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第11話 歌舞伎と、本音の台詞
「伊織」
「はい」
「芝居を見に行く」
伊織は、今度こそ驚かなかった。
団子。
うなぎ。
湯屋。
火消し。
寺子屋。
穴子寿司。
相撲。
若君の市。
吉原。
ここまで来れば、宗春が次に何を言い出しても、多少は受け止められる。
そう思っていた。
「歌舞伎でございますか」
「そうだ」
「殿のご趣味ですか」
「好きだ」
「では、お一人で」
「伊織と見たい」
やはり、受け止めきれなかった。
咲霧藩上屋敷の朝。
宗春はいつも通り楽しげで、伊織はいつも通り一歩引いている。
だが、今日は景継も直澄も少しだけ硬かった。
伊織はそれに気づく。
「ただの芝居見物ではございませんね」
宗春が笑う。
「伊織は察しがいい」
「殿が毎度、ただの見物にしないからです」
「芝居はただ見ても面白いぞ」
「その言い方ですと、ただ見るだけではないと認めておられます」
宗春は扇で口元を隠した。
「やはり察しがいい」
景継が低く咳払いをした。
「葵座にて、近頃妙な札が回っております」
「妙な札?」
伊織が問う。
直澄が答える。
「若殿が身分を隠し、芝居小屋へ逃れていた、という筋立ての狂言が評判になっております」
伊織の指が止まる。
宗春は何も言わない。
景継は続けた。
「芝居そのものは作り話です。ですが、客席でその狂言にかこつけ、咲霧様の小姓について探る者がいると」
「また、私ですか」
伊織は静かに言った。
「榊の名が、少々目立っております」
直澄の声は慎重だった。
「どちらの榊か。なぜ咲霧様がそばに置くのか。そういう囁きが」
伊織は目を伏せた。
榊伊織。
仮の名。
それを隠すために、ここへ来た。
だが、隠すほど、名は形を持つ。
宗春が伊織を見る。
「来るか」
「私が行けば、なお目立つのでは」
「隠せば、向こうが勝手に書く」
「芝居のように?」
「そうだ」
宗春は声を落とした。
「なら、俺の隣で見せる」
伊織は返事に困った。
宗春の隣。
それは隠れ場所ではない。
だが、吉原の格子の向こうへ置かれるよりは、ずっと息がしやすい。
「……承知しました」
宗春が少しだけ笑う。
「素直だ」
「職務です」
「今日はそれでよし」
「今日も、では」
「夜に聞き直す」
伊織はため息をついた。
景継は胃を押さえた。
****
昼過ぎ。
葵座の前は、人であふれていた。
幟が立ち、役者の名が書かれた札が並び、芝居茶屋の者たちが客をさばいている。
伊織は華やかな声の渦に圧倒されながらも、宗春のすぐ後ろに控えた。
「固い」
宗春が囁く。
「芝居小屋ですので」
「芝居小屋だから、少し緩めろ」
「人が多い場所ほど、緩められません」
「伊織らしい」
「評価は不要です」
直澄は入口近くで周囲を見ていた。
景継は別の客席へ回り、葵座の座元と短く話している。
宗春は伊織を連れて、二階の席へ入った。
舞台がよく見える。
同時に、客席も見渡せる。
伊織はそれに気づいた。
「殿」
「うん」
「この席は、芝居を見るためだけではありませんね」
「よく見えるだろう」
「舞台も、人も」
「そういう席だ」
宗春は茶を手に取る。
「伊織は舞台を見ろ。人は俺と直澄が見る」
「私も」
「舞台を見ろ」
その声が、少しだけ強い。
伊織は反論を飲み込んだ。
****
幕が上がる。
太鼓と三味線。
役者の声。
大仰な身振り。
最初は、伊織には少し大げさに見えた。
だが、見ているうちに分かってくる。
大げさだからこそ、遠くの客にも届く。
嘘の形を借りているからこそ、本当の感情が見える時がある。
舞台では、身分を隠した若殿が、町人として暮らしていた。
名を変え、着物を変え、言葉を変え、ひたすら正体を隠す。
だが、困った町人を放っておけず、つい本来の育ちが出てしまう。
客席が笑う。
伊織は笑えなかった。
宗春は舞台を見たまま、低く言う。
「どうだ」
「……芝居です」
「うん」
「作り話です」
「うん」
「それだけです」
宗春はそれ以上、問わなかった。
舞台の若殿は、親しい町娘に名を問われる。
本当の名を言えず、仮の名を口にする。
けれど、その声だけが少し震える。
伊織の指が、膝の上で小さく握られた。
その時、客席の端で黒衣が動いた。
舞台の黒衣ではない。
客の間を縫うように、黒衣姿の男が通る。
芝居小屋では珍しくない姿だ。
だが、その男は舞台ではなく、宗春の席の近くへ来た。
伊織が気づいた時には、男は小さな紙片を畳の上へ落としていた。
直澄がすぐ拾う。
宗春は舞台を見たまま、紙を受け取った。
開く。
短い字。
榊の名、どこより出づる。
伊織の喉が、静かに鳴った。
宗春は紙を閉じた。
「芝居が下手だな」
「殿」
「黒衣は舞台を支えるものだ。客席で目立ってどうする」
伊織は宗春の横顔を見た。
宗春は笑っている。
だが、目は笑っていない。
直澄は黒衣の動きを追おうとしたが、宗春が小さく止めた。
「追うな」
「よろしいのですか」
「ここで騒げば、相手の台本通りだ」
台本。
伊織はその言葉に、また胸が揺れた。
自分にも台本がある。
本当の小姓になりきれ。
連絡が来るまで、名を隠せ。
夜伽も小姓として自然に受け入れろ。
そう命じられた。
伊織は、その役を演じている。
だが、いつからか、その台本にない言葉を言うようになっていた。
離れないで。
宗春さまの方へ行きます。
選びます。
そのどれもが、台本にはない。
舞台では、若殿が仮の名のまま、人を守る場面になっていた。
客席は沸く。
宗春は紙片を懐へしまう。
伊織は小さく言った。
「殿」
「うん」
「私の名は、榊伊織です」
「知っている」
「今は」
宗春の目が、伊織へ向く。
伊織は続けられなかった。
今は。
では、いつかは。
その先はまだ言えない。
宗春は静かに言った。
「今は、それでいい」
伊織の胸が、ひどく熱くなった。
****
幕間。
葵座の座元が、宗春へ挨拶に来た。
その後ろに、先ほどの黒衣はいない。
代わりに、若い役者が一人、膝をついて頭を下げた。
舞台で若殿を演じていた役者だった。
化粧を落としきっていない目元に、まだ役の色が残っている。
「咲霧様、本日は恐れ多く」
「いい芝居だった」
「ありがとうございます」
役者はちらりと伊織を見た。
「そちらの小姓様は、あまり笑われませんでしたな」
伊織は一礼する。
「胸に迫る場が多くございました」
役者の目が少しだけやわらいだ。
「それは、ありがたいことで」
宗春が言う。
「仮の名の若殿、か」
役者は苦笑した。
「芝居でございます」
「本当の名を言えない役は、難しいか」
役者は少し考えた。
「難しゅうございます。ですが、本当の名を言えぬ者ほど、誰に呼ばれたいかはよく分かる気がいたします」
伊織の息が止まった。
宗春も黙る。
役者はそれ以上踏み込まず、頭を下げた。
「失礼いたしました」
座元が慌てて役者を下がらせる。
だが、伊織は忘れられなかった。
誰に呼ばれたいか。
****
帰り道。
伊織は、いつもよりずっと静かだった。
宗春も急かさない。
人混みを抜け、芝の通りへ出る。
夕暮れの色が、町の屋根に落ちていた。
「伊織」
「はい」
「怖かったか」
「紙片は、不快でした」
「それだけ?」
伊織は少し黙った。
「芝居が、少し」
「うん」
「胸に残りました」
「仮の名の若殿か」
「はい」
宗春は歩みを緩める。
「伊織」
「はい」
「俺は、台本を書き換える気はない」
伊織が宗春を見る。
宗春は前を向いたままだ。
「お前の役を、勝手に剥がすつもりもない」
「……はい」
「ただ、台本にないことを言いたくなったら、俺に言え」
伊織は返事ができなかった。
宗春は、それ以上求めなかった。
****
屋敷へ戻ると、景継がすぐに紙片を確認した。
「榊の名、どこより出づる」
景継の眉間が深くなる。
「鳥居の筋か」
直澄が答える。
「黒衣の動きは、芝居小屋に慣れた者でした。鳥居の者か、雇われた者かは断定できません」
「松浜は」
「座敷の端に、松浜藩の使番と似た男がおりました。ただし、三浦本人ではございません」
景継は紙片を閉じた。
「名を探りに来たか」
伊織は静かに頭を下げた。
「申し訳ございません」
景継が伊織を見る。
「榊殿が謝ることではない」
伊織は少し驚いた。
景継はすぐに目を逸らす。
「咲霧の屋敷へ置いている者の名を探られるのは、屋敷の守りの問題です」
宗春が笑う。
「景継」
「何でございます」
「少し優しくなったな」
「なっておりません」
「なった」
「なっておりません」
伊織は、そのやり取りに少しだけ息が抜けた。
直澄は、必要なことだけを帳面にまとめた。
黒衣。
紙片。
榊の名。
松浜らしき男。
鳥居の可能性。
****
夜。
宗春の部屋には、葵座の番付が置かれていた。
伊織はそれを見て、足を止める。
「殿」
「うん」
「なぜ番付が」
「持って帰った」
「なぜですか」
「今夜の台本にする」
伊織は眉を寄せた。
「今すぐ処分してください」
「嫌だ」
「芝居は昼で終わりました」
「夜の幕がまだだ」
「その言い方はよくありません」
「では、別の言い方にする」
宗春は番付を閉じた。
「本音を聞きたい」
伊織の胸が鳴った。
「……何の」
「伊織の」
「私は、いつも本音を」
「言っていない」
宗春は立ち上がり、伊織の前へ来る。
「今日は台本が多かった」
「芝居ですから」
「芝居小屋の台本。黒衣の台本。お前に渡された台本」
伊織の指が震えた。
宗春はそれを見て、声を低くする。
「無理に剥がさない」
「……はい」
「ただ、今夜は役を降りろ」
伊織は息を詰める。
役を降りる。
小姓として。
仮の名として。
命じられた通りに振る舞う者として。
「それは」
「全部でなくていい」
宗春は伊織の手を取る。
「一言だけ、本音を言え」
伊織は目を伏せた。
「……怖かったです」
宗春の手が強くなる。
伊織は続ける。
「名を問われることが」
「うん」
「芝居の若殿が、仮の名を言うたびに」
「うん」
「胸が、詰まりました」
宗春は、からかわなかった。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「今日は褒める」
伊織の目元が揺れる。
宗春は伊織を布団へ導いた。
「今夜は、枕に言え」
「何を」
「台本にない声」
「殿」
「俺にも聞かせろ」
宗春は伊織をうつ伏せに寝かせた。
伊織は慌てて身を起こそうとする。
「この体勢は」
「隠したい時は、枕に落とせ」
「余計に」
「俺は聞く」
「聞くなら、意味が」
「伊織が言いやすい方でいい」
伊織は黙った。
うつ伏せ。
枕。
表情を見られない。
それだけで、少しだけ本音が出そうになる。
宗春の手が、伊織の背をゆっくり撫でた。
「嫌なら」
「……嫌では、ありません」
「では、続ける」
宗春は伊織の帯をほどいた。
衣がゆるみ、背に夜気が触れる。
宗春の手が、伊織の腰へ移った。
「伊織」
「はい」
「台本は?」
伊織は枕に額を寄せたまま、答える。
「……ありません」
「役は?」
「少しだけ、降ります」
宗春の息が熱くなる。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「無理だ」
宗春は台本にない声を引き出すように、うつ伏せの伊織に深く奥まで沈める。
その瞬間、伊織の声が枕へ落ちる。
「っ、あ……っ♡」
布が声を吸う。
だが、宗春には届いている。
「聞こえた」
「聞かないで……っ」
「聞く」
「枕に……っ」
「落としていい」
宗春がゆっくり動く。
うつ伏せのまま、伊織の腰が少し持ち上げられる。
背から腰へ熱が走り、奥まで届く。
「っ、あんっ♡」
「いい声だ」
「評価は……っ、不要……っ」
「台詞じゃないな」
「何が……っ」
「今の声」
伊織は枕を掴んだ。
「言わないで……っ」
宗春の手が、伊織の腰を抱え直す。
「昼の若殿は、仮の名を言った」
「はい……っ」
「今夜の伊織は?」
伊織は息を震わせた。
「榊……伊織、です……っ」
「うん」
「今は……っ」
「うん」
「宗春さまに……呼ばれたい名です……っ」
宗春の動きが一瞬止まった。
すぐに、深く抱き直される。
「伊織」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ、あっ♡」
「何度でも呼ぶ」
伊織の胸が崩れそうになる。
表情を見られていないから、余計に声が出る。
「宗春さま……っ」
「うん」
「呼ばれると……っ」
「うん」
「少し、楽に……っ」
「なる?」
「なります……っ」
宗春の腰が深くなる。
伊織の声が枕に沈む。
「っ、あんっ♡」
「枕に隠すな」
「隠して……っ、ません……っ」
「もっと聞かせろ」
「無理……っ」
「本音で」
伊織は枕を握りしめる。
昼の役者の声が蘇る。
誰に呼ばれたいか。
答えは、もう分かっている。
「宗春さまに……っ」
「うん」
「呼ばれたい……っ」
宗春の息が乱れた。
「よく言えた」
「もう……っ、褒めないで……っ」
「無理だ」
宗春が奥まで届くように突き上げる。
伊織の背が震えた。
「っ、あっ♡」
「台本にないな」
「言わないで……っ」
「今のも、本音だ」
「違……っ」
宗春が深く動く。
「っ、あんっ♡ 違わ……ない……っ」
言ってしまった。
伊織は枕へ顔を押しつける。
「伊織」
「はい……っ」
「今夜は、よく言えるな」
「この体勢のせいです……っ」
「では、よかった」
「よくありません……っ」
「もっと言え」
「殿は……っ、いつも……っ」
「うん」
「ずるい……っ」
「それは聞いた」
「ずるくて……っ、優しい……っ♡」
宗春の手が、伊織の腰を強く抱いた。
「伊織」
「はい……っ」
「それは初めて聞いた」
「忘れて……っ」
「無理だ」
宗春は、うつ伏せの伊織を背後から深く抱き込む。
枕へ落ちる声を拾い上げるように、何度も奥へ届かせる。
「宗春さま……っ」
「うん」
「もう……っ」
「幕を下ろすか」
「言い方……っ」
「終わりにする?」
伊織は首を横に振った。
枕に擦れる髪が乱れる。
「終わらないで……っ」
宗春の息が熱くなる。
「本音だな」
「はい……っ」
「もう一度」
「終わらないで……っ」
「何を」
「今夜を……っ」
宗春の腕が震えるほど強くなった。
「伊織」
「はい……っ」
「それは、ずるい」
「殿の方が……っ」
「うん」
「いつも……ずるい……っ」
宗春が深く突き上げる。
伊織の声が甘く崩れる。
「っ、あんっ♡」
「もういきそうか」
「聞かないで……っ」
「台本に書いていないから、伊織が言え」
「無理……っ」
「伊織」
「宗春さま……っ」
「うん」
「呼んで……っ」
「伊織」
「もっと……っ」
「伊織」
「宗春さまに……っ、呼ばれながら……っ」
宗春の息が乱れた。
「うん」
「いって、しま……っ、伊織って……っ、呼んで……っ♡♡」
「伊織」
その声で、伊織の体が大きく震えた。
宗春はすぐには動かなかった。
枕に落ちた声が戻ってくるまで、うつ伏せの伊織を背後から支え続ける。
伊織は荒い息のまま、枕を掴んでいた。
「……殿」
「うん」
「今夜のことは」
「台本にない」
「はい」
「だから、誰にも見せない」
伊織は少しだけ息を吐いた。
宗春は伊織を横へ抱き直し、乱れた髪を撫でる。
「よく降りた」
「役を?」
「少しだけ」
伊織は目を閉じた。
「少しだけです」
「うん」
「全部は、まだ」
「分かっている」
宗春は伊織の額へ唇を寄せた。
「今夜は、伊織でいい」
伊織の目元が熱くなる。
「……はい」
「呼ぶぞ」
「はい」
「伊織」
伊織は、返事をしなかった。
代わりに、宗春の胸元へ額を寄せた。
それで十分だった。
****
翌朝。
直澄は葵座での一件を、必要な分だけ景継へ報告した。
黒衣。
紙片。
榊の名を問う文。
松浜らしき男。
鳥居の筋の可能性。
景継は紙片を見て、低く言う。
「名を問うてきたか」
「はい」
「次は、名の出所を探る」
「その可能性が高いかと」
景継は紙片を閉じた。
「榊殿を外へ出す時は、供を厚くする」
直澄は少しだけ景継を見た。
「守りを、ですか」
「他に何がある」
景継はそっぽを向いた。
「殿の小姓を勝手に探られては、屋敷の面目に関わる」
「承知しました」
直澄はそれ以上、何も言わなかった。
****
奥座敷では、宗春が伊織を呼んでいた。
「伊織」
「はい」
「もう一度」
「何をですか」
「伊織」
「……はい」
「いい返事だ」
「朝から、名で遊ばないでください」
「遊んでいない」
「では何を」
「確かめている」
伊織は少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「私は、ここでは榊伊織です」
「うん」
「それだけです」
「今はな」
宗春は笑わなかった。
伊織は、その返しに少し救われた。
庭の向こうで、芝居小屋の太鼓の音が遠く聞こえた気がした。
幕は、まだ下りていない。
けれど伊織は、台本にない返事をひとつだけ覚えた。
宗春に名を呼ばれたら。
はい、と返せばいい。
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