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第1話 小姓、殿の膝から始まる

「近いです」 「近くした」 「なぜ」 「お前が遠すぎる」 榊伊織は、咲霧宗春の膝の上にいた。 朝である。 それも、咲霧藩上屋敷の奥座敷。 本来なら、藩主が登城前の支度を整え、家臣が控え、今日の用向きを確認する時刻である。 そのはずなのに、咲霧宗春は平然と小姓を膝に乗せていた。 伊織は背筋を伸ばし、膝上という状況を全身でなかったことにしようとしている。 「殿」 「うん」 「これは、朝の支度に含まれておりません」 「含めた」 「勝手に職務を増やさないでください」 「職務ではない」 宗春は、伊織の腰に回した腕へ少しだけ力を込めた。 「褒美だ」 「誰への」 「俺への」 「なお悪いです」 宗春は楽しげに笑った。 その笑い方が、伊織は苦手だった。 軽い。 甘い。 距離が近い。 それなのに、雑ではない。 宗春はいつも、伊織が本当に拒む一線だけは踏まない。 だからこそ、始末が悪い。 「お前、朝から固いな」 「小姓として当然です」 「膝の上で?」 「……そこを言わないでください」 「可愛い」 「評価は不要です」 「では記録に残さない」 「そもそも記録しないでください」 その時、障子の向こうから咳払いがした。 「殿」 霧生景継の声だった。 伊織は反射的に立ち上がろうとした。 が、宗春の腕が離れない。 「殿」 「聞こえている」 「では離してください」 「なぜ」 「家老がお越しです」 「景継なら慣れている」 「慣れさせないでください」 障子が開く。 霧生景継は、ぴたりと動きを止めた。 その後ろに、青柳直澄が控えている。 直澄は一瞬だけ筆を取りかけ、すぐに下ろした。 伊織はそれを見逃さなかった。 「青柳殿」 「はい」 「今の動きは何です」 「控えます」 「最初から控えてください」 宗春が笑う。 景継の眉間には、朝から深いしわが刻まれていた。 「殿。登城前に、小姓を膝に乗せる必要がどこにございますか」 「俺の近く」 「答えになっておりません」 「伊織が遠い」 「榊殿は、今、殿の膝上におります」 「心が遠い」 「それは政務に関係ございません」 「ある」 景継が言葉を失った。 伊織は小さく息を吐く。 「霧生殿。申し訳ございません。私がすぐに退きます」 「榊殿が謝ることではない」 景継はそう言ってから、宗春へ向き直った。 「殿が退かせれば済む話です」 「退かせたくない」 「殿」 「今日の用向きは」 景継は一度だけ目を閉じた。 諦めたらしい。 「江戸城での詰めは昼前まで。戻られてから、国元より届いた書状の確認がございます」 「鳴瀬山か」 伊織のまつげがわずかに動いた。 景継はすぐに言葉を切った。 「山方からです。詳しくは、榊殿のいない場で」 「分かった」 宗春はあっさり頷いた。 伊織は何も聞かなかった。 山の名。 国元。 書状。 咲霧藩がもともと鉄に関わる土地を持つことくらいは、江戸の者でも耳にする。 けれど、伊織はそれ以上を尋ねない。 景継はその沈黙を測るように、一瞬だけ押し黙った。 宗春も、何も足さない。 直澄だけが、筆を取らぬまま伊織の横顔を見ていた。 「伊織」 宗春が呼ぶ。 「はい」 「今、何を考えた」 「登城前に、膝上で政務の話をなさるのは、あまりよくないと」 「それだけ?」 「それだけです」 「山の話は?」 伊織は宗春の腕の中で、ほんの少しだけ背を正した。 「私が伺うことではございません」 「気にならない?」 「気になります」 景継の眉が動く。 伊織は続けた。 「ただし、山の産物より、そこで働く者の飯と怪我の方が気になります。鉄が動けば、人も動きますので」 直澄が今度こそ筆を取りかけた。 伊織は静かに言う。 「青柳殿」 「控えます」 宗春は満足げに笑った。 景継は複雑そうに伊織を眺め、すぐ視線を外した。 「殿。お時間です」 「仕方ない」 宗春はようやく伊織の腰から腕を離した。 伊織はすぐに膝から下りる。 立ち上がると、乱れた着物の裾を整えた。 何事もなかったように。 少なくとも、そう見せようとしている。 宗春はそれを愉快そうに眺めていた。 「伊織」 「はい」 「戻ったら続き」 伊織の手が止まった。 「何の続きですか」 「膝」 「続きません」 「夜なら?」 「なお続きません」 「考えておけ」 「考えません」 宗春は立ち上がり、伊織の横を通る時、耳元へ低く囁いた。 「俺は考えておく」 伊織の頬が赤くなった。 「登城なさってください」 「行ってくる」 「行ってらっしゃいませ」 宗春が出ていく。 景継と直澄も続いた。 障子が閉まったあと、伊織はようやく息を吐いた。 膝の熱が、まだ残っている。 いけない。 そう思った。 けれど、宗春がいなくなった部屋は、急に広すぎた。 **** 昼過ぎ。 宗春が戻った頃、上屋敷には町方から小さな揉め事が持ち込まれていた。 屋敷へ出入りする道具屋が、鉄釘と鍋金具の値を上げたいと言い出したらしい。 咲霧藩の道具番が渋り、台所方が迷い、景継が眉間を押さえ、直澄が帳面を広げていた。 「鉄具の値上がりか」 宗春は羽織を脱ぎながら言った。 「戻って早々、飯の話ではないのか」 「殿、これは飯にも関わります」 直澄が答える。 「鍋の修繕、釜の打ち直し、釘、金具。江戸屋敷の支出にも響きます」 伊織は帳面の端を静かに見た。 「道具屋の言い値をそのまま飲めば、台所方が割を食います」 景継がすぐに反応する。 「榊殿。帳面は」 「失礼しました」 伊織は身を引こうとした。 宗春が止める。 「言え」 「殿」 「聞きたい」 伊織は景継へ一礼した。 「私見でよろしければ」 景継は渋い声で言う。 「短く」 「はい」 伊織は帳面の数字そのものには触れず、品目だけを指した。 「鍋金具と釘を一括で買うから、相手の言い値になります。急ぎの釜修繕だけ先に通し、釘は町火消しの組へ回った余りを待つ。道具屋には、次の納めまで支払いを分ける。台所方の飯代を削るより、その方が角が立ちません」 直澄の筆が止まった。 景継は伊織をじっと確かめる。 「榊殿は、商いにも明るいのですか」 「明るくはありません」 「では、なぜ」 「飯代を削ると、人が荒みます」 伊織は少しだけ目を伏せた。 「荒んだ者は、嘘をつきやすくなる。嘘は、帳面より先に台所に出ます」 直澄がゆっくり頷いた。 「理があります」 景継は不服そうだったが、反論はしなかった。 宗春は笑っている。 「伊織」 「はい」 「やはり戻ってきてよかった」 「それは登城からですか」 「お前のところへ」 「その言い方は不要です」 「必要だ」 「道具屋の話をしてください」 「うん。伊織が可愛い」 「殿」 景継が低く咳払いをした。 直澄は今度こそ筆を取らなかった。 その日の騒ぎは、夕刻までに収まった。 道具屋は釜修繕を先に受け、釘と金具は後日分けて納めることになった。 台所方は飯代を削らずに済み、道具番は胸を撫で下ろした。 景継は最後まで渋い顔をしていたが、伊織の案を退けなかった。 直澄は、帳面の端に必要な数字だけを書いた。 **** 夜。 宗春の部屋には、灯がひとつだけ残っていた。 伊織は床の間近くで控えていた。 控えている。 そのつもりだった。 だが、宗春は座ったまま手を伸ばす。 「伊織」 「はい」 「続き」 「ありません」 「朝、言った」 「聞かなかったことにしております」 「俺は覚えている」 「殿の記憶力は、政務にお使いください」 「使っている」 宗春は伊織の手を取った。 指を絡める。 伊織の息が、ほんの少しだけ止まった。 「……それは」 「何」 「ずるいです」 「好きだろう」 「答えません」 「答えた」 宗春は絡めた指を一度だけ撫で、それからほどいた。 伊織がわずかに寂しそうにしたのを、宗春は拾った。 だが、言わない。 代わりに、腰へ手を回す。 「来い」 「命令ですか」 「願いだ」 「願いを、そのように短く仰らないでください」 「伊織」 その呼び方に弱い。 伊織は抗議を飲み込み、宗春の前へ進んだ。 次の瞬間、宗春の膝へ引き寄せられる。 朝と同じ。 けれど、夜は違う。 衣の擦れる音が、妙に近い。 灯の影が、二人分だけ畳に重なる。 伊織は宗春の膝の上で、正面から抱き込まれた。 近すぎる。 肩も、胸も、息も。 「殿」 「うん」 「この体勢は、落ち着きません」 「落ち着かせるためにしていない」 「では何のために」 「近くするため」 「朝も同じことを」 「夜はもっと近い」 伊織の喉が鳴った。 宗春の手が、伊織の帯へ触れる。 「嫌なら止める」 「……嫌とは、申しておりません」 「なら続ける」 「確認が早すぎます」 「止めてほしい?」 伊織は一瞬黙った。 それから、小さく首を横へ振る。 「止めないでください」 その声は、職務ではなかった。 宗春の腕が、さらに深く伊織を抱いた。 帯がほどけ、膝の上へ落ちる。 伊織の指が宗春の肩を掴む。 「伊織」 「はい」 「朝からずっと、こうしたかった」 「朝は登城前です」 「今は夜だ」 「……はい」 「よいか?」 伊織は頬を赤くしながら、宗春の肩に手を回した。 「殿のご判断に、お任せします」 「違う」 「何がです」 「伊織の言葉で」 伊織の唇が震えた。 「……してください」 宗春の息が変わる。 「よく言えた」 「褒めないでください」 「無理だ」 宗春は伊織を抱き、膝の上で正面から深く結んだ。 繋がった瞬間、伊織の体が跳ねる。 「っ、あ……っ♡」 宗春の手が、伊織の腰を支えた。 近い。 あまりにも近い。 伊織が息を逃がそうとしても、宗春の胸元にすぐ落ちる。 「伊織」 「はい……っ」 「大丈夫か」 「大丈夫、です……っ」 「固い」 「言わないで……ください」 「少しずつでいい」 宗春はすぐには激しくしなかった。 正面から抱き込んだまま、伊織の腰をゆっくり揺らす。 膝の上で擦れるたび、奥に届く熱がじわりと広がる。 伊織は宗春の肩へすがり、声を抑えようとした。 「声、我慢するな」 「屋敷内です……っ」 「俺の部屋だ」 「そういう問題では……っ、あっ♡」 宗春が下から軽く突き上げる。 伊織の指が宗春の肩に食い込んだ。 「今のは?」 「……不意打ちです」 「もう一度する」 「予告されても……っ、あんっ♡」 伊織の抗議は、途中で崩れた。 宗春は笑わない。 ただ、伊織が崩れた声を大切に拾うように、腰を支え続ける。 「近いな」 「殿が……近くしたのです」 「嫌か」 「……嫌では、ありません」 「好き?」 「その聞き方は」 宗春が奥まで届くように、ゆっくり突き上げた。 伊織の背が反る。 「っ、あっ♡ 待って……っ」 「待つ?」 「待たないで……っ、でも……っ」 「どっちだ」 「分かりません……っ」 「では、俺が決める」 「殿……っ」 宗春は伊織を離さないように抱き込む。 正面から。 胸元も、吐息も、乱れた声も、全部受ける距離で。 「伊織」 「はい……っ」 「お前は、俺の膝で政務を聞き流す小姓か」 「そのような小姓は……っ、いません……っ♡」 「では何だ」 「殿が……勝手に……っ」 「俺が?」 「近くして……っ」 「うん」 「離してくださらないから……っ」 「離してほしい?」 伊織は必死に息を整えた。 宗春の首元に額を寄せる。 「……離さないでください」 宗春の腕が、一瞬だけ止まった。 それから、さらに深く抱きしめる。 「よく言った」 「今のは」 「聞いた」 「聞かなかったことに」 「しない」 宗春の腰が強くなる。 伊織の体が膝の上で小さく跳ねる。 布の擦れる音が、灯の下で甘く重なる。 「宗春さま……っ」 「いる」 「近い……っ」 「近くした」 「また、それ……っ、あんっ♡」 「朝から言っている」 「朝とは……違います……っ」 「どう違う」 「聞かないで……っ」 「言えたら、もっと近くする」 「もう、近い……っ」 「まだだ」 宗春は伊織の腰を抱え直し、奥まで届くように突き上げた。 伊織の声が、はっきり甘く崩れる。 「っ、あっ♡ 無理……っ」 「無理?」 「無理です……っ、でも……っ」 「でも?」 「やめないで……っ」 宗春の目元が熱を帯びる。 「伊織」 「はい……っ」 「今のは、職務か」 伊織は涙ぐみそうになりながら、宗春の肩を掴んだ。 「違います……っ」 「では何だ」 「私が……っ」 宗春の動きが深くなる。 「っ、あんっ♡ 待って、宗春さま……っ」 「言えるか」 「私が……そうしてほしいと……っ」 「うん」 「思って……っ、あっ♡」 「よく言えた」 「もう、褒めないで……っ」 「可愛い」 「評価は不要……っ、あっ♡、です……っ」 伊織の声は、もう整わなかった。 正面から抱かれているせいで、どこにも隠せない。 宗春が自分をどう受け止めているか、息で分かる。 腕で分かる。 熱で分かる。 それが恥ずかしくて、嬉しくて、耐えがたい。 「宗春さま……っ」 「うん」 「もう……っ」 「来る?」 「言わせないで……っ」 「伊織の言葉で」 「もう……っ、だめ……っ」 「だめでも?」 「殿の、膝で……っ、いって、しま……っ♡♡」 伊織の体が宗春の腕の中で震えた。 宗春はすぐには動かない。 正面から抱いたまま、荒い息が落ち着くまで伊織を支えた。 伊織は宗春の胸元に額を預けている。 帯は膝に落ちたまま。 灯の影が、二人をひとつに重ねていた。 「……殿」 「うん」 「今のは」 「聞いた」 「忘れてください」 「無理だ」 「では、せめて記録には」 「残さない」 「絶対です」 「俺の中には残る」 伊織は恨めしげに宗春の胸元を掴んだ。 「それが一番、厄介です」 宗春はようやく笑った。 そして伊織の乱れた髪を撫でる。 朝、下りようとした膝。 夜、離れないでほしいと言ってしまった膝。 伊織はその膝の上で、まだ動けずにいる。 宗春が囁いた。 「明日の朝も近くする」 「お断りします」 「では夜は?」 伊織はすぐに答えなかった。 宗春の胸元へ額を押しつける。 小さな声で言う。 「……殿のご判断に」 「違う」 「……少しだけなら」 宗春は伊織を抱きしめた。 「少しでは済まない」 「では、やはりお断りします」 「もう遅い」 「なぜです」 「お前が、離さないでと言った」 伊織は黙った。 反論できなかった。 その夜、宗春の部屋の灯は、いつもより少し遅く落ちた。 **** 翌朝。 景継が障子の外から声をかけた時、伊織は宗春の膝から下りるのに、ほんの少しだけ遅れた。 直澄は筆を取らなかった。 景継は胃を押さえた。 宗春は上機嫌だった。 伊織は、何事もなかったように背筋を伸ばした。 ただ、宗春の指が伊織の袖に触れた時。 伊織は離れなかった。 ほんの一瞬だけ。 それを宗春だけが、静かに拾った。

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