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第7話 穴子寿司と、直澄の歩幅

「伊織」 「はい」 「今日は、直澄と出かけろ」 伊織は筆を置いた。 朝の咲霧藩上屋敷。 宗春はいつも通り、軽い声でとんでもないことを言った。 「なぜですか」 「俺が江戸城に呼ばれた」 「それは通常のご用向きでは」 「戻りが少し遅くなる」 「では私は屋敷で」 「直澄が町へ行く」 控えていた青柳直澄が静かに頭を下げた。 「霧川筋の魚荷と、普請杭の納めについて確認がございます」 「普請杭」 伊織は短く繰り返した。 直澄が頷く。 「川筋の荷場で、魚荷と材木の道が重なっております。穴子の荷も遅れているとか」 宗春が楽しげに言う。 「穴子寿司だ」 「また食べ物へ」 「江戸の寿司だぞ」 「だから何ですか」 「伊織がまだ食べていない」 「殿は、私の食べたことがないものを把握しすぎです」 「把握している」 「堂々と仰らないでください」 宗春は笑った。 その笑いの奥に、少しだけ別の色がある。 伊織はそれに気づいた。 直澄と二人で出す理由。 ただ寿司を食べさせたいだけではない。 宗春は伊織を、直澄に見せたいのだ。 直澄が何を見るか。 伊織が何を話すか。 それを宗春は、責めるためではなく、知るために使う。 伊織は小さく息を整えた。 「承知しました」 宗春の目元がやわらぐ。 「素直だ」 「職務です」 「では、職務の帰りに寿司」 「寿司が本題に聞こえます」 「本題だ」 「殿」 宗春は立ち上がり、伊織のそばを通る時、声を落とした。 「疲れたら、直澄に言え」 「疲れません」 「歩幅が違う」 伊織は直澄をちらりと見た。 直澄は背が高く、足取りも静かで速い。 たしかに、町を歩けば伊織より少し早いだろう。 「お気遣いなく」 「気遣う」 「殿」 「俺が一緒なら、俺が合わせる」 伊織の返事が一瞬遅れた。 宗春はその遅れを拾い、少しだけ笑う。 「では行ってくる」 「行ってらっしゃいませ」 宗春が出ていく。 伊織はその背を見送った。 直澄は何も言わない。 ただ、しばらくして静かに言った。 「参りましょうか」 「はい」 **** 昼前の江戸は、湿った暑さの中にも活気があった。 魚の匂い。 桶を運ぶ音。 川から上がる湿り気。 商人の声。 直澄は歩くのが早かった。 ただし、三歩進んだところで、すっと速度を落とした。 伊織は気づく。 「青柳殿」 「はい」 「合わせておられますか」 「はい」 あまりに正直だった。 伊織は少しだけ目を伏せる。 「お気遣いなく」 「殿に、疲れたら言うよう申しつかっております」 「殿は余計なことを」 「余計ではないかと」 「青柳殿まで」 直澄は真面目に言う。 「榊殿は、疲れても疲れたと言われない印象があります」 伊織は答えに詰まった。 直澄は続けない。 それが、かえって鋭い。 「観察が細かいですね」 「職務です」 「それは、聞き飽きました」 直澄は少しだけ黙る。 「では、性分です」 伊織は意外で、直澄を見た。 「性分」 「はい。細かく見すぎるため、霧生殿に使われます」 「使われることに、不満は」 「ありません。ですが」 直澄は川筋の荷場へ目を向ける。 「拾ったものを、すべて差し出せばよいわけではないと、最近は思います」 伊織は静かに息を止めた。 その言葉は、妙に深かった。 「青柳殿は」 「はい」 「何を拾いましたか」 直澄はすぐには答えなかった。 荷場では、穴子を入れた桶と、普請杭を積んだ荷車が同じ道を取り合っていた。 魚問屋は魚が傷むと怒り、材木方は杭が遅れれば川留めが崩れると言う。 どちらも間違っていない。 だから揉める。 伊織はそれを見て、小さく言った。 「歩幅と同じですね」 直澄が伊織を見る。 「歩幅、ですか」 「はい。どちらも急いでいる。けれど、同じ道を同じ速さで進もうとするから、ぶつかる」 直澄は少しだけ考えた。 「魚荷を朝のうちに通し、材木を昼へ回す」 「魚は傷みます。杭は重く、人が多く要る。朝の涼しいうちに魚を通し、日が上がった頃に人足を増やして材木を動かす方がよいかと」 「飯の時刻は」 「材木方を遅らせるなら、飯もずらす必要があります」 直澄が頷く。 「理があります」 「私見です」 「帳面にできます」 伊織は少しだけ首を振った。 「青柳殿の帳面にしてください。私の名は不要です」 「なぜ」 「咲霧の荷場のことです」 直澄は静かに伊織を見た。 「榊殿」 「はい」 「貴方は、咲霧の荷場を探っているようには見えません」 伊織は返事をしなかった。 直澄は続ける。 「魚が傷まぬように。人足が倒れぬように。飯の時刻がずれぬように。貴方が気にされるのは、いつもそちらです」 伊織は川面へ視線を移した。 「それが、一番崩れやすいので」 「何がです」 「人の暮らしです」 直澄は、今度は筆を取らなかった。 その言葉は、帳面に入れるより、胸の内へ置く方がよいと思った。 荷場の話は、直澄がきれいにまとめた。 魚荷の道と、普請杭の道を時刻で分ける。 飯の支度も、それに合わせてずらす。 魚問屋は渋りながらも頷き、材木方も納得した。 **** 帰り道。 直澄は、少しだけ歩幅を落とした。 伊織はそれに気づいて、言う。 「青柳殿」 「はい」 「そこまで合わせなくとも」 「合わせているのではありません」 「では」 「穴子寿司の屋台が、すぐそこにあります」 伊織は足を止めた。 直澄は、ほんのわずかに笑った。 笑った、ように見えた。 「殿から、必ず食べさせるよう申しつかっております」 「宗春さまは」 言ってから、伊織は止まった。 宗春さま。 町中で。 直澄の前で。 直澄は何も言わない。 ただ、少しだけ目を伏せた。 「参りましょう」 **** 穴子寿司の屋台は、川端に出ていた。 笹の葉の上に、小さな寿司が並んでいる。 酢飯の上に、柔らかく煮た穴子。 艶のあるたれ。 伊織はそれを見つめた。 「小さいのですね」 「江戸の寿司は、手早く食べるものも多いです」 「ですが、これは」 「食べやすいように、少し小さく握ってあります」 屋台の親父が笑う。 「お侍さん、初めてかい」 伊織は正直に頷いた。 「はい」 「じゃあ、まず一貫。崩さず食べな」 伊織は箸を持つ。 穴子は柔らかい。 少しでも力を入れれば崩れそうだ。 宗春がいない。 それだけで、なぜか食べるのが少し難しい。 直澄が横から静かに言う。 「無理に急がなくてよいかと」 「歩幅だけでなく、食べ方も合わせるのですか」 「崩れては、惜しいので」 伊織はその言い方に、少しだけ笑いそうになった。 「青柳殿は、意外と」 「はい」 「優しいのですね」 直澄はすぐには答えなかった。 それから、真面目に言う。 「よく言われません」 「でしょうね」 「榊殿」 「失礼しました」 伊織は穴子寿司をそっと口へ運んだ。 柔らかい。 けれど、崩れない。 甘辛い味と酢飯が、すっとほどける。 「……美味しいです」 直澄は静かに頷いた。 「よかった」 その言い方が、宗春とは違った。 からかわない。 急がせない。 ただ、歩幅を合わせる。 伊織はその静けさに、少しだけ息が楽になった。 二貫、三貫と食べたところで、直澄が言った。 「榊殿」 「はい」 「殿のそばにいる時、少し息が楽そうです」 伊織の箸が止まる。 「……観察が細かいですね」 「性分です」 「それも聞きました」 「では、癖です」 伊織は小さく息を吐いた。 川風が、熱を少しだけ運び去る。 「青柳殿は、人の言葉にしないところまで拾う」 「拾いすぎます」 「それは」 伊織は笹の上の穴子寿司を見た。 「少し、怖いです」 直澄は黙った。 伊織は続ける。 「私自身が、まだ言葉にしていないことまで拾われると」 「申し訳ありません」 「責めてはおりません」 「では」 「包んでください」 直澄が静かに伊織を見る。 伊織は言った。 「拾ったものを、すぐ誰かへ差し出さずに」 直澄はしばらく沈黙した。 それから、深く頷く。 「承知しました」 その返事は、いつもの職務の返事とは少し違った。 笹の上に、穴子寿司が一貫だけ残った。 伊織はそれに手を伸ばしかけ、止める。 「どうしました」 直澄が問う。 「いえ」 「殿への土産にしますか」 伊織は驚いて直澄を見た。 直澄は淡々としている。 「殿は、榊殿が何を美味しいと思われたか、知りたがるかと」 伊織は返事に詰まった。 それから、小さく言う。 「……では、一貫だけ」 屋台の親父が笹に包んでくれた。 「崩さず持って帰りな」 伊織はその包みを、大切に受け取った。 **** 屋敷へ戻ると、宗春はすでに帰っていた。 「伊織」 その声を聞いた瞬間、伊織の肩から少し力が抜けた。 「穴子は?」 宗春が問う。 伊織は包みを差し出した。 「一貫だけですが」 「俺に?」 「……はい」 宗春の表情が、分かりやすく甘くなる。 「伊織が俺へ土産」 「青柳殿の提案です」 「でも持って帰ったのは伊織だ」 「崩さないように、気をつけました」 宗春は包みを受け取る。 「それは嬉しいな」 伊織は少しだけ目を伏せた。 「崩れると、惜しいそうですので」 宗春は、その一言を夜まで覚えていた。 **** 夜。 宗春の部屋には、笹に包まれた穴子寿司が置かれていた。 伊織はそれを見て、予想通りの展開にため息をついた。 「殿」 「うん」 「まさか、夜用では」 「伊織からの土産だ」 「食べてください」 「一緒に」 「一貫だけです」 「だからいい」 「分けられません」 「分ける必要はない」 宗春は包みを開いた。 小さな穴子寿司が、笹の上に乗っている。 昼と同じ。 けれど、夜の灯の下では妙に艶めいて見えた。 「伊織」 「はい」 「崩さず持って帰った?」 「はい」 「俺のために?」 「青柳殿の提案です」 「伊織が持った」 「……はい」 「嬉しい」 伊織は返事に困った。 宗春は穴子寿司をひと口で食べず、指先で持ち上げた。 「柔らかいな」 「崩れます」 「崩したくない?」 「はい」 「では、今夜は崩さず運ぶ」 伊織の眉が動く。 「何をですか」 「伊織」 「殿」 宗春は穴子寿司を皿へ戻し、伊織の前へ来た。 「今日は直澄と歩いた」 「はい」 「歩幅は合ったか」 「合わせてくださいました」 「俺の歩幅は?」 伊織は少しだけ黙った。 「……殿は、合わせるのがお上手です」 「本当に?」 「はい」 「では、今夜は俺の歩幅で」 伊織の喉が鳴った。 「その言い方は」 「嫌なら止める」 伊織は宗春を見上げた。 昼、直澄に言った言葉が胸に残っている。 宗春のそばでは、息が楽になる。 それをまだ、宗春本人には言えない。 だから、代わりに小さく答えた。 「嫌では、ありません」 宗春の目元がやわらぐ。 「では、運ぶ」 「運ぶ?」 次の瞬間、宗春が伊織の膝裏をすくった。 「っ、殿」 伊織の体が横抱きにされる。 慌てて宗春の肩へ手を回す。 「下ろしてください」 「崩れる」 「崩れません」 「なら、崩さず寝かせる」 「言い方が」 宗春は伊織を横抱きにしたまま、布団へ運んだ。 歩みはゆっくりだった。 本当に、寿司を崩さず運ぶように。 伊織は恥ずかしさで息が詰まる。 「殿」 「うん」 「私は寿司ではありません」 「知っている」 「では」 「もっと大事だ」 伊織は何も言えなくなった。 宗春は布団の上へ伊織を丁寧に寝かせた。 膝裏から手を抜く時まで、やけに優しい。 それがかえって、伊織を落ち着かなくさせる。 「崩れていない」 「当然です」 「よかった」 「子ども扱いですか」 「違う」 宗春は伊織の口元へ指を伸ばした。 「昼、美味かった?」 「はい」 「口元、少し甘い気がする」 「もう残っておりません」 「では、確かめる」 「殿」 宗春は伊織の唇へ触れ、すぐに口づけた。 穴子の甘辛い記憶が、夜の熱に混じる。 伊織の肩が震えた。 「伊織」 「はい」 「一貫だけ残したのは、俺のため?」 伊織は目を伏せる。 「……そうです」 宗春の息が変わった。 「よく言えた」 「褒めないでください」 「無理だ」 宗春の手が伊織の帯へかかる。 「崩さずにする」 「何を」 「伊織を」 「またそのような」 「丁寧に」 伊織は息を乱した。 「……丁寧なら、よいというものでは」 「嫌?」 「嫌では」 「では、続ける」 宗春は伊織の帯をほどき、布団の上で横抱きの名残を消さないように体を寄せた。 膝裏を支え、腰を抱き、崩れないように整える。 「歩幅を合わせる」 「夜に、歩幅は」 「ある」 「ありません」 「伊織の速さがある」 伊織の返事は、吐息に変わった。 宗春は崩さないように支えながら、それでも逃がさぬ深さまで差し込む。 伊織の指が宗春の肩を掴む。 「っ、あ……っ♡」 宗春はすぐには動かない。 横抱きで運んだ時と同じように、伊織が崩れない深さを確かめている。 「大丈夫か」 「大丈夫……っ、です……っ」 「速くしない」 「……はい」 「でも、浅くもしない」 伊織の息が詰まる。 「殿……っ」 宗春がゆっくり動く。 布団に寝かされた伊織の体が、小さく擦れる。 膝裏を支えられたまま、奥まで届く熱が、ゆっくりと満ちた。 「っ、あんっ♡」 「その声は、崩れたな」 「崩れて……っ、ません……っ」 「では、まだ運べる」 「何を……っ」 「伊織を、俺の歩幅で」 宗春の腰が、一定の深さで動く。 急がない。 けれど、止まらない。 昼、直澄が合わせた歩幅とは違う。 宗春の歩幅は、伊織を乱さないようにしながら、確実に奥へ連れていく。 「宗春さま……っ」 「うん」 「ゆっくりなのに……っ」 「深い?」 「言わせないで……っ」 「では、声で分かる」 「分からないで……っ、あっ♡」 宗春が膝裏を抱え直す。 伊織の体が少し持ち上がり、さらに深く届く。 「っ、あんっ♡ 待って……っ」 「待つ?」 「待たないで……っ、でも……っ」 「崩れそう?」 「崩れません……っ」 「本当か」 「崩れたら……っ」 「うん」 「殿が、運ぶのでしょう……っ」 宗春の動きが一瞬だけ乱れた。 「伊織」 「はい……っ」 「可愛いことを言う」 「今のは……っ」 「聞いた」 「忘れてください……っ」 「無理だ」 宗春は伊織の体を抱え直し、深く突き上げた。 「っ、あっ♡」 「崩れたら、俺が運ぶ」 「言わないで……っ」 「最後まで」 「最後まで……っ」 「うん」 「運んで……っ」 言ってしまって、伊織は目を閉じた。 宗春の息が熱くなる。 「伊織」 「はい……っ」 「今夜は、ずいぶん素直だ」 「直澄殿のせいです……っ」 「何を話した」 伊織は一瞬、昼の会話を思い出した。 宗春のそばにいる時、息が楽そうだと。 その言葉を、ここで言うのは恥ずかしい。 「言えません……っ」 「俺には?」 「なお……っ、言えません……っ」 宗春が奥をゆっくり擦る。 伊織の体が震えた。 「っ、あんっ♡」 「言えそう?」 「いじわる……っ」 「うん」 「認めないで……っ」 「伊織」 「はい……っ」 「俺のそばは苦しいか」 伊織の胸が揺れた。 宗春の声は、急に甘くなかった。 静かで、真面目だった。 伊織は息を乱しながら、答える。 「苦しく……っ、ありません……っ」 「では?」 宗春がゆっくり深く動く。 伊織は宗春の肩を掴んだ。 「息が……っ」 「うん」 「しやすい……っ」 宗春の動きが止まりかけた。 伊織は恥ずかしさで目を閉じる。 「今のは、忘れて……っ」 「忘れない」 「では、聞かなかったことに」 「しない」 宗春は伊織の口元へ口づけた。 「俺もだ」 伊織の喉が震えた。 「殿も?」 「伊織がそばにいると、息がしやすい」 伊織の目元が熱くなる。 「そのようなことを……っ」 「夜に言う」 「ずるい……っ」 「うん」 宗春が再び動き始める。 今度は少しだけ強い。 けれど、まだ崩さない。 丁寧に、伊織の体を奥へ運んでいく。 「宗春さま……っ」 「うん」 「もう……っ」 「崩れる?」 「崩れ……っ、たくない……っ」 「崩れていい」 「いやです……っ」 「俺が受ける」 「だから……っ、ずるい……っ」 宗春は伊織の膝裏を抱えたまま、深く突き上げる。 伊織の声が甘く跳ねた。 「っ、あっ♡」 「一貫だけ、残してくれた」 「それは……っ」 「俺のために」 「はい……っ」 「今夜も、一つだけ欲しい」 「何を……っ」 「伊織の本音」 伊織は泣きそうに息を震わせた。 宗春は待つ。 ただし、腰は止めない。 ゆっくり、深く。 伊織の歩幅に合わせるように。 けれど、宗春の腕の中からは出さない。 「……宗春さまの、そばにいると」 「うん」 「少しだけ……っ」 「うん」 「楽です……っ」 宗春の腕が強くなる。 「少しだけ?」 伊織は悔しそうに唇を噛んだ。 「……たくさん、です……っ」 宗春の息が乱れた。 「よく言えた」 「もう……っ、褒めないで……っ」 「無理だ」 「無理なのは……っ、私です……っ」 「もう無理?」 「聞かないで……っ」 「伊織」 「はい……っ」 「俺の歩幅で、最後まで来い」 伊織は宗春の肩を掴み、うなずいた。 「はい……っ」 「声を隠すな」 「無理……っ」 「隠せない?」 「隠せ……っ、ない……っ」 「では、呼べ」 「宗春さま……っ」 「うん」 「崩れる……っ」 「いいよ」 「運んで……っ、最後まで……っ」 「うん」 「宗春さま……っ、いって、しま……っ♡♡」 伊織の体が、宗春の腕の中で震えた。 宗春はすぐには動かなかった。 崩れた寿司を慌てて直すのではなく、崩れた伊織をそのまま受け止めるように、膝裏を支えたまま抱いていた。 伊織は荒い息のまま、宗春の胸元へ額を寄せる。 「……殿」 「うん」 「崩れました」 「うん」 「……悔しいです」 「きれいに運べた」 「慰めになっておりません」 「本当だ」 宗春は伊織の髪を撫でた。 「伊織は、崩れても綺麗だ」 「評価は不要です」 「では、俺だけが知っている」 「それも厄介です」 宗春は笑った。 皿の上には、穴子寿司の笹だけが残っていた。 「明日も食べるか」 「寿司をですか」 「最初は」 伊織は宗春の胸元を軽く掴んだ。 「その言い方は、もう聞き飽きました」 「では、別の言い方をする」 「はい」 「明日も、俺の歩幅で来るか」 伊織は黙った。 夜の熱が、まだ体に残っている。 昼の川風。 直澄の歩幅。 宗春の腕。 その全部が、一日分の熱になっている。 「……急がないなら」 宗春の目元が甘くなる。 「急がない」 「置いていかないなら」 「置いていかない」 伊織は小さく息を吐いた。 「では」 「うん」 「……少しだけ」 宗春は伊織を抱きしめた。 「少しでは済まない」 「毎回、それです」 「伊織が可愛いからな」 「評価は不要です」 「はいはい」 「雑です」 「でも、離さない」 伊織は文句を言わなかった。 その代わり、宗春の胸元に額を預けたまま、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。 **** 翌朝。 直澄は、霧川筋の魚荷と普請杭の時刻分けを帳面にまとめた。 景継はそれを読み、短く頷く。 「理は通っている」 「はい」 「榊殿の案か」 直澄は少しだけ沈黙した。 「魚荷を朝へ、材木を昼へ。飯の時刻もずらす。その考えは、榊殿からです」 「やはりか」 景継は帳面を閉じた。 「咲霧の荷場を探ったわけではないな」 「はい」 「何を見た」 直澄は答えた。 「歩く者の速さと、飯のずれる時刻を」 景継は黙った。 それから、低く言う。 「……相変わらず、妙なところを見る」 「はい」 「褒めてはいない」 「承知しております」 **** 奥座敷では、宗春が伊織に尋ねていた。 「今日はどこへ行く?」 「どこにも行きません」 「寿司は?」 「昨日食べました」 「俺と?」 「……昨日は、青柳殿と」 宗春がわざとらしく眉を上げる。 「妬くな」 「ご自分で仰らないでください」 「では、今夜は俺と」 「殿」 「歩幅を合わせる」 伊織は耳を赤くし、視線を逸らした。 「……昼だけなら」 「夜は?」 「聞かないでください」 宗春は笑う。 直澄は筆を取らなかった。 景継は胃を押さえた。 笹の香りはもう残っていない。 それでも伊織は、宗春のそばに立つ時、昨日よりほんの少しだけ歩幅を緩めた。 宗春が、それに気づかないはずがなかった。

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