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第15話 奪う殿と、選ぶ小姓
幕府からの呼び出しは、夜明け前に届いた。
咲霧藩上屋敷の奥座敷。
文箱の上には、鳥居玄蕃の名が入った書状が置かれている。
宗春はそれを読み終え、静かに畳んだ。
景継はすでに支度を整えている。
直澄は帳面を開いていない。
伊織は、宗春の斜め後ろに控えていた。
誰も、軽口を言わない。
朝の光はまだ薄く、障子の向こうの庭も青白い。
「殿」
伊織が静かに言う。
「私も参ります」
宗春はすぐには答えなかった。
「呼ばれているのは俺だ」
「問われているのは私です」
「咲霧藩だ」
「その中に、私がいます」
宗春の指が、書状の端を押さえた。
「伊織」
「はい」
「今日は、俺の後ろにいろ」
「いつものことです」
「違う」
宗春の声は低かった。
「今日は、俺が何を言っても、すぐ遮るな」
伊織の胸がざわついた。
「何を仰るおつもりですか」
宗春は、少しだけ笑った。
軽い笑いではない。
何かを決めた者の笑いだった。
「必要なら、俺が奪ったことにする」
伊織は息を止めた。
景継の手が震えた。
直澄も目を伏せる。
宗春は続ける。
「御橋春親を、咲霧宗春が勝手に屋敷へ引き入れた。本人の意思ではない。俺が手元に置き、返さなかった。そう言えば、伊織の罪は軽くなる」
「おやめください」
伊織の声は、思ったより強く出た。
宗春は伊織を見る。
「まだ何も言っていない」
「今、仰いました」
「伊織」
「私は、荷ではございません」
宗春の目が揺れた。
伊織は一歩前へ出た。
「奪われたことにすれば、殿は私を守れるとお考えなのでしょう」
「守れるなら」
「私は、殿をそのような形で傷つけたくありません」
「傷ではない」
「傷です」
伊織は即答した。
「咲霧宗春が、御橋春親を私欲で奪った。そうなれば、殿の今まで築かれたものが疑われます。酔月会も、咲霧藩も、若君も、景継殿も、青柳殿も」
宗春は黙った。
伊織は続ける。
「殿の膝に座ったことも、夜に呼ばれたことも、守られたことも、すべて殿の勝手にされる」
声が震えた。
「私は、それが嫌です」
宗春の表情が、静かに変わる。
「では、どうする」
伊織は息を整えた。
「私が言います」
「何を」
「ここにいることを、私が選んでいると」
景継が低く言う。
「榊殿。それは」
「分かっております」
伊織は景継へ向いた。
「初めから選んだわけではございません。石堂様の命で屋敷へ入りました。名を隠しました。咲霧を欺きました」
景継は何も言わない。
「ですが、今もここにいることまで、誰かの命だけにはいたしません」
伊織は宗春を見る。
「私は、今、宗春さまのそばを選びます」
宗春の息が、ほんの少し乱れた。
「伊織」
「はい」
「その言葉を、鳥居の前で言えるか」
怖い。
言えるかと問われれば、怖い。
だが、怖い時は呼べと、宗春は言った。
伊織は小さく頷いた。
「宗春さまが、届くところにいてくださるなら」
宗春は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
それから、手を伸ばした。
「来い」
伊織は近づいた。
宗春は伊織の手を取った。
昼の座敷で、景継と直澄の前で。
それは夜の甘さではなく、これから共に立つための手だった。
「なら、行くぞ」
「はい」
「俺も言う」
「何を」
「奪ったことにはしない」
宗春は伊織の手を握ったまま、言った。
「だが、守ることは俺が選ぶ」
伊織は、返事の代わりにその手を握り返した。
****
江戸城の控えの間は、冷えていた。
畳の匂い。
遠くの足音。
低い声。
重い空気。
伊織は宗春の後ろに控えながら、自分の呼吸を数えていた。
景継は少し後ろ。
直澄はさらに控え、必要なことだけを覚えるつもりで立っている。
やがて、障子が開いた。
鳥居玄蕃が入ってきた。
痩せた目。
整った装束。
声は穏やかで、穏やかすぎるほどだった。
「咲霧殿。本日は急な呼び立て、失礼いたす」
宗春は軽く頭を下げる。
「幕府の呼び出しに、急も何もございません」
鳥居の目が、伊織へ流れる。
「そちらが、榊伊織殿」
伊織は一礼した。
「はい」
「なるほど」
鳥居はそれだけ言って、宗春へ向き直る。
「咲霧殿。書状にも記した通り、幕府内にて御橋春親なる者の所在が問題となっております」
「承知しております」
「また、咲霧藩上屋敷に出自の定かならぬ小姓がいるとの訴えもある」
「当藩の小姓でございます」
宗春の声は揺れない。
鳥居は微笑む。
「その小姓が、御橋春親である可能性は」
宗春は口を開きかけた。
その前に、伊織が一歩前へ出た。
「私が申し上げます」
宗春は止めなかった。
鳥居の目が細くなる。
「ほう」
伊織は膝をついた。
背筋を伸ばす。
手は震えなかった。
いや、震えていたかもしれない。
だが、宗春がすぐ後ろにいる。
それだけで、崩れずにいられた。
「榊伊織は仮の名にございます」
鳥居の空気が、静かに変わった。
「真の名は」
伊織は息を吸った。
「御橋春親」
景継の気配がわずかに固くなる。
直澄は動かない。
宗春は、伊織の背を見ている。
鳥居は、満足したように目を細めた。
「やはり」
その一言に、伊織の胸が冷える。
鳥居は続ける。
「では、咲霧殿は御橋春親を匿っていたことになる」
宗春が答える。
「保護していた」
「幕府に知らせずに」
「命を狙われている者を、むやみに表へ出すわけにはまいりません」
鳥居は笑った。
「その判断を、一大名が」
「人の命については、判断いたします」
宗春の声は静かだった。
鳥居の目が少し冷える。
「御橋春親殿。あなたは咲霧殿に連れ込まれたのか」
伊織の胸が強く鳴った。
ここで、宗春の言葉へ乗ればいい。
奪われた。
連れてこられた。
そう言えば、少なくとも伊織は軽くなる。
宗春が重くなる。
伊織は、それを選ばない。
「いいえ」
鳥居の眉がわずかに動く。
「では」
「初めは、石堂主膳様の命により、咲霧藩上屋敷へ入りました」
室内の空気が揺れた。
鳥居の目が、ほんの少し鋭くなる。
「石堂殿の名を出すか」
「事実にございます」
「ならば、今も石堂殿の命で咲霧にいると?」
伊織は宗春の気配を背に感じた。
花火の夜の文。
生きよ。
その上で、選べ。
伊織は答える。
「今ここにいることは、私の意思です」
鳥居が黙る。
伊織は続けた。
「咲霧宗春様のそばにおります。命じられたからではありません」
宗春の息が、すぐ背後でわずかに揺れた。
「御橋の血を持つ者として、幕府に戻ることを拒むと?」
鳥居の声が少し低くなる。
伊織は首を横に振った。
「幕府を軽んじるつもりはございません」
「では」
「ですが、毒と政争の中へ、ただ戻ればよいとは思いません」
鳥居の目が冷えた。
「ずいぶん言う」
その時、別の声がした。
「言わせたのは、私だ」
奥の障子が開いた。
石堂主膳が入ってきた。
冷たい目。
隙のない装束。
伊織が江戸へ来る前、名を隠し、生き延びよと命じた男。
鳥居の表情がわずかに変わる。
「石堂殿」
石堂は鳥居へ軽く頭を下げ、伊織へ目を向けた。
「御橋春親」
伊織は深く頭を下げる。
「はい」
「生きていたな」
「はい」
「それだけで、まずよい」
その言葉は、優しくはなかった。
だが、冷たくもなかった。
石堂は宗春を見る。
「咲霧殿。厄介なものを抱えた」
宗春は答える。
「自慢の小姓です」
鳥居が小さく笑う。
「小姓で済む話ではありますまい」
石堂は鳥居へ向く。
「だから、今ここで済ませぬ」
鳥居の目が細くなる。
「御橋春親は、幕府の重要な血筋に関わる者です」
「だからこそ、軽々に動かせぬ」
「咲霧藩へ置くと?」
「当面は」
石堂の声は揺れない。
「咲霧宗春が身柄を預かる。幕府への申し立ては、こちらで改めて扱う」
鳥居の表情が固くなった。
「それでは、咲霧殿の思うままでは」
「思うままにさせぬために、私が見る」
石堂は伊織へ向いた。
「御橋春親」
「はい」
「お前は咲霧に残るか」
伊織の胸が大きく鳴った。
ここで、また問われる。
選べ。
伊織は宗春を振り返らなかった。
振り返れば、甘えてしまう気がした。
だが、背中には宗春の気配がある。
「はい」
伊織は答えた。
「私は、咲霧宗春様のそばに残ります」
鳥居の声が落ちる。
「御橋の名を捨てるか」
「捨てません」
伊織はまっすぐ答えた。
「榊伊織の名も、捨てません」
石堂の目が、わずかに動いた。
宗春は黙っている。
伊織は続けた。
「御橋春親として生きることから目を逸らすつもりはございません。ですが、榊伊織として咲霧で受け取ったものも、なかったことにはいたしません」
鳥居が何か言おうとした。
石堂が手で止める。
「よい」
「石堂殿」
「今は、十分だ」
石堂は宗春へ向き直る。
「咲霧殿」
「はい」
「この者を預かるなら、咲霧も試される」
「承知しております」
「幕府は甘くない」
「知っております」
「御橋春親を抱えたまま、笑っていられると思うな」
宗春は少しだけ笑った。
「それは、少し自信がございません」
石堂の眉が動く。
「何?」
「伊織がそばにいれば、私は笑うので」
控えの間の空気が、一瞬でおかしくなった。
景継が咳をこらえる。
鳥居の目が冷える。
石堂主膳だけが、ほんのわずかに息を吐いた。
「噂通り、調子の狂う男だ」
「よく言われます」
石堂は伊織へ最後に言った。
「生きよ」
伊織は頭を下げる。
「はい」
「その上で、選べ」
「はい」
「選んだなら、背負え」
伊織は少しだけ息を吸った。
「背負います」
石堂は宗春を見る。
「咲霧殿」
「はい」
「この者を奪ったことにはするな」
宗春の目が静かに揺れた。
石堂は言った。
「自ら選んだ者を、奪われた者に戻すな」
伊織の胸が熱くなった。
宗春は深く頭を下げた。
「承知しました」
鳥居玄蕃は、それ以上その場で強くは出なかった。
だが、伊織は分かっていた。
終わってはいない。
むしろ、表へ出た。
御橋春親の名が、咲霧宗春のそばに置かれた。
それを誰がどう利用するかは、これからだ。
****
江戸城を出る時、宗春は伊織の横へ来た。
「歩けるか」
「歩けます」
「強がりか」
「少し」
「素直だ」
「今日ぐらいは」
宗春は、笑いそうになって、やめた。
「伊織」
「はい」
「よく言った」
伊織は目を伏せた。
「宗春さまが、届くところにいてくださったので」
「呼んだか」
「呼んではおりません」
「心で?」
伊織は少しだけ黙った。
「……少し」
宗春の目元がやわらぐ。
「聞こえた」
「嘘です」
「聞こえた気がした」
「それなら」
「うん」
「私も、宗春さまの気配がしました」
宗春はそこで、ようやく笑った。
****
咲霧藩上屋敷へ戻ると、春丸が廊下まで走ってきた。
「兄上! 榊!」
景継が止めようとしたが、宗春が手で制した。
春丸は伊織の前で立ち止まる。
「榊、いる?」
伊織は膝をついた。
「はい。戻りました」
「行っちゃわない?」
その問いは、子どものものだった。
だが、伊織の胸に深く刺さった。
伊織は春丸をまっすぐ見た。
「今日は、行きません」
「明日は?」
「明日も、できる限り」
春丸は不満そうに頬をふくらませた。
「できる限り、じゃだめ」
伊織は困った。
宗春が横で笑いそうになる。
だが、春丸は真剣だった。
「榊は、兄上のそばにいて」
伊織はゆっくり頷いた。
「はい」
春丸は安心したように笑い、宗春の膝へ飛び込んだ。
「兄上も!」
「俺も?」
「榊を取られないで」
宗春は春丸を抱きながら、伊織を見た。
「取られない」
「ほんと?」
「本人が選んだ」
春丸はよく分からないまま頷いた。
「じゃあ、いい」
伊織はその言葉に、少しだけ笑った。
景継は、そんな伊織を見ていた。
もう、ただの訳あり小姓ではない。
ただの客でもない。
厄介な名を持ち込んだ者であり、同時に咲霧の若君に約束した者。
その両方を、景継は認めざるを得なかった。
****
夜。
宗春の部屋には、江戸城で着ていた羽織が畳まれていた。
伊織はそれを見て、胸が少し詰まった。
「殿」
「うん」
「今日は、ありがとうございました」
「礼を言うところか」
「はい」
「俺は何もしていない」
「していました」
宗春は伊織を見る。
伊織は静かに言った。
「後ろにいてくださいました」
宗春の目が、わずかに熱を帯びる。
「それで足りたか」
「はい」
「本当に?」
伊織は少しだけ黙った。
「足りませんでした」
宗春の息が止まる。
「伊織」
「もっと近くにいてほしかったです」
言ってしまった。
伊織はすぐに目を伏せる。
「今のは」
「聞いた」
「忘れてください」
「無理だ」
「でしょうね」
宗春は静かに笑った。
伊織は、その笑みを見て、逃げなかった。
いや、その言い方は違う。
伊織は、離れなかった。
自分から手を伸ばした。
宗春の手を取る。
宗春が驚いたように動きを止める。
「伊織」
「今夜は」
伊織は宗春の手を握ったまま言った。
「私が、連れていきます」
宗春の目が、はっきり変わった。
「どこへ」
「布団へ」
言ってから、伊織は耳まで熱くなった。
それでも手を離さない。
宗春は低く笑った。
「それは、ずるい」
「殿ほどではございません」
「宗春」
「宗春さま」
「うん」
伊織は宗春の手を引いた。
ほんの数歩。
それだけのことなのに、心臓がうるさい。
これまで何度も宗春に導かれてきた。
膝へ。
文机へ。
格子の影の外へ。
窓辺へ。
文箱のそばへ。
今夜は、伊織が宗春の手を取る。
自分で選ぶ。
その小さな形だった。
布団のそばまで来ると、宗春が問う。
「本当にいいのか」
「何度も聞かないでください」
「聞く」
「嫌ではありません」
「それは、いつもの返事だ」
伊織は息を整えた。
「今夜は、私がそうしたいのです」
宗春の表情が、静かに崩れた。
「伊織」
「はい」
「もう一度」
「私が、宗春さまとこうしたいのです」
宗春は手で目元を覆いかけた。
「それは反則だ」
「勝ち負けではありません」
「俺が負ける」
「殿は、すぐ勝負に」
「宗春」
「宗春さま」
宗春は伊織の手を引き返すのではなく、そのまま握った。
「では、伊織が選べ」
「はい」
伊織は自分で帯へ手をかけた。
指が少し震える。
宗春は手を出さない。
待っている。
それが恥ずかしくて、優しくて、伊織は息が苦しくなった。
「見ないでください」
「無理だ」
「見ていないと」
「伊織が選んでいるところを、見たい」
「……ずるいです」
「うん」
伊織は帯をほどいた。
衣がゆるむ。
夜気が肌に触れる。
宗春の息が変わる。
伊織は宗春の手をもう一度取り、布団へ座らせた。
それから、自分も向かい合って座る。
「宗春さま」
「うん」
「私は、御橋春親です」
「うん」
「榊伊織でもあります」
「うん」
「そして今夜は」
声が震える。
「宗春さまのそばにいたい者です」
宗春の腕が、伊織を抱き寄せた。
「それ以上は、俺が保たない」
「いつも、保っておられるでしょう」
「今夜は無理だ」
「では」
伊織は宗春の胸元へ手を置いた。
「私も、保ちません」
宗春の息が熱くなる。
伊織は自分から宗春へ近づき、口づけた。
短く。
不慣れで。
けれど、自分から。
宗春の腕が一瞬、強くなった。
「伊織」
「はい」
「今のも、選んだ?」
「はい」
「俺を?」
「はい」
宗春はそれ以上待てなかった。
伊織を抱き、布団へ沈める。
だが、今夜は宗春が一方的に運ぶのではない。
伊織の手が、宗春の手を離さず、自分から布団へ導いている。
「離すな」
宗春が言う。
伊織は頷いた。
「離しません」
宗春は伊織を抱き、ゆっくり深く奥へと繋がった。
「っ、あ……っ♡」
宗春の手を、伊織は握ったままだった。
布団の上。
向かい合う距離。
何も隠せない近さ。
「伊織」
「はい……っ」
「選んだな」
「はい……っ」
「俺を」
「宗春さまを……っ」
宗春がゆっくり動く。
伊織の体が布団の上で深く擦れる。
自分から導いたはずなのに、いざ抱かれると、すべて宗春に持っていかれる。
それが悔しい。
でも、嫌ではない。
嫌ではないどころではない。
「宗春さま……っ」
「うん」
「ずるい……っ」
「何が」
「私が選んだのに……っ」
「うん」
「結局、宗春さまに……っ」
「抱かれている?」
伊織は声を詰まらせた。
宗春が深く突き上げる。
「っ、あんっ♡」
「その通りだな」
「言わないで……っ」
「でも、伊織が連れてきた」
「はい……っ」
「伊織が手を取った」
「はい……っ」
「伊織が、俺を選んだ」
伊織の目元が熱くなる。
「はい……っ」
宗春の動きが深くなる。
伊織は宗春の手を握りしめた。
「離さないのか」
「離しません……っ」
「怖い?」
「怖く……っ、ありません……っ」
「では」
「離すと……っ」
「うん」
「宗春さまが、遠くなる気がして……っ」
宗春の息が乱れた。
「遠くならない」
「はい……っ」
「俺はここだ」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「春親」
伊織の体が震える。
「はい……っ」
「どちらも、俺を選んだか」
伊織は宗春の手を握ったまま、頷いた。
「はい……っ」
「声で」
「どちらも……っ、宗春さまを……っ」
宗春が奥まで届くように突き上げる。
伊織の声が甘く崩れる。
「っ、あっ♡」
「よく言えた」
「もう……っ」
「もっと言え」
「宗春さまは……っ、欲張りです……っ」
「うん」
「でも……っ」
「うん」
「私も……っ、今夜は……っ」
宗春の目が熱くなる。
「欲張る?」
伊織は顔を背けそうになり、踏みとどまった。
「……はい」
宗春の腕が強くなる。
「何が欲しい」
「聞かないで……っ」
「伊織が選ぶ夜だ」
「ずるい……っ」
「うん」
「手を……っ」
宗春は握っている手に力を込める。
「もう握っている」
「もっと……っ」
「こうか」
宗春が指を絡める。
伊織の息が跳ねた。
「っ、あ……っ♡」
「他には」
「近く……っ」
「近い」
「もっと……っ」
宗春が伊織へ体を重ねる。
深さが増す。
伊織の声が布団へ落ちる。
「っ、あんっ♡」
「他には」
「呼んで……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「春親」
「はい……っ」
「俺の伊織」
伊織の胸が大きく揺れた。
「それは……っ」
「嫌か」
「嫌では……っ、ありません……っ」
「では」
「もう一度……っ」
宗春の息が荒くなる。
「俺の伊織」
「宗春さま……っ」
「俺の春親」
伊織の体が震えた。
「それは……っ、重い……っ」
「うん」
「でも……っ」
「うん」
「嬉しい……っ」
宗春が一瞬、動きを止めた。
すぐに、伊織を強く抱き込む。
「伊織」
「はい……っ」
「今日は、よく言うな」
「今日だけです……っ」
「明日は?」
「分かりません……っ」
「なら、今夜の分を聞く」
「本当に……っ、欲張り……っ」
宗春は深く突き上げた。
伊織の声が大きく崩れる。
「っ、あっ♡」
「欲しいと言ったのは伊織だ」
「そこまでは……っ」
「言った」
「言いました……っ」
「よくできた」
「褒めないで……っ」
「無理だ」
宗春の手が、伊織の手を離さない。
伊織も離さない。
布団の上で、二人の指が固く絡む。
それは、夜の熱以上に、伊織の選択を形にしていた。
「宗春さま……っ」
「うん」
「私、今日……っ」
「うん」
「怖かった……っ」
宗春の動きが少しだけ緩む。
「うん」
「でも……っ」
「うん」
「宗春さまの後ろではなく……っ」
宗春が息を詰める。
伊織は言い切った。
「隣に、立ちたかった……っ」
宗春の目が、熱く揺れた。
「立った」
「はい……っ」
「俺の隣にいた」
「はい……っ」
「今夜も?」
伊織は宗春の手を引いた。
「今夜は……っ、隣ではなく……っ」
「うん」
「腕の中が、いい……っ」
宗春の息が大きく乱れた。
「それは、ずるい」
「宗春さまに、教わりました……っ」
宗春はもう返さず、伊織を深く抱いた。
奥まで届く熱が、何度も重なる。
伊織は手を離さない。
自分で選んだ。
自分で取った手。
自分で導いた布団。
そのすべてが、今、宗春の腕の中で溶けていく。
「伊織」
「はい……っ」
「限界か」
「聞かないで……っ」
「では、言え」
「無理……っ」
「伊織が選ぶ夜だ」
「ずるい……っ」
「うん」
伊織は宗春の手を握りしめた。
「宗春さま……っ」
「うん」
「離さないで……っ」
「離さない」
「私も……っ、離しません……っ」
「うん」
「宗春さまを……っ、選びます……っ」
宗春の腕が強くなる。
「もう一度」
「選びます……っ」
「誰を」
「咲霧宗春さまを……っ」
宗春が奥まで深く届かせる。
伊織の声が甘く跳ねた。
「っ、あんっ♡」
「春親として?」
「はい……っ」
「伊織として?」
「はい……っ」
「俺の小姓として?」
伊織は涙ぐみそうになりながら頷いた。
「はい……っ、宗春さまの……っ、小姓として……っ」
「俺の恋しい男として?」
伊織の息が止まった。
宗春も、言ってから少しだけ黙った。
だが、取り消さない。
伊織は手を離さず、震える声で答えた。
「……はい」
宗春の目が熱くなる。
「伊織」
「はい……っ」
「言わせてすまない」
「いいえ……っ」
「怖くないか」
「怖いです……っ」
「うん」
「でも……っ、嬉しい……っ」
宗春は伊織を抱く腕を深くした。
「俺もだ」
伊織はもう限界だった。
「宗春さま……っ」
「うん」
「手……っ」
「離さない」
「名を……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「春親」
「はい……っ」
「俺の伊織」
「宗春さま……っ、私が……っ、選びます……っ、いって、しま……っ♡♡」
伊織の体が、宗春の腕の中で震えた。
宗春は、手を離さなかった。
絡んだ指をほどかず、伊織が自分で取った手を、そのまま包み込む。
伊織は荒い息の中で、宗春を見た。
逃げずに。
いや、違う。
もう、離れずに。
「……殿」
「宗春」
「……宗春さま」
「うん」
「今日は、私が手を取りました」
「うん」
「忘れないでください」
宗春の目元がやわらぐ。
「忘れるわけがない」
「殿は、何でも覚えておられるので」
「伊織のことはな」
伊織は小さく笑った。
疲れ切って、少しだけ素直になった笑いだった。
宗春はその笑いを見て、伊織の手に唇を落とした。
「選ばれたな」
「はい」
「奪っていないな」
伊織の胸が熱くなる。
「はい」
「伊織が来た」
「はい」
「春親も来た」
「はい」
宗春は伊織を抱きしめた。
「なら、俺は守る」
「はい」
「奪ったからではなく」
「はい」
「選ばれたから」
伊織は宗春の胸元へ額を寄せた。
「重いですね」
「重いな」
「宗春さまは、背負えますか」
「お前も一緒に持つのだろう」
伊織は目を閉じた。
「はい」
宗春は笑った。
「なら、持てる」
****
翌朝。
屋敷の空気は、また変わっていた。
幕府からすぐに返答は来ない。
鳥居玄蕃が黙るとも思えない。
石堂主膳がすべてを穏やかに収めるとも限らない。
それでも、咲霧藩上屋敷の朝は来る。
春丸は廊下で独楽を回し、亀爺から届いたうなぎの包みに騒ぎ、景継は返書の控えを確認し、直澄は必要なことだけを帳面に落とす。
伊織は宗春のそばにいた。
小姓として。
御橋春親として。
そして、自分で選んだ者として。
宗春が呼ぶ。
「伊織」
「はい」
少し置いて、宗春はもう一つの名を呼んだ。
「春親」
伊織は一瞬だけ息を止めた。
それから、静かに返事をした。
「はい」
景継は何も言わない。
直澄も筆を取らない。
春丸だけが首をかしげた。
「榊、名前ふえた?」
伊織は返事に困った。
宗春が笑う。
「大事な名だ」
春丸は少し考えた。
「じゃあ、春丸は榊って呼ぶ」
伊織は膝をつき、春丸へ頭を下げた。
「はい。若君には、その名で」
「兄上は?」
春丸が宗春を見る。
宗春は伊織を見た。
「俺は、どちらも呼ぶ」
伊織は少しだけ目を伏せた。
「……はい」
春丸はよく分からないまま、満足そうに頷いた。
「じゃあ、いい!」
その無邪気さに、伊織は救われた。
御橋春親の名は重い。
榊伊織の名は、ここで温かくなりすぎた。
その両方を抱えて、まだ歩かなければならない。
けれど、宗春の手を取ることは、もうできる。
伊織はそっと自分の指先を見た。
昨夜、宗春の手を引いた手。
それは今日も、確かに自分のものだった。
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