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第8話 相撲と、預ける手

「伊織」 「はい」 「相撲を見に行く」 「相撲」 伊織は筆を止めた。 朝の咲霧藩上屋敷。 宗春は、今日も当然のように町へ出る予定を告げた。 伊織はもう、ただ驚くだけでは済まない。 団子、うなぎ、湯屋、火消し、寺子屋、穴子寿司。 この数日の宗春は、江戸の名物を伊織へ次々に見せている。 それはただの物見遊山ではない。 町の暮らし。 飯。 釜。 火消し道具。 子どもの手習い。 荷場の歩幅。 宗春は軽く連れ出すふりをして、伊織へ江戸の息づかいを見せている。 そして、伊織が何を見るかを、静かに拾っている。 「相撲は、殿のご趣味ですか」 「好きだ」 「では、お一人で」 「伊織と見たい」 「なぜですか」 「土俵際で踏ん張る伊織が見たい」 「私は取組に出ません」 「似合いそうだ」 「似合いません」 宗春は楽しげに笑った。 「伊織はすぐ踏ん張る」 「それは、踏ん張るべき時があるからです」 「たまには預けろ」 伊織は一瞬だけ黙った。 宗春はその沈黙を拾ったが、追い打ちはしない。 障子の向こうで、霧生景継が声をかけた。 「殿。本日は相撲茶屋にて、数名の藩士と挨拶がございます」 「挨拶?」 「はい」 景継は短く答えた。 青柳直澄が控えめに続ける。 「松浜藩の使番も来るようです」 景継の声が少し硬くなる。 「鳴瀬山の鉄を遠回しに探っている筋です」 伊織は黙った。 鳴瀬山。 松浜。 鉄。 その名が出ても、伊織は尋ねない。 宗春は扇を閉じた。 「相撲茶屋で鉄の話か。無粋だな」 「向こうは、それが目的かと」 「なら、相撲の話に戻してやる」 宗春は伊織へ向いた。 「来るな?」 「はい」 「素直だ」 「相撲茶屋で、余計な探りがあるなら、小姓としてお側におります」 「俺のそばにいたい?」 伊織は背筋を伸ばした。 「小姓として」 宗春は笑う。 「今日はそれでよし」 「今日は、とは」 「夜に聞き直す」 「聞かなくて結構です」 景継が胃を押さえた。 **** 昼。 相撲茶屋の周りは、すでに人で賑わっていた。 幟。 太鼓の音。 力士を一目見ようとする町人。 土と汗と、弁当の匂い。 伊織は、思っていたより近い熱気に驚いた。 「思ったより、騒がしいです」 「相撲だからな」 「もっと厳粛なものかと」 「厳粛でもある。騒がしくもある」 宗春は笑いながら、伊織を茶屋の中へ入れた。 直澄が後ろに続く。 景継は別の席で、松浜藩の使番らしき男を見ていた。 茶屋の座敷には、すでに数人の藩士と商人風の男がいた。 その中に、痩せた武士がひとり。 松浜藩の使番、三浦と名乗った。 「咲霧様。本日はお目にかかれて光栄にございます」 「相撲を見に来た」 宗春は軽い声で返す。 三浦は笑った。 「ええ、相撲はよろしいものです。土俵の上では、足腰が物を申しますな」 「そうだな」 「山も同じ。足元が固くなければ、いくら上に積んでも」 三浦の視線が、わずかに宗春から伊織へ流れた。 伊織は黙って茶を注ぐ。 小姓として。 余計なことは言わない。 三浦はさらに続けた。 「咲霧の鳴瀬山も、近頃は足元が賑やかだとか。山道、荷道、杭、鉄。どこも忙しゅうございましょう」 景継の眉間が動いた。 宗春は茶を飲む。 「相撲の話をしているのではなかったか」 三浦は笑う。 「これは失礼。つい、山も土俵に見えまして」 伊織は湯呑を置いた。 静かに言う。 「土俵は、上に立つ者だけで成り立つものではございません」 三浦が伊織を見る。 「ほう」 伊織は宗春の後ろに控えたまま、続けた。 「俵を据える者、土を整える者、怪我をした力士を支える者。足元を軽んじると、土俵を割りますので」 座敷が一瞬、静かになった。 三浦の笑みがわずかに固まる。 宗春は扇で口元を隠した。 「伊織」 「はい」 「相撲に詳しいのか」 「今、見て学んでおります」 「よく学ぶな」 「職務です」 景継は三浦から伊織へ、そして宗春へ視線を移した。 伊織は鳴瀬山の中身には触れていない。 ただ、足元を見る者を軽んじるなと言っただけだ。 それでも、三浦の探りはそこで一度止まった。 土俵では、力士が仕切りに入っていた。 何度も腰を落とし、手をつきかけ、また立つ。 伊織はそれを不思議そうに見つめた。 「なかなか始まらないのですね」 宗春が隣で囁く。 「仕切りだ」 「互いに呼吸を測っているのですか」 「そうだな」 「なら、急かしてはいけませんね」 「伊織はいつも仕切りが長い」 「私は取組をしておりません」 「俺と?」 「殿」 「夜の話だ」 「ここでなさらないでください」 宗春は楽しそうに笑った。 **** 取組が始まる。 大きな音とともに、力士たちがぶつかる。 伊織の肩がわずかに揺れた。 「すごい音です」 「怖い?」 「怖くはありません」 「では、興味がある」 「……はい」 宗春は満足そうに頷いた。 土俵際。 押されていた力士が、ぎりぎりで踏ん張る。 足が俵にかかり、体が大きく揺れる。 伊織は思わず身を乗り出した。 「残るのですか」 「残るか、出るか」 力士は踏ん張った。 だが、次の押しで土俵を割る。 場内が沸いた。 伊織は小さく息を吐く。 「踏ん張ればよいというものではないのですね」 宗春が伊織を見る。 「そうだな」 「時には、預けた方が残れる」 言ってから、伊織は少しだけ口を閉じた。 宗春が静かに笑う。 「いいことを言う」 「相撲の話です」 「うん」 「本当です」 「うん」 三浦が横から口を挟む。 「榊殿は、なかなか物を見られる」 伊織は一礼した。 「恐れ入ります」 「小姓にしておくには惜しい」 宗春の声が少し低くなる。 「俺の小姓だ」 三浦は笑みを引く。 「これは失礼」 その後、三浦は鳴瀬山の話をしなかった。 相撲の話に戻り、酒を飲み、力士を褒め、茶屋を出ていった。 だが、景継の警戒は解けない。 直澄も、三浦の言葉を必要なところだけ覚えた。 **** 帰り道。 伊織は少しだけ疲れていた。 相撲の熱気は、見ているだけでも体力を使う。 宗春は横へ来る。 「足が遅い」 「人が多かったので」 「疲れた?」 「疲れておりません」 「仕切り直すか」 「道中で何を仕切るのですか」 「歩幅」 伊織は言葉に詰まる。 先日の直澄との歩幅のやりとりを、宗春はまだ覚えている。 「殿は、何でも覚えておられますね」 「伊織のことはな」 「政務を」 「している」 宗春は少しだけ歩みを落とした。 伊織は気づく。 「合わせなくとも」 「俺が合わせたい」 「……はい」 「預けてみるか」 「歩く程度で」 「歩く程度から」 伊織は何も答えなかった。 だが、宗春の半歩隣を、そのまま歩いた。 **** 夜。 宗春の部屋には、相撲茶屋から持ち帰った小さな座布団が置かれていた。 伊織はそれを見て、眉を寄せる。 「殿」 「うん」 「なぜ座布団が」 「土俵代わり」 「今すぐ片づけてください」 「夜の取組だ」 「その言い方は、非常によくありません」 「相撲の続き」 「続きが多すぎます」 宗春は座布団の前に座る。 伊織は動かない。 「来い」 「取組には出ません」 「では、仕切り」 「しません」 「伊織」 「はい」 「昼、言ったな。時には預けた方が残れる」 伊織の喉が鳴った。 「相撲の話です」 「今夜は、俺の話にする」 「勝手に」 「勝手ではない。伊織に聞く」 宗春は手を伸ばす。 「預けるか」 伊織は宗春の手を見た。 昼の土俵際。 踏ん張って、押されて、結局外へ出た力士。 その姿が浮かぶ。 自分はいつも踏ん張っている。 戻らなければならない場所。 言えない名。 疑われる立場。 宗春の近さ。 どれも、踏ん張って処理しようとしてきた。 けれど。 伊織は、ゆっくり宗春の手に自分の手を重ねた。 「……少しだけなら」 宗春の目元がやわらぐ。 「少しでは済まない」 「毎回、それです」 「伊織が毎回、可愛いからな」 「評価は不要です」 宗春は伊織を引き寄せた。 正面から。 最初に膝へ引き寄せられた夜とは違う。 今夜は、土俵の上で組むように、互いの体を正面から合わせる。 宗春の手が伊織の腰を抱え込む。 「足、踏ん張るな」 「踏ん張っておりません」 「踏ん張っている」 「これは姿勢を保って」 「預けろ」 伊織の息が止まる。 「殿」 「倒さない」 「分かっております」 「分かっているなら、力を抜け」 「……難しいです」 「なら、俺が待つ」 宗春は本当に待った。 腰を抱えたまま、伊織が自分で力を抜くまで。 伊織はその沈黙に耐えられなくなる。 「待たないでください」 「預けないなら待つ」 「意地が悪いです」 「うん」 「認めないでください」 「伊織」 宗春の声が低くなる。 「落とさない」 その言葉で、伊織の肩から少し力が抜けた。 宗春は、その瞬間を待っていたように、帯をほどいた。 「っ」 「よし」 「何がよしですか」 「仕切りが合った」 「相撲ではありません」 「もう違うな」 宗春は伊織を座布団の近くへ座らせ、正面から腰を抱え込んだ。 互いの膝が触れる。 伊織は足へ力を入れたが、宗春の腕がそれを止める。 「踏ん張るな」 「踏ん張らないと」 「俺に預けろ」 伊織は唇を噛んだ。 「……はい」 宗春は正面から伊織の腰を抱え込み、踏ん張る足をほどくように深く組み合った。 奥まで繋がった瞬間、伊織の手が宗春の肩を掴む。 「っ、あ……っ♡」 宗春の腕が、伊織の腰を支える。 正面から組まれたまま、伊織は体を引くことができない。 「力、入っている」 「無理です……っ」 「抜け」 「命令が……っ、難しい……っ」 「俺が持つ」 宗春がゆっくり動く。 腰を抱え込まれた伊織の体が、宗春の腕の中で小さく擦れる。 奥へ届く熱に、足がまた踏ん張ろうとした。 宗春がすぐに膝のあたりを押さえる。 「ほら」 「勝手に……っ」 「足が踏ん張る」 「見ないで……っ」 「見る」 「殿……っ、あんっ♡」 宗春が深く突き上げる。 伊織の体が宗春へ倒れかける。 すぐ、宗春の腕が受けた。 「落ちない」 「……っ」 「俺が持つ」 伊織の息が震えた。 「そういうことを……っ」 「うん」 「夜に言うのは……っ」 「効く?」 伊織は答えられない。 宗春は伊織の腰を支えたまま、一定の深さで動く。 押し出すのではない。 伊織が預けるまで、待ちながら深く連れていく。 「伊織」 「はい……っ」 「昼、土俵際で何を見た」 「踏ん張っても……っ」 「うん」 「出る時は、出ます……っ」 「今は?」 「出ません……っ」 「なぜ」 「殿が……っ、持って……っ」 宗春の目元が熱くなる。 「もう一度」 「殿が、持ってくださるから……っ♡」 「よく言えた」 「褒めないで……っ」 宗春は伊織の腰を引き寄せ、奥まで届くように突き上げた。 伊織の声が甘く跳ねる。 「っ、あっ♡」 「預けろ」 「預けて……っ、います……っ」 「まだ」 「まだ、なのですか……っ」 「もっと」 伊織の手が宗春の肩にすがる。 「崩れます……っ」 「受ける」 「土俵を……っ」 「割らせない」 「相撲の話では……っ」 「今夜は、伊織の話だ」 伊織の胸が震えた。 宗春の言葉は、いつもずるい。 何でもないように、伊織の奥まで届く。 「宗春さま……っ」 「うん」 「足が……っ」 「うん」 「力が、抜けて……っ」 「いい」 「よくない……っ、あんっ♡」 「いい。俺に預けている」 伊織は目を伏せる。 正面から組まれているせいで、息も声も宗春に全部受け止められる。 「恥ずかしい……っ」 「何が」 「踏ん張れないのが……っ」 「可愛い」 「評価は不要……っ、あっ♡」 「伊織」 「はい……っ」 「負けるか」 伊織は唇を噛んだ。 「負けません……っ」 宗春が深く突き上げる。 「っ、あんっ♡」 「今の声は?」 「違います……っ」 「まだ負けない?」 「負け……っ」 伊織は言葉を止める。 負ける。 それを言えば、全部宗春に預けることになる。 宗春は待った。 けれど、腰は止めない。 ゆっくり、深く。 伊織が自分の言葉で言うまで。 「宗春さま……っ」 「うん」 「負けでは……っ」 「うん」 「ないです……っ」 「では?」 伊織は宗春の肩へ額を寄せた。 「預ける……だけです……っ」 宗春の腕が強くなった。 「よくできた」 「だから、褒めないで……っ」 「無理だ」 宗春は伊織の腰を抱え直し、正面から深く突き上げた。 伊織の体が宗春の腕の中で跳ねる。 もう足は踏ん張れない。 宗春に持たれている。 支えられている。 預けている。 その事実が、熱より恥ずかしかった。 「伊織」 「はい……っ」 「俺に預けろ」 「はい……っ」 「全部」 伊織の息が止まりかける。 「全部は……っ」 「今夜だけでも」 「今夜だけ……っ」 「うん」 「宗春さまに……っ」 宗春が奥まで届かせる。 伊織の声が、はっきり崩れた。 「っ、あっ♡」 「全部?」 「預け……ます……っ」 「よく言えた」 「もう……っ、無理……っ」 「いきそう?」 「聞かないで……っ」 「相撲なら、もう土俵際だ」 「そんな……っ、言い方……っ」 「出るか」 「出ません……っ」 「残るか」 「残り……っ、ます……っ」 「俺の腕で?」 「宗春さまの……っ、腕で……っ♡」 宗春の息が大きく乱れた。 伊織はもう、支えなしでは座っていられない。 宗春が抱えている。 正面から、まっすぐに。 「伊織」 「はい……っ」 「預けろ」 「はい……っ」 「最後まで」 「最後まで……っ、宗春さまに……っ」 宗春は伊織を強く抱き、深く突き上げた。 伊織の声が灯の下で甘くほどける。 「預け……っ、ます……っ、宗春さま……っ、いって、しま……っ♡♡」 伊織の体が宗春の腕の中で震えた。 宗春はすぐにはからかわなかった。 土俵際で残った力士を抱き止めるように、伊織の腰を支えたまま、深く息を落ち着かせる。 伊織は宗春の肩に額を預け、しばらく動けなかった。 「……殿」 「うん」 「負けては、いません」 「うん」 「預けただけです」 「そうだな」 「本当に?」 「本当に」 宗春は伊織の髪を撫でた。 「伊織は、俺に預けた」 伊織の胸が、また熱くなる。 「……はい」 宗春は座布団を横へ寄せた。 「土俵は終わり」 「最初から土俵ではありません」 「では、何だった」 伊織は答えられなかった。 宗春は優しく抱き直す。 「また預けろ」 「毎回は」 「毎回でなくてもいい」 「本当ですか」 「うん」 「では、時々」 宗春が笑う。 「時々でいい」 伊織はその言葉に安心して、少しだけ宗春へ体重を預けた。 宗春は何も言わない。 ただ、抱く腕を少しだけ強くした。 **** 翌朝。 直澄は、相撲茶屋での松浜藩使番の言葉を、必要なところだけ景継へ伝えた。 「鳴瀬山を山にたとえ、足元が賑やかだと言っておりました」 景継の眉間が深くなる。 「探っているな」 「はい」 「榊殿は」 「土俵の話へ戻されました」 「戻した?」 「はい。足元を軽んじると土俵を割る、と」 景継はしばらく黙った。 それから、低く言う。 「余計なことを言いかねぬと思っていたが」 「核心には触れておりません」 「分かっている」 景継は帳面を閉じた。 「……うまく外したな」 直澄は頷いた。 「はい」 **** 奥座敷では、宗春が伊織へ言っていた。 「今日も預けるか」 「朝から、何を」 「歩幅」 「本当ですか」 「最初は」 伊織は一歩下がろうとして、止まった。 宗春がそれに気づく。 「踏ん張らない?」 「……朝ですので」 「夜なら?」 「聞かないでください」 宗春は笑った。 伊織は背筋を伸ばしたまま、けれど昨日よりほんの少しだけ、宗春のそばに立っていた。 踏ん張っているのではない。 預ける準備を、少しだけ覚えただけだった。

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