
でもだからといって、エンドロールが流れ始めた途端、観客の九割が席を立って帰り始めたのは許せなかった。
「あーあ、クソ映画だったわ」
「意味分かんなかったねー」
口々にそう言いながら退出していく人々に強い苛立ちを覚えた。
俺はエンドロールを最後まで見る派の人間だ。映画はエンドロールを含めて映画である。エンドロールとともに流れる音楽と映像も含めて作品だと思っている。
それに、たまにある『Cパート』というやつが俺は好きだった。最後まで作品に付き合った者だけに与えられるご褒美のようなオマケの時間。エンドロール後にあるかもしれないそれを期待して、ワクワクと待つのが好きだった。
だからこそ、そんなエンドロールを楽しまないどころか、楽しもうとしている他の客の余韻を壊すようなことを言いながら出ていく奴らに対し、俺は憎しみすら覚えていた。
イライラとする心をなんとか宥め、下から上に流れていく制作陣の名前を眺め続ける。エンディング曲がフェードアウトしていき、エンドロールの終点が画面中央で停止する。
数秒の沈黙の後、Cパートが始まった。
「……えっ」
そのCパートはただのオマケ映像ではなかった。本編で足りないと思っていた部分が数十秒で全て補われ、本編から受けていた印象とは真逆の感想を抱いてしまうようなものだった。
冷静に考えれば、見てもらえるかすら分からないCパートにそれを仕込んだのは制作陣のエゴでしかないのかもしれない。だが、それをCパートでやらなければならない演出的な意図も理解できて、俺はただスクリーンを見上げて呆然とする。
劇場が明るくなり、残っていた数名の客も席を立つ。口を小さくぽかんと開けて固まっていた俺はハッと正気に戻ると、彼らからやや遅れてシアターを出た。
良いものを観たというフワフワとした幸せと、あれを観ずに作品を酷評する奴らへの苛立ちが同時に押し寄せる。
俺はパンフレットを買い、ロビー端のカウンター席に腰掛けてそれを熟読し始めた。荒れ狂う感情を制御できずに大きなため息が出てしまい、その後、ほんの少しだけ込み上げた涙をごまかすために小さく鼻を啜る。
その時、声をかけてきたのが永野だった。
「あの……さっき、シアターにいた人ですよね?」
「へ?」
「ええと、何というか……君も、あのCパートのあれこれについて思うところがあるような顔してたから、もし時間があれば、ちょっと僕があの映画を語る相手になってほしいな、なんて」
子供の頃から映画館に定期的に通っていたが、そんな誘いを受けたのなんて初めてで、俺は流されるままそれに頷いていた。後から思えば、悪い男のナンパの手口のようなやり方だったが、幸い永野はただの善良な映画ファンだった。
俺たちは映画館近くのカフェへと向かい、そこで大いに映画について語り合った。
「やっぱりあのシーンってそういうことですよね!?」
「そうそう! 君もそう思うよね!?」
俺が映画の考察を熱く語ると、彼はその考察に対して同意したり、さらに考察を重ねたりと、打てば響く答えを返してくれた。俺一人では気付かなかった内容や描写も指摘され、もう劇場から出ているというのに映画の鑑賞はまだ続いているように思えた。
楽しい。こうして語り合っている間は、映画は終わらない。エンドロール後のCパートは続いているんだ。
胸の内で渦巻いていたモヤモヤは、彼と会話するごとに爽やかな風が吹き込んだかのように薄れて消えていった。
「あの、俺、水口っていいます!」
「僕は永野だよ。また君と、映画について語りたいな」
裏表のない柔らかな笑みを、眼鏡の向こう側で永野は浮かべた。それが自分だけに向けられていると認識した瞬間、恋に落ちてしまったのは仕方ないことだと思う。
だけど俺は恋愛経験に乏しくて、それが恋であるという自覚を持つのが遅れてしまった。そのラグのせいで俺が自分の感情に気付いた時にはすでに、メッセージアプリ上での俺と永野の関係は、年の差のある同じ趣味の友人という形で固定されてしまっていた。
もっと早くに気付けていれば、恋愛的なアプローチもできたはずなのに。今になって急に恋愛対象として扱ったら、きっと彼は気味悪がって俺から離れてしまうだろう。
そんなジレンマを抱えながら、アルバイト先のパン屋でせっせと働いていたある日、永野が俺の働くパン屋にやってきた。
「あれっ、水口くん?」
「永野さん!? どうしてここに……」
「たまには他のパン屋さんを開拓しようと思って入ってみたんだ。それが君の働いてる店だなんて運命みたいだね」
照れくさそうに笑う永野に、こっちが気恥ずかしくなって顔が赤くなってしまう。
それから永野は、毎日欠かさず俺の働くパン屋にやってくるようになった。
早朝の客の波が引いて、少しだけ暇が出来る十数分。その隙をつくように永野は来店し、イートインの席で俺とささやかな談笑をしてくれるようになった。
「永野さんってもしかして狙ってこの時間に来てるんですか?」
「あはは、バレちゃったか。君と話すのが楽しくてね」
わざわざこちらの都合に合わせてまで来店してくれる彼に、恋の炎はますます燃え上がる。
これは脈ありなんじゃないか。可能性があるなら、彼との距離を縮めるために努力しないと!
舞い上がる心のままに俺が始めてしまったのが、彼へのストーキング行為だった。
時折、休日に会っては、自宅に帰る彼の後をつけて彼の自宅を特定した。
SNSで彼の顔と名前を検索してアカウントを見つけ、交友関係を把握した。
過去も現在も何もかも知りたくて、ストーキング行為はエスカレートしていった。
彼の全てを把握したい。彼を俺のものにしたい。
いつか距離を詰めて、心を開いた彼の体を暴きたい。犯したい。食い散らかしたい。
そんな最低な欲望を抱いたまま、俺は毎朝のようにパン屋で彼と談笑する日々を送っていた。
自分の異常性を自覚したのは最近のことだ。表向きは穏やかに仲良くなりながら、裏ではストーカーだなんて犯罪行為に手を染めて、ぐちゃぐちゃに犯したいだなんて思っている。
こんな卑劣な自分はきっと彼に相応しくない。清廉で、真面目で、純粋なところのある彼がこんな俺の一面を知ったら、絶対に幻滅して去っていってしまう。
いつか彼と今まで以上に親密な関係になりたいというのは本当だ。だけどそれに至るまでの『正しい道筋』というやつが俺にはもう分からなくて、ただただストーカー行為を続けることしかできない。
終わりたくない。この偽りで塗り固められた平穏で幸せな日々を終わらせたくない。それが歪でいつか崩壊する関係だと分かっていても。
だから、彼が突然俺の前から姿を消した時、俺は今までの下劣な自分に罰が降ったのだと思った。
永野が店に来なくなったのは、本当に唐突なことだった。前兆はなかったと思う。俺が気付けなかっただけかもしれないが。
最初は、たまたまうちの店に来る気分ではなかったのだと思った。だけどそれが数日続き、数週間続き、俺は彼がもうこの店に来る気がないのだと理解せざるをえなかった。
自宅もSNSも把握しているのだから、そちらを辿って偶然を装って会いに行けばいい。冷静に考えればそれだけの話ではあるのだが、その頃の俺は自分がすでに致命的に嫌われてしまっているのではないかという疑念に取り憑かれてしまっていた。
もし再会して、嫌悪の目を向けられたらどうしよう。嫌われる心当たりは山のようにある。自分がやってきた気持ち悪いストーカー行為を理由に距離を取られたのなら、再び縁を繋ごうとしても拒絶されるのは当然だ。
確認しに行く勇気が出せないまま、半年間、俺は抜け殻のようにパン屋で働いていた。
そして、次に彼の顔を見た時、俺は最初何が起きたのか理解できなかった。
とあるエロ動画サイトのサムネイル。そこに顔を半分隠して写っているのは、紛れもなく彼だった。
他人の空似だ。声を聞けば別人だと分かるはずだ。震える手で再生ボタンをタップする。その途端に流れ出したのは、拘束され、媚びた嬌声を上げ続ける、見覚えのある男の痴態だった。
「ひぃ、あっ、あぐぅっ♡い、いやっ、やらっ♡♡」
「ひゃい♡あっ、ああ“っ、おれはへんたいれす♡ああぁぁあっ♡♡」
「ありがとうございますっ♡もっとつかってくらさいっ♡♡♡」
目を背けたくなるほどの激しいSMプレイを受けているというのに、永野の体は明らかに悦んでいた。
道具のように乱雑に犯されて、放置されて、それでも媚びる言葉は止まらない。半年前まで隣に座って映画を見ていた清らかだったはずの彼は、鑑賞され、消費される側の存在になっていた。
無意識のうちに自慰をしようと自分の性器を握りかけ、手を止める。
信じたくない。許せない。こんな姿を俺以外に晒している彼も、それに興奮を覚えて性処理に使おうとしている自分も受け入れられない。許せる気がしない。
どうしてこんなことになったんだ。彼は、自ら望んでこんな無惨な姿を晒しているのか。俺が信じていた清廉潔白な彼の姿は偽りだったのか。
失望はやがて怒りへと変わり、堪え切れない殺意へと変貌する。それが醜い逆恨みであると分かっていても、怒りをなかったことにはできなかった。
本人の意思でやっているのなら殺してしまおう。綺麗だと思っていたあの人の本性を殺してしまおう。
行き場のない感情のままに、俺は行動を開始した。
まずは彼の自宅周辺を探り、彼が今どんな生活をしているのか確かめようとした。しかし彼が半年前まで住んでいた家には今は誰も住んでおらず、働いていた職場も辞めており、彼の周辺人物にあたっても彼が今どこで何をしているのかの情報は掴めなかった。
何かがおかしい。まさか彼が姿を消したのは彼自身の意思ではなく、誰かに強制されたものなんじゃないのか。
そんなフィクションめいた疑念が俺の内側で膨れ上がったが、それを確かめる手段はない。
それでも俺は諦めずに自分のもてる力を全て使って彼の消息を追い続け――幸運にも、彼の動画を投稿しているアカウントの持ち主にコンタクトを取ることに成功した。
アカウントの持ち主に彼に会いたいのだと伝えると、とある高級マンションの一室に呼び出された。
良くない噂のある人間だといことは把握していた。ヤバい業界にコネがあり、普通に生きていたいのならすすんで関わるべきではない人間だと、そいつへと話を繋いでくれた人間には忠告された。
だけど今更止まることなんてできなくて、俺は護身用のナイフを隠し持って、呼び出されたマンションへと赴いた。
高層マンションの十七階。インターホンを鳴らした俺を迎えたのは、四十手前ぐらいに見えるガラの悪い男だった。
男は俺を部屋の中へと招き入れ、手のひらを差し出してきた。
「十五万だ」
「え……?」
「とぼけなくてもいいって。あいつの体目当てなんだろ? 動画で宣伝してるからお前みたいな奴はよく来るんだよ」
ヘラヘラと笑いながら、男は俺に金を要求する手を軽く振る。
「ちなみにクスリのオプションはプラスで五万円だ。最近打ちすぎてトビ続けてるから、用法容量は守ってくれよ?」
「クス、リ……?」
「はは! クスリ使うようになってから素直になったが、それまでは泣いて抵抗してウザかったんだよ。嫌がるのを見たいなら、敢えて打たないって手も――」
それ以上、男の言葉を聞いていられなかった。体が勝手に動き、隠し持っていたナイフを取り出して構え、得意そうに語る男の脇腹目掛けて体全体をぶつけるようにして刃を突き立てる。
体重の乗ったその一撃は男の脇腹に深々と突き刺さり、男は突進されたままの勢いで仰向けに倒れ込んだ。
両手で刃を掴み、男の腹を踏むような形で力を込めてナイフを抜き去る。傷口から血がとめどなく溢れ、男は少しの間痙攣して動かなくなった。
「はっ、はぁっ、はぁっ……」
興奮と怒りで荒くなった息を吐きながら、死んだ男を俺は見下ろす。生ぬるい血が服に染み込み、その温度が徐々に冷えていく。湿った服の生地が体に張り付いてきた頃、俺は不思議なほど冷静になっていた。
彼を探さないと。このマンションのどこかに閉じ込められているはずだ。彼を解放して、もう大丈夫だと伝えて、それで――
それで、その後はどうすればいいんだ?
正気に戻ってしまいそうな心を奮い立たせ、俺はぼんやりとした思考のまま、彼を探し始めた。
マンションの全ての部屋のドアを開け放ち、彼の姿を探し回る。どの部屋にも彼はいない。だが、客間として用意されたらしき部屋の片隅から、小さな異音が響いてくることに俺は気づいた。
異音の出どころは、部屋に備え付けられた大きなクローゼットだった。
何かが振動する音と、身じろぎをする音と、震える息遣い。
俺は、自分の予想が外れていてほしいと願いながら、汗ばむ手でクローゼットの取っ手を握り、引き開ける。
そこにあったのは、全身を拘束され、あらゆる淫猥な道具を取り付けられた永野の姿だった。
「ん、むぅ……?」
目隠しと大きなヘッドホンによって視覚と聴覚を奪われていても、ドアが開けられたことによって入り込んできた空調の冷気には気づいたらしい。永野は口枷をつけた状態で小さくうめき、それからこちらを誘惑するように艶かしく身を捩り始めた。
手は後ろで拘束されており、足も黒いベルトと手錠できつく縛られている。乳首には片方にだけ鈴のついたピアスがついており、もう片方には小型バイブが貼り付けられ、断続的な快楽を彼に与え続けている。
陰茎には細い棒が刺さり、射精を妨げている。後ろの穴には太くてグロテスクなディルドが固定されていて、駆動音を鳴らしながら淫靡に蠢いていた。
「むー、むごっ、ぐぅ、ぉ……」
彼は床に体を擦り付け、這いずって、目の前にいるであろう自分を犯す者に対してアピールしている。
あの男の言葉が本当なら、彼は今までもこうやって訪れてきた客たちに媚びてきたのだろう。
俺は自分の股間が反応してしまっているのに気づかないふりをして、震える手で永野の拘束を解き始めた。
手足を自由にし、淫猥な玩具を取り去り、口枷をそっと外す。唾液で湿ったそれから解放され、ようやく人の言葉を発する権利を得た永野は、目隠しをつけたまま俺を見上げて不思議そうに口を動かした。
「ごしゅじん、さまぁ……?」
舌足らずに問いかけられたその言葉に、俺は自分の中の欲望が芯を持ってしまうのを感じた。
彼の頭からは、まだ目隠しとヘッドホンを外していない。俺のことをあの男だと思っているのだ。
「ごしゅじんさまぁ、おれ、いいこにしてましたっ♡ごほうびくだしゃいっ、ごほうびっ♡おくすりほしいれす♡きもちいいこと、たっくさんしてくだしゃい♡♡」
呂律の回っていない口調で言いながら、目の前の俺に体を擦り付けて彼は媚びる。そこには半年前までの優しく清らかな彼の姿はどこにもなく、俺は深い絶望と興奮で頭がおかしくなりそうだった。
俺の知っている永野はもういない。理知的な眼差しで映画について楽しそうに語っていた彼は死んでしまった。ここにいるのはその抜け殻だ。
苛立ちのままにきつく彼を睨みつける。股間が熱く反応している。
いっそこのまま彼を犯して殺してしまおうか。込み上げてくる怒りと欲望に身を任せ、彼だったものを蹂躙すれば少しは気分も晴れるかもしれない。
しかし加害の意図を持って手を伸ばしかけたその時、永野の表情は突然引き攣ったものとなり、ほとんど悲鳴のような声色で俺に懇願を始めた。
「ごしゅじんさま、へんじしてくらさい、う、ああ、あぁぁ、いや、いやだ……ごめ、ごめんなさい、ぶたないで、いやれす、おしおきやだやだっ、なんでもしますっ、なんでもしますからぁっ……」
目隠しの下で流された涙が肌を伝い、ぽろぽろとこぼれ落ちる。俺は、急に自分のしていることの意味がわからなくなった。
なんで俺はここに来たんだろう。なんであの男を殺したんだろう。あんな端金で彼が売られていることに腹が立ったのかもしれない。彼を壊したあの男を憎んだのかもしれない。
じゃあ俺は、こうして彼に再会して何をするべきなんだ。殺してしまおうとも思った。犯してしまおうとも思った。
だけど今はどちらを選ぶこともできない。目の前のこの哀れな男に――俺のことを残酷なご主人様だと思い込んでいる彼に、何をすればいいのかわからない。
ああでも、と思い至る。
こうして俺が殺したあの男に懇願しているという事実は許せない。あの男と永野の間に万に一つも愛があると考えるだけで気が狂いそうだ。
ストーカーをして、いなくなった彼を追いかけて、人を殺して、俺の人生はもう終わったも同然だ。それなのに目の前の全ての原因になった彼は、呑気にこちらに命乞いをしている。
それがひどく虚しくて、悲しくて、怒りもどこかにあって――、俺はとある最悪の悪戯を思いついてしまった。
声を一切発しないまま、永野の腕を掴んで乱暴に引っ張る。彼は不思議そうな顔をしながら、無抵抗に俺の後ろをふらふらとついてきた。
その足取りはおぼつかないもので、この半年間、彼には自由に歩行する権利すら与えられていなかったのだとありありと示している。
かつて一緒に並んで向かった映画館。その道中で、少しだけ高い位置にある彼の顔を見上げていたあの時間。ささやかな幸せを感じていた思い出が、今目の前にある現実によって粉々に壊されていく。
ドアを開け、犯行現場の部屋へと入る。床の血溜まりはじっとりとカーペットに染み込んでいて、そこから立ち上る血の匂いに自然と顔が歪んでしまう。
「ごしゅじん、さま……?」
永野もその異様さに気づいたらしく、目隠しと耳栓をつけたまま、不安そうに呼びかけてきた。
それを無視し、俺は彼を死体の前へと連れていく。地面に放置していたナイフを拾い上げ、彼の両手に握り込ませる。
戸惑いながらもナイフを握った永野を誘導し、男の死体へとその切先を向けさせる。そしてそのまま背後から覆い被さる姿勢で彼の体を傾かせ、ほとんど前に倒れ込むような形で永野と男の体は重なった。
握り込まれていたナイフは、彼の体重によって男の腹へと沈み、まだ男の体内に残っていた血液が傷口から滲み出て、永野の青白い手を赤く染める。
そのひんやりとした感触を指先に感じてもまだ、永野は何が起きているのかわかっていないようだった。ただ小さく口を開けて、不安げながらもろくな抵抗もせず、俺の行動に身を任せるばかりで、彼自身の意思はそこからは感じられない。
俺は彼から体を離すと、ナイフを永野に握らせたまま、彼のヘッドホンと目隠しを外した。
「永野さん」
「……ぇ」
隣に寄り添うようにして呼びかけると、永野は焦点の合っていない視線を彷徨わせ、傍にいる俺へと顔を向けた。
「これで、共犯だね」
薄く微笑みながら、ナイフを握ったままになっている彼の手の甲を撫でる。彼の視線はゆっくりとそちらに向き、自分がナイフを手にしているということと、その切先が己のご主人様に深々と突き刺さっていることを認識する。
彼がその光景の意味を本当に理解できたのかは分からない。悍ましい光景を前にしても、彼は悲鳴ひとつあげなかった。
嘆くことも勝ち誇ることもなく、ただとんでもないことをしてしまったという表情で、彼は細かく全身を震わせ始める。
自分を壊し、飼っていた主人は死んだ。自分がナイフを刺して殺した。
その事実を前にして呆然と震える彼の耳元で、俺はそっと囁いた。
「どうする? 終わらせてあげてもいいけど」
クスリで体も自我もぐちゃぐちゃにされて、あられもない姿を写した動画はネット上に広まっていて、彼の人生はもう終わったも同然だ。
その上、人殺しになってしまったと思い込んだ彼が、全てに絶望して死を望むのなら、それを叶えてもいいと思っている。
それとも俺を新しい飼い主として認識して、徹底的に人生を破壊されることを望むだろうか。この悪趣味な男に殉じて死ぬよりは、まだそちらの方がマシなのかもしれない。
どちらにせよ、彼の人生を終わらせた後、自分もその後を追うつもりではある。こんな有様になって死んでいく彼の記憶を抱えたまま、これから先の人生を生きていける自信はないから。
「終わる時は一緒だよ、永野さん」
彼の手からナイフを受け取る。できるだけ上手に笑ったつもりだった。だけど声は引き攣って、目には涙が浮かんで、ここまで絶望しているのにまだ終わるのが怖いと往生際の悪い心が叫んでいる。
永野はそんな俺の顔を虚ろな目で見上げた後、俺の手に自分の手を重ねて、乾いてカサカサになった唇を動かした。
「やだ……おわるの、やだ……」
駄々っ子のような顔で、永野は言う。不思議とその表情は、まだ清廉だった時の彼の記憶と重なって見えた。
『このまま終わらなければいいのにって思うこと、ない?』
『君と話してれば、ずっと映画が終わらない気がするんだ。不思議だよね』
少し照れくさそうにはにかみながら、記憶の中の永野は言う。現実の彼は、俺の服に縋りつき、ボロボロと涙を溢していた。
「いっしょにっ、まだ、おわりじゃっ……」
断片的で、何を言いたいのかも理解できない言葉の群れ。だけどそれを発しているのは紛れもなくあの頃の面影がある彼で、俺は、せっかく固めかけていた全てを終わらせる覚悟を先送りにしたくなってしまった。
「そうだね、まだ終わりじゃない」
ナイフを床に置き、彼の体を正面から抱きしめる。これ以上、死体を彼の視界に入れておきたくはなかった。
終わりを先送りにしよう。もしこれが映画なら、もうクライマックスは終わってエンドロールが流れ始めている。だけど、彼と一緒にいれば、ほんの少しの延長戦ぐらいはきっと許される。
「埋めて隠そっか」
抱きしめた腕に力を込める。彼の返事はない。何を思っているのかも分からない。俺のことを認識している保証もない。それでも、あと少しだけ。
俺は、来ないかもしれないCパートを夢見て、目を閉じる。
「全部隠して、一緒に逃げて……。それから少しの間幸せに暮らして、その後一緒に死んじゃおう?」
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