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第1話 桃缶の思い出

 朝の診察が終わり、佐藤先生が病室から出て行ったあと、コソコソとひとりの看護師さんが入って来た。  美咲さんは、オレの身の回りのお世話をしてくれる、数少ない看護師さんのひとりだ。  誰にも見られないように、何かを後ろ手に隠している様子に、また何かを持って来てくれたのを察する。 「おはようございます、美咲さん。それ、何かまた持って来てくれたの?」  何を持って来てくれたのか気になり、軽く身を傾けて後ろに隠している茶色の紙袋を見ようとする。 「おはよ、葵くん!ふっふっふっ、気付いた?」  美咲さんは猫みたいな笑みを浮かべた。 「今日は良いモノ持ってきたんだよぉ~。絶対葵くんが喜んでくれるもの!あ、今日はちょっと顔色もいいね」  ショコラブラウンのショートボブを揺らしながら、美咲さんがニシシと笑う。 「うん、今日は朝からいい感じ。え~、なんだろ?美咲さん、何を持って来てくれたの?」  美咲さんが持って来てくれたモノが何なのか気になり、心が弾む。 「ん~、なんだと思う?じゃあ、発表しま~す!ジャーン!」  後ろ手に隠していた茶色の紙袋から取り出されたのは、銀色のアルミ缶だった。  淡い黄色と白を基調にしたラベルには、瑞々しいピンク色の桃が描かれている。 【果実の恵み ピーチデライト】  幼い頃から何度も食べたことのある、大好きな桃缶だ。 「うわぁっ!桃缶じゃん!」  桃缶を目にしたオレは、思わず歓声を上げた。 「ふふ~ん、嬉しいでしょ~♪葵くん、前に桃が好きって言ってたでしょ?だから、鬼師長に隠れてコッソリ持ってきちゃった!ねぇ、ちょっと食べちゃう?」  満面の笑みを浮かべながら、得意げに言う姿にちょっと笑ってしまう。  オレよりもちょっと年上のお姉さんのはずなのに、彼女の発言はいつもどこか子どもっぽい。  でも、いつもオレを元気づけてくれる優しいベテラン看護師さんだって知っている。 「うん!食べたい食べたい!あ、でも、オレがこっそり食べたのがバレちゃうと怒られちゃうから、一緒に食べて共犯になってくれる?」  コテンと首を傾げつつ、悪戯っぽい笑みを浮かべて美咲さんに聞いてみる。  美咲さんは当然と言うように、Vサインをしながら「もちろん!」と悪巧みに賛同してくれた。  それから急いでテーブルの上に散らばっていた色鉛筆をケースに片付けると、美咲さんがお皿に移してくれた桃を置いてくれる。 「はぁ~、めっちゃいい匂い!」  甘いシロップのかかった桃は淡いピンクがかったクリーム色、ツヤツヤと美味しそうな光を反射している。  病室内に広がる甘い香りが、薬品の匂いを一瞬でかき消した。  まだ一口も食べていないのに口の中いっぱいに涎が溜まっていくのがわかる。  ツヤツヤとした輝きをスケッチブックに描きたいけど、それ以上に早く食べたい!って欲が勝り、美咲さんと笑い合いながら一口頬張った。 「んぅ~、甘くておいしい~!こんな美味しいの、久しぶりに食べた!」  甘くとろける桃に表情が緩み、つい声を弾ませてしまう。 「シィーッ!葵くん声が大きいよ!バレちゃうから!」と慌てる美咲さんにケラケラと笑ってしまった。   「でも、本当に甘い物食べるの久しぶりかも。ここのご飯、美味しいけど甘味が少ないんだよね~。そこだけちょっと不満」  唇を尖らせながら文句を言うと、美咲さんもうんうんと頷きながら同意してくれた。 「ふふっ、葵くんが食べたいなら、またコッソリ持って来てあげるね。葵くんが欲しいの、私がなんでも持って来てあげる!」  太陽のように明るく元気な笑顔で話してくれる美咲さん。  オレの病気を知っていながら、変わらない笑顔と変わらない態度で接してくれる優しい人。  美咲さんの笑顔を見ていると、不思議と病室の白さが少しだけ遠のく気がした。  ふたりでひとつずつ桃を食べ、残った缶を手に持つ。 「本当に美味しかったぁ~。これ、宝物だね」  食べ終わった缶の底に残るシロップの香りを名残惜しそうに嗅ぎながらポツリと呟く。  美咲さんは厳しい師長さんに見つからないように、コッソリ証拠隠滅をするためにお皿を洗いに行ってくれた。  病室には、まだかすかに桃の甘い匂いが漂っている。  見つかっちゃいけない、秘密の香り。  薬品やアルコールの匂いじゃない、甘く優しい香り。  オレは空になった桃缶を胸元へ引き寄せる。  病室に残る甘い香りは、きっとすぐに消えてしまうと思う。  けれど、それでも今だけは……この小さなしあわせを独り占めしていたかった。

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