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第2話 フェロモン崩壊症

 無事証拠隠滅を果たした美咲さんが戻ってきて、オレが困っていることや欲しい物がないかを聞いてくれる。 「うんうん。新しい色鉛筆ね。絵の具は~……ここで使うとシーツとか汚しちゃうからなぁ~」  オレが色鉛筆だけじゃ飽きてきたのを伝えると、胸の前で腕を組んでうんうんと唸っている。 「んぅ~、クレヨンとかもシーツに付くと落ちにくいし……。水彩マーカーとかは、葵くんの描く絵の量を考えるとすぐになくなっちゃうしなぁ……」  オレの我が儘なのに、美咲さんは真剣な表情で考えてくれる。 「う~ん……ごめんっ!私じゃいい案が浮かばないや。佐藤先生に相談してみて、葵くんが喜んでくれる画材を探すね!」  顔の前でパチンと両手のひらを合わせて美咲さんが謝ってくれたけど、美咲さんが謝るようなことじゃない。  オレが我が儘を言っただけ。 「美咲さん、気にしないでよ。色鉛筆だけでも本当は十分なんだよ?色鉛筆だけでも、こんなに用意してもらえるのは嬉しいんだよ」  これ以上迷惑をかけたくなくて、気にしてないというように笑みを作る。  オレは本当は我が儘を言える立場じゃない。  色鉛筆やスケッチブックだって、使えば使うだけお金がかかるのに、オレには支払えるお金なんてほとんどない。  入院費用だって、本当はめちゃくちゃ高いんだと思う。  こうやって入院させてもらえるのは、オレの病が世界的に珍しいモノだから……  まだ治療薬も治療法すら何もわからないこの病を、経過観察するため。  今後発病した人への治療法を調べるため。  オレを調べることで、この病の治療法が見つかるかもしれない。  将来、同じ病で苦しむ誰かを助けられるかもしれない。  ——なんていえば聞こえはいい。  でも、本当の理由はもっと単純だ。  お金のないオレに残された選択肢が、それしかなかったから……  治療費も入院費も、画材だって用意してくれる。  オレも助かるし、病院もこれから奇病になっちゃった人も助かるって、Win-Winな関係だったから…… 「葵くん、新しいお水と今日のお薬置いとくね。あと、青色の色鉛筆は探してくるから待ってて」  パチンッと軽くウィンクをし、元気に戻って行く美咲さんに笑顔で手を振る。  本当は、自分で出来ることは、自分で全部やりたいんだけど、今のオレにはどうすることもできない。  二ヶ月前、近所のコンビニからの帰り道だった。  突然、右足が自分のものじゃなくなったみたいに動かなくなった。 『え……?』  一歩踏み出そうとして、力が入らずそのまま膝から崩れ落ちた。  買ったばかりのコンビニ袋が手から滑り落ちた。  発情期はまだのはずなのに、身体が熱くてしかたなかった。  火照ったように熱いはずなのに、全身から冷たい汗が噴き出しているような感じだった。  額に髪が張り付いて気持ち悪くて、視界がぼやけてクラクラする。  最近、ずっと体調が悪いなぁ~って、自覚は多少あった。  手に力が入りづらくて、ビンの蓋を開けるのとか、物をよく落とすようになった。  Ωだから、三ヶ月毎にくる発情期のタイミングがズレたせいだと思っていた。  引きこもりのイラストレーターだったから、日に当たらなさすぎるのがダメなんだって、勝手に解釈してた。  でも、それはいつものことだって自分に言い聞かせていた。  オレの仕事は、部屋に籠もって依頼された絵を描くこと。  外に出ることなんて滅多にないから、肌は常に青白いし、髪もボサボサ。  前髪なんて絵を描くのに邪魔だから、頭のてっぺんでテキトーに輪ゴムで縛ってるだけ。  身体が怠いのも締め切りに追われるストレスだろって、いつも思っていた。  でも、あの日はいつもと違ってた。  膝から崩れ落ちたあと、どうしても立ち上がれなかった。  買って来たばかりのサラダとおにぎりが地面を転がっている。  手を伸ばそうとしても、指先に力が入らなかった。  腕も脚も、鉛みたいに重たくて、自分の身体じゃないみたいだった。  呼吸もうまくできなくて、このまま死んじゃうのかな?って、ぼんやり考えた。  怖いはずなのに、不思議と頭は冷静で——色々なことを諦めかけていた。    優しい誰かが救急車を呼んでくれて、気付いたら病院だった。  深刻そうな表情のお医者さんに告げられたのは、聞いたこともない病名。 「神崎さん、貴方が発症している病はフェロモン崩壊症です。Ω特有の進行性疾患で、現在ステージⅡからⅢと言ったところでしょう」  診察室の丸い椅子に座らされ、医者に聞かされた内容に頭の中が真っ白になった。  ガンになったとか、糖尿病になったとかはよく聞く話だ。  仕事のやりすぎで腰痛が悪化した漫画家もいたっけ……  ネットを通じて知り合ったイラストレーター仲間にも病気や怪我をしたって人は何人かいたと思う。  でもフェロモン崩壊症なんて病、聞いたこともなかった。  何がなんだかわからないまま、その日のうちに入院が決まった。  自分の状況が理解できなくて、意味が分からなくて、売店で買ったB5のノートとボールペンで書き殴るように絵を描きまくった。  無我夢中で描いていると、胸の奥のモヤモヤが少しずつ溶けていく気がした。 「海の絵、描きたいな……」  無意識にポツリと口から言葉が零れた。  大人になってから……ひとり暮らしを始めてから、海なんて行ったことない。  幼い頃に家族で行った思い出はあるけど、朧げな記憶でしかない。  海面がキラキラと眩しくて、白い砂浜が熱くて立っていられなかった。  誰と行ったのかも、いつ行ったのかも覚えていない。  朧げな記憶でしかないのに……それでも、行きたくなった。  今、すっごく行きたい。  海面を渡る風を感じてみたい。  広い青を、この目で見てみたい。  海へ行けば、少しくらいは自由になれる気がした。  こんな身体のことも、全部忘れてしまえる気がしたんだ。

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