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第1話:まだ君を知らない

 今日もまた、この海岸に来てしまった。  レオニアスは夕暮れの影濃い岩礁に身を隠しながら、尾鰭(おひれ)を動かして波間を縫うように泳ぐ。  時折青く長い髪が夕陽に照らされ紫がかって波間に靡く。  こんなところを父王の部下に見つかれば、きっとまた叱られるだろう。 『人間の棲み家へ近付いてはいけない』  それは幼い頃から厳しく言い含められている決まり事だった。  人間は人魚を物珍しいというだけで捕え、売り、時に命さえ奪う。  幼い頃にも、時折姿を消す仲間が居たが、誰もその行き先を教えてくれなかった。  けれど、今のレオニアスには、言いつけを破ることへの小さな罪悪感も、潮騒の中に鮮やかに響いてくる音に押し流されてしまう。  毎日、太陽が世界を茜色に染める頃、海岸沿いにポツンと建つ屋敷からその音は流れてくる。  甘く優しい音が転がるようにあふれて旋律を紡ぐ。  初めてその音色を聞いた日から、よくないと思いながらもこの海岸へと来てしまう。  けれど、惹かれる理由は美しさだけではない。 「……ああ、まただ」  音が一瞬揺れてピタリと止まってしまって、小さく笑みが浮かぶ。  何度かゆっくりと繰り返す音は慎重に響いて、時々旋律が詰まってはまた静かに流れていく。  初めてこの曲を耳にした日から、少しずつ、けれど確かに上達している。  その丁寧で生真面目な反復が好きだった。  やがて太陽が海の向こうにすっかり沈んで夜の帳が下りる頃。  音が止んだ海岸は潮騒に満たされ、屋敷の中に小さな灯りが灯る。  そうしてレオニアスもそっと岩陰から身を離し、薄暗い世界に紛れて海底へと帰っていく。  危険と言われても、レオニアスは毎日あの音色を聞きに来てしまう。  この秘密は、誰にも知られたくなかった。  ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇  この日、レオニアスは父王に呼び出された。  毎日夕暮れ時に姿が見えなくなる事を問い正されても、レオニアスは答えられない。  嘘やごまかしを嫌う末息子の無言は何よりも答えになっていて、父王は深くため息をつく。 「お前に何かあっては、皆が心配するのだよ。……当然、私も」 「……すみません、父上」  諭すような言葉に言い訳はできなかった。  王ではなく父として嗜められ、自然と頭を垂れる。  細心の注意を払っているつもりでも、やはり連日ということもよくはなかったかも知れない。  心労をかけてしまっていたことを反省しながら謁見の間を出たところで、どこから窺っていたのか兄達がやってきて囲まれる。 「やっと出てきたなレオニアス」 「俺たちには教えてくれるだろう?毎日どこへ通っているんだ?」 「人間のところじゃないだろうな?」  兄達はレオニアスの周りをくるくると泳ぎながら口々にからかってくる。  しかし末の弟は口を引き結んで答えない。  それまで面白がるような口調だった兄達がレオニアスの態度を見て泳ぐのを止める。 「……まさか本当に?」  兄達の笑みが消え、声に焦りが滲む。 「お前、もしかして人間のふりをして陸へ上がってるんじゃないだろうな?」  そう口にするだけでも恐ろしいと言いたげな表情で咎める声は真剣だ。 「あの術はいざという時の身を守るためだって習っただろ」 「大人でもひどく消耗するんだ、お前はまだ子供なんだから……街中で術が解けたら終わりだぞ」  その表情は心配そうに曇っていたが、兄達もレオニアスの心境を思いやれるほど大人ではなかった。 「なあレオニアス、人間なんて顔が良くても中身は野蛮なんだよ」 「お前は単純な奴だから、ずる賢い人間に騙されても気づけないだろう」  兄達の言葉はレオニアスの淡い想いを引っ掻き回す。  父に諌められた時には湧いてこなかった反抗心が膨らみ、口から鋭い声となって飛び出た。 「兄上達に分かっていただかなくとも結構です!」  尾鰭に力を込めて水を蹴ると囲む兄達を押し退け、誰にも追いつけないほどの速さで泳いでいく。  腹立たしさに歯を食いしばり、脇目も振らずに突き進む泳ぎは魚の群れさえ道を譲るほどの勢いだった。  野蛮なんかじゃない、会ったことはなくてもあの音色を聞けばわかる。  ずる賢い人間があれほど愚直に練習を繰り返せるはずがない。  胸中で言い返しながら苛立ちに任せて泳いでいるうちに、気付けばあの海岸まで来てしまっていた。  太陽はまだ高く、あの音色が流れる時間には遠い。  それでも今は海の底へ戻る気になれず、屋敷が見える場所まで波に紛れながら近付いていく。  夕焼けに見慣れた海岸は、茜色よりもずっと大きな違いがあった。  一瞬、砂浜に大きな真珠が落ちているのかと思った。  白い髪、白い肌、白い衣服。  全てが太陽の光を眩く弾き輝くような人間がひとり、波打ち際に佇んでいた。  あまりにも美しくて、水晶や真珠で作られた像かと思うほどだった。  目を閉じ、立ち尽くしたまま動かないせいもあるだろう。  生きているのか疑わしく、岩礁に身を隠して様子を窺う。  海風に靡いた髪を掻き上げる姿に、ちゃんと生きているのだと分かる。  警戒するべきだとわかっているのに、目を逸らすことができない。  目を閉じたまま太陽と風を一身に受けて佇む姿は神聖ささえ感じさせた。  砂浜に届いた波が一際高く人間の足元にぶつかり、服が大きく濡れたようで人間が目を開けて俯いた。  一瞬見えた瞳は珊瑚よりも紅く煌めいていた。  

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