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終-よだかの星

すっかり夜になって、辺りは暗闇に沈んだ。 手すりに寄りかかって、俺はぼうっとビルの下で揺れる木々を見ていた。 はだけた服を直しながら、萱城が俺の隣で同じようにして立っている。 「高いだろ。余計な障害物が無いから同じ七階建てでも、都会より高く感じるんだ」 「……ああ」 俺は頷いた。 「駅のホームから突き落とすよりも、ここで待つ方が楽だって気づいた。元から死にたい奴しか来ねえし、死体も自殺として処理されるしな」 物騒なことをあっさりと話す萱城は、どこからどう見たって、普通の高校生だった。 ぼんやりと姿を現し始めた月が、厚い雲の層に潜る。夜闇が覆い被さるように、視界を濁らせる。 「俺はもう限界だと思ったから……自分が狂っていくのがわかったから、死のうと思った」 俺は言った。 萱城が静かに頷く。 「でも萱城は死ぬんじゃなくて、人を殺してしまう方に狂ってしまったんだな」 萱城がふっと顔を横に向けて、俺を見た。 「萱城も、俺と同じなんだろ?」 人を食ったような態度の萱城の顔色が、ここへきてようやく変わった。 「……なんでわかった?」萱城がつぶやく。 目線が絡み合って、ジッと焼き付くような音がする。そんな錯覚がした。 「ビルの奥まで逃げた俺を、お前は懐中電灯すら持たずに正確に追いかけてきた。普通の人間ができることじゃない」 萱城は何も言わなかった。肯定も否定もしないけれど、それは前者だと俺は確信した。 「そこまで考える余裕があったか。見くびってたな」 萱城が乾いた笑いを浮かべながら、ゆっくりと俺の正面に回る。俺の背後には、頼りないフェンス。その後ろはすぐに空中だ。 「勘違いすんなよ。誰彼構わずに殺してるわけじゃねえんだ」 萱城が俺を咎めるように言った。 足元に目線をやって、俺が捨てたヘッドフォンを萱城が拾い上げる。さっきまで俺に触れていた萱城の指先が、鈍った金色のイヤフォンジャックを撫でた。 「俺たちみたいな奴はすぐにわかる。ノイズが一切聞こえなくなるような高級イヤフォンをつけてるのに、その先に繋がってる音楽プレーヤーは笑っちゃうくらい安モンなんだ。音楽なんて聞いてないのが丸わかりだっつうの」 萱城が力なく笑い声をこぼした。 萱城の言う通りだった。自然と全ての音が流れ込んでくる日常に嫌気がさして、それでも耳栓をつけたまま外出するわけにはいかないから、俺はヘッドフォンに救いを求めていた。 萱城の遠い目を見て、記憶が蘇る。 そう言えば三年前、線路に突っ込んでいったサラリーマンも、安っぽくてシワだらけのスーツとは見合わない、高級そうなイヤフォンをつけていた。あのサラリーマンも俺たちと同じ。 だから殺したんだ、と萱城は説明する。 「こんな体で、正気でなんて生きられるわけねえよ。だから俺が殺してやってんだ」 あくまでも救うために殺しているんだと萱城は主張する。それでも、人間は誰にだって生きる権利があるだろう。萱城が言っていることは正しくない。狂っている。 そんなの絶対に正義じゃない。 一方で、萱城は「俺だけ救われてごめんな」と言っていた。突き落とすことで救われているのは「良いことをした」と思い込んでいる、萱城自身なんだと気がつく。 「……残念だな。俺、初めて、殺したくないなって思ったのに」 萱城が俺の両肩に手を置いた。そのままぐっと力を込められる。押し倒されていた時とは比べものにならない強い力だ。 特に抵抗をすることもなく、俺は押されるがままに一歩後ずさった。すぐに背中に冷たい手すりが押し付けられる。 俺はただ、萱城を哀れむような目で見ていた。 「俺は初めて、殺されたって良いなって思ったよ」 「そんなこと言うなよ」 萱城の声は微妙に震えていた。 錆びついてぐらついている脆いフェンスは、萱城がスニーカーを履いた足で思い切り蹴ると、壊れて下へと落ちていった。 ガシャン、と遥か下で音がする。俺は振り向かない。 「南は……幸せだな。もう苦しまなくて済むんだもんな」 心底羨ましがっている萱城。 ドン、と胸のあたりに衝撃を感じる。 気づいた時には、宙に浮いていた。 浮遊感はたった一瞬。 一秒目には9.8 m/s、2秒目には19.6 m/s、重力加速度を思い出す。 「俺だって、そろそろ救われてもいいよな。南」 遠くで萱城が泣いている声が聞こえた。 届きもしないのに俺は手を伸ばす。 全ては月も見ていない、夜の出来事だった。 (すぐとなりは、カシオピア座でした) (天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました) (そしてよだかの星は燃えつづけました) (いつまでもいつまでも燃えつづけました) 残響29.4m/s 終幕

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