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プロローグ
白を基調とした清潔な廊下に、革靴の足音が規則正しく響く。
聖桜病院最上階の特別病棟。
ここにある病室はふたつだけだ。
ひとつは空室。
そして、もうひとつの扉の向こうに、俺の担当する患者がいる。
専用カードキーを持つ者しか立ち入ることのできないこの場所で、彼は今日も入院生活を送っていた。
ゆっくりと扉を開き、病室へ足を踏み入れる。
窓から差し込む朝の光が白い室内を柔らかく照らし、わずかに開いた窓から入り込む風が、ミントグリーンのカーテンを揺らしていた。
ベッドに備え付けられているテーブルには、縁ギリギリまで注がれたオレンジジュースの入ったコップがひとつ。
少し持ち上げただけでも零してしまいそうなそれを、青年は真剣な眼差しで見つめていた。
テーブルの上のモチーフとスケッチブックを何度も見比べながら、色鉛筆で丁寧に線を重ねている。
神崎 葵 。
今年25歳になる、Ω性の男性だ。
ここに入院する前はイラストレーターの仕事をしていたと伺っている。
真剣な眼差しで色鉛筆を走らせる彼の細い手首には似つかわしくない、太い点滴のチューブが繋がれていた。
青白い肌に、はちみつ色の淡い髪。
肩にかかるそれを邪魔そうに抑えながら、色鉛筆を走らせている。
儚い印象を与える彼の姿とは裏腹に、その若葉色の緑の目には強い光が宿っていた。
彼がここにいる理由はただひとつ。
通常の病棟では対処することができない、特殊な病状を抱えた患者だからだ。
【フェロモン崩壊症 】
Ωのフェロモンが突然変異を起こす難病だ。
自身や他者のフェロモンに過剰反応し、神経や全身機能を蝕んでいく。
何がきっかけで発病するのかも未だにわかっていない、まだ発症例が極めて少ない病だ。
この病が完治することはありえない。ましてや、彼の様な末期患者が全快することはない。
それでも、彼の瞳は生命の輝きを失っていなかった。
「神崎 葵さん、検診の時間ですよ」
絵を描くことに集中しているのか、俺が入って来たことにすら全く気付いていない様子の彼に声をかける。
「ん?あぁ、また佐藤先生かぁ~。最近よく来るね。暇なの?」
俺の声でやっと人が入って来たことに気付いたのか、病気の影響のせいか、少しハスキーな声で軽口をたたく。
彼は軽い笑みを浮かべながら、さっきまで真剣な表情を浮かべて描いていたスケッチブックをパタリと閉じた。
俺は彼の言葉に軽い溜息を漏らしながらも淡々と答える。
「暇じゃない。担当医なので、回診に来るのは当然です。それで、体調はどうですか?何か変わったことはありませんか?」
先日の問診と血液検査の結果が書かれたカルテをちらりと見ながら、彼に問いかける。
いつもと同じ問いかけのはずなのに、彼の笑顔を見ると心が揺れるのを感じた。
俺がどれだけ彼に気を掛けようが、俺と彼の関係は、担当医と末期疾患の患者でしかない。
今の進行速度を考えれば、楽観できる状況ではない。
「ん~、あっ……さっき水色の色鉛筆を使ってたらこんなに小さくなっちゃったんだよね。新しいのが欲しいなぁ~。あと、色鉛筆ばっかりは飽きたから、水彩絵の具が欲しい。スケッチブックの予備ももうちょっと欲しいかも。あとは……」
彼の口から零れたのは体調についてではなく、ただひたすらに今欲しい画材の道具リストだった。
「それは君が欲しい物だろう?そういうことは後で来る看護師に頼んでください」
呆れた声がつい溜息と共に口から出てしまう。
彼にとって絵を描くことは、ここにいる時間で一番大切にしていることだとわかっているのに……
慌てて訂正しようとしたが、葵は少しだけ寂し気な笑みを浮かべたものの、すぐに今日の体調の変化について話し始めた。
「ん~、朝からちょっと気怠いかも。昨日窓を開けっ放しで寝ちゃったから」
ケラケラと笑う彼に呆れてまた溜息が出てしまう。
「看護師には必ず窓を閉めるように言っていたはずですが?」
カルテの端をペンで軽くコンコンと叩きながらたしなめると、彼はペロっと舌を出して言い訳をする。
「昨日のお月さま、すっごく綺麗だったんだよね~。かぐや姫でも降りてきそうなくらい。お月見してたら、いつの間にか寝落ちしちゃってて」
悪びれた様子のない彼に、再度溜息が漏れてしまう。
「気を付けてください。君の身体は、健常な方とは異なるのですから……」
つい言葉が厳しくなってしまう。
「は~い」と元気よく返事を返してきたが、俺は彼の微かな表情を見逃すことができなかった。
どこか諦めたような、寂しげな笑み。
ほんの一瞬のことだったが、その表情は妙に胸に引っ掛かる。
何か言うべきなのかもしれない。
けれど、意思である俺には根拠のない希望を口にすることなどできなかった。
結局、俺は何も言えないままカルテへと視線を落とした。
彼が患っている病は、通常の病とは異なる。
発症例がまだ極端に少なく、わかっているのは初期での対処方法のみ。
それでも完全に病を完治する方法ではなく、緩和させるだけのものだ。
彼のような末期症状の患者に効く薬など、研究すらされていない。
それでも彼は、他の患者とは違った。
どんなに痛みがあっても、どんなに苦しくても、いつも笑顔を絶やさず前を向いている。
いつしか俺は、回診の時間を気にするようになっていた。
それが医師としての責任感だけではないことくらい、自分でもわかっている。
「ねぇ、先生。オレ……退院できたら、海に行きたいんだよね。海の絵を描きたいんだぁ~。色んな色の青をたくさん重ねて、広くて大きな海を……」
彼のカルテを記入していると、葵がポツリと呟いた。
彼の病状を考えると、退院は不可能だ。
これは、彼自身も知っていることだし、わかっていることのはずだ。
だが、彼の声は生きることを諦めている様子はなく、むしろ子どものように無邪気だった。
まるで時間が無限にあるかのような、夢を語るような嬉しそうな声。
「海……ですか?」
彼の言葉に、つい眉間に皺が寄ってしまうのを自分でも感じる。
「そ、海。佐藤先生は、海好き?」
無邪気な笑みを浮かべて問うてくる彼に、つい渋い顔をしてしまう。
俺は自分でも自覚しているほど、仕事一筋の人間だ。彼のように、自由に生きていない。
「嫌いじゃないが、好きでもない」
素っ気ない俺の返答にすら、彼はクスクス笑っている。
「だと思ったぁ~。じゃあ、いつかでいいからオレと一緒に行こう?オレが海の良いところいっぱい教えてあげる。まぁ、オレも小っちゃい頃に数回行ったかな?って、記憶しかないけど」
葵は、どんな時でも嬉しそうな希望に満ちた笑みを浮かべながら話していた。
自分の命がそんなに長くないと知っていながらも、そのことすら忘れさせてくれる笑顔で、楽しげに未来の話していた。
「……考えとく」
そう答えながらも、俺はカルテではなく彼の笑顔から目を逸らした。
海を見るその日など来ない。
医師である俺が、誰よりもそれを知っていた。
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