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第14話 幕府書状と、御橋の名
朝から、屋敷の空気が違っていた。
咲霧藩上屋敷の奥座敷。
宗春はいつものように軽く笑っていない。
景継は文箱の前に座り、直澄は帳面を開かずに控えている。
伊織は茶を運びながら、その沈黙の重さをすぐに察した。
「殿」
「うん」
「何かございましたか」
宗春は伊織を見た。
その目が、いつもより静かだった。
「幕府から書状が来た」
伊織の指が、茶碗の縁で止まる。
景継が文箱から一通を取り出した。
封はすでに切られている。
ただし、雑に扱われた形跡はない。
丁寧に開かれ、丁寧に畳み直されていた。
その丁寧さが、かえって重い。
直澄が低く言う。
「鳥居玄蕃殿の名がございます」
伊織は息を整えた。
「内容は」
宗春が答えた。
「咲霧藩上屋敷に、出自不明の小姓を抱え置くとの訴えあり」
伊織は動かなかった。
宗春は続ける。
「また、御橋春親なる者が、江戸市中に潜んでいるとの話あり。咲霧藩に心当たりあらば、すみやかに申し出よ」
障子の外で、蝉が鳴いた。
その音だけが、やけに遠く聞こえる。
景継は伊織を責めなかった。
宗春も、すぐには問わなかった。
伊織は、茶碗を置いた。
「……殿」
「うん」
「私は」
声が少しだけかすれた。
伊織は背筋を伸ばす。
ここで小姓としての礼を保たなければ、立っていられない気がした。
「私は、榊伊織ではありません」
景継の手が、文箱の上で止まる。
直澄の目が静かに伏せられる。
宗春だけが、動かなかった。
伊織は続けた。
「真の名は、御橋春親(みはし・はるちか)」
一度口にすると、その名は思ったより重かった。
長く胸の奥に押し込めていたものが、急に畳の上へ出されたようだった。
御橋。
言わずと知れた幕府御三家のひとつ。
「御橋家の血を引く者です」
景継が息を飲む。
直澄は何も言わない。
宗春は、静かに問うた。
「誰に命じられた」
「石堂主膳様です」
「老中の石堂主膳で間違いないな?」
「はい」
伊織は膝をついた。
「幕府内の政争と毒殺の動きから身を隠すため、咲霧様の屋敷に入り、本当の小姓になりきれと命じられました。いつか朧を通じて連絡がある。それまでは名を出すな、と」
宗春は目を伏せた。
怒らない。
驚かない。
それが伊織には、むしろ苦しかった。
「殿」
「うん」
「私は、咲霧を欺いておりました」
景継が厳しい声を出しかけた。
だが、宗春が手で制した。
「伊織」
「はい」
「いつから、俺に言おうとしていた」
伊織は返事に詰まった。
問われると思っていたことと違った。
なぜ黙っていた。
誰の間者だ。
どこまで知っている。
そう問われると思っていた。
だが、宗春はそこを問わない。
伊織は胸の奥が詰まるのを感じた。
「……花火の夜から」
「うん」
「朧が来てから」
「うん」
「言わねばならないと、思っておりました」
「言いたくは?」
伊織は唇を結んだ。
それから、正直に言った。
「怖かったです」
宗春の目が少しだけ揺れる。
「何が」
「名を出せば、榊伊織でいられなくなることが」
宗春は何も言わない。
「この屋敷で、殿に呼ばれる名が、消えてしまうことが」
景継の表情が変わった。
直澄は、そこで初めて目を上げた。
宗春は、ゆっくり伊織のそばへ来た。
「消さない」
伊織の息が止まる。
「御橋春親と知っても、俺が呼んだ伊織は消えない」
「ですが」
「俺が消さない」
その一言で、伊織の目元が熱くなった。
宗春は手を伸ばしかけ、けれど昼の座敷であることを思い出したように止めた。
「景継」
「は」
「この書状への返しは、急がない」
「しかし、期限は明朝まででございます」
「だから今日一日使う」
景継は頷いた。
「承知しました」
宗春は直澄へ向く。
「鳥居の書状に、御橋の名が出た経路を洗え」
「はい」
「松浜の名も、黒川の名も、使われているだけかもしれない。決めつけるな」
「承知しております」
直澄の声は静かだった。
宗春は文箱へ目を戻す。
「石堂から、別の文は?」
伊織は袖から小さな紙片を出した。
花火の夜、朧から受け取ったものだ。
すでに宗春へ見せた文とは別の、封を切っていなかった小さなもの。
「朧は、幕府書状が近いと言いました。こちらは、いざという時に、と」
宗春は受け取る前に問う。
「俺が読んでいいものか」
伊織は少しだけ黙る。
それから頷いた。
「はい」
宗春が封を切る。
中には、短い言葉だけがあった。
鳥居の問いに答えるな。
御橋春親を差し出すな。
咲霧が守るなら、咲霧も試される。
生きよ。
選べ。
宗春は文を畳んだ。
「石堂主膳は、冷たいくせに厄介な文を書く」
伊織は小さく言う。
「石堂様は、幕府を守る方です」
「伊織を?」
「生かす側ではあります」
「自由にする側ではない」
伊織は返事をしなかった。
それが答えだった。
宗春は文箱の上へ、幕府書状と石堂の文を並べた。
「なら、俺は伊織を自由にする側へ回る」
「殿」
「まだ全部は無理でもな」
景継が深く頭を下げる。
「殿。返書の文面を」
「書く」
「御橋春親については」
宗春はしばらく考えた。
「当藩にて、その名を名乗る者は召し抱えていない」
伊織の肩が揺れた。
宗春は続ける。
「榊伊織は、咲霧藩が召し抱えた小姓であり、病み上がりにつき外出を控えさせている。鳥居殿より不審ありとのことなら、咲霧宗春が直に申し開きをする」
景継の目が厳しくなる。
「殿ご自身が矢面に」
「俺の小姓だ」
「しかし」
「俺が抱えた。俺が守る」
伊織は思わず口を開いた。
「おやめください」
宗春が伊織を見る。
「なぜ」
「殿が私のために幕府から疑われるのは」
「もう疑われている」
「ですが」
「伊織」
宗春の声が低くなる。
「俺は、何も知らないまま膝に乗せていた男を、書状一枚で差し出すような殿か」
伊織は答えられなかった。
宗春は少しだけ笑う。
「違うだろう」
「……はい」
「なら、黙って守られろとは言わない。俺に守らせる分、お前も俺に渡せ」
「何を」
「怖いこと。知っていること。言えるところまで」
伊織はゆっくり頷いた。
「はい」
景継は文箱を引き寄せた。
「返書は、こちらで下書きを」
「俺が言う。お前が整えろ」
「承知しました」
直澄は筆を取った。
幕府書状。
鳥居玄蕃。
御橋春親。
榊伊織。
咲霧宗春の申し開き。
必要なものだけを、紙へ落とす。
伊織はその音を聞いていた。
筆が紙を擦る音。
それは今まで何度も聞いた音なのに、今日は自分の命を薄い紙へ移しているように聞こえた。
****
昼過ぎ。
春丸が奥座敷の前まで来た。
いつものように駆け込まず、廊下で止まる。
何かが違うと、子どもなりに察しているのだろう。
「兄上」
宗春が声をやわらげた。
「春丸」
「榊、いる?」
伊織はすぐに立ち上がった。
「はい。こちらに」
春丸は少し安心したように障子の隙間から覗いた。
「今日、遊べない?」
伊織は膝をつき、障子のそばへ寄る。
「申し訳ございません。今日は少し、殿のお手伝いがございます」
「大事?」
「はい」
春丸は真剣に頷いた。
「じゃあ、榊は兄上のそばにいて」
伊織の喉が詰まった。
春丸は続ける。
「兄上、難しい時、すぐ笑うから」
宗春が奥で小さく笑った。
「ばれているな」
伊織は春丸へ頭を下げた。
「はい。お側におります」
「約束」
「約束です」
春丸は満足したように走っていった。
伊織はその小さな足音を聞きながら、胸の奥を押さえた。
咲霧の若君。
寺子屋の子どもたち。
荷場の人足。
火消し。
湯屋。
団子屋。
花火の船。
自分は、ただ身を隠しているだけだったはずだ。
それなのに、ここには約束が増えすぎた。
宗春が近くで言う。
「重いか」
伊織は小さく首を横に振った。
「重いです」
「どちらだ」
「重いですが」
伊織は春丸が走っていった廊下を見る。
「手放したくありません」
宗春は何も言わなかった。
景継も、直澄も。
その言葉だけは、誰も帳面へ落とさなかった。
****
夕刻。
返書の下書きが整った。
宗春が読み、景継が語を直し、直澄が控えを作る。
鳥居の問いには、正面から踏み込みすぎない。
だが、咲霧の小姓を無断で取り調べさせる気もない。
宗春が責任を持つ。
咲霧の屋敷へ踏み込ませない。
その意志だけが、紙の奥で静かに光っていた。
伊織は、それを見ていた。
「殿」
「うん」
「私は、御橋春親です」
「うん」
「それでも、今は榊伊織として、この屋敷におります」
「うん」
「その名で守られることを、卑怯だと思っていました」
宗春は返書から目を離す。
伊織は続ける。
「ですが、今日は」
声が少し震えた。
「その名も、殿が呼んでくださった名なので、捨てたくありません」
宗春の目元が、静かに熱を帯びた。
「捨てるな」
「はい」
「御橋春親も、榊伊織も、どちらもお前だ」
「……はい」
「どちらを呼べばいい」
伊織は答えられなかった。
昼の座敷で言うには、あまりに胸の奥へ触れる問いだった。
宗春はそれ以上求めない。
「夜に聞く」
「また、夜へ」
「夜の方が言いやすいだろう」
否定できなかった。
****
夜。
宗春の部屋には、文箱が置かれていた。
幕府書状。
石堂の文。
返書の下書き。
毒消しの薬包。
すべてが、その中に収められている。
伊織は部屋へ入り、文箱の前で足を止めた。
「殿」
「うん」
「なぜ、ここに」
「今夜の相手だ」
「文箱がですか」
「伊織の名を閉じ込めている」
「その言い方は」
「開けるか」
伊織は息を詰めた。
宗春は文箱へ触れず、伊織へ手を伸ばした。
「今夜は、伊織が開けろ」
伊織はゆっくり座った。
文箱の蓋に手を置く。
開ければ、自分の名がある。
榊伊織。
御橋春親。
どちらも、もう箱の中だけには戻らない。
「怖いか」
「はい」
宗春の目がやわらぐ。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「無理だ」
伊織は蓋を開けた。
紙の匂いがする。
墨の匂い。
命令の匂い。
守るための嘘の匂い。
そのすべてが混じっている。
「伊織」
「はい」
「どちらで呼べばいい」
伊織は文箱を見つめたまま、答えた。
「今夜は」
「うん」
「春親と」
宗春の息が止まった。
伊織はすぐに続ける。
「一度だけで、かまいません」
「一度では済まない」
「殿」
「宗春」
伊織は目を伏せた。
「宗春さま」
「うん」
宗春は伊織の手を取り、文箱のそばへ座らせた。
向かい合う。
正面から。
逃げるためではない。
隠れるためでもない。
名を渡した相手と、正面から向き合うために。
宗春の指が、伊織の帯へかかる。
「嫌なら」
「嫌ではありません」
「春親」
その名で呼ばれた瞬間、伊織の体が小さく震えた。
宗春はすぐに手を止める。
「嫌か」
伊織は首を横に振った。
「……違います」
「では」
「重いです」
「うん」
「でも、宗春さまに呼ばれると」
「うん」
「怖いだけでは、ありません」
宗春の目元が熱くなる。
「春親」
伊織は息を震わせた。
「はい」
それは、御橋春親としての返事だった。
宗春は伊織を抱き寄せ、文箱のそばで正面からゆっくり深く結んだ。
熱が奥まで入ると、伊織の声が震える。
「っ、あ……っ♡」
宗春の腕が腰を支える。
正面から見られている。
逃げられない。
だが、今夜はそれでいい。
名も、体も、隠しきれないまま宗春の前にいる。
「春親」
「はい……っ」
「痛くないか」
「大丈夫……っ、です……っ」
「怖いか」
「怖い……っ、です……っ」
「うん」
「でも……っ」
宗春がゆっくり動く。
伊織の声が甘く揺れた。
「っ、あんっ♡」
「でも?」
「宗春さまなら……っ」
「うん」
「呼ばれても……っ、いい……っ」
宗春の息が大きく乱れた。
「春親」
「はい……っ」
「伊織」
伊織の胸が震えた。
二つの名が、宗春の声で並んだ。
どちらかを消すのではなく。
どちらも、同じ腕の中へ置かれた。
「どちらも、返事をしろ」
「無理です……っ」
「できる」
「宗春さまは……っ、無茶を……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「春親」
「はい……っ、あっ♡」
宗春の腰が深くなる。
文箱の中の紙が、畳の振動でわずかに鳴った。
伊織はその音にびくりとする。
宗春がすぐに手を重ねる。
「今は、紙を見るな」
「でも……っ」
「俺を見ろ」
「正面は……っ」
「今夜は正面だ」
伊織の喉が震える。
「全部、見えるでは……っ」
「見せろ」
「殿……っ」
「宗春」
「宗春さま……っ」
宗春が奥まで届くように突き上げる。
伊織の声が崩れた。
「っ、あんっ♡」
「隠すな」
「隠せ……っ、ません……っ」
「名も?」
伊織の目元が熱くなる。
「名も……っ」
「体も?」
「体も……っ」
「心は?」
伊織は答えようとして、声が詰まった。
宗春がゆっくり深く動く。
焦らない。
だが、逃がさない。
「春親」
「はい……っ」
「心は?」
伊織は宗春の肩を掴んだ。
「少し……っ」
「うん」
「もう、渡して……っ、います……っ」
宗春の動きが一瞬だけ止まった。
次の瞬間、強く抱き込まれる。
「それは、ずるい」
「殿が……っ、聞いたのです……っ」
「そうだな」
宗春は伊織の腰を支え、正面から深く突き上げた。
伊織の声が甘く跳ねる。
「っ、あっ♡」
「もっと渡すか」
「今は……っ、これ以上……っ」
「うん」
「無理……っ」
「では、今夜はここまで」
「でも……っ」
「でも?」
伊織は唇を震わせる。
「止まらないで……っ」
宗春の目が熱を帯びる。
「春親」
「はい……っ」
「それは本音か」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「それも本音か」
「はい……っ、宗春さま……っ」
宗春は文箱の横で、伊織をさらに深く抱いた。
紙の中には、幕府の命令がある。
石堂の文がある。
返書がある。
だが今、伊織を縛っているのは紙ではなかった。
宗春の腕。
宗春の声。
宗春が二つの名を消さずに呼ぶ、その熱だった。
「宗春さま……っ」
「うん」
「春親と……っ」
「うん」
「もう一度……っ」
宗春の息が乱れた。
「春親」
伊織の体が震える。
「伊織」
「はい……っ」
「俺の前では、どちらでも返事をしろ」
「はい……っ」
「どちらも、お前だ」
「はい……っ」
宗春が奥まで届かせる。
伊織はもう声を抑えられなかった。
「宗春さま……っ、春親って……っ、呼んで……っ」
「春親」
「もう……っ」
「春親」
「宗春さま……っ、いって、しま……っ♡♡」
伊織の体が、宗春の腕の中で大きく震えた。
宗春はすぐには動かなかった。
文箱のそばで、伊織を正面から抱き続ける。
「春親」
「……はい」
「伊織」
「はい……っ」
「どちらも、ここにいる」
伊織は荒い息のまま、宗春の肩へ額を寄せた。
「……はい」
「怖いか」
「まだ、怖いです」
「うん」
「でも」
「うん」
「宗春さまに呼ばれるなら、少しだけ、耐えられます」
宗春は、からかわなかった。
ただ、伊織の背を撫でた。
「俺も覚える」
「何を」
「春親の重さと、伊織の温かさ」
伊織は目を閉じた。
「……どちらも、私です」
「うん」
「どちらかを、捨てなくてよいのですか」
「捨てるな」
宗春は即答した。
「俺が両方呼ぶ」
伊織は返事をしようとして、できなかった。
代わりに、宗春の袖を掴んだ。
その手を、宗春はゆっくり包んだ。
****
翌朝。
返書は完成した。
景継が最後の語を確認し、直澄が控えを整える。
宗春は自ら花押を据えた。
咲霧藩上屋敷に、榊伊織なる小姓は確かに召し抱えあり。
ただし、身柄については咲霧宗春が責任を持つ。
御橋春親については、当藩より軽々に申し述べるべき筋にあらず。
必要あらば、宗春自ら登城の上で申し開く。
景継が低く言う。
「かなり強い返しでございます」
「弱く書けば踏み込まれる」
「鳥居は黙りますまい」
「黙らなくていい」
宗春は文を畳んだ。
「次に来るなら、俺の前に来ればいい」
伊織はその言葉を聞きながら、背筋を伸ばした。
「殿」
「うん」
「私は、逃げません」
言った瞬間、伊織は自分の言葉に引っかかった。
すぐに言い直す。
「私は、身を隠しているだけの者ではいたくありません」
宗春はそれを聞き、静かに頷いた。
「なら、俺のそばに立て」
「はい」
「伊織として」
「はい」
「春親として」
伊織は一度だけ息を整えた。
「はい」
景継は何も言わなかった。
ただ、咲霧の屋敷の空気は、また少し変わった。
訳ありの小姓。
殿が大事にする者。
若君を守った者。
そして今は、御橋春親という名を持つ者。
それでも宗春は、いつもと同じように伊織を呼んだ。
「伊織」
「はい」
その返事の奥に、もうひとつの名が静かに息づいていた。
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