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第2話:真珠のぬくもり
この海岸で人間を見たのは初めてだった。
崖や岩礁が多く、砂浜の先には大きな屋敷がひとつきり。
あの屋敷の住人だろうか、過去に遠目から見た人間達とは身にまとう空気が違うように感じた。
砂浜を撫でる波に足元を濡らし、ただ立っているだけの人間から目が離せない。
やがて、人間がゆっくりと踵を返し海へ背を向ける。
陸へ戻ってしまうのか、となぜか残念に感じた。
そんな感傷も、不意に人間の体がぐらりと揺れて、膝と手をついて座りこんでしまう姿に吹き飛んだ。
レオニアスは反射的に泳ぎ寄ろうとして、尾鰭が動くより先に思いとどまる。
ただ足がもつれて転んだだけだろう。
俯いた頭に波飛沫がかかり、頭が持ち上がる。
けれど、立ちあがろうとしたのだろう体は波の勢いに負けて海に倒れ込んだ。
体を起こせば簡単に抜け出せるような浅瀬で、溺れかけていると悟る。
何をやっているんだ。焦燥感のまま胸中で毒づき、尾鰭で大きく海を打つ。
波飛沫が落ちるよりも早く距離を詰めながら、手を前に突き出した。
人間の周りの波が不自然な水流を作り、その体を陸地へと押し戻していく。
砂浜に体が乗っても寄せる波が顔にかかって咳き込んでいる、自ら体を支えて這い上がる力がなくなっていると分かる。
人魚が操れるのは潮流だけで、海から陸地へ引き上げる力はない。
レオニアスの脳裏に一瞬だけ「人間に近付いてはいけない」という言い付けが掠める。
しかし、危険だと繰り返されてきた禁忌を犯すことへの躊躇はなかった。
水を強く蹴る尾鰭が分かれ、人間と同じ足へと変じて下肢を覆う鱗は滑らかな肌になる。
人間の格好を真似るように深い海色の衣服がその体を包み、水を蹴っていた下肢は海底の砂を踏んだ。
水中を歩く重さに戸惑いながら手でも水を掻いて前に進み、波打ち際まで辿り着くと咳き込む人間の腕を掴み引き上げる。
持ち上げた体は水中でもないのに随分と軽く感じてレオニアスは内心で静かに動揺した。
「君、大丈夫か」
必要以上の接触をしてはいけない、そう思っていたはずなのに、思わず声をかけてしまう。
咳が落ち着いたのか頭をあげ、水を滴らせる白い髪の間から紅の瞳が揺れながらレオニアスを見上げる。
唇が僅かに動くものの声は聞こえない。
すぐに助け上げたはずなのに、ずいぶんと弱って見える。
血の気が引いた肌はまるで冬の海にでも落ちたかのように冷たく感じた。
暖かな陽射し程度では彼を温め落ち着かせることはできそうにないと判断し、細い体を抱え上げる。
「あの屋敷は君の家か?そうなら瞬きを2回してくれ」
長い睫毛に縁取られた目が二度瞬きして、腕の中の身体が脱力するのを感じた。
悠長にしていられないと肩に頭を預けさせ、傾斜のある道を慣れない足で登る。
海に面した庭を抜けて建物に近づき、外と中を隔てるガラスと木枠でできた壁を覗き込む。
これほど広い建物の中は静まり返っていて、他の人間の姿は見えない。
出入り口を探そうと外周に沿って歩きはじめた時、強い風が吹き抜けた。
背後でキィ、という音が聞こえて振り向くと、先ほど壁だと思った場所が開いてゆらゆらと揺れている。
引き返して隙間に指を掛けて手前に引けばあっさりと開いていく。
室内に入ると裸足に冷たく硬い感触を感じて一瞬動きを止めるが、腕の中で小さく震えている彼へと意識を戻して怯みかけた足を進める。
こんな冷たい石床の上へ寝かせられないとは分かるが、では人間はどこで休むのだろうか。
抱えた体だけでなく、自分の体も冷えてきている。
人魚の姿では感じなかった感覚だ。
「……まず、温めることが先か」
日光に当たる以外の温め方も知らずに呟く。
せめてこれ以上冷やさないためにどうするべきか考えていると、白い髪から海水が滴って彼の頬に落ちた。
水に浸かって冷えてしまったなら、濡れたままでは良くないと思い至る。
部屋の中央に敷物を見つけて石床よりは柔らかそうなそこへ彼を横たわらせた。
「脱がせるぞ」
意識があるのかないのか分からないまま、一応とばかりに声をかけて濡れたシャツに手をかける。
濡れた布からボタンを外すのは思った以上に難しく、二つほど外したところでもどかしくなって強引に頭から抜いて脱がせてしまう。
肌の白さはやはり真珠のようだと思った。
手のひらで腹に触れてみれば肌は冷たく、下履きも引き抜いて濡れた布地を彼の体から取り払う。
脱がせる際に触れた体の中で、抱えて運んだときに触れていた部分だけ微かに温もりが移っているのに気づき、レオニアスは自身の服を掴んで引っ張る。
紺の布地が薄い水の膜に変わり、そのまま投げ捨てれば石床の上に落ちてただの水たまりが広がった。
敷物の上に座り込んで細い肩を引き寄せて体を抱え込めば、肌が接触するところから冷たさが伝わってきて眉を寄せる。
まだ少し濡れた髪が額や頬を冷やすことを心配して、手櫛で髪を撫で水気を絞っていく。
ふと風が肌を撫でて意図せず体がぶるりと震え、レオニアスは瞬きをした。
顔をあげれば開いた窓から風が吹きこみ、ガラス戸がまた小さく揺れていた。
触れ合う肌には体温が留まりはじめているのに、風に晒される範囲の方が広い。
床に広げられた敷物を捲り上げ、身にまとうには硬いそれをお互いの体に巻きつけてくるまる。
風が阻まれ、毛足の柔らかな感触は体温を守る。
細い腕や薄い背中をさすって体温を分け与えるうちに、小さく震えていた体が規則的な呼吸音と共に弛緩していく。
眠ってしまったのだと察して、やっとレオニアスも緊張を解いた。
心の余裕と共に、初めて見る人間の生活に興味が湧いてくる。
用途の分からない家具たちは整然と並び、庭に咲く花が飾られている。
落ち着いた穏やかな印象は、これまで刷り込まれてきた危険で野蛮で残酷な人間という想像からかけ離れていた。
波の音が遠くに聞こえるのが慣れなくて、外へ視線を向ける。
木々の緑は日差しと風を浴びて色鮮やかに揺れる。
海のきらめきとは質の違う美しさがあった。
静けさはどこか優しくて、段々と瞼が重くなってきた。
規則的に聞こえる寝息のせいか、それとも人間の姿になったせいだろうか、少しだけ、疲れてしまった。
レオニアスはいつしか警戒も忘れて、人間を腕の中に閉じ込めたまま微睡みに沈んでいった。
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