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第13話 花火と、朧の合図
「伊織」
「はい」
「花火を見に行く」
伊織は、一拍置いてから宗春を見た。
咲霧藩上屋敷の朝。
庭には夏の気配が濃くなり、障子の向こうで蝉が鳴いている。
宗春は涼しい顔で、扇を手にしていた。
「花火でございますか」
「そうだ」
「殿のご趣味ですか」
「好きだ」
「では、お一人で」
「伊織と見たい」
「また、その流れですか」
「気に入っている」
「私は気に入っておりません」
宗春は笑った。
だが、今日は笑いだけではない。
景継がすでに控えている。
直澄も帳面を閉じたまま、静かに座っていた。
伊織はすぐ察した。
「ただの花火見物ではございませんね」
「ただの花火見物でもある」
宗春が答える。
「それ以外もある」
「やはり」
景継が低く言う。
「今夜、川筋の座敷船にて、酔月会の者と短く顔を合わせます」
「酔月会」
伊織は聞いたことのある名を、静かに繰り返した。
小藩の者たちが、幕府の大きな流れに呑まれぬよう、宗春が繋いでいる集まり。
酒と月見の名を借りた、細い同盟。
宗春は扇を閉じた。
「花火の音に紛れて、話をするにはちょうどいい」
「危うくは」
「危うい」
あっさり言われた。
伊織は眉を寄せる。
「ならば」
「来い」
「なぜですか」
「俺のそばに置く」
その言い方に、伊織は少しだけ息を止めた。
吉原の夜から、宗春は時々それを言う。
隠すのではなく、置く。
格子の向こうではなく、自分の腕の届くところへ。
伊織は返す言葉を探した。
「私は、かえって目立つのでは」
「目立つ」
「では」
「今さらだ」
宗春は笑う。
「俺が大事にしている小姓として、十分すぎるほど目立っている」
「殿のせいです」
「そうだ」
「認めないでください」
景継が胃を押さえた。
直澄が静かに続ける。
「花火の場は、人が多く、視線も散ります。鳥居の筋、松浜を名乗る者、黒川につながる者が混じる可能性がございます」
伊織の指先が少しだけ固くなる。
黒川。
鳥居。
松浜。
旧坑道。
霧川の水。
このところ、名だけが少しずつ近づいている。
宗春は伊織を見た。
「怖いか」
「怖い時は、呼べと仰いました」
宗春の目元がやわらぐ。
「覚えていたか」
「忘れません」
「では、呼べ」
「必要があれば」
「必要がなくても」
「それは」
宗春が笑う。
「俺が聞きたい」
伊織は返事に詰まった。
景継が咳払いをする。
「殿。朝でございます」
「そうだった」
「忘れないでください」
****
昼過ぎから、屋敷は少し慌ただしくなった。
供の数。
船の位置。
酔月会の者と合う順。
目立たぬ合図。
すべてが短く確認される。
ただし、鳴瀬山の奥の話は出ない。
旧坑道の正確な場所も、水路の詳しい筋も、伊織の前では誰も口にしない。
伊織も尋ねない。
尋ねれば、咲霧の者たちは答えを濁さなければならない。
それをさせたくなかった。
****
夕暮れ。
川辺はすでに人であふれていた。
提灯。
屋台。
団扇。
浴衣の色。
水面に揺れる灯。
遠くで太鼓の音がして、子どもたちが走り回る。
伊織は人の多さに一瞬だけ立ち止まり、すぐに宗春の後ろへ控えた。
「近くへ」
宗春が言う。
「十分近いです」
「もっと」
「人前です」
「人前だからだ」
伊織は反論しかけ、やめた。
今日は花火見物であり、同時に別の目もある。
宗春のそばにいることが、一番安全なのは分かっている。
「……はい」
伊織が半歩寄ると、宗春は満足そうに笑った。
「素直だ」
「今夜だけです」
「それも聞き飽きた」
「言わせているのは殿です」
座敷船へ乗ると、川風が少し涼しかった。
船の上には、すでに数人の武士がいた。
表向きは花火見物の客。
だが、立ち居振る舞いでただの客ではないと分かる。
宗春は軽く挨拶を交わす。
「久しいな」
「咲霧様も、お変わりなく」
「変わったように見えるか」
相手の武士は、宗春の隣に控える伊織を見て、笑った。
「少し」
伊織は一礼した。
「榊伊織と申します」
「よい小姓をお持ちで」
宗春がすぐ答える。
「自慢だ」
「殿」
「本当のことだ」
相手は声を立てずに笑った。
その場の空気が、少しだけほどける。
酒が出される。
だが、宗春はほとんど口をつけない。
相手の武士も同じだった。
花火が一発、夜空へ上がった。
大きな音。
赤い光。
水面が一瞬、明るくなる。
その音に紛れて、低い声が交わされる。
「鳥居が、江戸城内で動いております」
「知っている」
宗春が答える。
「松浜の名も使われている」
「本人たちがどこまで噛んでいるかは、まだ分からぬ」
別の男が扇で口元を隠す。
「旧坑道の噂は、咲霧を潰すためだけではないかもしれません」
宗春の目がわずかに動いた。
「他には」
「名を探っております。咲霧様の小姓の名を」
伊織は黙っている。
宗春の手が、膝の上で一瞬だけ動いた。
伊織の袖に触れる。
それだけで、伊織は呼吸を整えた。
「榊伊織の名か」
宗春が言う。
「表では」
「裏では」
相手は言葉を濁した。
花火がまた上がる。
青い光。
白い火。
音が腹に響く。
伊織は、その音の向こうに別の気配を感じた。
船の端。
船頭に混じって、ひとり。
笠を深く被った男がいる。
立ち方で分かった。
伊織の喉が鳴る。
朧(おぼろ)
石堂主膳の筋につく隠密。
本名ではない。
伊織だけが、立ち姿と短い合図で分かる。
江戸へ来る前、老中格の石堂主膳は伊織へ言った。
いつか、朧を通じて連絡が行く。
それまでは、本当の小姓になりきれ。
伊織は、その合図を待っていた。
待たないふりをしながら。
笠の男は、船べりへ桶を置いた。
桶の取っ手に、細い藍の紐。
三度結んで、ひとつだけ緩める。
朧の合図だった。
伊織は指先が冷えるのを感じた。
宗春がすぐ気づく。
「伊織」
声は低い。
花火の音に紛れても、伊織には届いた。
「……はい」
「知った者か」
伊織は息を止めた。
答えれば、ひとつ秘密を渡すことになる。
答えなければ、宗春はそれでも守ろうとするだろう。
だからこそ、言わなければならない。
「私にだけ分かる者です」
宗春の目が変わった。
だが、声は荒くならない。
「敵か」
「いいえ」
「味方か」
伊織は少し迷った。
「私を、この屋敷へ向かわせた筋の者です」
宗春は黙った。
花火が上がる。
金の光が、宗春の横顔を照らした。
伊織は続けた。
「名は、朧。隠密名です」
宗春は短く息を吐いた。
「来たか」
責める声ではなかった。
伊織はそれだけで胸が詰まる。
「はい」
「行けるか」
「一人で」
「それは駄目だ」
即答だった。
伊織は宗春を見る。
宗春は静かに言う。
「お前が信じる者でも、俺が知らぬ者だ」
「ですが」
「俺は近くにいる。聞かないところまでは聞かない。だが、届くところにはいる」
伊織は目を伏せた。
「……はい」
宗春は酔月会の者へ目配せする。
直澄が動く。
景継の手配した者も、気づかれぬよう船の端へ散った。
朧は、それを見ても動じなかった。
伊織は船べりへ歩く。
宗春は少し離れてつく。
聞こえすぎない。
けれど、何かあれば届く距離。
朧は笠を上げない。
低い声で言った。
「榊様」
「その名で呼ぶのですね」
「今は」
伊織の胸が揺れた。
今は。
朧は小さな紙包みを差し出した。
「石堂様より」
伊織は受け取る。
紙包みは軽い。
中には短い文と、小さな薬包。
文には、たった数行。
鳥居が、御橋(みはし)の名へ近づいている。
幕府書状が動く。
咲霧を試す声あり。
生きよ。
その上で、選べ。
伊織の手が止まった。
生きよ。
その上で、選べ。
石堂主膳らしくないほど、短く、重い言葉だった。
「石堂様は」
伊織が問う。
「ご無事です」
「これは」
「毒消しに近いものです。確実ではありませんが、ないよりはよいと」
「毒」
朧は答えない。
それが答えだった。
「鳥居ですか」
「鳥居の名で動く者」
「本人ではないと?」
「断てませぬ」
朧は川面へ目を向けたまま、低く続ける。
「御橋の名が出れば、榊様は小姓ではいられませぬ」
伊織の胸が締まる。
「分かっています」
「咲霧様は」
「知りません」
言ってから、伊織は少しだけ言い直した。
「……まだ、すべては」
朧は初めて、わずかに沈黙した。
「変わられましたな」
「何が」
「以前なら、何も、と言われた」
伊織は答えられなかった。
花火が上がる。
赤い光が、水面を染める。
朧は紙包みの残りを伊織の手へ押し込んだ。
「次の書状が届けば、隠しきれませぬ」
「いつ」
「近い」
「朧」
「はい」
「私は、どうすればよいと」
朧は即答しなかった。
命令なら、すぐに出せたはずだ。
だが、朧は言った。
「石堂様は、生きよと」
「その上で、選べと」
「はい」
伊織は唇を結んだ。
宗春の気配が背後にある。
聞こえているかもしれない。
聞こえていないかもしれない。
けれど、届く場所にいる。
「……分かりました」
朧は短く頭を下げた。
「薬は、咲霧様にも」
「殿にも?」
「狙いは榊様だけとは限りませぬ」
伊織の目が鋭くなる。
「宗春さまも」
その呼び方に、朧が一瞬だけ動きを止めた。
「大事に、なさいませ」
伊織は言葉を失った。
朧は笠を下げる。
「次は、書状にて」
「待ちなさい」
「長くは」
朧はそれだけ言い、船頭の影へ戻った。
花火の音が大きく響く。
その一瞬の明るさの後、朧の姿はもう人混みと船影に溶けていた。
伊織は紙包みを握ったまま、立ち尽くした。
宗春が近づく。
「伊織」
「はい」
「戻れるか」
その問いは、歩けるかという意味ではない。
伊織は分かった。
「戻ります」
「どこへ」
伊織は宗春を見た。
「宗春さまのところへ」
宗春の息が、かすかに止まった。
「よし」
それだけだった。
宗春は紙包みの中身を無理に見ようとはしない。
ただ、伊織の手が震えていることに気づき、自分の袖で隠した。
****
座敷へ戻ると、酔月会の者たちは何も聞かなかった。
景継は遠くから宗春を見て、すぐに視線を外した。
花火は続く。
夜空に開いては消える。
明るくなった瞬間だけ、誰もが互いの表情を知る。
闇に戻れば、それぞれの沈黙へ戻る。
伊織は、紙包みを袖の奥へ入れた。
宗春が隣で言う。
「綺麗か」
「はい」
「怖いか」
「少し」
「呼ぶか」
伊織は花火を見上げたまま、小さく言った。
「宗春さま」
「うん」
「今、呼びました」
宗春は笑わなかった。
ただ、低く答えた。
「聞いた」
****
その夜。
屋敷へ戻ると、景継と直澄はすぐに奥の間へ入った。
宗春は伊織を自室へ連れていく。
外の花火の音は、まだ遠く聞こえていた。
窓辺には、川の方角からかすかな光が差している。
もう大輪の花は見えない。
ただ、遅れて届く音だけが残っている。
伊織は袖の紙包みを出した。
「殿」
「うん」
「見てください」
宗春の目が、わずかに揺れた。
「いいのか」
「はい」
「全部か」
伊織は少しだけ黙った。
すべてではない。
まだ言えない名がある。
だが、何も渡さずに守られるのは、もう違う気がした。
「今、渡せるところまで」
宗春は頷いた。
「それでいい」
伊織は文と薬包を渡した。
宗春は文を読み、表情を消した。
鳥居。
御橋の名。
幕府書状。
咲霧を試す声。
生きよ。
その上で、選べ。
宗春は文を畳む。
「御橋」
伊織の肩がわずかに震えた。
宗春はそれ以上を聞かない。
「今日は聞かない」
「殿」
「お前が言う日に聞く」
伊織の胸が熱くなる。
「……はい」
「ただし」
宗春は薬包を見る。
「毒の話は聞く」
伊織は頷く。
「朧は、狙いが私だけとは限らないと」
宗春は短く笑った。
「俺もか」
「笑い事ではございません」
「怒った?」
「当然です」
「俺のために?」
伊織は唇を噛んだ。
「……はい」
宗春の目元がやわらぐ。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「無理だ」
宗春は文を文箱へしまい、薬包を景継へ渡すため別の小箱へ入れた。
それから、伊織へ手を伸ばす。
「伊織」
「はい」
「花火は終わった」
「はい」
「今夜は、音だけ残っている」
「……はい」
「だから、光が消えても、俺を見失うな」
伊織の息が止まった。
「殿は」
「宗春」
「宗春さまは、すぐそういうことを」
「胸に残るか」
「残ります」
言ってから、伊織は目を伏せた。
もう取り消せない。
宗春は伊織を窓辺へ導いた。
窓の外は暗い。
時折、遠い花火の名残が空を淡く照らす。
宗春は伊織を座らせ、自分も横へ座った。
膝と膝が触れる。
「近いです」
「近くした」
「それは、もう」
「今夜は、伊織が戻る場所の確認だ」
伊織は返事を失った。
宗春の手が帯に触れる。
「嫌なら」
「嫌ではありません」
「では、こっちへ」
宗春は伊織を抱き寄せた。
窓辺。
脚が絡む。
布越しに体温が重なり、夜風が乱れた衣の間を通る。
「殿」
「宗春」
「……宗春さま」
「うん」
宗春の手が、伊織の脚をゆっくり導く。
花火の音が遠く響いた。
それに合わせるように、伊織の体が小さく震える。
「怖いか」
「……少し」
「何が」
「光った時だけ、全部見える気がします」
「うん」
「消えると、また分からなくなる」
宗春は伊織の耳元ではなく、正面からではなく、横で静かに言った。
「なら、消えた後も触れていろ」
伊織は宗春の袖を掴んだ。
「……はい」
宗春は絡んだ脚ごと伊織を深く抱き、熱でその隙間をこじ開けていく。
奥まで繋がった瞬間、遠くで花火の音が遅れて響いた。
伊織の声がそれに重なる。
「っ、あ……っ♡」
宗春の腕が強くなる。
脚が絡み、伊織は身を引けない。
窓から入る夜風と、宗春の熱。
遠い花火の音。
その全部が、体の奥で混ざる。
「伊織」
「はい……っ」
「戻る場所は」
「宗春さまの……っ、ところ……っ」
「よく言えた」
「言わせて……っ」
「うん」
「ばかり……っ、あんっ♡」
宗春がゆっくり動く。
脚の絡みが深くなり、奥まで届く。
伊織は窓枠に手をつこうとして、宗春に指を絡め取られた。
「離すな」
「離し……っ、ません……っ」
「光が消えても?」
「はい……っ」
「音だけになっても?」
「はい……っ」
花火が上がる。
一瞬、部屋が淡く明るくなる。
伊織は思わず目を閉じた。
宗春がその手を握る。
「見なくていい」
「でも……っ」
「俺はここだ」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ、あっ♡」
宗春の腰が深く突き上げる。
伊織の脚が宗春へ絡む。
自分でそうしていると気づいて、伊織の息が乱れた。
「脚」
宗春が低く言う。
「言わないで……っ」
「伊織から絡めた」
「違……っ」
「違わない」
「……違いません……っ」
宗春の息が熱くなる。
「いい子だ」
「褒めないで……っ」
「無理だ」
宗春は絡んだ脚を支えたまま、ゆっくり深く動く。
伊織の体が窓辺で小さく揺れる。
外の音に紛れるはずの声が、宗春の腕の中では隠れない。
「宗春さま……っ」
「うん」
「朧が……っ」
「うん」
「生きよ、と……っ」
「うん」
「選べ、と……っ」
宗春の動きが少しだけ緩む。
「今、選ばなくていい」
「でも……っ」
「今夜は、生きていろ」
伊織の胸が震えた。
「それだけ?」
「それだけだ」
「殿は……っ」
「宗春」
「宗春さまは……っ、欲がないのですか……っ」
宗春が深く突き上げる。
伊織の声が甘く跳ねた。
「っ、あっ♡」
「欲はある」
「では……っ」
「お前が生きて、俺のそばで選ぶことが欲しい」
伊織の目元が熱くなる。
「ずるい……っ」
「うん」
「そう言われたら……っ」
「うん」
「離れられない……っ」
宗春の息が乱れる。
「離れるな」
「命令ですか……っ」
「願いだ」
伊織は宗春の手を握りしめた。
「……はい……っ」
宗春はそれ以上、言葉で追わなかった。
代わりに、腰を深く進める。
絡んだ脚。
窓辺の風。
遠い花火。
遅れて届く音。
伊織は自分が、宗春の方へ体を寄せていることに気づいた。
「宗春さま……っ」
「うん」
「光ると……っ」
「うん」
「隠せません……っ」
「何を」
「声も……っ、体も……っ」
「心は?」
伊織は息を詰めた。
宗春が奥まで届かせる。
「っ、あんっ♡」
「隠す?」
「隠せ……っ、ません……っ」
宗春の腕が震えた。
「よく言えた」
「もう……っ」
「いくか」
「聞かないで……っ」
「では、呼べ」
「宗春さま……っ」
「うん」
「消えても……っ、見失わないで……っ」
「見失わない」
「私も……っ」
「うん」
「宗春さまを……っ、見失わない……っ」
宗春の腰が深くなる。
伊織の脚がさらに絡む。
「伊織」
「はい……っ」
「今夜は、それで十分だ」
「十分では……っ」
「何が」
「足りない……っ」
宗春の動きが止まりかけた。
伊織は自分の言葉に震えた。
「今のは」
「聞いた」
「忘れて……っ」
「無理だ」
宗春は伊織を強く抱き寄せ、窓辺で深く突き上げた。
伊織の声が大きく崩れる。
「っ、あっ♡」
「何が足りない」
「宗春さま……っ」
「うん」
「もっと……っ、ここに……あっ♡」
「いる」
「もっと……っ、奥まで……っ♡」
宗春の息が荒くなる。
「伊織」
「はい……っ」
「それは、台本にないな」
「もう……っ、台本は……っ」
「うん」
「今夜は……っ、要らない……っ」
宗春が奥まで届かせる。
花火が上がる。
一瞬、夜が白くなる。
伊織は宗春の手を握ったまま、声を隠せなかった。
「宗春さま……っ、消えても……っ、ここにいて……っ、いって、しま……っ♡♡」
音が遅れて届いた。
その音の中で、伊織の体が宗春の腕の中で震えた。
宗春はすぐには動かなかった。
絡んだ脚をほどかず、伊織の手を離さず、光が消えた後もそのまま抱き続ける。
「伊織」
「……はい」
「いる」
「はい……っ」
「消えていない」
伊織は荒い息の中で、小さく頷いた。
窓の外は暗い。
花火の光はもうない。
それでも、宗春の手はある。
声も、熱もある。
伊織はそれにしがみついた。
「……宗春さま」
「うん」
「文のこと」
「うん」
「明日、もう少し話します」
宗春は伊織の髪を撫でた。
「待つ」
「聞かないのですか」
「聞きたい」
「では」
「でも、伊織が渡すのを待つ」
伊織は目を閉じた。
その言い方が、苦しくて、優しかった。
「……はい」
「今日は生きていた」
伊織は少しだけ笑いそうになった。
「大げさです」
「大げさではない」
宗春は低く言う。
「今日、お前は俺のところへ戻った」
伊織は何も返せなかった。
ただ、絡めた脚を、もう少しだけそのままにした。
****
翌朝。
景継と直澄は、薬包と文を前にしていた。
宗春はすでに、伊織から渡された範囲を二人へ共有していた。
ただし、御橋の名については、それ以上踏み込ませなかった。
景継は険しい表情で言う。
「幕府書状が動くとなれば、いよいよ表へ出されます」
直澄が頷く。
「鳥居の筋、黒川、松浜の名、旧坑道の噂。すべてが同じところへ寄っております」
「寄せている者がいる」
宗春が言う。
「鳥居本人か、鳥居の名を使う別の者か」
景継は文を見た。
「石堂主膳が、生きよ、その上で選べ、と」
宗春は短く頷く。
「冷たい男にしては、優しい文だ」
伊織は黙っていた。
宗春が見る。
「伊織」
「はい」
「今日も、俺のそばにいろ」
伊織は少しだけ息を整えた。
「職務として」
宗春は笑わなかった。
「今朝は、それでもいい」
伊織は頷いた。
「はい」
庭の向こうで、春丸が昨日の花火の話をしている声がした。
綺麗だった。
大きかった。
怖くなかった。
伊織はその声を聞きながら、袖の中の手を握った。
生きよ。
その上で、選べ。
まだ答えは出せない。
けれど昨夜、ひとつだけ分かった。
花火の光が消えた後、自分が戻った場所は、宗春のそばだった。
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