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第16話 選んだ名と、咲霧の朝

咲霧藩上屋敷に、幕府からの正式な沙汰が届いたのは、雨上がりの朝だった。 庭の石はまだ濡れている。 葉先から落ちる雫が、ぽつり、ぽつりと音を立てていた。 奥座敷には、宗春、景継、直澄、そして伊織が揃っていた。 春丸だけは隣の部屋で、亀爺から届いた菓子を前に、必死に待たされている。 「兄上、まだ?」 障子の向こうから声がする。 景継が目を閉じた。 「若君。もう少しでございます」 「もう少しって長い」 「大事なお話でございます」 「榊いる?」 伊織は障子の方へ向き、静かに答えた。 「おります」 「じゃあ待つ!」 春丸の声が明るくなる。 宗春が小さく笑った。 「春丸は、伊織がいると待てるようになったな」 「殿」 「事実だ」 伊織は少しだけ目を伏せた。 御橋春親。 榊伊織。 二つの名が明かされてから、屋敷の空気は変わった。 けれど春丸は、変わらず伊織を榊と呼ぶ。 それが、不思議なほど胸を楽にした。 景継が文を広げる。 「石堂主膳様より、鳥居玄蕃殿の申し立てについて、一旦預かり直しとの沙汰です」 「一旦、か」 宗春が言う。 「はい。御橋春親様の身柄は、当面、咲霧宗春様の責任において上屋敷預かり。幕府への出仕、移送、身分の扱いについては、石堂様が改めて差配されると」 直澄が続ける。 「鳥居玄蕃殿については、黒川兵庫との関わり、松浜の名を借りた者たちとの酒席、旧坑道の噂の扱いについて、内々に調べが入るようです」 伊織は黙って聞いていた。 終わったわけではない。 ただ、今すぐ引き離されることはなくなった。 その事実だけで、胸の奥が少しだけほどける。 宗春は文を受け取り、最後まで読んだ。 「石堂らしいな」 「冷たい文でございます」 景継が言う。 宗春は笑う。 「冷たいが、命綱は切っていない」 伊織は文へ目を落とした。 最後に、短く一文が添えられていた。 御橋春親、咲霧にて生きよ。 その文字を見た瞬間、伊織の喉が詰まった。 石堂主膳は、優しい男ではない。 幕府を守るためなら、人ひとりを駒にすることもためらわない。 だが、その男が書いた。 生きよ、と。 宗春が隣で問う。 「伊織」 「はい」 「泣くか」 「泣きません」 「目元が怪しい」 「雨上がりのせいです」 「室内だ」 「殿」 景継が咳払いをした。 「殿。大事なお話の最中でございます」 「大事だから伊織を見ている」 「なお悪うございます」 直澄は静かに茶を置いた。 その口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。 伊織はそれに気づいた。 「青柳殿」 「はい」 「今、笑いましたか」 「いいえ」 「笑いました」 「気のせいです」 宗春が言う。 「直澄も変わったな」 「殿ほどではございません」 「俺は最初から変わっている」 「自覚があるなら、抑えてください」 景継の声に、宗春は肩をすくめた。 そのやり取りが、妙に温かい。 伊織は、その中に自分がいることを実感していた。 景継は文を畳み、伊織へ向き直った。 「御橋様」 伊織の背がわずかに固まる。 景継はその反応を見て、少しだけ言葉を選び直した。 「……榊殿」 伊織は顔を上げた。 景継は真面目な顔で言う。 「屋敷内での呼び名は、しばらく榊伊織で通します。若君もその名に慣れておられる。町方にも、その名が広がっております」 「はい」 「ただし、当家中では、御橋春親様であることを知る者を限ります。殿、私、青柳、ほか数名のみ」 「承知しました」 「それから」 景継は一拍置いた。 「咲霧藩上屋敷にいる限り、貴方は当家の守るべき方です」 伊織は息を止めた。 景継は少しだけ顔をしかめる。 「妙な顔をなさらないでください」 「しておりません」 「しています」 「殿のようなことを仰らないでください」 宗春が笑った。 「景継も身内になったな」 景継は即座に返す。 「なっておりません」 「今、なった」 「なっておりません」 直澄が静かに言った。 「霧生殿。おそらく、なっております」 「青柳」 「職務上、そう判断いたします」 「その職務判断は不要だ」 伊織は思わず、ほんの少し笑った。 景継がそれを見て、黙る。 「……笑えるなら、よろしい」 その声は小さかった。 伊織は深く頭を下げた。 「ありがとうございます」 景継はそっぽを向いた。 「礼を言われるほどのことではありません」 「では、言いません」 「それはそれで」 宗春が肩を震わせた。 「景継、扱いが難しいな」 「殿にだけは言われたくございません」 障子の向こうで、春丸がまた声を上げた。 「兄上、終わった?」 宗春が答える。 「終わった」 「入っていい?」 「いいぞ」 春丸は勢いよく障子を開けた。 そして、まっすぐ伊織のところへ来る。 「榊、いる!」 「はい。おります」 春丸は安心したように笑った。 「じゃあ、よかった」 その一言で、伊織の胸が熱くなった。 春丸は宗春の膝へ座りながら、伊織を見た。 「榊、どっか行かない?」 伊織は少しだけ宗春を見た。 宗春は何も言わない。 伊織に任せている。 だから、伊織は自分で答えた。 「今は、こちらにおります」 「今は?」 春丸が眉を寄せる。 「ずっとは?」 伊織は言葉に詰まった。 簡単に、ずっととは言えない。 幕府の沙汰はまだ動く。 御橋の名は重い。 けれど、春丸の目に嘘はつきたくない。 「できる限り、若君のおそばに」 春丸はむっとした。 「それ、前も言った」 伊織は困った。 宗春が小さく笑う。 春丸は宗春を見上げる。 「兄上」 「何だ」 「榊をちゃんと持ってて」 奥座敷が静かになった。 伊織は咄嗟に言う。 「若君、私は物では」 「知ってる」 春丸は真剣だった。 「でも、兄上が持ってたら、どっか行かない」 宗春は春丸の頭を撫でた。 「そうだな」 「持ってて」 「分かった」 伊織は抗議しようとして、できなかった。 春丸の不安は、幼い言葉でしか形にならない。 だから、宗春も幼い言葉で受け止めている。 宗春は春丸を膝から下ろし、伊織へ手を伸ばした。 「伊織」 「はい」 「春丸がこう言っている」 「殿」 「持っていていいか」 伊織の頬が熱くなる。 景継がまた咳払いをした。 直澄はそっと視線を外した。 春丸だけが、きらきらした目で答えを待っていた。 伊織は観念した。 「……人前でなければ」 宗春の目元が甘くなる。 「では、夜だな」 「殿」 「兄上、夜ならいいの?」 「若君は、お聞きにならなくてよろしいです」 春丸はよく分からないまま、うなずいた。 「じゃあ、夜は兄上が持ってて」 景継は胃を押さえた。 伊織は静かに、しかし確実に耳まで赤くなった。 **** その日の午後。 屋敷では、静かに祝いのような支度がされた。 大げさな宴ではない。 幕府の沙汰はまだ重く、外へ喜びを見せる時ではない。 ただ、台所では赤飯が炊かれ、亀爺からうなぎの蒲焼が届き、花霧庵から団子が届けられた。 梅の湯の主人からは、湯屋の手ぬぐい。 寺子屋の師匠からは、子どもたちが書いた「さきぎり」「いおり」の手習い紙。 火消しの頭からは、小さな鳶口の飾り。 穴子寿司の屋台からは、笹包み。 相撲茶屋からは、力士の手形。 胡蝶太夫からは、蝶の香袋。 葵座からは、役者の書いた短い札。 春丸はそれらを見て、大はしゃぎした。 「榊、いっぱい!」 「なぜ、こんなに」 伊織は驚いて宗春を見た。 宗春は涼しい顔をしている。 「皆、伊織が屋敷に残ったと聞いた」 「誰が知らせたのですか」 「亀爺」 「亀爺殿」 「あと、俺」 「殿」 宗春は笑う。 「大丈夫だ。御橋の名は出していない。榊伊織が、しばらく咲霧にいることになった、とだけだ」 伊織は並んだ品を見つめた。 この屋敷に来てからの日々が、ひとつずつ形になっている。 団子。 うなぎ。 湯屋。 火消し。 寺子屋。 穴子寿司。 相撲。 若君の独楽。 吉原の香。 芝居の札。 お化けの白い布はない。 花火の残り香もない。 だが、それらすべてが、伊織の中に残っている。 宗春が言う。 「伊織」 「はい」 「ここは、もう隠れ場所だけではない」 伊織の胸が、静かに揺れた。 「はい」 「居場所だ」 伊織は返事をしようとして、喉が詰まった。 春丸が団子を持って言う。 「榊、泣く?」 「泣きません」 「また雨上がり?」 「若君まで」 宗春が笑った。 景継も、ほんのわずかに笑いそうになっていた。 直澄は、寺子屋の手習い紙の裏に小さく一行だけ書き添えた。 榊伊織、咲霧に留まる。 それだけだった。 **** 夜。 宗春の部屋には、昼に届いた品々の一部が置かれていた。 花霧庵の団子。 蝶の香袋。 寺子屋の手習い紙。 そして、春丸の赤い独楽。 伊織はそれを見て、静かに息を吐いた。 「殿」 「うん」 「集めすぎです」 「どれも伊織のものだ」 「私のものでは」 「伊織が繋いだものだ」 伊織は何も言えなくなった。 宗春はいつものように近づいてくる。 けれど、伊織は今夜、待たなかった。 自分から宗春の前へ進む。 「宗春さま」 宗春の足が止まる。 「うん」 「今夜は」 伊織は手を伸ばした。 宗春の胸元に触れる。 「私が、持ちます」 宗春の目が変わった。 「春丸の言葉か」 「はい」 「俺を?」 「はい」 伊織は自分でも驚くほど、まっすぐ言えた。 「宗春さまを、私も持ちたいです」 宗春はしばらく黙った。 それから、低く笑った。 「今夜、それを言うか」 「今夜だからです」 「伊織」 「はい」 「強くなったな」 「宗春さまのせいです」 「俺の?」 「はい。毎晩、言わせるから」 宗春は笑った。 「今夜は、言わせる前に言った」 「はい」 伊織は宗春の手を取り、布団へ導いた。 昨夜と同じようで、違う。 昨夜は選ぶため。 今夜は、選んだ後に一緒にいるため。 伊織は宗春を座らせる。 そして、自分から宗春の前へ膝をついた。 「伊織」 「はい」 「無理をするな」 「しておりません」 「本当に?」 「はい」 伊織は少しだけ頬を染めながら、宗春の肩に手を置いた。 「今夜は、私が宗春さまを見たい」 宗春の息が、はっきり乱れた。 「それは、危ない」 「何がですか」 「俺が保たない」 「保たなくて結構です」 宗春の目が見開かれる。 伊織は言ってから、自分で耳まで熱くなった。 「……今のは、忘れてください」 「無理だ」 「でしょうね」 「伊織」 「はい」 「今日は、本当に容赦がない」 「宗春さまに教わりました」 宗春は片手で目元を覆い、低く笑った。 「参った」 その言葉に、伊織の胸が甘く震えた。 宗春が参ったと言う。 それだけで、少しだけ勇気が出る。 伊織は宗春の膝へ手を置き、ゆっくり身を寄せた。 今まで何度も、宗春に抱き寄せられてきた。 今夜は違う。 伊織が自分から、宗春の上へ重なる。 「宗春さま」 「うん」 「手を、貸してください」 宗春は両手を差し出した。 伊織はその手を取り、深く息を吸う。 それから、自分からゆっくり身を沈め、宗春と深く結ばれた。 「っ、あ……っ♡」 声がこぼれる。 宗春の手が伊織の腰を支えた。 だが、動かすのは伊織だった。 伊織の呼吸。 伊織の速さ。 伊織が選ぶ深さ。 そのすべてを、宗春が受け止めている。 「伊織」 「はい……っ」 「大丈夫か」 「大丈夫……っ、です……っ」 「苦しくないか」 「苦しく……っ、ありません……っ」 「では」 宗春の声が低くなる。 「俺を持てるか」 伊織は宗春の肩を掴んだ。 「持ちます……っ」 宗春の息が乱れた。 伊織はゆっくり動いた。 初めはぎこちない。 深さに慣れるたび、体が震える。 けれど、宗春は急かさない。 ただ、腰を支え、落ちないようにしている。 「っ、あんっ♡」 「伊織」 「見ないで……っ」 「見る」 「私が……っ」 「うん」 「自分で、動いているのが……っ」 「綺麗だ」 「評価は不要……っ、あっ♡」 宗春の手が腰を支える。 伊織は息を乱しながら、宗春の上で少しずつ動く。 自分で選んだはずなのに、深くなるたびに宗春の熱に飲まれる。 それでも、手は離さない。 腰も引かない。 「宗春さま……っ」 「うん」 「重く……っ、ありませんか……っ」 「もっと来い」 伊織の息が止まる。 「そういうことを……っ」 「うん」 「平気で……っ」 「平気ではない」 宗春の声が少しだけ掠れた。 「かなり、まずい」 伊織の胸が跳ねた。 「宗春さまが?」 「うん」 「私で?」 宗春の目が熱くなる。 「伊織で」 伊織は目元を赤くした。 「……嬉しいです」 宗春の腕が強くなった。 「それは反則だ」 「仕返しです……っ」 「誰に教わった」 「宗春さまに……っ」 伊織が動く。 宗春の上で、深く擦れる。 布団が小さく音を立てる。 外では雨上がりの雫がまだ落ちている。 ぽつり。 ぽつり。 その音に混じって、伊織の声が甘くほどけた。 「っ、あんっ♡」 「伊織」 「はい……っ」 「疲れたら、俺が支える」 伊織は首を横に振った。 「まだ……っ」 「うん」 「私が……っ」 「うん」 「宗春さまを、欲しい……っ」 宗春の息が止まった。 伊織も、自分で言った言葉に震えた。 だが、取り消さない。 今夜は始まりだ。 選んだ後の夜だ。 「伊織」 「はい……っ」 「もう一度」 「宗春さまが……っ、欲しい……っ」 宗春は低くうめくように息を吐いた。 「それは、本当に保たない」 「保たなくて……っ、結構です……っ」 「伊織」 伊織は宗春の肩にすがりながら、まだ自分で動こうとしていた。 けれど、慣れない深さと、宗春に見上げられている恥ずかしさと、自分から欲しいと言ってしまった熱が、すべて重なってしまう。 「宗春さま……っ」 「うん」 「待って……っ、私、まだ……っ」 「急がなくていい」 「違……っ、あっ♡」 伊織の体が先に震えた。 宗春の腕の中で、伊織だけが甘くほどけてしまう。 「っ、宗春さま……っ、すみませ……っ、私だけ……っ♡♡」 伊織は息を乱し、宗春の肩へ額を落とした。 恥ずかしくて、顔を上げられない。 「すみません……っ」 宗春は笑わなかった。 ただ、伊織の腰を支えたまま、乱れた髪をゆっくり撫でた。 「謝るな」 「でも」 「よかった」 伊織の息が止まる。 「本当に?」 「本当に」 宗春は伊織の髪を撫で続けた。 「頑張ったな」 その一言で、伊織の目元が熱くなった。 「……子ども扱いです」 「違う」 宗春の声が低くなる。 「俺を欲しいと言って、自分から来て、ここまで頑張った男への褒め言葉だ」 伊織は何も返せなかった。 宗春が、伊織の腰を抱き直す。 「今度は、俺が連れていく」 「……はい」 「嫌か」 伊織は首を横に振った。 「宗春さまに、いかされたいです」 宗春の目が、熱く揺れた。 「伊織」 「はい」 「それは、ずるい」 「宗春さまに、教わりました」 宗春は伊織を抱えたまま、今度は自分の深さで動いた。 伊織はもう、自分で頑張る必要がなかった。 頑張った後だからこそ、預けることができた。 「宗春さま……っ、今度は……っ」 「うん」 「宗春さまに……っ、いかされてる……っ」 「嫌か」 「嫌では……っ、ありません……っ」 「では、もう一度」 「そんな……っ、あっ♡」 宗春の腕の中で、伊織はまた深く崩された。 上にいるはずなのに、宗春に支えられ、宗春に抱かれ、宗春の深さへ連れていかれる。 それでも、これは伊織が選んだことだった。 宗春に預けることも。 宗春に崩されることも。 宗春の名を呼ぶことも。 「宗春さま……っ」 「うん」 「榊伊織も……っ」 「うん」 「御橋春親も……っ」 「うん」 「宗春さまを……っ」 「選ぶ?」 「選びます……っ」 宗春の動きが深くなる。 「咲霧宗春も」 「はい……っ」 「榊伊織を選ぶ」 伊織の声が震える。 「はい……っ」 「御橋春親も選ぶ」 「はい……っ」 「重くても」 「はい……っ」 「甘くても」 伊織は思わず小さく笑いそうになった。 「それは……っ、宗春さまの方が……っ」 「俺の方が?」 「甘い……っ」 宗春が深く突き上げる。 「っ、あんっ♡」 「もっと甘くする」 「もう……っ、十分……っ」 「足りない」 「欲張り……っ」 「うん」 伊織は宗春の手を握った。 「私も……っ、欲張りに……っ、なりました……っ」 宗春の目が熱くなる。 「知っている」 「宗春さまのせいです……っ」 「責任を取る」 「では……っ」 伊織は息を震わせた。 「ずっと、甘やかしてください……っ」 宗春の腕が強くなる。 「それは、任せろ」 「すぐ答えないで……っ」 「得意だ」 「知っています……っ、あっ♡」 宗春の腰が深くなる。 伊織はもう、自分が上にいるのか抱えられているのか分からない。 ただ、宗春の腕の中で、宗春を持とうとしている。 それだけは分かる。 「宗春さま……っ」 「うん」 「もう……っ」 「来るか」 「聞かないで……っ」 「今度は俺が言わせる」 「そんな……っ」 「伊織」 伊織は震える手で、宗春の頬に触れた。 「宗春さま……っ」 「うん」 「私、ここに……っ」 「うん」 「咲霧に……っ、宗春さまのそばに……っ」 「うん」 「いたい……っ」 宗春の息が乱れた。 「いる」 「はい……っ」 「俺も、伊織のそばにいる」 「はい……っ」 「春親のそばにも」 伊織の目元が熱くなる。 「はい……っ」 「離れない」 「はい……っ」 「離すな」 伊織は宗春の肩を強く抱いた。 「離しません……っ」 宗春が奥まで深く届かせる。 伊織の声が大きく崩れた。 「宗春さま……っ、私が……っ、欲しいって言ったから……っ、最後まで……っ、いって、しま……っ♡♡」 伊織の体が、宗春の上で震えた。 宗春は腰を支え、倒れ込む伊織を胸で受け止めた。 そのまま、しばらく何も言わない。 ただ、雨上がりの雫の音がする。 ぽつり。 ぽつり。 伊織は荒い息のまま、宗春の胸に額を預けた。 「……宗春さま」 「うん」 「今夜は」 「うん」 「私が、持つつもりでした」 「持っていた」 「途中から、宗春さまが」 「支えた」 「……そういうことにしておきます」 宗春が笑った。 「伊織」 「はい」 「春親」 「はい」 「咲霧に残るか」 伊織は目を閉じた。 「はい」 「俺のそばに」 「はい」 「自分で?」 伊織は顔を上げた。 宗春の目をまっすぐ見る。 「自分で」 宗春はそれを聞いて、初めて深く息を吐いた。 「よかった」 たった一言だった。 その一言が、伊織の胸を締めつけた。 「宗春さま」 「うん」 「私を奪ったことには、しないでください」 「しない」 「私が来たことにしてください」 「そうする」 「私が、選んだことに」 宗春は伊織の手を取った。 「もう、そうなっている」 伊織はその手を握り返した。 夜は深い。 幕府の問題はまだ残る。 鳥居の動きも、石堂の思惑も、御橋の名の重さも消えない。 それでも、ここにある手だけは確かだった。 **** 翌朝。 雨は上がり、庭には光が差していた。 春丸が廊下で独楽を回している。 亀爺のうなぎをめぐって、台所では軽い騒ぎが起きている。 景継は胃を押さえながらも、寺子屋から届いた手習い紙を丁寧にしまっている。 直澄は帳面を閉じ、茶を運ぶ下働きへ静かに道を譲った。 伊織は宗春のそばにいた。 春丸が駆けてくる。 「榊!」 「はい」 「今日、独楽見る?」 「はい」 「兄上も!」 「見る」 春丸は満足そうに笑った。 「じゃあ、みんな咲霧!」 その言い方があまりにまっすぐで、伊織は一瞬返事を失った。 宗春が隣で言う。 「そうだな」 景継が小さく咳払いをする。 「若君、その括りは少々大きすぎます」 「くくり?」 「何でもございません」 春丸は独楽を回した。 赤い独楽が、朝の畳の上で勢いよく回る。 宗春が、いつものように片膝を少し空けた。 以前なら、伊織は必ず一歩引いた。 今は違う。 伊織は少しだけ耳を赤くしながら、自分から宗春の膝へ腰を下ろした。 景継は何も言わなかった。 直澄も静かに茶を置いただけだった。 春丸だけが、独楽を見ながら言う。 「榊、そこ好きなの?」 伊織は返事に詰まった。 宗春が笑う。 「好きだそうだ」 「殿」 「違うか?」 伊織は少し黙り、それから小さく答えた。 「……嫌では、ありません」 宗春の腕が、伊織の腰をゆるく支えた。 「近いか」 伊織は、庭の雨上がりの光を見ながら言った。 「近くしたのでしょう」 宗春は笑った。 「今は?」 伊織は自分から、宗春の袖を掴んだ。 「……近くて、よろしいです」 春丸の独楽は、まっすぐに回っていた。 宗春が伊織を呼ぶ。 「伊織」 「はい」 少し置いて、もうひとつ。 「春親」 伊織は、今度は迷わなかった。 「はい」 春丸は不思議そうにしたが、すぐに独楽へ戻った。 景継は何も言わない。 直澄も、何も言わない。 咲霧藩上屋敷の朝。 雨上がりの光。 独楽の音。 若君の笑い声。 宗春の膝。 榊伊織は、そこに座っていた。 御橋春親も、そこにいた。 どちらも消えず、どちらも隠されず、宗春の呼ぶ声に返事をした。 「宗春さま」 伊織が小さく呼ぶ。 「うん」 「今日も、お側におります」 宗春は笑った。 「知っている」 「知っていても、言いました」 「それは嬉しいな」 伊織は少しだけ目を伏せた。 「私もです」 宗春が聞き返す。 「何が」 伊織は、朝の光の中で静かに答えた。 「ここにいられて、嬉しいです」 宗春は何も言わなかった。 ただ、伊織の腰を支える腕を、ほんの少しだけ強くした。 春丸の独楽は、まっすぐに回っていた。 咲霧の朝は、明るかった。 ** 溺愛殿と訳あり小姓の江戸屋敷恋日和 〜天下から隠された若君は、殿の膝で恋を知る〜 (完)

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