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第12話 お化けと、旧坑道の噂
「お化けが出る!」
咲霧春丸は、朝から真剣だった。
咲霧藩上屋敷の奥座敷。
宗春は文箱を開きかけた手を止め、伊織は茶を置く手を止め、景継は眉間を押さえ、直澄は筆を取らないまま固まった。
春丸は赤い独楽を抱え、座敷の真ん中に立っている。
「お化けでございますか」
伊織が静かに問う。
「うん」
春丸は大きく頷いた。
「山に出る!」
「山」
宗春の目が少しだけ細くなる。
景継の眉間がさらに深くなった。
「若君。どなたから、そのような話を」
「台所の人。あと、門の人。あと、亀爺がちょっと言ってた」
伊織は目を閉じた。
「また亀爺殿ですか」
宗春は笑いそうになっている。
「亀爺は何と言った」
「鳴瀬山の古い穴で、白いお化けが出るって。夜になると、山神さまが怒るって」
春丸はそこで、少し不安そうに宗春を見た。
「兄上、山神さま怒ってる?」
宗春の笑みが消えた。
「春丸」
「うん」
「山神さまは、むやみに子どもを脅かさない」
春丸はぱっと伊織を見る。
「榊、本当?」
伊織は膝をついた。
「はい。山神さまが本当にお怒りなら、まず大人が叱られます」
「大人が?」
「はい。子どもに怖い話だけ聞かせる大人が先です」
春丸は少し安心したようにした。
景継が低く言う。
「殿。鳴瀬山の旧坑道の噂が、江戸の屋敷まで届いているのは妙でございます」
直澄が続ける。
「吉原、葵座、相撲茶屋。いずれも鳴瀬山の名を探る気配がありました。今度は山神の噂です」
宗春は扇を閉じた。
「人を遠ざけたいか、逆に人を寄せたいか」
「どちらもあり得ます」
景継の声は硬い。
伊織は春丸を見た。
春丸は独楽を抱えたまま、不安そうにしている。
政治の話を聞かせるわけにはいかない。
伊織は静かに言った。
「若君」
「なに?」
「お化けを怖がることは、悪いことではございません」
「ほんと?」
「はい。怖いと思うから、暗いところへ一人で行かずに済みます」
「春丸、一人で行かない」
「それが一番でございます」
春丸は大きく頷いた。
宗春が伊織を見て、少しだけ目元をやわらげる。
「伊織はお化けが怖いか」
「恐れません」
「本当に?」
「はい」
「では今夜、暗い部屋でも平気だな」
伊織はすぐに宗春を見る。
「殿」
「何だ」
「若君の前です」
春丸が首をかしげる。
「暗い部屋?」
「若君はお聞きにならなくてよろしいです」
「なんで?」
景継が咳払いをした。
「若君。朝餉の支度が整っております」
「えー、まだお化けの話」
「あさげが冷めます」
「それは困る」
春丸は独楽を抱え直し、伊織へ小さく言った。
「榊、山神さま、怒ってない?」
伊織は頷く。
「怒っているのは、たぶん人です」
「人?」
「はい。だから、大人が調べます」
春丸は安心したように笑った。
「じゃあ兄上に任せる」
宗春は春丸の頭を撫でた。
「任せろ」
春丸が出ていくと、座敷の空気が変わった。
景継がすぐに地図を広げる。
鳴瀬山の古い山道。
廃された坑道。
霧川へ抜ける細い沢筋。
伊織は一歩下がった。
宗春がそれを見る。
「伊織」
「はい」
「そこにいろ」
「私は」
「聞かせるところまでは聞かせる。言えないところは言わない」
伊織は少しだけ息を止めた。
宗春は、隠す時も隠すと言う。
それが、今はありがたかった。
景継が渋い声で言う。
「旧坑道そのものの位置は、ここでは」
「詳しい場所は言わなくてよい」
宗春が答える。
「噂の出どころと、江戸で誰が流しているかを見ればいい」
直澄が頷く。
「亀爺に話を聞きます」
「俺も行く」
「殿自ら?」
景継が反応する。
「お化け見物だ」
「殿」
「春丸が怖がっている。兄として見に行く」
「それは口実でございましょう」
「そうだ」
宗春はあっさり言った。
「伊織も来い」
「私もですか」
「お化けが怖くないのだろう」
「そのような挑発には乗りません」
「では、春丸を安心させるため」
伊織は黙った。
それを言われると弱い。
「……承知しました」
「素直だ」
「若君のためです」
「俺のためでは?」
伊織は少しだけ間を置く。
「……殿のためでもあります」
宗春の表情が変わった。
景継が咳払いをした。
****
昼過ぎ。
亀爺のうなぎ屋は、相変わらず煙と甘辛い匂いに包まれていた。
亀爺は宗春たちを見るなり、にやりと笑った。
「お化け退治か」
「お前が春丸を怖がらせた」
宗春が言う。
「わしは、噂を噂として言うただけじゃ」
伊織が一礼する。
「亀爺殿。若君は真剣に怖がっておられました」
「それは悪いことをした」
亀爺は頭を掻いた。
「だが、噂は本当じゃ。鳴瀬山の古い穴で、白いものが揺れる。山神怒ル、という札もあったそうな」
直澄が静かに問う。
「誰が見たと」
「川筋の荷運び。あとは松浜の商人に使われている男が、酒の席で」
宗春の目が細くなる。
「松浜か」
「名前だけなら、いくらでも借りられる」
亀爺は茶をすすった。
「それと、白いお化けは夜だけではない。雨の後にも出るらしい」
伊織が口を開く。
「白い布を湿らせれば、岩肌に貼りついて光って見えます」
亀爺が目を細める。
「ほう」
「油皿を置けば、揺れる火で生き物のようにも見える」
宗春が伊織を見る。
「詳しいな」
「怖がらせる仕掛けとして考えただけです」
「考えるのが早い」
「褒めるところではございません」
亀爺は声を立てて笑った。
「この小姓殿は、山神より怖いのう」
「怖くはありません」
「真面目すぎて怖い」
「それは否定しません」
宗春が笑った。
直澄は必要な言葉だけを覚える。
白い布。
油皿。
札。
雨の後。
松浜の名。
そして、旧坑道から水の音がするという話。
亀爺は最後に声を落とした。
「宗春様。水の音には気をつけなされ。古い穴は、水が道を覚えておる」
「分かった」
伊織はその言葉を胸に留めた。
古い穴。
水。
道を覚えている。
夜へ回すには危うい話だ。
だが、ここで深く尋ねることではない。
宗春も、伊織が何も聞かないことを分かっていた。
****
その夕刻、屋敷へ戻る前に、宗春たちは鳴瀬山から江戸へ運ばれた石材置き場へ寄った。
そこには、旧坑道に似せた小さな祠の模型が置かれていた。
市で見世物にするつもりだったらしい。
白い布が掛けられ、そばには油皿。
そして、木札。
山神怒ル。
伊織はその札を見て、眉を寄せた。
「字が、妙です」
直澄が覗き込む。
「妙?」
「怒る、の払いが強すぎます。寺社の札というより、芝居小屋の小道具の字に近い」
宗春が短く笑った。
「葵座か」
「断定はできません」
伊織はすぐに言った。
「ただ、神を敬う札ではございません。人を怖がらせる字です」
その時、物陰が動いた。
景継の手配した者が先に回る。
白い布を抱えた男が、木箱の裏から飛び出した。
逃げようとする。
だが、宗春が一歩で道をふさいだ。
「どこへ行く」
男は顔を青くした。
「お、俺は頼まれただけで」
「誰に」
「知らねえ。松浜の商人だって」
宗春は詰め寄らない。
「名は」
「聞いてねえ。ただ、札を置けって。白い布を吊れって。雨の後ならよく見えるって」
直澄が問う。
「古い坑道の場所は、誰に聞いた」
男は首を振る。
「俺は知らねえ。場所の絵を渡されただけだ」
「絵は」
「燃やした」
宗春の目が冷える。
男は震え上がった。
「本当だ! 俺は山なんか知らねえ。水の音がする穴とか、そんなのも知らねえ!」
伊織の背がわずかに固まる。
水の音。
男は知らないと言いながら、言葉を落とした。
宗春も拾った。
直澄も。
景継も。
宗春は低く言う。
「連れていけ。手荒くするな。誰の名で頼まれたか、ゆっくり聞け」
男は連れていかれた。
白い布と油皿、札だけが残る。
春丸が見たら、きっと本当にお化けだと思うだろう。
伊織はその札を見つめた。
「若君に見せずに済んで、よかったです」
宗春が隣に立つ。
「怖かったか」
「札がですか」
「お化け」
伊織は首を横に振った。
「怖いのは、お化けではありません」
「何だ」
「人が、子どもの怖さを使うことです」
宗春は黙った。
それから、伊織の袖を軽く握る。
「帰るぞ」
「はい」
屋敷へ戻ると、春丸が待っていた。
「兄上! お化けいた?」
宗春は膝をつき、春丸へ向き合う。
「いなかった」
「ほんと?」
「いたのは、白い布と油の皿だ」
春丸は目を丸くした。
「布?」
「誰かが、山神さまのふりをさせようとしていた」
春丸は怒ったように頬を膨らませた。
「悪い大人!」
「そうだ」
伊織が静かに言う。
「若君がおっしゃる通りです」
春丸は伊織を見る。
「榊、怖くなかった?」
「少しだけ」
「えっ」
春丸は驚いた。
伊織は微笑む。
「若君を怖がらせた者に、少し腹が立ちました」
春丸はすぐ笑った。
「榊、怒ると怖そう」
「否定はいたしません」
宗春が肩を震わせる。
景継は胃を押さえた。
****
その夜。
宗春の部屋には、灯がほとんどなかった。
障子の向こうに、月の薄い明かり。
畳の上に、淡い影。
伊織は部屋へ入った瞬間、足を止めた。
「殿」
「うん」
「暗すぎます」
「お化けが怖くないのだろう」
「その話を夜まで引っ張らないでください」
「暗い方が、声が分かる」
伊織の胸が鳴った。
宗春は部屋の奥に座っている。
灯が少ないせいで、表情はよく見えない。
声だけが近い。
「伊織」
「はい」
「こっちへ」
伊織は一歩進む。
暗がりの中では、宗春の手の位置が分かりにくい。
それが妙に不安で、妙に落ち着かない。
宗春の手が、伊織の袖を掴んだ。
「っ」
「怖い?」
「怖くありません」
「では、震えたのは」
「暗いので」
「うん」
「手の場所が分からなかっただけです」
「なら、声で呼べ」
伊織は黙った。
昼の春丸の言葉が蘇る。
お化けいた?
怖くなかった?
伊織はお化けが怖いわけではない。
怖いのは、見えないところから名を探られること。
水の音がする穴。
知らないはずの者が知っている言葉。
白い布で神のふりをさせる人の手。
宗春は伊織の手を取る。
「怖い時は、呼べと言った」
「……はい」
「今は?」
伊織は目を伏せる。
「宗春さま」
「うん」
たったそれだけで、暗がりの形が変わった。
宗春は伊織を横へ座らせる。
背中ではない。
正面でもない。
横向きに寝かせ、同じ向きで後ろから寄り添う。
耳元に宗春の息が落ちる。
「今夜は、声だけでいい」
「声だけ、とは」
「見えにくい分、呼べ」
伊織の喉が鳴る。
宗春の手が帯をほどく。
布が暗い畳へ落ちる音だけが聞こえた。
「殿」
「宗春」
「……宗春さま」
「うん」
宗春の手が、伊織の腰を抱く。
横向きのまま、体がぴたりと重なる。
「嫌なら」
「言わないでください」
「うん」
「嫌では、ありません」
「では、呼べ」
伊織は目を閉じた。
暗い。
だからこそ、宗春の声が近い。
「宗春さま」
「いる」
その返事に、伊織の体から少し力が抜けた。
宗春は暗がりの中で伊織の名を呼びながら、横向きの体へ深くあてがう。
「っ、あ……っ♡」
宗春の腕が、伊織の腹のあたりを支える。
横向きのまま、逃げる場所はない。
背中に宗春の胸。
耳元に声。
前には薄い闇。
「怖いか」
「怖く……っ、ありません……っ」
「では、呼べ」
「宗春さま……っ」
「うん」
宗春がゆっくり動く。
横向きの体が、布団の中で小さく擦れる。
奥へ届く熱に、伊織の指が布を掴んだ。
「っ、あんっ♡」
「いい声だ」
「評価は……っ、不要……っ」
「見えない分、よく聞こえる」
「聞かないで……っ」
「聞く」
宗春の息が耳元へ触れる。
「伊織」
「はい……っ」
「昼、怖いのはお化けではないと言ったな」
「はい……っ」
「今は、何が怖い」
伊織は答えようとして、声が詰まった。
宗春が深く動く。
「っ、あっ♡」
「言えるか」
「見えないところから……っ」
「うん」
「名を、探られること……っ」
「うん」
「知らない穴の、水の音が……っ、近づくこと……っ」
宗春の腕が強くなる。
「今は、ここだ」
「はい……っ」
「俺の声だけ聞け」
「はい……っ」
「伊織」
その名が耳元に落ちる。
伊織の体が震えた。
「宗春さま……っ」
「うん」
「呼ばれると……っ」
「うん」
「戻ってこられます……っ」
宗春の動きが一瞬だけ乱れた。
「それは、いいな」
「何が……っ」
「俺が伊織を戻せる」
「殿は……っ、すぐ……っ」
「宗春」
「宗春さま……っ、あんっ♡」
宗春が横向きのまま、奥まで届かせる。
伊織の声が暗がりでほどけた。
「もっと呼ぶか」
「聞かないで……っ」
「呼んでほしい?」
伊織は唇を噛んだ。
暗い。
表情が隠れる。
だから、言えてしまう。
「……呼んで、ください……っ」
宗春の息が熱くなる。
「伊織」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ、あっ♡」
「怖い時も、欲しい時も、俺を呼べ」
「同じに……っ、しないで……っ」
「今は同じだ」
「違います……っ」
宗春がゆっくり深く突き上げる。
「っ、あんっ♡」
「違う?」
「違わ……っ、ない……っ」
伊織は自分の声に震えた。
怖い時に呼ぶ名。
欲しい時に呼ぶ名。
どちらも、もう同じになっている。
「宗春さま……っ」
「いる」
「見えない……っ」
「声で分かるだろう」
「はい……っ」
「触れている」
「はい……っ」
「ここにいる」
「はい……っ」
宗春の手が伊織の手を包む。
暗がりで、指が絡む。
そのまま腰が深く動いた。
「っ、あっ♡ 宗春さま……っ」
「うん」
「深い……っ」
「暗いと、よく分かるか」
「言わないで……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「今夜は、声だけで捕まえる」
伊織の胸が震えた。
「捕まって……っ、ます……っ」
「よく言えた」
「もう……っ」
「だめか?」
「聞かないで……っ」
「では呼べ」
「宗春さま……っ」
「もう一度」
「宗春さま……っ」
「もっと」
「宗春さま……っ、怖くない……っ、でも……っ」
「でも?」
「声が近すぎて……っ、だめ……っ」
宗春の息が乱れた。
「伊織」
「はい……っ」
「俺で、だめになれ」
「そんな……っ」
宗春が奥まで深く届かせる。
伊織の声が大きく崩れた。
「っ、あっ♡」
「呼べ」
「宗春さま……っ」
「うん」
「声で……っ、戻して……っ」
「戻す」
「でも……っ、今は……っ」
「うん」
「戻らなくても……っ、いい……っ」
宗春の腕が震えるほど強くなる。
「伊織」
「はい……っ」
「それは、ずるい」
「殿の……っ、方が……っ」
「宗春」
「宗春さま……っ、もう……っ」
「来るか」
「聞かないで……っ」
「呼んで」
伊織は宗春の手を握りしめた。
「宗春さま……っ」
「うん」
「暗くても……っ、声があるから……っ」
「うん」
「怖くない……っ、いって、しま……っ♡♡」
伊織の体が、横向きのまま宗春の腕の中で震えた。
宗春はすぐには動かなかった。
暗がりで迷わないように、耳元で何度も名を呼ぶ。
「伊織」
「……はい」
「伊織」
「はい……っ」
「ここだ」
「……はい」
伊織は荒い息を整えながら、宗春の手を離さなかった。
夜の闇は、まだ部屋にある。
けれど、もうお化けの闇ではなかった。
「……殿」
「宗春」
「……宗春さま」
「うん」
「今夜のことは」
「お化けのせいか?」
伊織は少しだけ黙った。
それから、小さく首を横に振る。
「宗春さまの声のせいです」
宗春の腕が止まった。
伊織は言ってしまったことに気づく。
「今のは」
「聞いた」
「忘れてください」
「無理だ」
「では」
「大事にする」
伊織は黙った。
大事にする。
その言い方なら、なぜか拒めなかった。
「……はい」
宗春は伊織を横向きに抱いたまま、髪を撫でる。
「怖い時は呼べ」
「はい」
「暗い時も」
「はい」
「俺が見つける」
伊織は目を閉じた。
見つける。
その言葉は、怖くもあり、少しだけ嬉しくもあった。
****
翌朝。
春丸は奥座敷へ駆け込んできた。
「兄上! お化け、もう出ない?」
宗春は笑って答えた。
「出ない」
「白い布?」
「白い布」
「油の皿?」
「そうだ」
春丸は胸を張った。
「春丸、もう怖くない」
伊織が膝をつく。
「それは立派でございます」
「でも、暗いところは一人で行かない」
「それが一番です」
春丸は満足そうに頷いた。
「怖い時は、呼ぶ!」
伊織の手が一瞬だけ止まった。
宗春がそれを見ている。
「誰を呼ぶのですか」
伊織が尋ねる。
春丸は元気よく答えた。
「兄上!」
宗春が笑う。
「よし」
春丸は伊織を見た。
「榊は?」
伊織は返事に詰まった。
景継が咳払いをした。
直澄は目を閉じている。
宗春は、何も言わずに待っている。
伊織は少しだけ目を伏せた。
「……私も、必要な時は殿をお呼びします」
春丸は嬉しそうに笑った。
「一緒!」
「はい」
宗春は、それだけで満足したようだった。
その後、直澄は昨夜捕らえた男の聞き取りを景継へ伝えた。
松浜の名は出た。
だが、指示した者の顔は見ていない。
絵を渡され、札と布を置けと言われただけ。
水の音がする穴という言葉だけが、妙に生々しく残った。
景継は低く言う。
「旧坑道と霧川の水か」
直澄が頷く。
「はい」
「鳥居の筋か、松浜の名を借りた別筋か」
「まだ、断定できません」
景継は帳面を閉じた。
「断定するな。だが、備えろ」
「承知しました」
****
奥座敷では、春丸が独楽を回していた。
伊織はそれを見守る。
宗春は、伊織のすぐそばにいた。
暗がりではない。
朝の光の中だ。
それでも宗春が低く呼ぶ。
「伊織」
伊織は、すぐ答えた。
「はい」
その返事は、昨日までより少しだけ早かった。
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