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第10話
「先生、なにしてるのっ⁉」
「なにって、氏家の身体を拭いてやってる。こいつのお母さんにさっき頼まれたんだよ」
「なんでっ! なんで先生が頼まれるんだよ~っ」
「なんでって、氏家のお母さんが、時間がないからよろしく、先生! って―あっ、こらっ」
俺は自分の荷物をベッドの端に置くと美濃からタオルを奪い取り、えいっと美濃のでかい身体を押しのけた。
「俺がやるから、先生はあっち行って。そこ、座っといていいから」
「お前、ひどくないか……、こいつの彼 ―、まぁ、いいか……」
言葉を濁した美濃は、折りたたみ椅子に座ると足をくむ。俺は先生に横向けにされていた哲也くんの背中をごしごし拭うと、彼の指に自分の指を絡めてびよんと上にひっぱって彼の腕を伸ばした。手首から腕の付け根にかけてくるくると拭きながら下りていく。肩のあたりはぐりんとタオルを一周させた。脇を拭いたときには、毛をちょんちょんとひっぱってみる。
(俺、まだこんなに生えてないや。哲也くんは大人だなぁ)
棚の上を見れば水の入った洗面器と、コップのなかにいれた剃刀がある。ヒゲも生えているのかな? 俺は哲也くんの顎を撫でさすってみたが、そこはツルツルしていた。
「先生、てつ、じゃないや、……氏家ってヒゲ生えてるの?」
「さぁ? まぁ生えるんじゃないのか? そこに剃刀あるし。氏家のおかあさんが手入れしてんじゃないのか?」
「ふぅん」
そうだよな。寝ていてもヒゲや髪は伸びてくるか。俺の顎にはまだ産毛くらいしか生えてこないけど、哲也くんならもうぼうぼうなのかな? 哲也くんの無精ヒゲ生えたところ見てみたいな。かっこよさそう。
俺は哲也くんのヒゲが生えているところ想像して、ぽわんとなった。
(ん? そういえば……)
俺は眠る哲也くんを布団にそうっと横たえると、隣のベッドのカーテンをシャッと開けた。眠る坊主頭のおじさんの頭はあいかわらずツルツルだったが、よく見れば顎ヒゲは長くなってきている。
「おじさんって、坊主頭じゃなくてハゲだったんだね! ―痛いっ!」
「ばかっ、藤守っ、おまえ呪われるぞっ、じゃないや、バチあたるぞっ!」
「うわっ」
美濃は俺の首根っこを掴むと、おじさんのベッドのそばから放りだした。そしてカーテンを締めると、俺から濡れタオルをとりあげる。
「もういいっ、これも俺がやるからお前はおとなしく座っとけ」
「やだっ、返せっ! 俺がするんだっ」
「だーめーだっ! なんかお前いやらしいんだよっ、触り方がっ」
「あっ、先生、俺がホモだからって差別するんだっ、ひどいっ、教師のクセしてっ」
「差別なんかしてないぞっ、事実を云ったまでだ。お前拭いているよりも、手で氏家のこと撫でまわしているほうが多いんだよっ。痴漢かっ」
「痴漢じゃありませんっ、学級委員長ですぅぅっ、返せっ、タオル返せっ! 俺はクラスメイトのために働くんだっ」
手を伸ばしてぴょんぴょん飛びあがるが、上背のある美濃が高く掲げたタオルに俺の手は届かない。くぅっ。くやしぃぃぃっ。
そうこうしているうちに、カツカツカツと誰かの足音が近づいてきた。
「あなたたち病院で騒がないでくださいっ!」
ひどい形相の看護師に怒鳴られて、俺と美濃は「ぎゃっ」と抱きつきあって飛びあがった。
ふくよかな肉体を持つ化粧の濃い看護師の眉はきりきりと吊り上がっていて、ギロッと睨まれた美濃が「ひぃっ」と息を呑む。俺はそのすきに美濃からタオルを奪い返した。
「またあなたですか、センセイ! 教育者ともあろうものが場所や状況をわきまえないなんて、それでどうやって生徒を指導しているんですかっ?」
「はいっ、申し訳ございませんっ」
「斉藤さんはいま危ない状態なんですよ⁉ これ以上騒ぐようなら出ていってもらいますからねっ」
「はいっ。すみません、すみません」
「ふんっ。……あぁ、斉藤さんになにかあったら、ナースコールしてくださいね、でわ」
「は、はい。まかせてください……ははは……」
「美濃先生、ほんっとかっこ悪いよなぁ。それに比べて哲也くんってなんでこんなにかっこいいんだろう」
俺はうっとりとしながら、哲也くんの首のまわりをタオルでごしごし擦った。あっ、しまったついつい思っていることが声に出てしまっていたよ。やばいやばい。ね、哲也くん。
俺は哲也くんの高い鼻をつんつん突ついてにへらと笑った。
(はぁ、今日もかっこいいねぇ)
「おい、藤守。わかった。この場はお前に譲ってやる。そのかわり交換条件だ」
「交換条件?」
「お前、ちゃんと話せ。お前にいやがらせしてるのって、竹中や猶本たちなんだろ?」
「…………」
俺は口をぎゅっと噤んだ。こんなやつ、無視だ。無視、無視。
俺はさっきとは反対のほうの哲也くんの腕をとると、手首から順に丁寧に拭いていく。
「なぁ、先生、悪いようにしないから。約束する」
「…………」
「蒸し返したくない藤守の気持ちもわからないではないんだ。でも、このままにしておけない。それはもちろんお前のためでもあるけど、加害者をそのままにしていたらつぎに犠牲になるヤツもでてくるんだ。それにそいつら自身、それでいい訳がない」
「…………」
なぁ、と美濃が弱りきった口調で云った。そもそも今日は日曜日だ。なんで先生が病院にいるんだよ。気まずいじゃないか。
「先生、もう帰ってよ」
「ああ、でも、このあとまた学校で用事があってな。それまではお前と話をしたくて」
なんだ。俺に会いに来たのか、わざわざ? 教師ってのもたいへんだな。休日にまで仕事だ、生徒の世話だって。……どうせ、俺のこと面倒な生徒だって思ってんじゃないの?
「…………知ってどうするの?」
俺は美濃の顔を見たりせず、哲也くんの身体を拭く手もとにじっと目を据えたまま口をひらいた。
「最低でもダメにしたお前の持ち物や傷つけた学校の備品を弁償させる。悪いことをしたと自覚させてお前に謝らせたい」
「謝ってなんかいらない。先生わかってないね。俺はあいつらの顔なんて見たくないんだよ。名まえだって聞きたくない。もう忘れたい。はやく忘れたい!」
「……悪い。先生ちょっと鈍くって。お前にとっては嫌なんだろうこと云ってしまったりする。ごめんな」
美濃がしょんぼりと肩を落とした。そんなのを見ていると俺がこいつのこといじめているみたいで、すごく嫌な気持ちになる。疚しくて視線を外したら、彼の肩越し、窓際の棚のうえにコピー用紙の束を見つけた。
「先生、あれなに? 窓んとこの」
「あぁ、これか? そうそう、忘れてた。これはな、歴史とか国文学とかの補講のプリントコピーしてきたやつ」
美濃は手を伸ばしてプリントの束をとると、パラパラめくりながら俺に見せてくれる。ピンクや青のラインや文字が混ざっているので、フルカラーのコピーだ。
「稲葉のノートをコピーさせてもらったんだ。いろいろ書きこんであるから、これならお前も氏家に教えてやりやすいだろうって思ってさ。稲葉のノートって俺の知る限り学年で五本の指にはいるほどの出来栄えなんだよ」
「……ふぅん」
棚の上にはこのあいだ美濃が持ってきたノートのコピーと新しいノートがそのままになっている。あのとき美濃は俺に補講のノートを「書き写してやれ」って云った。そのままコピーを哲也くんにあげればいいだけなのに。今だってお前が教えやすいだろうって。
こいつは俺が自分で哲也くんにしてやりたいって気持ちをわかってくれている。鈍いし、デリカシーないやつだけど、ちゃんと俺のことわかろうと努力はしてくれている。
俺はどうしたらいい? このままぜんぶを無視していても卒業はできる。むしろそっちのほうが、外野がどれだけ俺のことで騒いでいても、俺はこれ以上嫌な思いはしなくてすむはずなんだ。なにも知らなければ、それは俺にとってなにもなかったことといっしょなんだから。
逆にこいつに話してあいつらに関われば関わるだけ、絶対に嫌な思いをする。俺は傷つく。新しい弱みをあいつらに与えることになる。
(俺、どうすればいい? 哲也くん……)
タオルで擦っていた哲也くんの乳首がちょっと尖ってきたような気がした俺は、立てた人差し指のさきでそこをテンテンと突いてみた。
(ちょっと硬い?)
今度は指のひらで押しつぶすようにして、それからさすってみる。いちど沈んだ乳首のさきがプニッとまた頭をだし、指の動きにあわせて左右に揺れた。不思議なことにそこと俺の身体の一部は直結しているみたいだ。なんと指のひらに感じたその感触で、俺の股間がじんわり疼く。
ぷにぷにぷに。こすりこすりこすり。
指さきも、お股も気持ちいい。はぁと熱い溜息がもれた瞬間、バコンッと頭を殴られた。
「いったーっ、なにするんだっ⁉」
「なにするんだは、こっちのセリフだっ! やっぱりタオル貸せっ! つづきは俺がやるっ」
「先生の変態っ、氏家のオムツ脱がすつもりだなっ」
「だれがそんなこと考えるかっ! 藤守、お前誰もいないときとか狙って、オムツを脱がすんじゃないぞっ。犯罪だからなっ。そこはヘルパーさんの領域だっ」
「身内だったらいいんですぅーっ」
(たぶん?)
心のなかで首を傾げる。
「お前は身内じゃないだろうがっ。彼女のつもりかっ? いや、ちがう。彼氏のつもりかっ?」
美濃の言葉で胸がぶわっとなる。
「どうせ先生は学校一人気の氏家が、学校一嫌われものの俺のことなんて相手にしないって思ってるんだろ!」
哲也くんの彼氏だとか、恋人になれたらだとか―俺がそんな図々しいこと絶対に想像しないようにしてるってのに、なのに、なのに教師がそんなふうにそんなこと、お気軽に云うなよ!
「俺だってわかってるよ、そんなこと! でも今ぐらいいいじゃないかっ。氏家寝てるんだし、記憶に残らないんだから。氏家にとってはなかったこととおなじなんだよ? だったらちょっとぐらいいいじゃんかっ。減るもんじゃなしっ」
美濃がまたあの看護師に叱られるといいと思って、俺はでっかい声で叫んでやった。とたんに美濃が慌てだす。
「わかった。わかったから、ちょっ、藤守声をちいさくしろっ、しーっ、しーっ」
「…………」
「よし、やっぱり取引だ。……お前のその極まりない痴漢行為、見逃してやるから白状しろ。お前に嫌がらせしているやつはだれだ?」
俺はベッドに乗りあがると、哲也くんの足もとで丸まっていた布団をひっぱりあげた。
「……だれって、クラスの男子のほとんどと、一部の女子って云っただろ? リーダー格は……竹中と猶本。あいつら俺と中学いっしょだった」
学区がいっしょだったから自宅も家電もバレバレだ。
哲也くんのとなりに寝転んだ俺は、布団をずりずり肩までひきあげる。
「明日、六限目の授業終わったら教室に呼び出されてる」
「藤守……?」
俺は布団のなかに頭のさきまですっぽりと潜りこむと、ぎゅうっと哲也くんにしがみついた。そして云ったんだ。「……先生、助けて」って。勇気を出して。
そして俺は、それにたいする美濃の返事を聞くことはなかった。
「センセイッ! なんど注意したらわかるんですかっ! 隣の病室から何度も何度もクレームが来ているんです、いい加減にしてくださいっ‼」
美濃が予想通りカツカツと足音高く部屋に乗りこんできた看護師に、捕まったからだ。彼は「えっ、うわっ、ちょっと、いや、待ってっ、待ってくださいぃぃっ」と、情けない声をあげながら、そのままどこかへ連れて行かれてしまった。
果してあんな鈍くさい男に、俺を助けることができるのだろうか。俺には謎だ。
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