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── CUT 1 ──

「空から死体が降ってくる」  上司が死んだ瞬間、男は鯛の目を思い出したのだった。  出汁につかって、濁っていて、死んでいる。  曇った空へ視線を向けた。  鼻につくのは雨の匂い。アスファルトの湿った匂い、下水から立ち上るこもった臭いに、生ゴミ、食い物屋の脂、安い酒にタバコの臭い。それと、占い師の使う線香の匂い。  その全部に、順応している。昔のように、吐いて戻すなんて事もない。  体はすっかり慣れてしまっている。だったらいまの恐怖にだって、そのうち『慣れる』筈だ。  男は上司の死体を眺めながらタバコを吸う。  気が動転して、めまいがしていた。 「もうこんなことにも慣れてきてしまっている」  だからそう言いながらも、同時にスコッチウィスキーを流し込む。煙を絡め取りながら、カッとする喉が程なく酩酊という麻痺をつれてくるのを待っていた。  目の前にふってきた人体の、頭部がぐしゃりと潰れる音を聞いた。  男は笑って、首をすくめた。 「血を浴びなくて、今日はラッキーな日だ、と思おう」      シネマポエムにおさらばを      街は変わらず大音量の大画面でエンターテインメントを流していた。そこから聞こえるのは、リスナーの昔話だ。  ──曰く、まだガキだった頃、親父にラジオの組み立て方を習った。学校で聞き流していた授業も意外と覚えている。それらがいまでも役立っているから、人間、人生で捨てる記憶も技術もないのだと思う。どんなにゴミのように思える黒歴史にも、一片の価値を見いだそうとすれば意外とできるものだ。女の口説き方が一流の歴戦のナンパ師が、過去には女の扱いなんて知らなかったゆえの無残な過去を持つように、傷ほど上達の近道はない。唇をかみしめる回数で、人は向上心を持つのだ。  とか。    つまり、このゴミのような人生にも捨てるものはないということだ。  毎朝降ってくる死体を、毎朝掃除するというのも、ある日突然自分が人殺しになったとき、とても役に立つのだな、と男は思った。    男。  ヨークシャ・ノイズはゴミ袋を片手に走っていた。あと壱拾五分で近所のスーパーが閉まってしまう。この辺には弐拾四時間のコンビニがないから、ここが閉まれば今日の晩飯はなしになる。味気ないカップ麺か、あるいはキャベツのソース和えか。  ゴミ袋の中には、解体した男の頭部が入っている。ヨークシャの上司だ。ひどい罵倒を浴びせられた。  口論になって、かっとなって壱時間前に殺したばかりだった。やってしまったとしみじみ酒を飲んでいたら、目の前でまたもや死体が降ってきた。  朝でもないのに。  それで、返り血を浴びていなかったから、それをちょうど思いついた。死体の頭部を入れ替えるのである。  朝に降る死体たちを、人々はもういちいち気にしない。気にしているのは町の掃除屋、つまりヨークシャのような人物だけで、警察も降ってくる死体を相手にいちいち身元確認もしなかった。  なぜなら彼らは、天使だからである。  天使の死体を、いくら検死したところでわかるのは人間とは構造が違うと言うことだけだ。見た目も死に様も似ているのに、成分がうんと違う。そして天使の死体は、何のエネルギーにもなりはしなかった。つまり、本当の意味でゴミなのである。  上司もヨークシャにとってはそこに並ぶ。なので死んでも構わなかったし、殺しても構わなかった。今後の生活に多少の不便があるとしても、それは今の爽快感と引き換えにできる程度のちっぽけな代償だ。 「ああ、くそ、スーパーが閉まっちまう」  それもこれも、解体に時間がかかったからだ。  毒づきながら川に上司の頭部を投げた瞬間だった。それが現れた。  はじめはなんだかわからなかった。生きた天使を、人類はきっと見たことがない。  まず、とにかく光っていた。なのに不思議と眩しく感じなかった。  恐ろしく整った顔立ちがふっと重たいまつげをくるんとあげて、こう言った。 「ありがとうよき人よ。端子を、わたしに分け与えてくださるのですね」  どうみてもゴミ袋に入った人間の頭部を手に神々しく微笑んでいる。 「あ、や……それは、その」 「ありがたいことです。今、天の国では頭脳が足りていないもので」  そのままの意味で? とは怖くて聞けない。 「こちらではマザーコンピュータというのでしたか。接続端子がいくらあっても足りないのです」  それ、脳みそのこと? とも聞けない。 「地上に探しに来ては、天使の数も減っているのです」  天使は憂いある黄金比の目を持ち上げた。 「それより」  はい、天使様。 「この者は、悪人ですか? 善人ですか?」  上司の頭を持ち上げる天使の目は金色で澄んでいる。ヨークシャは背筋を伸ばして答えた。 「善良な悪人です」 「それはよかった! ちょうどそのような者を探していたのです」  なにがちょうどいいのか、それもまた怖くて聞けなかった。 「正直者のよき人よ。では、あなたはどうでしょう」  こうなることを一番に恐れていたからだ。ヨークシャは唇を湿らせながら答えた。 「この期に及んでスーパーの閉店時間を気にしているくらいには平凡で、あなたにとがめられないかを不安がってるくらいには凡人で、その袋の中身をもうなんだったか思い出さなくなりそうなくらいには、したたかです」 「まわりくどいのですね。つまり、悪人でも、善人でもないとおっしゃりたいのですか?」  イエス。ヨークシャはぎこちなく微笑んだ。が、天使は嘆息した。 「ではあなたには天の国への切符は発行できませんね」 「切符?」  ヨークシャは聞き返す。天使はそうですよ、とたしなめるように言った。 「切符のないものは、地獄に落ちるのです」  それを聞いて初めてじわじわと実感として神を思った。この世界には天使がいる。それが当たり前になったから、悪魔も、神だって天国も当たり前にあるはずだ。  地獄も。  地獄行き。 「いやだ」  人を平気で撲殺しておきながら、ヨークシャはおののいて首を振った。違います、俺は善人です。凡庸な善人。  天使は先ほどまでヨークシャの言葉を全部受け入れたのに、それは否定した。 「どうして」 「わかっているのは、あなた自身のはず」  ヨークシャはますます緊張していく。教会には一年に数度、厄落とし程度にしか通わなかった。その罰が当たっている。 「どうしたら、どうしたら、天国に行けますか」  教えてください。  こうまでしてヨークシャが不安がるのは、目の前の天使があまりに美しかったからだった。いつも見るのは頭と体がかち割れたザクロめいた姿なので、人とそんなに相違なく見えていた。  でもちがう。  なんにもならないゴミみたいな体をしているのに、天使はその美しさで、ヨークシャにすら天国を夢見させてしまうのだった。  天使は言った。 「切符がほしいのですか?」  ヨークシャは答えた。 「はい」  天使は微笑んだ。 「では、わたしの仕事を手伝いますか?」  そう言われて、どう答えるのが正解なのか、スーパーはもう閉まってしまっただろうと頭の片隅で思った。ターメリックがないと、カレーが作れない。ヨークシャはカレーとキャベツの千切りしか作れないのだ。 「あの、どんなお仕事を?」 「お給料は出ませんが、やりがいのある仕事ですよ」  それって一番よくないやつ。ヨークシャは少しだけうんざりしながらへらついた。 「何でもやります、切符がほしいです」  天使は美しい顔でにこりと笑う。 「わたしの仕事は善良な悪人の死骸をあつめること」  自死でなく、事故や他殺が好ましい。 「神の頭脳のためです」          ヨークシャは街を駆けずり回っていた。何のために? もちろん天使の死体のために。  街の掃除屋はやめなかった。死の天使のご加護か今のところ上司殺しもばれていない。彼は失踪したことになっている。でも、最近の街は物騒だから、天使の死骸同様に人間の失踪も日常である。  今日の本番シーンは仕事が終わってからの今だった。コンクリートの床は靴をすり減らすほどに長かった。生きた天使がそばでささやくのだ。 「ノースストリート五丁目の、四の参の壱」  そこにある死体たちを、回収してください。  ゾッとした。  死体『たち』? 回収? 天使? 人間? 一体どっちのだ?  ヨークシャは怖々としながらも聞くに恐れた。普段のヨークシャは一瞬の恥の苦痛のためなら、長期の馬鹿を演じるタイプだ。その悪癖が出てしまった。  ノースストリート五丁目は霧が出ていて静かだった。このあたりはヨークシャがすんでいる東ののどかな牧歌風景は見当たらず、おおきなモニターもそれはコンビニほどに生えている。 「四の参の壱。そこです」  天使が示したのは何の変哲もない肉屋だった。嘘だろう、という思いでヨークシャは顔を引きつらせる。しかし天使は穏やかな顔つきのまま、ヨークシャに言った。 「自己紹介がまだでしたね。わたしの名前はサマエル」  太陽のない空を背にしてみる長い黒髪は、黑く澄んだ夜の川みたいだった。  今更かよ。そう思うもヨークシャはにこやかに飲み込んで、サマエルさま、と復唱した。  肉屋のガラスケースには当然ながら肉が並んでいる。それが何の肉かと疑う目で見てしまうのはサマエルの不穏な言動のせいだ。 「天使の死体がたくさんあります」  どこに? その場所まで言ってくれたら急にヨークシャも具合が悪くなって天使のお仕事のお手伝いは辞退させてもらうのに。 「そして一体、どこかに人間の死骸があるようです」  ちらりとサマエルがショーケースを眺めた。ヨークシャは震え上がった。先日人を殺したばかりの男が、殺人を怖がっている。  サマエルは臆することなく肉屋に近づいていく。ひえた冷気がヨークシャには霊安室を思わせた。バラされた肉の霊安室だ。そんなこと初めて今思った。 「もしもしこんにちは」  サマエルは肉屋に話しかけた。潤沢にひげの生えた肉屋は無表情のまま視線をチラリとサマエルへよこすと、二度見した後目を閉じて無言になった。  やはり人の外見に興味がなくても、天使の容姿は気になるのだろう、と同調するような気持ちで頷く。 「お肉を売っていただけますか?」 「何を、何グラム」  サマエルがきょとんと首をかしげた。 「おすすめのお肉をください、グラム……? は、」 「弐百グラム!」 「……おすすめね。あいよ」  サマエルはヨークシャを振り向いて小さな声で言う。 「助かりました、地上で買い物をしたことがないので」 「金は天国と同じか?」 「金とは(きん)のことですか?」  ああこりゃだめだ。肩をすくめてヨークシャは懐からぐちゃぐちゃの紙切れを数えていく。給料って概念は知ってるのに金は知らないなんて天使さまは都合が良い。  ああ、肉屋の肉なんてめったに買えない。  だけど、それを食べるかって言うと、中身が不穏で無理そうだ。 「本当におすすめって、それでいいのか?」 「大丈夫」  サマエルは自信を持ってヨークシャを見上げた。 「ここに並んでいるのは、すべて天使の死体です」      端的に言うと家にかえってヨークシャは吐いたし、サマエルはその肉をステーキのように焼いている。 「食事をしてみたかったんです」 「同胞食いは禁忌じゃないのか」 「いいえ? 天使の死体は同胞が吸収することでのみエネルギー資源となりますから」 「なのに天界から降ってくる理由って?」 「端子が足りないからです」  またそれだ。 「お肉はおいしいとアザゼルから聞いています。わたしは奔放な仲間たちとちがって、厳格さを守ってきましたから楽しみです」 「放棄して良いの?」  サマエルは冷たく言った。 「地上はもはや、神が見ていませんから」  だから天国の切符も枚数が絞られているのだ、と言う。 「善良な悪人は、天国へ行けるのか?」 「神が見ていませんから」  繰り返されるほど怖かった。胃から酸っぱい味がまたこみ上げてくる。だって言うのに焼肉の良い匂いがしていて、それが唾液を出すものだから口の中はパニックだ。 「さあ、いただきましょう」 「お一人でどうぞ……」 「おや」  そう言ってサマエルは優雅な手づかみで上を向いて口のなかに同胞の肉を入れていく。咀嚼音がいやに響き渡る。耳を塞いでしまいたかった。 「なるほど」  サマエルは低く言った。 「同胞たちは、死の間際、一体の人間を破壊してしまったようです」  つまりは、死に至らしめた?  記憶が肉にあるとでもいうのだろうか。そんなそぶりでサマエルは言っている。 「けれどあの肉屋の主人は、関係ないんだそうです」  どういうことなんだよ。 「単純に、ただ天使の肉を仕入れているお肉屋さん」 「そんなことあるか?」 「次から情報は、ヨークシャ。あの肉屋のお肉から仕入れましょう」  情報収集もできるし、なによりとても、おいしかったので。  ヨークシャの口は再びそこで決壊した。    ヨークシャの住むアパートで、サマエルは伸びやかに過ごしていた。一枚の長い布きれを着ているサマエルは、風呂に入らなくても良い匂いがした。着ているモノは物理的な品物だったからか、におったこともある。それを言って、サマエルが脱いで布を渡してきたとき、ヨークシャは息を潰して発狂しそうになった。    あまりにも美しかったから。  それだけ、ただそれだけである。女とも男ともつかないからだをしていた。乳房はなかったが、腰の丸みは女らしく、立派な陰茎と、膣のようなモノがあった。――なぜそれを知っている? ノーコメント。  高名な画家が発明して描いたように、なにもかもが対称であるようだ。光も差し込まない部屋に、産毛が光って見えたとき、天使にも体毛が生えていることに一番に戦いた。  ともかく、サマエルに必要なのは着替えであった。急遽、ヨークシャはサマエルに服を買い与えた。彼は何でも良いというので、困って、壱着の黒いワンピースとパンツスタイルのスーツの上下を買った。  サマエルはワンピースを気に入っていて、まるでキューピットたちの服装のようですね、と言った。  そのワンピースを着たサマエルと、ヨークシャは捜査を続けた。    ひとまずは、再びノースのお肉屋さんに行くことに。 「お肉を、弐百グラム」 「あいよ」  サマエルは臆することなく肉屋に言った。 「このお肉、どこで仕入れているんですか?」 「ばッ」 「養豚場からだよ。当たり前だろう」 「そうですか。特別に美味しいと思ったものですから」  サマエルがそういうと、珍しい顔で肉屋の店主は笑った。嬉しそうだ。 「だったら牧場見学に行くかい?」 「わあ、ヨークシャ、牧場見学ですって!」  楽しそうにはしゃぐサマエルは微笑ましいが、ヨークシャは行きたくない。    来たくなかった。 「わあ、ヨークシャ、すごいですよ。天使の死体が詰められています。ここで間違いないようですね」  詰められています、じゃない、とヨークシャは具合を悪くしながら思った。おかしい、いつまで経っても慣れやしない。  ノースの牧歌的な草原は、『私たちが育てました』と言いたげな顔の素朴そうなご夫婦が経営している。  ヨークシャは、思った。この場にいる奴ら、自分以外狂っている。  そこには天使の死骸が大量に吊るされていた。掃除の仕事で見慣れたはずのそれが、食肉となっていることに、奇妙な居心地悪さを覚えた。人ではないのに、人の肉のように罪悪感をくすぐるような。 「落ちてくる天使をね、網で救うんですよ」  そうすると頭がかち割れる前に手に入りますからね。言っている意味がまるでわからない。だっていうのにサマエルときたら拍手までしている。始末に負えない。 「それを、あんたたちは牛や豚と偽って売っている」 「仕方ないじゃないか、食べたらおんなじだよ」  無茶苦茶だ、産地偽装でヨークシャが訴えてやろうか。 「いえ、実際に味は同じでしょう。だからこそ、宗教ではどちらの肉も禁じたりするわけですから」  本当のところは、味が理由なのか? それは。聞いたこともない理由だった。 「天使様が言っているんだ、味は同じだよ」  このババア、面の皮が何重にも厚すぎる。  ヨークシャたちはババア、もとい牧場主たちの許可をもらって牧場内を探索することにした。  草刈機のブウン、と低い唸り声が遠くでなっている以外は、あまりにも牧歌的だった。ババアの息子らしい。  あとは、天使の死体がぶら下がっている以外は、あまりにも牧歌的だった。 「ヨークシャ」  サマエルが低い声で言った。彼は無表情でまっすぐ先を見ている。  そこには大きな円の『なにか』があって、サマエルはそれをじっと捉えていた。 「ウロボロス」  ウロボロス。 「世俗の限界を表すものです。彼が現れた場所には、もはや成長がないとされる」 「されると、……どうなるんだ?」  サマエルは仕方なさそうな顔で首を振った。 「停滞が――……あるだけです」  けれど、あれはわたしを咎めて現れたようですね。 「ここで起こっていることを、『あなたは知っても止めない』と、未来を咎めている」  なんじゃそりゃ。ヨークシャが顔をしかめていると、そっと困ったような顔でサマエルがヨークシャの裾をつまんだ。 「きっとこれからも、現れますよ」  ヨークシャは少しだけ不安になった。  なのに、サマエルはすぐにくるりとウロボロスから背を向けて今度は食肉工場を指差した。 「ビアという飲み物と一緒に食事を食べるとおいしいと、エンターテインメントが何度も同じ映像で流していました」  ヨークシャの仕事中、サマエルは家で待機している。それはサマエルに、よくない地上教育を与えているようだった。ヨークシャは戸惑いながら相づちを打つ。 「ヨークシャ」  おねだりするような声だった。苦々しい気分で、ヨークシャは財布を開いた。    ババアたちがせっせと焼く天使肉で食卓を囲んだ。穏やかな気候、日差しも柔らかい真昼間だった。  ババアはずっとこの場にいない息子のことを金食い虫だとか、肉の解体が下手くそだとか罵倒していて、ヨークシャはやっぱり肝の据わり方が違うと思った。天使が目の前に居るんだぞ。下世話すぎるのか、今度は金の話になっていたし。 「(きん)ならあるのですが、紙幣はなく」 「おや、(きん)があればたくさんの紙幣に変えられるよ」 「そうなのですか? ヨークシャは教えてくれなかった」  少しだけむくれるような声で、サマエルは言った。ヨークシャは首を振った。そもそも天使が金を持っていること自体、初耳である。 「ほら、身につけているでしょう?」  そういって、サマエルは胸を張るように首筋をかきあげた。その左耳にはたくさんのピアスがついている。首の後ろの方にも、縦に3連ピアスがあった。  思っていたよりファンキーなスタイルに、一瞬どう反応すればいいのかわからずヨークシャは固まった。ヨークシャが固まっていると、サマエルは何事もなかったかのように髪を戻す。 「けれど、よかった。これならヨークシャにお返しできます」 「何をです? いらないよ」  キョトンとするサマエルに、ヨークシャは強く言い募った。 「天使さまを搾取する気はないですから」  わからない、というような顔でサマエルが見返したのには、気がつきもせず、ヨークシャはトマトを噛みちぎる。みずみずしくて、嫌になるほどうまい。ヨークシャはトマトが嫌いだ。    この牧場からヨークシャたちのすむ場所までに車を使っても五時間かかる。サマエルと夫婦の会話が盛り上がるから、時間が遅くなりすぎていた。近所のモーテルに泊まろうとしたら、夫婦がうちに泊まればいいよと申し出てきた。ヨークシャは渋ったが、サマエルは素直に喜んだ。 「人々は心が優しいものですね」  どうかな、とヨークシャは内心思ったが、口にはしない。それよりババアのサマエルへの優しさが気味悪く、何か企んでいないといいがと思う。  サマエルは言った。 「なにがあろうと人の善意とは、ありがたいことです」    目が覚めたら、頭の横に斧が突き刺さっていた。 「……――は?」  まだ深夜だった。根拠は外のモニターすら沈黙している時間だということ。  一気に良くない汗がヨークシャの全身からどっと溢れかえった。あたりを見渡す。隣に寝ていたはずのサマエルがいない! 「さ、サマエル」  さま。  沈黙だけが返って来る。ヨークシャは飛び起きて部屋をひっくり返した。分かり切っているが、どこにもいない。嫌だ、と思った。この部屋から出たくない。殺天使鬼夫婦が何をしているか、見当がついてしまう。嫌だ嫌だ。朝まで見て見ぬふりをしたい。  ここに来た目的が、天使の死骸だったのだとしても。だとするからだ。  でもヨークシャは頑張って外に出た。部屋の外に出て、サマエルを探しにいく。  自分でもバカなことをと思っていた。こんなの絶対に賢くない。やめておいたほうがいい。  キッチンには、明かりがついていた。  恐る恐る覗いてみる。 「バ、ババア……」  そこには頭をかち割られ絶命しているババアがいた。ヨークシャは混乱した。どういうことだ、ババアがヨークシャの頭の横に、斧を刺したのではなかったのか。  恐る恐る後退りする。ヨークシャは途端に弾けるように走った。  サマエル。  サマエルはどこだ。  扉をバン、バンと開けていく。いない。どこにもいない。ヨークシャは息を吸った。  残るはあとひとつ、向こうの食肉工場。  ジジイは静かだった、ジジイはどこにも死んでいなかった。だったらジジイが犯人なのだろう。  ヨークシャは食肉工場へ向かった。 「ジ、ジジイ!」  ジジイが死んでいた。ババアと同じように斧でかち割られて死んでいる。ヨークシャは飛び退いて、隣にあった倉庫に逃げ込む。  そこにのんびりとした声で、 「あ、ヨークシャ」  と、サマエルが声をかけてきた。その横に斧を持った大男が佇んでいる。 「ヒッ」  ヨークシャは後退りした。斧男は嘆くように声をあげる。 「ああ、どうか怖がらないで、怖がられると悲しくて殺してしまうしかなくなるから」  危機感に、産毛の一本まで鳥肌が立っていた。固まる体をズリズリと後退させる。 「もう、ヨークシャ! この方は食肉工場で天使の解体をされている方なんですよ」  これこいつがババアとジジイ殺してんじゃん。 「今更ながら、お名前を聞いても?」  サマエルがにこやかに言う。斧男は名乗った。 「パラシュラーマ」 「絶対にこいつだ! しかもきっと本名じゃない!」 「何がです、ヨークシャ。さきほどから、なんだかおかしいですよ」 「ジジイとババアに斧が刺さって死んでんだ、こいつの仕業だ」 「人を決めつけて疑ってはなりませんよ。ねえ、パラシュラーマさん」  こくりと斧男はうなづく。  それどころかまるでジジイとババアが死んでるなんて嘘ですよね? という態度でも居る。  こいつ、ババアの比ではない面の厚さだ。 「聞いていたのです。いつから天使肉を作っていたのですか? と」  そんなこと聞かなくてもどうだっていいだろう! というヨークシャの叫びはサマエルに届かない。 「ちょうど、一年前からだそうです。そして、パラシュラーマさんは、天使肉を解体したくないのだそうです」 「動機じゃん! それ動機じゃん!」 「だから、何がです」  伝わらないことに内心憤慨しながらヨークシャは地団駄を踏んだ。 「それは、まだ生きているからです」  斧男は重たい口を開いた。 「ご夫婦に拾われて育てられた私は、彼らの代わりに食肉の解体をして暮らしていました」  間違いない、これは動機説明だ。 「しかし一年前に牧場の前に一人の天使が落ちてきた。それを、ご夫婦は食したのです」  それ以来、天使肉の虜となった。 「彼らは鮮度を求めました、そして、私に網で落ちてくる天使をすくうようにと言ったのです」  そしてその天使は、まだ息をしていた。 「狂ってしまいそうだった、天使があまりに美しいので、殺してしまうのに忍びない」  それでも夫婦は私に、殺せと迫ってくる。 「だから殺したのか」 「ヨークシャ」 「ひとりの天使は死の間際に、私にこう言った」  ――サマエルをここに呼べ。審判は下された。  ヨークシャはサマエルをみた。彼は凪いだような無表情で、聞いていた。  それをみていると、ヨークシャは喉が渇くような気分になって、それを逃すかのように息を吐いた。  その時だ、ガタン! と大きな音が、シャッターの向こうからした。ヨークシャたちが何事かと覗いた先には、斧を持って血まみれになったおじさんが一人立っていた。  腹の立つことに、きょとんとした犬みたいな目で、金目のものを潤沢に手にしている。 「Cut me some slack?」 「あいつだーッ!」  ぶち切れながらヨークシャが喚いた途端、斧男がすごいスピードで走っていく。サマエルはその間もずっとわからない、という顔をしていた。 「だから、なんのことなのです」  パラシュラーマは叫んだ。 「斧ドロボーッ!」  ああもう、めちゃくちゃだ。    ――結局天使たちの言った「人間を一人破壊してしまった」とは斧男こと、パラシュラーマのことのようだった。  町中のエンタメが朝を迎えて作動した。 「優しさで人は殺せるかという問いには、私はイエスと答えたい」  すべてが解決して一段落付けたような斧男のつぶやきに、ゴールド・ジョン・クイーンズの歌詞だ。とヨークシャは思った。  ヨークシャは部屋で一人きり荷造りしている。  相も変わらずエンターテインメントをモニターは爆音で流していた。 「Nobody knows the real me」  フォークとロックの二刀流で頂点に立った男だ。  その男がNo Bodyで歌ったのがこの一節で、そのドキュメンタリーが放映されていた。 「なぜなら神がおられるのだから」  ヨークシャも思わず口ずさむ。  ――世界には眼差しが降りそそぐだけ、それだけ。  That was all.    軽トラに乗りながら、窓を全開にサマエルははしゃいでいる。ヨークシャはうんざりしながら運転をしていた。  サマエルがいうには、パラシュラーマは無罪。善良な悪人ではなく、ただの善良な人であるという。  それを聞いたパラシュラーマは泣き笑いのような顔をしていたのだった。  それとジジイとババアを殺った犯人は泥棒に入った見知らぬおじさんで、おじさんは金がなくてあしたも困っていたおじさんだった。パラシュラーマは同情して、お金の代わりに牧場の経営を任せることにした。人が死んでいるんだぞ。サマエルはババアとジジイの死体を見て「割れていますが善良な悪人の頭脳ですね」と言ってヨークシャに解体させて持ち帰ったし「実はいずれかがこうなることを期待していたのです」「まさか二体も手に入るとは思いませんでしたね」とか言うので、ヨークシャはまた吐いて、もう何もかも狂っている。 「あははっ、ヨークシャ、見てください。風が雲をつかむ時みたいに、ふかふかです」 「そうですか……」  ヨークシャはひとつ、あくびをした。深夜から起きてるから、眠くて仕方ない。 「つぎのサービスエリアによりますね」 「サービスエリア」  ピクン、とサマエルの耳が動いて見えた。 「……いいですよ、食べたいものがあるなら、買いますよ」  パラシュラーマからお詫びのお礼ももらっていることだし。  じっとサマエルはヨークシャをみる。その頰は少しだけ赤らんで染まっていた。 「ヨークシャ、あなたは善人ではありませんが、それに見合った働きを期待できます」  サマエルの様子も知らず、ヨークシャは半目のまま運転を続ける。 「それにしても、あのおじさん、なんだったんでしょう」 「善良な悪人でしたね」  そんな反応で良いのか? いや、別に彼は善良な悪人の死体がほしいのであって、殺すだなんて物騒は言っていなかったけれど……。 「大丈夫、彼は長生きできませんから」  含みのある声でサマエルは言った。死の天使が言うのだ、本当に長くはないんだろう。ぞわりと肌に鳥肌が立って、ヨークシャは小さく自分の将来にも思いを馳せる。  ヨークシャ、と可憐な響きでサマエルは言う。 「きっと切符を手渡せる日を、わたしも待っていますね」  この調子で、本当に天国にいけるのか、ヨークシャとしては先行き不安でしかたなかったのであったが。        ところで、人間の死体がどこかにあるという話を、覚えているものはいるだろうか?  天使が破壊した人間はパラシュラーマ。しかし見つかっていない死体が、もう一人いる。  その話を、朝一番に顔を洗っているときに、ヨークシャは美しい天使から告げられた。 「その死骸は、ずっとほぼ同じ距離を保っています」  奇妙なことを言った天使は全裸だった。ヨークシャは顔をそらしながら、言った。 「それより朝食は、サマエルさまの好きな、ヨーグルトとラズベリーライ麦パンです」 「わあ! ヨークシャ!」  抱きついてくる体がこどもみたいにすべすべしている。     

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