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#1/4: 最悪の事故
客先の重厚なエントランスを出た途端、夕暮れの生温かい風が全身にまとわりついてきた。
「課長、フォローありがとうございました。本当に助かりました」
悠真 は九条 の少し後ろを歩きながら、小さく頭を下げた。ネクタイの結び目に指をかけ、わずかに引き下げる。
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【田中 悠真(たなか ゆうま)】
本物語の主人公。医療用品商社に勤める27歳。周囲からは「仕事ができるエース」として頼りにされているが、実はオメガ(Ω)という特異な性を持つ。慢性的な疲労により、本来なら安定しているはずのヒート周期が狂い始めている。
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「先方、相当機嫌を損ねてましたね……。中東の影響でナフサが逼迫してるのはわかるんですけど、何せ目詰まりが酷くて。サプライチェーンのどこかで完全に詰まってるみたいで、納品遅延が一向に解消しないんですよ」
悠真 はため息を吐きながら続けた。
「目詰まり、だからって言ってもなー……。結局、今日もひたすら頭を下げ続けるだけでした」
喉の奥が張りつくように熱い。単なる疲労ではない、内側から細胞が粟立つような甘い疼きがじわじわと広がっている。
最悪だ。
今日の謝罪行脚は、今後の取引を左右する重要なものだった。張り詰めていた気が緩んだ途端、身体の奥底に抑え込んでいた発情の波が一気に顔を出そうとしている。
額に滲んだ汗を手の甲で拭ったその時——
「田中」
背後から低く、絶対的な響きを持つ声が落ちてきて、悠真 はびくりと肩を震わせた。振り返るまでもなく、直属の上司である九条玲 課長だ。
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【九条 玲(くじょう れい)】
悠真 の直属の上司。アルファ(α)。都内一等地にそびえ立つ超高級タワーマンションの最上階、ペントハウスに住まうエリート。高い社会的地位と圧倒的な資産を背景に、悠真 を自身の支配下へ完全に隔離する準備を整えている。
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「歩くのが遅い。顔色も悪い」
九条 の鋭い視線が、悠真 の全身を値踏みするように舐め上げる。悠真 は引きつった愛想笑いを浮かべた。
「いえ、少し疲れが出ただけで……平気です。お気遣いありがとうございます」
強がりながらも、悠真 はポケットの中のピルケースを親指で弾いて開けた。薬を飲んで、駅のトイレで少し休めば抑えられるはずだ。
しかし、指先が触れたのはプラスチックの底だけだった。空だ。
「……っ、嘘……」
思わず声が漏れた。今朝、たしかに新しいシートを入れたはずなのに。
背中をじっとりと冷たい汗が這う。それとは対照的に、下腹部の奥がじんじんと熱を帯び、甘い蜜のような匂いが自分の体から立ち上り始めている。すれ違う人々の微かな匂いや、背後に立つ九条 から漂う濃厚で支配的なαのフェロモンが、暴力的なくらい鮮明に悠真 の理性を侵食してきた。
会社では「普通の人間」として必死に隠し通してきた。それが、こんな路上で崩れ落ちるなんて。
ぐらりと視界が揺れ、膝の力がふっと抜けた。咄嗟に近くの街路樹に手をつく。自分の首筋から甘く淫らな匂いが漂うのを感じ、悠真 の心臓は凍りついた。
「……っ、う……」
「田中」
再び名前を呼ばれ、今度はすぐ耳元から声がした。反射的に顔を上げると、いつの間にか距離を詰めていた九条 がすぐ目の前に立っている。圧倒的なαの匂いに包まれ、悠真 の身体が熱く震えた。
「すみません、課長……ちょっと、めまいが……」
「無理して立つな。薬はどうした」
九条 の冷徹な瞳に見下ろされ、悠真 は弱々しく首を横に振った。ただの体調不良などと思っていない。最初から、すべて見透かされている。
「き、切らしてしまって……でも、大丈夫です。少し休めば……」
「この状態で何が大丈夫だ。バカだな」
冷たい響きとともに、傾いた悠真 の身体を九条 の腕が力強く抱きとめた。上質なスーツ越しに伝わる体温と、濃密なαの匂いに、悠真 の身体がビクンと跳ね、甘い吐息が漏れる。
「離して、ください……私なら、一人で帰れますから……」
「黙れ」
九条 は短い言葉で、悠真 のささやかな抵抗を切り捨てた。その声には、上司としての威圧感と、αとしての絶対的な支配欲が滲み出ている。
「でも、会社に戻って、今日中に処理しないといけないデータが……」
「お前はもう仕事ができる状態ではない。あの件は伊吹 に引き継がせる。お前は何も考えるな」
そう言い放つと、 九条 は滑り込んできたタクシーのドアを開け、有無を言わさず悠真(ユウマ)を後部座席に押し込んだ。そして自らも隣に乗り込む。
「会社には戻らない。……俺の家で休ませる」
「えっ、でも、そんなの……ご迷惑に……」
悠真 の微弱な抗議を無視し、九条 は運転手に行き先を告げた。
冷たいはずの九条 の指先が、熱を持つ悠真 の首筋をゆっくりとなぞる。それはあまりに手慣れた、悠真 という存在を完全に所有している者の所作だった。
「俺の管理下にある以上、無様な姿を他人に晒すことは許さない。……おとなしくしていろ」
それは保護を装った、完全な支配だ。悠真 は抵抗を諦め、九条 の胸に顔を埋めた。仕事への罪悪感も焦りも、九条 の圧倒的な体温とフェロモンに溶かされ、甘く蕩けていく。
*
その頃、オフィスでは。
『ポーン』と、静かなフロアにSlackの通知音が響いた。
パソコンに向かっていた佐藤優太が、画面右下のポップアップを見て目を丸くする。
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【佐藤 優太(さとう ゆうた)】
悠真 と同じ課の使えない新入社員。無邪気で鈍感。課内の人間関係や、九条 と悠真 の間に流れる特殊な空気に一切気づいていない。
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「あれ? 九条 課長から連絡だ」
事務のサクラも、キーボードを叩く手を止めて自分のモニターを確認した。
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【サクラ】
3?歳(β)事務スタッフ。実はこの会社の取締役を父に持つ令嬢。その鋭い観察眼により、九条 と悠真 、そして伊吹 の間に漂う「ただならぬ関係」に唯一気づいている。
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九条 玲 17:42@channel 田中が体調不良のため、このまま直帰させる。私も付き添うため本日は戻らない。
@伊吹 田中が担当していた〇〇のデータ処理、今日中に君の方で巻き取ってバックアップしてくれ。頼む。
「直帰? 課長が一緒に?」
サクラが思わず呟くと、佐藤がのんきな声で答えた。
「はい。田中さん、結構しんどそうだったんですかね。でも、課長がついていれば安心ですよ!」
佐藤の言葉に、サクラは「うーん……」と小首を傾げた。
「課長がこんな早い時間に直帰なんて、珍しいよね。それに付き添うって……」
仕事の鬼である九条 が、部下をタクシーに乗せるだけでなく、わざわざ付き添って帰るなど、彼女の知る九条 の行動パターンにはない。
「まあ、伊吹 さんがフォローに入るみたいですし、仕事の心配はないんじゃないですか?」
「……そうだね」
佐藤があっけらかんと仕事に戻るのを見て、サクラも自分の画面に向き直った。しかし、胸の内に芽生えた小さな違和感と、九条 への淡い憧れが疼くように残った。
二人のやり取りを、少し離れたデスクから冷めた目で見つめている男がいた。伊吹遼 である。
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【伊吹 遼(いぶき りょう)】
九条 の右腕にして、かつて九条 の「所有物」であったオメガ(Ω)。九条 の支配欲を誰よりも深く知っており、今は悠真 が自分と同じ運命を辿るのを静観している。心には深い傷と諦念を抱えている。
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伊吹 のモニターにも、先ほどのSlackの文面が表示されている。九条 からの名指しの指示。無表情のままマウスをスクロールさせる伊吹 の口元に、自嘲にも似た苦い笑みが浮かんだ。
(……ユウマ君が、体調不良ねぇ〜 ご丁寧にバックアップの指示までして)
画面越しの活字から、九条 の執着と、隠しきれない熱の匂いを感じ取る。
伊吹 には痛いほどよくわかっていた。九条 が「付き添う」という言葉の裏にある、絶対的な支配欲と独占欲を。そして、連れ帰られた「お気に入り」が、今夜どんなふうに啼かされ、九条 の名を呼びながら乱されるのかも。
かつて、自分自身がその場所にいて、九条 に抱かれ、庇護されていたのだから。
「……ちっ」
誰にも聞こえないほどの小さな舌打ちは、オフィスの空調音に虚しく吸い込まれて消えた。伊吹 は冷え切った指先でキーボードを叩き、九条 から丸投げされた悠真 のファイルを開いた。
つづく
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