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第1話
金曜の夜はきまって、まるでなにかに吸い寄せられるように、その場所へと足を運んでいた。螺旋階段を降りた先にある隠れ家のようなそこは、高校時代からの友人である廣瀬が経営する〈BAR Shelter〉だ。
「武田さん、いらっしゃいませ」
武田が店に顔を出すと、いつも花が咲いたような笑顔で出迎えてくれる可愛らしい青年がいた。
「あれ、髪切りました?」
「おう、さっぱりしたろ」
「髪も少し染めました?」
「光の加減で紫になるぞ」
「やっぱり。けど店内じゃわかりにくいですね」
「たしかに。外じゃないとわかりにくいかもな」
バイトの及川は大学四年生だ。廣瀬の甥でもある。武田とは年齢はひと回り、いやそれ以上に離れているが、武田にとってバーで初めて会った日からまるで友達のように気兼ねなく話せる存在だった。
バイトを始めて二年以上経つだろう。白いシャツに黒いエプロンを着こなし、慣れた手つきで武田のキープしている琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「もうすぐ夏休みですね。武田さんは彼女さんと旅行に行くんでしたっけ?」
「先週、振られたよ」
「……マジですか?」
「こんな嘘、ついてどうする」
武田は三十七歳だ。結婚適齢期の彼女にプロポーズをしようと考えていた矢先、電話口で突然好きな人ができたと告げられた。相手は武田が入社当初から可愛がっていた後輩だった。今思えば突然ではなく二股をかけられていたような気がしなくもない。彼女から後輩の煙草混じりの香水がしたこともあったし、用事ができたとデートを途中で切り上げられたこともあった。二十八歳の男女から四年間、陰で笑われていたのかもしれない。
普段なら武田は及川の愚痴や他愛のない話を聞いてる側だった。話を聞いてもらいたかった。話しても仕方ないことだけれど、話を聞いてもらいたかったのだ。武田はタガが外れたように喋り続けていた。同じ話を何度も繰り返していた気がする。及川は嫌な顔ひとつせず、武田のぼやきを静かに聞いていた。絶妙なタイミングで頷いてくれて、武田は及川に救われたような気持ちになった。彼女にそうさせてしまったのは自分自身にも非があったのかもしれない。その武田の言葉に及川は頷かなかった。ただ、カウンターに置かれた爪の先だけが、雪のように白くなっていた。
「縁がなかったんですよ」
どこか安堵したかのように及川は微笑んだ。
「軽く言ってくれるな」
「終わったことですし、次行きましょうよ次」
あっさりとした返しだった。自分ばかりが辛気臭くて、なんだか恥ずかしい。話題を夏休みに戻すことにした。
「逆に聞くけど、及川くんは?」
「んー、俺はバイトで終わりそうです。あと武田さんとゲームします。限定イベ、完走しましょうね。限定ピックアップ欲しいな~、そろそろ課金しようかな」
武田はグラスを傾けたまま、一瞬だけ言葉に詰まる。少し癖のある茶髪をぴょんと跳ねさせた及川は、特に気にした様子もなく、別のグラスに手を伸ばしていた。
「おじさんとゲームだけで夏休み終わるなんて、大学生としてどうなんだよ」
「いいじゃないですか。武田さんも暇でしょ」
さらっと言われて否定できない。図星だからだ。四年間、彼女中心に世界は回っていた。なにをするにも二人だった。だから急に一人でなにをすればいいのかわからなかった。平日はまだ仕事で気を紛らわすことができる。休日はあらゆることに無気力になり、時間だけが長く余計なことばかり考えてしまい、気が狂いそうだった。気晴らしにと出掛けたところで、休日の街はカップルやファミリーで溢れかえっている。傷心の男が余計孤独に押しつぶされそうになるだけだった。
「暇だな」
そう言うと及川は、「ですよね」と無邪気に首を縦に振っていた。その仕草が、実家で飼ってるカニヘンダックスのように愛らしいだなんて、及川には言えない。
グラスの氷がカランと鳴る。武田自身からスコッチの匂いが漂っていて、酔いがさらに深まる。及川との時間はいつも楽しくて、つい酒が進んでしまうのだ。特に今夜は、飲みすぎなくらいかもしれない。
「夏休みって、みんなどっか行くもんなんですかね」
ぽつりと及川が呟いた。及川は見た目こそ陽キャの大学生だが、本人曰く休日はゲームをするか寝ているか、バイクをいじっているだけらしい。この顔で彼女もいないというのだから不思議だった。
「行くやつは行くし、行かないやつは行かないよ」
「なら、武田さんは後者ですね」
「……うるせぇな!」
八つ当たりのように言い返したのに、及川は武田の顔を見ながら嬉しそうに目を細めていた。空になったグラスを置くと、及川が自然な動作で琥珀色を注ぎ足そうとする。酒はもういい、と武田は手で制した。
「ここで一緒にゲームでもするか?」
「それ、いつも通りじゃないですか」
「今日のデイリーまだなら、やるか?」
スマホを横向きにしながら、カウンターに座る武田とカウンター内の及川は向き合ってゲームをした。及川は終始ご機嫌だった。そのときの武田は、純粋にゲームが楽しいからだと思っていた。
一週間後の金曜の夜だった。武田は仕事の区切りがなかなかつかず、閉店までにはもう間に合わないと思った。カランと扉を開けると、枯れかけの花のような及川と目が合った。
「今日はもう来ないのかと思ってました」
待ちわびた雨をようやく浴びた花のように、及川は武田に歩み寄った。武田より小柄な及川は自然と見上げる形となる。クローズ十五分前なのもあってか、ノーゲスだった。
「金曜はここに来ないと落ち着かねぇからな」
「武田さん、金曜日は必ず来ますもんね」
普段なら鍵を閉めて帰るだけの状態にしているのに、最後のモップがけどころか洗い物もたんまり残っていた。金曜の夜だから忙しかったのだろうか。
「忙しかったのか?」
「いえ……ちょっと、元気でなくて」
学業とバイトの両立は大変だ。きっと疲れているのだろう。及川は頑張り屋というか無理をしすぎるところがあるからだ。武田は黒いシャツの腕をまくり、泡まみれの及川の手からスポンジをとった。
「ここは俺に任せろ」
と、ゲーム内の決め台詞を言って及川の笑いを誘った。一人暮らしが長いだけあってか、武田は手際よく洗い物を片付けて、シンクリセットをあっという間に終わらせた。及川は、「ありがとうございます」と一礼してモップをかけていた。
「隣、いいですか?」
扉にクローズの看板を下げ、私服のパーカーとデニムに着替えて、水の入ったグラスを二つ持った及川は武田の隣に座った。
「なんで水なんだよ。バーだろ、酒にしろ」
「お客様、当店はすでに閉店しております」
武田は及川の肩に手を回して、「それならアフターしろ~」と、水だけの素面にもかかわらず、うざ絡みをし始めた。及川の身体がわずかに強張った。そして武田に気づかれないように湿った息を漏らした。
こまめにハンドクリームを塗っているのがわかる及川の白魚のような手が、武田の浅黒い手に重なった。恋人にするような触れ方だった。及川は一瞬ためらうような表情をしたが、武田の目を真っ直ぐ見つめたまま、縫われたように閉じていた薄い唇を開いた。
「……このあと、俺のバイクで海にでも行きますか?」
「アフターの誘いか? それともデートか?」
ほんの冗談のつもりだった。けれど及川は顔を真っ赤にして俯いた。予想外の反応に武田はそれ以上なにも言えなくなってしまった。
まさか、本気じゃないだろう。そんなはずがない。そう思うのに、胸の奥へぽつりと雨粒が落ちたような気がした。
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