6 / 16
第6話 寺子屋帳面と、書けない名
「殿」
「うん」
「霧生殿の様子が、いつも以上に硬いです」
「いつも硬いだろう」
「その上で、さらにです」
「石になったか」
「殿」
朝の咲霧藩上屋敷。
伊織は奥座敷の隅で、文箱を整えながら声を潜めた。
景継は、先ほどから帳面を一冊抱えたまま、こちらへ近づこうとしては足を止めている。
何か言いたい。
しかし言いたくない。
それが全身から出ている。
宗春はそれを面白そうに眺めていた。
「景継」
「はい」
「その帳面は食えないぞ」
「承知しております」
「抱え込みすぎだ」
「抱えてなど」
景継は言いかけて、帳面をさらに強く抱えた。
伊織は見なかったことにした。
直澄は筆を持ったまま、少しだけ目を伏せている。
「殿」
景継がようやく口を開いた。
「国元より、寺子屋の師匠が病に伏したとの報せが」
宗春の表情が少しだけ変わった。
「山里の?」
「はい」
「子どもは」
「数日は休みとなっております。代わりの者はおりますが、紙と筆墨の手配が遅れております」
直澄が続ける。
「近頃、紙も墨も値が上がっております。江戸でも国元でも、普請と荷の増加で、何かと品が動きにくい」
伊織は文箱の手を止めた。
「子どもたちの手習いが止まるのですか」
景継の眉が動く。
「榊殿には関わりのないことです」
「はい」
伊織は素直に引いた。
ただ、目だけが帳面の端を拾ってしまう。
紙代。
筆墨代。
師匠への見舞い。
子ども用の反故紙。
表向きの藩費ではなく、別の細い支出に紛れている。
伊織はすぐに目を離した。
景継も、それに気づいた。
「榊殿」
「はい」
「今、何を」
「帳面の端を見てしまいました。申し訳ございません」
景継の声が硬くなる。
「何が見えました」
「子どもたちの紙代が、他の費目に混じっております」
部屋の空気が止まった。
直澄の筆も止まる。
宗春だけが、黙っている。
伊織は深く頭を下げた。
「意図して探ったわけではございません」
「では、見えただけで分かったと」
「はい」
景継は怒るでもなく、ただ静かに伊織を見た。
伊織はその静けさの方が痛かった。
「霧生殿」
「何です」
「その支出は、隠すべきものではないと思います」
「榊殿」
景継の声が低くなった。
宗春がそこで初めて口を挟む。
「景継」
「殿」
「伊織に最後まで言わせろ」
景継は唇を引き結んだ。
伊織は少しだけ息を整える。
「紙と筆墨は、藩の将来への支出です。身寄りのない子どもであれ、百姓の子であれ、読み書きを覚えれば、帳面を読めます。人に騙されにくくなります。年貢も荷も、きちんと数えられるようになります」
景継の手が帳面を握る。
伊織は続けた。
「善意として隠せば、誰かが見つけた時に弱みになります。藩の支出として整えれば、霧生殿が一人で抱えるものではなくなります」
景継の目が鋭くなる。
「榊殿。まるで私が私情で藩費を」
「違います」
伊織はまっすぐ言った。
「私情なら、もっと粗くなります。これは、藩のためになるように隠した帳面です」
景継が言葉を失った。
直澄が静かに視線を落とす。
宗春は小さく笑った。
「な、景継」
「何が、でございますか」
「伊織はよく見る」
「……よく見すぎます」
「でも、売らない」
伊織は宗春へ向く。
「殿」
「弱みにする気なら、今の言い方はしない」
景継は沈黙した。
それから、苦々しそうに息を吐く。
「殿は、ご存じだったのですか」
「うん」
「いつから」
「お前が妙に反故紙の量にうるさくなった頃から」
「なぜ黙って」
「お前が隠したがっていたから」
景継は、今度こそ本当に言葉を失った。
伊織は少しだけ目を伏せた。
宗春は軽く言う。
「では、決める。寺子屋の紙と筆墨は、咲霧藩の支出として整える。景継の私的な工面ではない。直澄、帳面を直せ」
「承知しました」
「伊織」
「はい」
「反故紙を選べ。使えるものを国元へ送る」
「承知しました」
景継がすぐに言う。
「榊殿にそこまで」
「俺が頼んだ」
「ですが」
伊織は景継へ向き直る。
「霧生殿」
「何です」
「子どもに送る紙です。汚れや破れは、私が確かめます」
景継は少しだけ目を細めた。
「……なぜ、そこまでなさる」
伊織は答えに迷った。
しばらくして、静かに言う。
「字を覚える者は、いつか誰かを助けます」
景継は黙った。
その沈黙には、先ほどまでの疑いだけではないものが混じっていた。
****
昼。
伊織は奥の部屋で、反故紙と古い手習い帳を選んでいた。
宗春も一緒に座っている。
正確には、手伝っているようで、伊織の近くにいるだけだ。
「殿」
「うん」
「その紙は、まだ裏が使えます」
「では、こちらへ」
「その紙は、墨が濃すぎます」
「では、伊織の膝へ」
「なぜですか」
「近いから」
「紙の仕分けに近さは不要です」
「俺には要る」
伊織はため息をついた。
宗春は笑う。
その横で、直澄が古い筆を束ねている。
直澄は、必要な支出だけを帳面に移していた。
ただ、藩の支出として通るよう、品目を整える。
「青柳殿」
伊織が言う。
「はい」
「筆先が割れたものは、子どもには使いづらいかと」
「承知しました。師匠用と、練習用に分けます」
「お願いします」
直澄は淡々と頷いた。
だが、少しだけ表情が柔らかい。
景継は部屋の入口で、その様子を見ていた。
入ってこない。
口も出さない。
けれど、去りもしない。
伊織は一冊の古い手習い帳を開いた。
そこには、大きく下手な字で「さきぎり」と書かれていた。
次の頁には「むねはる」。
宗春が覗き込む。
「俺の名だ」
「若い頃の殿ですか」
「違う。春丸かもしれない」
「若君が」
「国元で遊び半分に書いたのかもな」
「遊び半分でも、名を書くのはよいことです」
「では、伊織も書くか」
伊織の手が止まる。
「私は」
宗春が笑う。
「何だ」
「字は書けます」
「知っている」
「今さら手習いは」
「俺の名を書け」
伊織は宗春を見た。
宗春は冗談めかしている。
だが、その声には妙な甘さがあった。
「……なぜ」
「見たい」
「殿の名など、何度も書状で」
「職務の字ではなく」
伊織は返せなかった。
直澄は筆を束ねる手を止めない。
景継は入口で咳払いをした。
「殿。榊殿で遊ばないでください」
「遊んでいない」
「では何を」
「口説いている」
「なお悪いです」
伊織は耳を赤くした。
「書きません」
「夜なら?」
「なお書きません」
宗春は楽しげに笑った。
「では、夜に」
「決定しないでください」
****
その日の夕刻、国元へ送る反故紙と筆墨の荷が整った。
景継は荷札を確認し、伊織の前で短く頭を下げた。
「榊殿」
「はい」
「余計なことをなさいました」
「申し訳ございません」
「ですが」
景継は言葉を探した。
「子どもたちは、助かるでしょう」
伊織は静かに頭を下げる。
「それなら、十分です」
景継は帳面を抱え直した。
まだ、伊織を信用したわけではない。
ただ、咲霧を害する者なら、寺子屋の帳面を守るような真似はしない。
その一点だけは、景継も認めざるを得なかった。
****
夜。
宗春の部屋には、文机が置かれていた。
その上に、白い紙、筆、硯、墨の匂い。
伊織はそれを見て、すぐに警戒した。
「殿」
「うん」
「昼の話は終わりました」
「夜の手習いだ」
「不要です」
「俺の名を書け」
「書きません」
「では、俺が書かせる」
「なお悪いです」
宗春は文机の前へ座る。
そして、伊織の手を取った。
「来い」
「命令ですか」
「願いだ」
「その言い方にも慣れてきてしまいました」
「いいことだ」
「よくありません」
宗春は伊織を自分の前へ座らせた。
背後からではない。
横でもない。
文机の前。
伊織の手を取り、筆を握らせる。
その上から、宗春の手が重なる。
「殿」
「うん」
「近いです」
「筆を持つには、このくらい近い」
「嘘です」
「うん」
「認めないでください」
宗春は墨を含ませた筆を、伊織の指ごと支えた。
白い紙の上に、ゆっくり線が落ちる。
咲、霧、宗、春。
伊織の字は整っていた。
だが、宗春の手が重なっているせいで、いつもよりわずかに揺れた。
「震えた」
「殿が手を重ねるからです」
「俺の名で?」
「違います」
「では、俺の手で?」
伊織は黙った。
宗春が笑う。
「次は、伊織」
「自分の名は書けます」
「俺が見たい」
「見てどうなさるのです」
「覚える」
「もう覚えておられるでしょう」
「もっと」
宗春は伊織の手を導いた。
榊、伊織。
紙に二つの名が並ぶ。
咲霧宗春。
榊伊織。
伊織はそれを見つめ、少しだけ息を止めた。
並んでいる。
ただの文字なのに。
紙の上で、離れずに。
宗春の声が低くなる。
「いいな」
「……何がですか」
「並んでいる」
伊織の胸が揺れる。
「文字です」
「うん」
「それだけです」
「そういうことにしておく」
宗春の手が、伊織の手首へ移る。
筆が紙の上を離れる。
墨を含んだ穂先が、文机の縁に触れた。
伊織は慌てた。
「墨が」
「あとで拭く」
「文机が汚れます」
「今は伊織」
「殿」
宗春は伊織の手から筆を取り、文机へ置いた。
次の瞬間、伊織の手を文机の縁につかせる。
「っ」
「手習いの続き」
「これは、手習いでは」
「書く代わりに、声を教える」
伊織の頬が一気に熱くなる。
「そのような教えはありません」
「俺が作る」
「作らないでください」
宗春は伊織の腰へ手を回し、文机の前で抱き寄せた。
紙の上には、二つの名。
筆は横へ転がり、墨の匂いが近い。
「嫌なら」
「……嫌では、ありません」
「では、続ける」
「確認が早いです」
「伊織の返事が欲しいだけだ」
伊織は文机の縁を掴んだ。
「続けてください」
宗春の息が熱くなる。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「無理だ」
宗春は伊織の手を文机に残したまま、声まで書きつけるように深く重なった。
繋がった瞬間、伊織の指が机の縁に食い込む。
「っ、あ……っ♡」
宗春の手が伊織の腰を支える。
机の上の筆が、かすかに転がった。
伊織は反射的にそれを見た。
「筆が……っ」
「落ちていない」
「紙が……っ」
「名も消えていない」
宗春がゆっくり動く。
文机の縁に手をついた伊織の体が、小さく擦れる。
奥まで届く熱に、伊織の息が乱れた。
「っ、あんっ♡」
「いい声だ」
「声の評価は……っ、不要……っ」
「では、手習いだ」
「何の……っ」
「俺の名を呼ぶ」
伊織の喉が震える。
「宗春さま……っ」
「うん」
「これで……っ」
「まだ」
宗春が深く突き上げる。
伊織の背が反り、指が文机の縁を掴み直す。
「っ、あっ♡」
「もう一度」
「宗春さま……っ」
「いい」
「だから、評価は……っ」
「榊伊織」
伊織の体が小さく跳ねた。
名前を呼ばれただけで、奥に届く熱がさらに深くなる。
「返事」
「はい……っ」
「俺の名の隣に、お前の名を書いた」
「文字です……っ」
「夜は?」
「聞かないで……っ」
「言え」
「隣に……っ」
宗春がゆっくり奥を擦る。
伊織の声が崩れた。
「隣に、います……っ♡」
宗春の腕が強くなる。
「よく言えた」
「もう……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「紙には書けないこともある」
「何を……っ」
「今の声」
伊織は恥ずかしさで目を閉じた。
「書かないでください……っ」
「書かない」
「絶対に……っ」
「俺だけが覚える」
「それが一番……っ、あんっ♡、厄介です……っ」
宗春は低く笑い、伊織の腰を抱え直した。
文机の前で、何度も深く突き上げる。
墨の匂い。
紙の白。
並んだ二つの名。
転がった筆。
それらが全部、伊織の逃げ場をなくす。
「伊織」
「はい……っ」
「俺の名、書けたな」
「はい……っ」
「呼べるな」
「はい……っ」
「欲しい時も?」
伊織は息を詰めた。
宗春は動きを止めない。
「言え」
「それは……っ」
「手習いだ」
「違います……っ」
「違わない」
「宗春さま……っ」
「うん」
「欲しい、です……っ」
宗春の息が乱れた。
「何が」
「聞かないで……っ」
「伊織の言葉で」
「続き……っ」
「うん」
「奥まで……っ、続けて……っ」
宗春の腰が深くなる。
伊織の声がはっきり甘く崩れた。
「っ、あんっ♡」
「よく書けた」
「書いて、ません……っ」
「声で書いた」
「そんなこと……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「もっと」
伊織の指が文机に食い込む。
「宗春さま……っ、もっと……っ」
「うん」
「墨が……っ、筆が……っ」
「見なくていい」
「でも……っ」
「俺を呼べ」
「宗春さま……っ」
宗春が奥まで届かせる。
伊織はもう、声を抑えられなかった。
「っ、あっ♡ 無理……っ」
「無理?」
「無理です……っ、でも……っ」
「でも?」
「止めないで……っ」
「よく言えた」
「もう……っ、宗春さま……っ」
「うん」
「名が……っ、隣に……っ」
「うん」
「私も……っ、隣に……っ」
宗春は伊織の手を、文机の上で握った。
「いる」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「いきそうか」
「聞かないで……っ」
「俺の名を呼んで」
伊織は涙ぐみそうになりながら、宗春の手を握り返した。
「宗春さま……っ」
「うん」
「隣に……っ、いさせて……っ」
宗春の息が大きく乱れる。
「いる」
「はい……っ」
「伊織」
「はい……っ、もう……っ、字にならない……っ、宗春さま……っ、いって、しま……っ♡♡」
伊織の体が、文机の前で震えた。
宗春はすぐにはからかわなかった。
転がった筆を直すより先に、伊織の体を抱き止める。
紙の上の二つの名は、そのまま残っている。
墨が乾くまで、宗春は伊織を動かさなかった。
伊織は宗春の腕の中で荒い息を整え、やがて小さく言う。
「……殿」
「うん」
「紙を」
「汚れていない」
「見ないでください」
「見る」
「殿」
「並んでいる」
伊織は言葉を失った。
宗春は伊織の乱れた髪を撫でる。
「いい名だ」
「……榊伊織は、仮の名です」
宗春の手が止まる。
伊織も、自分が言った言葉に気づいた。
部屋の空気が静かになる。
宗春は問わなかった。
ただ、低く言う。
「今夜、俺が呼んだのは伊織だ」
伊織の胸が震えた。
「……はい」
「それでいい」
伊織は目を伏せた。
「殿」
「うん」
「今のは、忘れてください」
「忘れない」
「では、聞かなかったことに」
「それもしない」
宗春は伊織を抱き寄せる。
「ただ、今は聞かない」
伊織は、そこで初めて息を吐いた。
宗春は、伊織の背を撫でる。
「紙に書けない名も、いつか言え」
「……いつか」
「うん」
伊織は返事をしなかった。
ただ、宗春の胸元へ額を預ける。
文机の上では、咲霧宗春と榊伊織の名が、静かに並んでいた。
****
翌朝。
景継は、国元へ送る荷の控えを確認していた。
反故紙。
筆墨。
古い手習い帳。
師匠への見舞い。
直澄は帳面に必要な品目だけを書いた。
景継はしばらく黙ったあと、低く言った。
「榊殿の字は」
直澄が手を止める。
「整っております」
「そうか」
「はい」
景継は帳面を閉じた。
「……寺子屋へ送る手習い帳に、礼状を添えろ。殿の名で」
「承知しました」
「榊殿の名は出すな」
直澄は少しだけ景継を見る。
景継はそっぽを向いた。
「余計な評判が立つ」
「承知しました」
****
奥座敷では、宗春が昨夜の紙を乾かしていた。
伊織はそれを見つけ、固まった。
「殿」
「うん」
「なぜ残しておられるのですか」
「いい字だから」
「処分してください」
「嫌だ」
「殿」
「咲霧宗春」
宗春は紙を指す。
「榊伊織」
伊織の耳が赤くなる。
「読み上げないでください」
「並んでいる」
「文字です」
「そういうことにしておく」
伊織は紙を奪おうとした。
宗春はひょいと上へ逃がす。
「返してください」
「嫌だ」
「殿」
「今夜、もう一枚書くか」
「書きません」
「手を重ねれば書ける」
「書きません」
「では、声で」
伊織は一瞬で赤くなった。
「朝から、その話は」
宗春は笑う。
直澄は筆を取らなかった。
景継は遠くで胃を押さえた。
文机の上の名は、まだ乾ききっていない。
それでも伊織は、少しだけ、その二つの字から目を離せなかった。
ともだちにシェアしよう!

