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第9話 若君春丸と、膝の場所

「兄上の膝の人?」 その一言で、奥座敷の空気が止まった。 咲霧藩上屋敷の朝。 宗春は、いつものように伊織を近くへ呼ぼうとしていた。 伊織は、いつものように一歩引いていた。 景継は、いつものように胃を押さえる準備をしていた。 直澄は、いつものように静かに様子を伺う。 そこへ、小さな足音が駆け込んできたのである。 咲霧春丸(さききり・はるまる) 宗春の弟で、咲霧の若君。 まだ幼さの残る目で、宗春と伊織を交互に見ている。 伊織は即座に頭を下げた。 「榊伊織と申します」 春丸は伊織の前まで来て、首をかしげた。 「榊?」 「はい」 「兄上の膝の人?」 「違います」 伊織は即答した。 宗春は笑った。 「合っている」 「合っておりません」 春丸はぱっと宗春を見た。 「兄上、膝、貸したの?」 「貸した」 「ずるい!」 春丸は宗春の前へ走り、両手を広げた。 「春丸も!」 宗春の表情が一瞬でやわらかくなる。 「来い」 春丸は迷わず宗春の膝へ飛び込んだ。 伊織は少し離れて控える。 当然だ。 若君の場所である。 自分が近づく理由はない。 だが、春丸は宗春の膝に座ったまま、伊織をじっと見た。 「榊は、いつも兄上の膝にいるの?」 「おりません」 「でも、みんな言ってた」 「どなたが」 春丸は指を折って数え始めた。 「台所の人と、門の人と、亀爺」 伊織は静かに目を閉じた。 宗春は肩を震わせている。 「亀爺殿には、後日きちんと抗議します」 「抗議するほど広まっているな」 「殿」 春丸は宗春の膝の上で、伊織を見上げた。 「榊は、兄上を取る?」 伊織は驚いた。 春丸の声は真剣だった。 嫉妬というより、幼い不安。 兄の膝は、自分の安心できる場所。 そこに知らない小姓がいる。 それが納得できないだけだ。 伊織は膝をつき、春丸と目線を合わせた。 「取りません」 「本当?」 「はい。若君の場所は、若君のものです」 春丸は少しだけ安心したようにした。 だが、まだ疑っている。 「でも、兄上は榊を可愛いって言う?」 宗春が口を開く。 「言う」 「殿」 伊織が制する。 春丸の眉が寄る。 「春丸は?」 「春丸も可愛い」 「榊も?」 「可愛い」 春丸は考え込んだ。 「二人とも?」 「二人とも」 「じゃあ、膝は?」 宗春が笑いをこらえている。 伊織は真面目に答えた。 「若君がおいでの時は、若君が先です」 春丸の目が輝いた。 「ほんと?」 「はい」 「榊、いい人?」 「自分では判断しかねます」 「難しい」 宗春が春丸の頭を撫でた。 「伊織は真面目なんだ」 「まじめ?」 「うん。すぐ固くなる」 「石?」 「少し」 「殿」 景継が奥で低く咳払いをした。 「若君。殿はこの後、用向きがございます」 「えー」 「春丸」 宗春が声を落とす。 「今日は市へ行く約束だったな」 「うん!」 春丸の顔がぱっと明るくなる。 伊織はすぐに宗春を見る。 「市へ?」 「咲霧の品を扱う市がある。春丸に見せる約束だ」 景継が補足する。 「若君には、町の品と人の流れを見ていただくためです。もちろん供をつけます」 宗春が伊織へ向く。 「来い」 「私もですか」 「膝を取らない証明に」 「その理由はおかしいです」 春丸が伊織の袖を掴んだ。 「榊も来る?」 伊織は少しだけ困った。 春丸の手は小さい。 無邪気に、でも真剣に掴んでいる。 「若君のお邪魔でなければ」 「邪魔じゃない!」 春丸はすぐに答えた。 宗春が満足そうに笑う。 「決まりだ」 「また、そうやって」 「春丸が決めた」 「若君を盾にしないでください」 春丸はきょとんとした。 「盾?」 伊織はすぐに頭を下げる。 「何でもございません」 **** 市は、芝の通りに近い広場で開かれていた。 咲霧から運ばれた紙、木工、染め布、乾物。 江戸の職人の道具。 菓子。 玩具。 人の声が行き交い、色と匂いが混じる。 春丸は目を輝かせて、あちこちを見ていた。 「兄上、あれ!」 「走るな」 「榊、あれ何?」 「独楽でございます」 「こま!」 春丸は独楽の屋台へ駆け寄った。 伊織はすぐ後ろにつく。 宗春は少し離れたところで、景継と商人の挨拶を受けていた。 直澄は帳面を持ち、品目を確認している。 独楽の屋台には、色とりどりの独楽が並んでいた。 赤。 青。 金。 咲霧の霧模様を描いたものもある。 春丸はそれを手に取った。 「これ、回る?」 屋台の男が笑う。 「よく回りますよ、若君様」 伊織の目がわずかに動いた。 若君様。 呼び方が早い。 周囲の者は、春丸を宗春の弟だと知る者ばかりではない。 屋台の男は、最初から知っていた。 伊織は春丸の手元へ目を落としたまま、静かに言う。 「よく回る独楽は、軸がよいのでしょうね」 男はうなずく。 「へえ。軸が命です」 「山の木ですか」 男が軽く笑った。 「木もよいが、重りに入れる鉄も大事でして。咲霧の山からよいものが出ると、独楽もよく回るでしょうな」 春丸がぱっと伊織を見る。 「山?」 伊織はすぐに独楽を回した。 小さな独楽が、板の上でくるくると回る。 春丸の注意がそちらへ移る。 「すごい!」 伊織は穏やかに言った。 「若君、独楽は山の話より、回っている時の音がよいかと」 「音?」 「はい。耳を澄ませると、軸がぶれているか分かります」 春丸は独楽へ耳を近づける。 「ぶれてる?」 「少しだけ。ですが、よく回ります」 屋台の男の笑みが、ほんのわずかに消えた。 伊織は男へ向く。 「子どもの玩具に、山の出所まで語る必要はございません。良い独楽なら、回り方で分かります」 声は柔らかい。 だが、そこで線を引いた。 男は軽く頭を下げた。 「これは失礼を」 「若君、この赤い独楽はいかがですか」 伊織はすぐ春丸へ話を戻す。 春丸は赤い独楽を見て、すぐ笑った。 「これがいい!」 宗春が少し離れたところから、その一部始終を見ていた。 景継も。 直澄も。 伊織は山の話を広げなかった。 春丸の耳へ余計な言葉を入れなかった。 咲霧の名を探る者の手から、話を独楽へ戻した。 屋台の男が誰の筋かは、その場では分からない。 松浜の者か。 別の誰かの手先か。 ただ、若君を使って山の話を引き出そうとしたことだけは確かだった。 春丸は何も知らず、独楽を手にして喜んでいる。 「榊、回して!」 「はい」 伊織は独楽に紐を巻き、板の上へ放った。 独楽はきれいに回る。 春丸は手を叩いた。 「兄上、見て!」 宗春が近づく。 「上手いな」 「榊が回した!」 「伊織は何でもできるな」 「何でもはできません」 春丸は独楽を抱えるように持ち、伊織を見た。 「榊、いい人!」 伊織は少しだけ目を伏せる。 「恐れ入ります」 「兄上の膝、少しなら貸してもいいよ」 宗春が笑いをこらえた。 「春丸、それはありがたい」 伊織は静かに言う。 「若君、膝は物ではございません」 「じゃあ場所?」 「はい。大事な場所です」 春丸は真剣に頷いた。 「じゃあ、春丸が先」 「はい」 「榊は後」 「私は不要です」 宗春が即座に言う。 「必要だ」 「殿」 春丸は宗春と伊織を交互に見て、にこっと笑った。 「兄上、膝、二つあるよ」 景継が咳き込んだ。 直澄は静かに目を伏せた。 市の騒ぎは、その後大きくはならなかった。 宗春は独楽屋の男をその場で捕らえなかった。 相手がどの筋か、まだ見極める必要がある。 ただし、直澄が男の屋台の場所と、扱っていた品だけを覚えた。 景継は春丸の護りを少し厚くした。 春丸はそれに気づかず、赤い独楽を大事そうに抱えていた。 **** 帰り道。 春丸は宗春の手を握り、伊織の袖も掴んだ。 「兄上、榊、春丸の独楽、夜も回していい?」 「夜は静かに」 宗春が言う。 「えー」 「屋敷の者が驚く」 「じゃあ、少しだけ」 伊織が答える。 「明日の朝、よく回るところを見せてください」 「榊も見る?」 「はい」 春丸は嬉しそうに笑った。 「じゃあ、約束!」 伊織は少しだけ微笑んだ。 「約束です」 宗春がそれを見ていた。 伊織は気づく。 「何ですか」 「いや」 「言いたいことがおありなら」 「伊織が咲霧の若君と約束した」 伊織の胸が、少しだけ詰まった。 咲霧の若君。 自分は本来、ここに長くいる者ではない。 石堂主膳の筋から命じられ、正体を隠し、本当の小姓になりきっているだけ。 そのはずなのに。 春丸の約束は、妙に重かった。 「小さな約束です」 「そうだな」 宗春はそれ以上言わなかった。 だから、余計に胸に残った。 屋敷へ戻ると、春丸はもう一度だけ宗春の膝へ座った。 赤い独楽を抱え、満足げにしている。 伊織は離れて控えた。 春丸が手招きする。 「榊」 「はい」 「ここ」 春丸は宗春の膝の横を指した。 伊織は固まる。 宗春が笑う。 「許可が出た」 「殿」 「若君の命だ」 「若君を盾にしないでください」 春丸はまた首をかしげた。 「盾?」 景継がすぐに言う。 「何でもございません、若君」 伊織は結局、膝には乗らなかった。 ただ、宗春の少し近くへ座った。 春丸は満足したらしい。 「榊、後ね」 伊織は返事に困りながらも、静かに言った。 「……はい」 宗春は、それを夜まで覚えていた。 **** 夜。 宗春の部屋には、赤い独楽が置かれていた。 伊織はそれを見て、思わず足を止めた。 「殿」 「うん」 「若君の独楽では」 「借りた」 「なぜですか」 「夜も少し回していいと言っていた」 「若君はご自分のことを仰ったのでは」 「俺も見たい」 「話を都合よく」 宗春は独楽を手に取り、紐を巻いた。 「回せるか」 「昼にも回しました」 「俺にも見せろ」 「殿はご覧になっていたでしょう」 「夜にも見たい」 伊織はため息をつき、独楽を受け取った。 紐を巻き、畳の上にそっと放る。 赤い独楽が、灯の下で回った。 小さな影が揺れる。 宗春はその回り方をしばらく見ていた。 「軸がいいな」 「はい」 「伊織みたいだ」 「私は独楽ではありません」 「まっすぐ立とうとする」 「独楽は回らねば倒れます」 「伊織も?」 伊織は答えなかった。 独楽は少しずつ揺れ、やがてころりと倒れた。 宗春はそれを拾う。 「倒れたら、拾えばいい」 伊織の胸が、わずかに揺れた。 「……殿は、すぐそういうことを」 「うん」 「夜に仰る」 「効く?」 「効きません」 「では、試す」 宗春は独楽を文机へ置き、伊織へ手を伸ばした。 「春丸が言ったな」 「何をですか」 「榊は後」 伊織の頬が熱くなる。 「若君の幼いお言葉です」 「俺は覚えた」 「忘れてください」 「無理だ」 宗春の手が伊織の腰へ回る。 「昼は春丸が先だった」 「当然です」 「夜は?」 「聞かないでください」 「伊織の場所は?」 伊織は目を伏せる。 最初に膝へ乗せられた朝。 近いと抗議して、近くしたと返されたあの始まり。 それから、夜ごとに少しずつ、宗春の腕の中が別の意味を持ち始めた。 「……殿が決めることでは」 「違う」 宗春の声が低くなる。 「伊織が選べ」 伊織は息を詰めた。 選ぶ。 その言葉は、まだ重い。 けれど、この夜の中なら、ほんの少しだけ言える気がした。 「……膝で」 宗春の手が止まる。 「うん」 「ただし、若君がいない夜だけです」 宗春の目元が甘くなる。 「よし」 「何がよしですか」 「伊織が選んだ」 「今のは、体勢の話です」 「うん」 「それ以上ではありません」 「そういうことにしておく」 宗春は伊織を抱き上げるようにして、自分の膝へ座らせた。 すべてが始まった時と同じ膝。 けれど、まったく違う。 あの時、伊織はなかったことにしようとしていた。 今は、自分で選んで座っている。 その違いが、恥ずかしい。 「近いです」 宗春が笑う。 「近くした」 「そのやりとりは、もう」 「始まりだからな」 「毎回始めないでください」 宗春は伊織の帯へ手をかける。 「今夜は、伊織の場所を確かめる」 「膝の話では」 「膝の話だ」 「本当ですか」 「最初は」 伊織は小さく息を吐いた。 「その言い方も、もう」 「聞き慣れた?」 「慣れたくありません」 「でも慣れた」 「……少しだけ」 宗春は嬉しそうに笑う。 伊織は悔しさで宗春の肩を掴んだ。 「笑わないでください」 「笑っていない」 「笑っています」 「嬉しいだけだ」 その声があまりにまっすぐで、伊織は何も言えなくなった。 宗春は膝の上に伊織を抱いたまま、選ばれた場所を確かめるように深くつながった。 伊織の体が小さく跳ねる。 「っ、あ……っ♡」 宗春の腕が腰を支える。 あの夜と似ている。 だが、違う。 あの時より、伊織の体は宗春を知っている。 声も、熱も、深さも。 自分がどう崩されるかも、少しだけ知っている。 「伊織」 「はい……っ」 「自分で選んだな」 「体勢を……っ」 「膝を」 「はい……っ」 「俺の膝を」 「言わないで……っ」 宗春がゆっくり腰を動かす。 膝の上で、伊織の体が深く擦れる。 足が畳に触れきらず、宗春の腕に支えられている。 逃げようとすれば、すぐ抱き込まれる。 「ここは誰の場所だ」 「若君が……っ、先です……っ」 「今は?」 「今は……っ」 宗春が下から深く突き上げる。 「っ、あんっ♡」 「今は?」 伊織は宗春の肩を掴んだ。 「私の……場所です……っ」 宗春の息が乱れる。 「よく言えた」 「言わせたのは……っ、殿です……っ」 「でも、伊織の言葉だ」 「ずるい……っ」 「うん」 宗春は伊織の腰を抱え直した。 膝の上で、さらに深く届く。 伊織の声が逃げる。 「っ、あっ♡ 待って……っ」 「待つ?」 「待たないで……っ、でも……っ」 「また、どちらも欲しい」 「言わないで……っ」 「可愛い」 「評価は不要……っ、あんっ♡」 宗春の手が、伊織の背へ回る。 独楽が回る時の軸のように、伊織の体を中心から支える。 「倒れそうか」 「倒れ……っ」 「拾う」 伊織の胸が震えた。 「殿は……っ」 「うん」 「また、そういうことを……っ」 「効く?」 「効きます……っ」 言ってしまった。 伊織は目を閉じる。 宗春の腕が強くなる。 「伊織」 「今のは」 「聞いた」 「忘れて」 「無理だ」 宗春が深く突き上げる。 伊織の体が膝の上で跳ね、宗春の胸へ倒れ込む。 「っ、あんっ♡」 「倒れた」 「倒れて、ません……っ」 「拾った」 「言わないで……っ」 「俺が拾う」 伊織は宗春の肩に額を寄せた。 「……はい……っ」 宗春の動きが一瞬だけ止まる。 その返事は、抗議ではなかった。 伊織は自分で気づく。 もう、戻せない。 「伊織」 「はい……っ」 「春丸が昼、俺の膝を取られると思っていた」 「はい……っ」 「伊織は、取る?」 伊織は息を詰めた。 「取りません……っ」 「では?」 「借ります……っ」 「いつまで」 「夜だけ……っ」 宗春が少しだけ意地悪く笑う。 「夜だけ?」 伊織は耐えきれず、宗春の肩を強く掴んだ。 「今夜は……っ」 「うん」 「私の場所に、してください……っ」 宗春の息がはっきり乱れた。 「伊織」 「はい……っ」 「それは、ずるい」 「殿の方が……っ、いつも……っ」 「今夜は伊織がずるい」 宗春は伊織を強く抱き込み、膝の上で深く突き上げた。 伊織の声が甘く崩れる。 「っ、あっ♡ 宗春さま……っ」 「うん」 「深い……っ」 「ここがいい?」 「聞かないで……っ」 「伊織の場所だろう」 「それは……っ、膝の……っ」 「今は?」 伊織は目元を熱くしながら、宗春の首へ腕を回した。 「宗春さまの……っ、腕の中……っ」 宗春の目が熱を帯びる。 「うん」 「そこが……っ、いい……っ」 「よく言えた」 「もう……っ、褒めないで……っ」 「無理だ」 宗春は伊織の腰を支え、奥まで何度も届かせる。 独楽のように回る余裕などない。 軸は宗春に握られている。 伊織は崩れそうになっては、宗春に拾われる。 「宗春さま……っ」 「いる」 「もう……っ」 「倒れる?」 「倒れ……っ、ます……っ」 「拾う」 「拾って……っ」 宗春の腕が強くなる。 「もちろん」 伊織の声が震える。 「宗春さま……っ」 「うん」 「今夜は……っ、私の場所……っ」 「うん」 「離さないで……っ」 「離さない」 「もう……っ、いって、しま……っ♡♡」 伊織の体が、宗春の膝の上で震えた。 宗春は伊織を離さなかった。 倒れた独楽を拾うように、ではなく。 倒れる前から支えていた者のように、伊織の腰を抱き続けた。 伊織は荒い息のまま、宗春の胸元へ額を押しつける。 「……殿」 「うん」 「今夜のことは」 「うん」 「若君には、絶対に」 「言うわけがないだろう」 「はい」 「ただ、俺は覚えておく」 伊織は小さくうめいた。 「それが一番、厄介です」 宗春は伊織の髪を撫でる。 「今夜は、伊織の場所」 「……はい」 「明日は?」 「若君が先です」 宗春が笑う。 「真面目だな」 「当然です」 「では、夜は?」 伊織は返事をしなかった。 ただ、宗春の膝の上で、ほんの少しだけ体重を預け直した。 宗春は、それを答えとして受け取った。 **** 翌朝。 春丸は赤い独楽を持って、奥座敷へ駆け込んできた。 「榊! 約束!」 伊織はすぐに膝をついた。 「はい。よく回るところを見せてください」 春丸は嬉しそうに紐を巻いた。 宗春はその様子を眺めている。 春丸はちらりと宗春の膝を見る。 そして、少し考えたあと、伊織を見た。 「朝は春丸」 「はい」 「夜は知らない」 景継がまた咳き込んだ。 伊織は静かに言った。 「若君は、余計なことをお覚えにならなくてよろしいです」 「余計?」 「はい」 春丸はよく分からないまま、独楽を回した。 赤い独楽が、朝の畳の上でくるくる回る。 宗春は伊織を見た。 伊織は独楽を見ているふりをした。 屋敷の空気は、昨日より少しだけ変わっていた。 榊伊織は、ただの訳あり小姓ではない。 若君を外の探りから守った者。 そのことを、景継も直澄も、口には出さずに覚えていた。 春丸の独楽は、少し軸を揺らしながらも、最後まできれいに回りきった。

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