10 / 16
第10話 吉原の格子と、青柳の袖
「伊織」
「はい」
「吉原へ行く」
伊織は、手にしていた文を落としかけた。
朝の咲霧藩上屋敷。
宗春は、いつものように軽い声で、いつも以上にとんでもないことを言った。
「……今、何と」
「吉原」
「殿」
「聞こえている」
「なぜ、私をお連れになるのですか」
「俺の小姓だから」
「小姓は、どこへでも同行するものではございません」
「では、今日は特別」
「なお悪いです」
宗春は楽しげに笑っている。
だが、その横に控える霧生景継は、まったく笑っていなかった。
青柳直澄も、いつもより静かだ。
伊織はその静けさに気づく。
ただの遊興ではない。
宗春がわざわざ自分を連れて行く時は、たいてい町の何かを見せるためだ。
そして今日、直澄の沈黙はいつもより重い。
「殿」
景継が低く言う。
「吉原へ向かわれるなら、供は表向き少なく。裏は増やします」
「頼む」
「鳥居玄蕃(とりい・げんば)の手の者が、近頃あのあたりにも出入りしているとの話がございます」
伊織の指がわずかに止まる。
鳥居玄蕃。
幕府監察役。
咲霧の鉄と、宗春の動きと、屋敷の小姓の所在を探る名。
幕府の中枢では、石堂主膳の一派と確執があるとも言われる。
宗春は扇を閉じた。
「鳥居本人か?」
「そこまでは」
直澄が答える。
「ただ、松浜の者と酒席を同じくした男がいると」
「吉原で鉄の話か」
宗春は少しだけ笑った。
「ほんとうに、どいつも無粋だな」
伊織は静かに頭を下げる。
「私は、控えております」
「来い」
「殿」
「伊織がいる方が、相手は余計なことを言う」
「餌にするおつもりですか」
宗春の目元が、ほんの少しだけ変わった。
「違う」
声が低い。
「俺のそばに置く」
伊織は返事を失った。
景継が咳払いをする。
「殿。その言い方では、榊殿がまた赤くなります」
「赤い?」
「霧生殿」
伊織が即座に制した。
直澄は帳面を閉じたまま、どこか遠くを見ているようだった。
****
昼下がり。
吉原の大門をくぐると、町の空気が変わった。
色が濃い。
音が近い。
香の匂い、衣擦れ、笑い声。
格子の向こうに並ぶ華やかな姿。
伊織は思わず足を止めそうになり、すぐに姿勢を整えた。
「固い」
宗春が囁く。
「当然です」
「見慣れない?」
「見慣れている方がおかしいです」
「伊織は真面目だな」
「場所を考えてください」
「考えている」
宗春の声は軽いが、目は周囲を見ている。
景継の手配した者が、遠くでさりげなく動いている。
直澄は一歩後ろ。
いつもより筆箱を持つ手が低い。
伊織はそれにも気づいた。
「青柳殿」
「はい」
「体調が優れませんか」
直澄は少しだけ目を伏せた。
「いいえ」
「では、緊張を」
「少し」
正直だった。
伊織はそれ以上を聞かなかった。
宗春がちらりと直澄を見た。
「行けるか」
「はい」
「無理なら言え」
「承知しております」
****
吉原の奥、酔月庵へ続く小路の手前。
宗春たちは、まず胡蝶太夫のいる座敷へ通された。
胡蝶。
名の通り、動きは軽く、衣は華やかだった。
白粉の奥にある目元は涼しく、笑えば花のように艶やかで、声を落とせば驚くほど低い。
伊織はその声で、初めて悟った。
女形。
男でありながら、誰よりも艶やかに花魁の形をまとう者。
胡蝶太夫は扇で口元を隠し、宗春へ一礼した。
「咲霧様。ようおいでなんし」
「邪魔する」
「邪魔など。今日は、えらく綺麗な小姓様をお連れで」
伊織は背筋を伸ばした。
「榊伊織と申します」
胡蝶はくすりと笑った。
「真面目なお方」
宗春が言う。
「そうだ。固い」
「殿」
「でも、よくほどける」
「場所を」
胡蝶の目元がさらに笑う。
直澄は、黙っていた。
伊織はその沈黙に気づく。
胡蝶も気づいている。
だが、触れない。
座敷に通されると、胡蝶は自ら酒を注ごうとした。
宗春は軽く手を上げる。
「酒はいい。今日は話だ」
「つまらぬお客」
「そう言うな」
「では、お茶を」
胡蝶は伊織の前にも茶を置いた。
その指先が、美しい所作で滑る。
伊織は礼を言った。
「ありがとうございます」
「小姓様は、吉原がお嫌い?」
「慣れておりません」
「嫌いではない?」
「ここで働く者を、軽んじる理由はございません」
胡蝶の目が、ほんの少し変わった。
「それはよいお言葉」
宗春は満足げに伊織を見た。
「だから連れてきた」
「殿」
直澄は、まだ黙っている。
胡蝶は彼へ向いた。
「青柳様は、お久しゅうございます」
「ご無沙汰しております」
直澄の声は、いつも通り丁寧だった。
ただ、わずかに硬い。
胡蝶は深く問わなかった。
「昔より、筆がお似合いになった」
「他に取り柄がありませんので」
「嘘」
短い一言だった。
直澄の手が止まる。
伊織はそこで、二人の間にあるものを感じた。
恋ではないと言い切るには熱が残りすぎている。
けれど、恋と呼ぶには、直澄があまりにも黙りすぎている。
胡蝶は宗春へ茶をすすめながら、声を低くした。
「鳥居様の筋の者が、昨夜こちらで松浜のお侍と会うておりました」
宗春の目が細くなる。
「名は」
「黒川、とは聞きました。兵庫かどうかまでは」
伊織は黙った。
黒川。
鳥居の配下。
今ここで深入りしてはいけない名だ。
胡蝶は続ける。
「話の中に、鳴瀬山、古い坑道、霧川の水、という言葉が少し」
景継がいれば、眉間を深くしただろう。
宗春は茶を置く。
「古い坑道か」
「噂として、でございます。けれど、噂は誰かが流すもの」
胡蝶は扇を閉じた。
「そして、吉原は噂が着物を着て歩く場所」
宗春が笑った。
「よく知っている」
「ここで生きておりますから」
伊織は、その言葉に少しだけ息を止めた。
胡蝶は華やかだ。
だが、ただ華やかなだけではない。
この場所で、何を聞き、何を流し、何を包むかを知っている。
直澄が、なぜ黙っているのか少し分かった気がした。
胡蝶は、直澄を一度だけ見た。
「青柳様」
「はい」
「あなたの筆は、暴くためだけのものではありんせん」
直澄の目がわずかに揺れる。
「……胡蝶太夫」
「守るために、墨へ落とさぬこともありましょう」
座敷に、一瞬だけ静けさが満ちた。
伊織は直澄を見た。
その沈黙が、ただの職務ではないことを、伊織は初めて知った。
宗春は何も言わなかった。
胡蝶も、そこで話を戻した。
「今夜、酔月庵へ行くなら、格子の外にいる男にお気をつけを。鳥居の者か、鳥居の名を借りた者か、そこまでは分かりんせん」
「十分だ」
宗春は立ち上がる。
「礼を言う」
「礼なら、青柳様から聞きとうございます」
直澄の喉が、わずかに動いた。
「……助かりました」
胡蝶は少しだけ笑った。
「それだけ?」
「はい」
「相変わらず」
直澄は頭を下げる。
「お元気そうで、何よりです」
胡蝶の笑みが、ほんの一瞬だけ寂しくなった。
「ええ。元気でございます」
それ以上は、誰も踏み込まなかった。
****
座敷を出る時、伊織は宗春の後を追いかけようとして、ふと足を止めた。
胡蝶太夫が、直澄の袖を指先で掴んでいた。
「どうして、遊びに来てくれないの?」
声は軽い。
けれど、目だけは笑っていない。
直澄は困ったように目を伏せた。
「今のあなたは、もう昔とは違います」
「そんなこと。私の中では、今も昔のまま」
「胡蝶」
「他に、いい人が?」
「そんなわけがありません」
胡蝶の指が、袖をほんの少し強く握った。
「だったら」
直澄は長く黙り、それから小さく息を吐いた。
「……善処します」
胡蝶は、ようやく笑った。
「はい」
伊織は何も聞かなかったことにして、静かに宗春の後を追った。
ただ、直澄がいつもより少しだけ人らしく見えた。
****
座敷を出たあと、伊織は直澄の隣へ並んだ。
「青柳殿」
「はい」
「先ほどのことは、伺いません」
直澄は少しだけ驚いたように伊織を見た。
「なぜ」
「聞かれたくないことは、人により違います」
直澄は黙った。
伊織は続ける。
「ですが、必要な時は、宗春さまをお守りするために使ってください」
直澄の目が静かに定まった。
「承知しました」
****
酔月庵の手前。
格子の多い小路に、ひとりの男が立っていた。
商人風。
だが、足の置き方が町人ではない。
宗春は伊織を自分の後ろへ寄せる。
「下がれ」
「はい」
今回は逆らわない。
伊織は春丸の時とは違い、相手の目的が自分に向く可能性を分かっていた。
男は軽く会釈した。
「咲霧様。今宵はよい月で」
「曇っている」
宗春は即答した。
男は笑う。
「これは失礼。吉原の灯は、月より明るいので」
「用は」
「いえ。ただ、近頃江戸では、咲霧の殿がずいぶんと小姓を大事にしていると噂で」
伊織は黙った。
宗春の肩が、ほんの少しだけ動く。
「俺の小姓だ」
「ええ。榊伊織様、でしたか。どちらの榊でございましょうな」
直澄の手が、筆箱に触れる。
宗春は笑った。
「小姓の家筋を吉原の小路で問うとは、風流の欠片もないな」
「これは失礼」
男は引いた。
引いたように見えた。
だが、最後に一言だけ落とす。
「鳥居様も、御興味がおありのようで」
宗春の声が低くなる。
「鳥居に伝えろ」
男が待つ。
宗春は笑った。
「俺の小姓に手を伸ばすなら、まず俺に挨拶しろと」
男の笑みが消えた。
すぐに戻る。
「承りました」
男は去った。
宗春はしばらく動かなかった。
伊織も、直澄も。
やがて、宗春が伊織へ向く。
「大丈夫か」
「はい」
「怖かったか」
「いいえ」
「嘘だな」
伊織は黙った。
宗春はそれ以上、外で問わない。
ただ、伊織の袖を一瞬だけ握った。
それで十分だった。
屋敷へ戻る道中、直澄は一言も発しなかった。
宗春も、からかわなかった。
吉原の灯が遠ざかる。
格子の影だけが、伊織の目の奥に残っていた。
****
夜。
宗春の部屋には、灯が細く落とされていた。
障子の桟が、畳に格子のような影を作っている。
伊織はそれを見て、昼の小路を思い出した。
吉原の格子。
胡蝶の低い声。
直澄の沈黙。
袖を掴んだ指。
黒川の名。
鳥居の気配。
自分の名を問う男。
「伊織」
宗春の声が背後からした。
「はい」
「まだ固い」
「通常通りです」
「嘘だ」
宗春は伊織の後ろに立った。
湯屋の夜とは違う。
あの時は、熱を冷ますふりだった。
今夜は、格子の影から連れ出すような近さだった。
宗春の腕が、背後から伊織を包む。
「殿」
「うん」
「平気です」
「平気なら、震えるな」
伊織は自分の指先が震えていたことに、そこで気づいた。
「……少しだけです」
「うん」
「鳥居の名が出たので」
「うん」
「私の名を、問われたので」
「うん」
宗春は何も急かさない。
ただ、背中から抱いたまま、伊織の手を自分の手で包んだ。
「格子の向こうに置かれている気がしました」
伊織はぽつりと言った。
「こちらから見られているのか、向こうから値踏みされているのか、分からない場所に」
宗春の腕が強くなる。
「連れ出す」
「どこへ」
「俺の腕の中へ」
伊織の息が揺れた。
「それは」
「嫌か」
伊織は首を横に振った。
「嫌では、ありません」
「言葉で」
伊織は目を伏せる。
「連れ出してください」
宗春の息が、静かに熱を帯びた。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「無理だ」
宗春は伊織の帯をほどいた。
衣の合わせ目がゆるむ。
畳の上には、格子の影。
その影を踏み越えるように、宗春は伊織を布団へ導いた。
背後から抱いたまま、横へ倒すのではない。
伊織の手を取り、格子の影の外へ移す。
「ここ」
「はい」
「俺の方へ」
伊織は、わずかに身を寄せた。
宗春はその背を抱き、後ろから深く奥まで重なった。
「っ、あ……っ♡」
伊織の声が灯の下でほどける。
宗春の腕が、格子の影から伊織を守るように腰を抱いた。
背中に宗春の胸。
耳元に息。
前には、灯の薄い影。
「怖いか」
「怖く……っ、ありません……っ」
「では、震えているのは?」
「宗春さまの……っ、せいです……っ」
「よく言えた」
「褒めないで……っ」
宗春が背後からゆっくり突き上げる。
伊織の体が前へ揺れ、すぐ腕の中へ戻される。
畳に落ちた格子の影が、揺れたように見えた。
「っ、あんっ♡」
「ここにいろ」
「はい……っ」
「格子の向こうへは行かせない」
「はい……っ」
「俺の方を選んだな」
「選び……っ、ました……っ」
宗春の動きが深くなる。
伊織は宗春の腕を掴んだ。
「殿……っ」
「宗春」
伊織の息が止まる。
「今夜は、そう呼べ」
「宗春、さま……っ」
「うん」
「近い……っ」
「連れ出したからな」
「連れ出すというより……っ、閉じ込めて……っ」
「嫌か」
「嫌では……っ、ありません……っ」
宗春の腰が、奥まで届くように動いた。
伊織の声が甘く崩れる。
「っ、あっ♡」
「では、何だ」
「守られて……っ、いる……っ」
宗春の息が乱れた。
「伊織」
「はい……っ」
「それを言われると、俺が保たない」
「殿が……っ、聞いたのです……っ」
「そうだな」
宗春は伊織の腰を抱え直し、背後からさらに深く突き上げた。
伊織の手が布を掴む。
「宗春さま……っ」
「うん」
「格子が……っ」
「見なくていい」
「影が……っ」
「俺を呼べ」
「宗春さま……っ」
宗春の手が伊織の手を包み、畳に押さえた。
強くではない。
格子の影から、指先まで連れ出すように。
「ここにいる」
「はい……っ」
「俺の腕の中だ」
「はい……っ」
「誰の名を聞かれても、今夜は伊織だ」
伊織の胸が震えた。
榊伊織。
仮の名。
それでも、宗春が呼ぶと、この名にも居場所ができる。
「宗春さま……っ」
「うん」
「今夜は……っ」
「うん」
「伊織で……いさせて……っ」
宗春の動きが一瞬だけ止まりかけた。
すぐに、深く抱き直される。
「いる」
「はい……っ」
「俺がそう呼ぶ」
「はい……っ」
宗春の腰が強くなる。
伊織は声を隠せなくなった。
「っ、あんっ♡ 宗春さま……っ」
「うん」
「奥まで……っ」
「戻れない?」
「戻らない……っ」
宗春の息が熱く落ちる。
「よく言えた」
「もう……っ」
「いきそうか」
「聞かないで……っ」
「格子の向こうへ戻るか」
「戻りません……っ」
「俺の方へ?」
「宗春さまの、方へ……っ」
「最後まで?」
伊織は涙ぐみそうになりながら、宗春の手を握った。
「最後まで……っ、連れていって……っ」
宗春の腕が強くなる。
「連れていく」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「俺を選べ」
その言葉は重い。
けれど、今夜の伊織は答えられた。
「選び……ます……っ」
宗春が奥まで深く届かせる。
伊織の声が、格子の影の外で甘くほどけた。
「宗春さまを……っ、選びます……っ、いって、しま……っ♡♡」
伊織の体が、宗春の腕の中で震えた。
宗春はすぐには動かなかった。
格子の影へ戻さないように、背後から抱き続ける。
伊織は荒い息のまま、宗春の腕に額を寄せた。
「……殿」
「うん」
「今のは」
「聞いた」
「忘れてください」
「無理だ」
「では」
「誰にも渡さない」
伊織の目元が揺れた。
「渡さない?」
「俺の中にだけ置く」
伊織は黙った。
それなら、少しだけ息ができる。
「……はい」
「伊織」
「はい」
「怖かったら、俺を呼べ」
「はい」
「選べない時も、俺を呼べ」
伊織は宗春の腕の中で、少しだけ体を預けた。
「宗春さま」
「うん」
「今は、ここがいいです」
宗春は、からかわなかった。
ただ、伊織を抱く腕を深くした。
****
翌朝。
直澄は、吉原で受け取った名を景継へ伝えた。
黒川。
鳥居。
松浜。
古い坑道。
霧川の水。
必要な言葉だけ。
胡蝶太夫の声も、直澄自身の沈黙も、帳面には載せない。
景継は険しい表情で聞いていた。
「鳥居本人か」
「断定はできません」
「鳥居の名を借りた別筋の可能性もあるか」
「はい」
景継はしばらく考えた。
「胡蝶太夫の名は出すな」
直澄の手が止まる。
「承知しました」
「情報の出どころを守る」
「はい」
景継は直澄を見た。
「……それでよいな」
直澄は深く頭を下げた。
「はい」
****
奥座敷では、宗春が伊織に茶を出していた。
「眠れたか」
「はい」
「嘘だな」
「少しは眠りました」
「なら、今日は近くにいろ」
「職務として」
「うん」
「殿が、その返しを受け入れるのは珍しいですね」
宗春は笑った。
「今朝は、それでいい」
伊織は茶を受け取った。
障子の桟が、朝の光で畳に薄い影を落としている。
夜の格子とは違う。
それでも伊織は、一瞬だけ息を止めた。
宗春がすぐ気づく。
「伊織」
「はい」
「こっちへ」
伊織は反論しなかった。
宗春のそばへ、一歩寄る。
ただそれだけで、朝の影はただの障子の影に戻った。
直澄は帳面を閉じ、静かに景継の後ろへ下がった。
吉原の灯は遠い。
けれど、そこで受け取った名は、咲霧の屋敷の奥で静かに重くなっていた。
ともだちにシェアしよう!

