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第22話 その後 3.月曜日の夜

 木田は佐伯の気持ちが自分にあるのを知っていた。知っていたし、今もその気持ちが変わっていないことを何となく感じていた。  でも、まだ俺を信じられずにいるんだな。信じてもらえてないなら…まだ片想いだ。  佐伯が自分を信じられるように刺青でも彫ろうかと考えた。あるいは自分の体の一部をプレゼントするとか…でもそれじゃ、ヤの付く自由業の人たちみたいだし…どうしたら信じてもらえるんだろう。俺が佐伯さんを裏切らないってことを。佐伯さんさえ俺を信じてくれれば、冷たい世間の荒波を一緒に乗り越えていけるということを。  一方、佐伯は限界を感じていた。木田が欲しくてたまらない。すぐにでも押しかけて誘いたい。いや、それより何より、今すぐ優しく抱きしめて欲しい。  でも、そんなことをしたら自分はまさしく海の魔物になってしまう。それにポセイドンは魔物ごときに魂まで奪われるだろうか。すぐに我に返って自分を捨てるに違いない。  待てよ。僕と恋人になって数年付き合ったところで、若気の…三十路を過ぎて若気が通用するかわからないけど…とにかく、至りで済まされるのでは?木田の人生を完全に沈没させるのでなければ、寄り道ぐらいさせてもいいのでは?そう思ってしまい、木田の気持ちを受け入れようと決心しそうになる自分がいる。  捨てられて傷つくなら、傷つけばいい。ただ、優しい木田は自分を捨てたいと思っても、捨てられないに違いない。それなら…その時、自分から離れればいい。そう思いながらも、やっぱり傷つくのが怖かった。  だから佐伯は決心した。木田をゲイバーに連れて行く。  実は佐伯もゲイバーに行ったことがなかった。行かなくてもノンケのカレシができたから。でもゲイである自分は、そこに出入りしている人たちと同じ目で見られる。木田も自分と付き合うようになれば同じ扱いをされる。  以前に比べれば理解が得られるようになったとはいえ、自分たちはまだ日陰の身。カミングアウトして堂々と生活しているのはほんの一部。ほとんどは自分のセクシャリティを抱え込んで生きている。それがどんな雰囲気なのか知ってもらおう。そうすればさすがの木田も怖くなって逃げ出すかも知れない。  田舎の広い大地で真っ直ぐに育った木田は、自分が踏み込もうとしている世界がどんなところなのか実感できてないんだろう。だから何の引け目を感じずに、堂々と仲間に僕を紹介できるんだろう…そう思った佐伯は思い切って、同僚が飲みに行かないであろう月曜日の夜、木田がオフの日にゲイバーで飲もうと誘った。  木田は驚いたけど、これも経験だと思い気楽にOKした。最近、木田も世間に顔が知られてきた。でもドラムを叩く時の木田と、素の木田のギャップが激しすぎるのか、想像以上に細長いからか、人々に気づかれて騒がれることはほとんどなかった。だからメガネだけして佐伯の後についてバーに入った。  佐伯は事前に入りやすそうなバーを調べておいた。入り口でドリンクを買って中に入る。スタンド席になっていて、そこで相手を探しながらアルコールを飲む。  二人は各自グラスを持ってテーブルの前に立った。 「少し離れていてください。その方がわかりやすいから」  一緒にいてはカップルだと思われる。それでは相手を探しにきている人が声をかけにくいし、本当の雰囲気もわかりにくい。佐伯は誰かが自分に声をかけてくるのを、あるいは木田に声をかけるのを待って、ここの雰囲気を肌で感じて欲しかった。  木田は“何が?”と訊こうとしたけど、やめた。今日の佐伯はいつもと雰囲気が違う。何かを決意しているような、思い詰めたような表情。だからとにかく従おうと思い、木田は隣のテーブルにカクテルを置いた。  しばらく黙って酒を飲む。佐伯はうつむいたまま、木田はキョロキョロと周囲を見回しながら。  木田は男ばかりの、しかも雰囲気が普通とは違うバーに入っても物怖じしなかった。木田さんて…背も大きいけど器も大きいんだな…と、改めて木田に惚れてしまう自分に戸惑う佐伯。これで木田さんが僕から逃げ出さなかったら…全ての覚悟を決めて正式に付き合おう。もし逃げ出したら…思い切り泣こう。  そんなことを考えていると、背の高い男が入ってきて佐伯の横に立った。そしてカクテルグラスを佐伯に向ける。佐伯は自分のグラスをぶつけた。 「乾杯。君、名前は?」 「ヒロト」 「そう…僕はケン」  こんなところで本名を名乗っちゃマズかったかなと思いながら、佐伯はチラッと木田を見た。薄暗くてよく見えないけど、木田は拳をギュッと握っているようだった。 「僕のうちに来る?」  いきなりそうくるか?と佐伯が思っていると、男が佐伯の腰に手を回し、ゆっくり撫で始めた。 「それともこの裏がいい?ホテルでもいいけど?」  男に触られるのは慣れている。というよりも、触られるのはいつも男だったけど、今回は何だか気持ち悪い気がして逃げ出したくなった。  その様子をすぐ隣のテーブルで見ていた木田は拳を握り歯を食いしばった。  あの野郎…殴り倒したい…  これまでの人生で木田はそんな気持ちになったことはなかった。名古屋の路地でチンピラに絡まれている中年男性を助けるためにケンカをした以外、人を殴ったこともなかった。その時だってチンピラの一人を一発殴り、男性の手を取って走って逃げたからケンカと言えるかどうかわからない。  でも今は…背の高い、といっても木田よりは低いけど…男をボコボコにしてやりたい衝動に駆られた。佐伯さんに気安く触るな…くそ…佐伯さんに…飛び出しそうになり、ギュっとテーブルの淵を握る。  頭から湯気が出そうなほど木田が怒っていることに気づかないくらい、佐伯は戸惑っていた。どうしよう…ホテルって…いま会ったばかりの相手とヤルのか?  ここに木田さんを置いて、この男とホテルへ行って寝る。木田さんは汚れた自分には執着しなくなるだろう。それに、もしこの男がまともなら…そのまま付き合えば自分の気持ちも紛れる。今まで散々抱かれて捨てられたこの体。今さら純潔もないしな。木田さんは僕を諦め、僕は気を紛らす相手を見つけられる。一石二鳥だ。  黙り込んでしまった佐伯の顔に男が顔を近づけた。 「キスして欲しいの?」  変な勘違い野郎だなと思いつつ、佐伯はやんわりと男の顔を押し返す。別れを決意したとは言え、木田の前で他の男とキスなんかしたくなかった。  木田は男と佐伯が顔を近づけるのを見て、テーブルを掴む手に一層力を入れた。テーブルを床に固定していたネジが外れるぐらい。  どうして佐伯さんは男にされ放題になってるんだ…わかった。佐伯さんは男とイチャつく自分を見せるつもりでここに来たんだ。なぜそれに気が付かなかったんだろう。佐伯さんは俺を試してる。いや、もしかしたら俺に諦めさせるつもりかも知れない…  佐伯は恥らうフリをしながら、男の体も押し返した。何となくこれ以上触られたくなかったから。 「ここじゃ恥ずかしいから…ホテルで」  家よりホテルの方が安全だろう。そう思った佐伯は大人しく男に手を握られ、テーブルを離れようとした。 「待ってください」  木田が佐伯の腕を掴んだ。 「俺もこの人を抱きたい」  何と言うべきかとか、遠回しな言葉を使った方がとか、沸騰した木田の頭にはそこまで考える余力が残っていなかった。  木田の露骨な、それでもずっと聞きたかったセリフを聞いて、佐伯は赤くなってうつむいた。 「僕が先に誘ったんだけど?」 「先着順って誰が決めた?」  木田は今にも殴りかかりそうな自分を必死で抑えた。 「重要なのは本人の気持ちだ。この人に選んでもらおう」  木田がそう言って佐伯の顔を覗き込む。燃えるような目で。  薄暗くてよく見えないとはいえ、木田の視線は佐伯にしっかり届いていた。だから佐伯は焦った。どうしよう。選べって言われたらもちろん木田さん一択だ。  だけど…木田に道を誤らせ自分も傷つく、選択肢A。木田に真っ直ぐな道を歩かせ、自分は傷つくけど諦めがつく選択肢B。  佐伯はBを選択し、男の方へ身を寄せた。 「本人が僕を選んだんだ。じゃあ、これで」  男が佐伯の手を取って外へ向おうとする。 「待ってください」  怒っているようなその声に、佐伯は足を止めてしまった。男も仕方なく足を止める。 「本当にいいんですか?出会ったばかりの男に体を委ねて」  これまでの優しいホワッとした木田とは違う、押し殺したような低い声。 「佐伯さんが本当にその男を好きだというなら…俺は…つらいけど今は引き下がります。でも素性もわからないのに、危険かも知れないのに、それでも抱かれたいんですか?」  そんなはずないだろうと佐伯は言いたかった。抱かれたいのは木田にだけ。でも…誰に抱かれようがもうどうでもいい。 「僕が誰に抱かれようがあなたに関係ない。それに…いいんですよ。こんな体どうなっても」  パン!  佐伯がそういい終えた瞬間、木田の平手が飛んできた。 「何てこと言うんだ!どうなってもいいなんて、ふざけたこと言うな!」  佐伯は叩かれた頬を押さえた。頬が熱い…そして自分の胸も。 「本気で言ってるのか?本気でどうなってもいいなんて言ってるのか?」  木田の激しい怒りに佐伯は口をつぐんだ。 「それとも俺を突き放したくて言ってるのか?試したくて言ってるのか?それなら離れてやる。そんなことまで言わせてしまって…そこまでして、つきまといたいとは思わない」  怒りで震える拳を握り締めながら木田は泣いていた。悔しくて。つらくて。情けなくて。佐伯を癒したかったのに。大事にしたかったのに。傷が増えないように大切に、大切に包み込みたかったのに…それなのに、自分の力が及ばなかった。自分が至らないせいで、佐伯にここまでさせてしまった。 「叩いて、申し訳ありませんでした。償いたいけど…俺にはそんな力はないようです。あなたを癒す力も、包み込む力も、信用を得る力も、未熟な俺には…無理だったんですね。すみません。自惚れていました」  木田は区役所でお礼を言った時のように90度でお辞儀をした。 「余計なお世話かも知れないけど…自分を粗末にしないでください。自分を大切にしてください。佐伯さんにはそれだけの価値があります。心も体も大切にするだけの価値がある。だから投げやりにならないで。お願いします」  木田はそう言って、出口に向かう。  そして最後に“お騒がせして申し訳ありませんでした”と、深々と頭を下げて出て行った。

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